AWAY,AWAY,AWAY from HOME 1か月後.
朝 目を覚ますと
誰かを想いすぎて胸が痛い
あなたにも分かるだろうか
「それでは、お先に失礼するぞ」
仕事を終え、帰り支度をしていると、隣の席で書類仕事をしていた事務員がにやにやとこちらを見上げてきた。
「所長、最近帰るの早くないですか?」
そうか?と返すと、事務員はなおも楽しそうに言葉を続けた。
「みんな言ってますよ?前は『どうせ帰っても寝るだけだから』とか言って、現場に行ってた後ですらわざわざ事務所に戻ってきて遅くまで残って仕事してたのに…
さてはやっといい女(ひと)でも出来ました?」
思いがけないその言葉に面食らうと同時に、最近従業員たちが退社する俺をやたらにこにこと見送ってくれていたのはそういうことだったのか、と妙に納得した。
「残念だがな、そういう色っぽい理由ではないのだ」
そうなんですか?とちょっとつまらなそうに唇を尖らせた従業員に苦笑する。
「ちょっとな、語学学校に通い始めたんだ」
語学学校と言っても、自分のような仕事帰りの人間や、日中はアルバイトに精を出している学生などを対象とした、夜間だけのごく短時間のものだ。
ちなみに教わっているのは勿論と言うかなんと言うかデルカダール語である。
しかし、この年になって新しいことを覚えるというのはなかなかに厳しい。
分かってはいたが若い頃のようにはいかない。
通い始めて一か月ほど経つが、未だに初心者クラスだ。
別料金を払って補修を受けたほうがいいのかも知れない…。
「おじさまは、何故デルカダール語を?」
授業後にぼんやりとしていると、いつも同じクラスになる金髪の少女が話しかけてきた。
おじさま、という言葉に一瞬戸惑ったが、このくらいの年頃の娘さんから見たら36歳は立派なおじさんだろう。
「いつもとても熱心に授業を受けていらっしゃるので」
私は今度お姉さまと旅行に行くんです、と少女は続けた。
「むう、…実は、友がデルカダールにいてな。
以前会った時はお互い言葉が分からなくてまともに会話ができなかったから、
次に会えた時にはちゃんと話ができるようにと思ってだな…」
自分の言葉に、少女が不思議そうに首を傾げた。
至極当然の反応だ。
ホメロスの顔が浮かんで思わず友と言ってしまったが、そもそもちゃんとした会話が成立したことがない相手を、普通友とは呼ばない。
(…自分で言っておいてなんだが…そもそもあれは友なのか?)
客か、依頼人か…
無難に仕事で使うから、と言えばよかっただろうか?
「素敵ですわね」
自分の混乱と葛藤とは裏腹に、少女は感心したように顔の前で手を合わせた。
「言葉が通じなくても、お友達になれるなんて」
その言葉に、今度は自分が驚かされた。
「それじゃあ次に会った時、きっとお友達はびっくりなさいますわね」
楽しみですわね、と微笑んで少女は教室を出て行った。
その後姿を見送りながら、目から鱗が何枚か落ちた。
そうか、例え言葉が通じなくても友にはなれるのだな。
それなら(確かに基本は仕事の関係だったが)、やはり彼は友でもあったと思う。
一緒に食事に行ったりしたし、ドライブもした。
酔いつぶれたあの男を介抱もしてやった、あれは明らかに業務外だ。
ついでに酔った彼とキスもした。
(…む?)
友とは、キスするものだったか?
いや、あれは酔った彼の戯れであって、もっと複雑な、そう男女間にあるような別の感情があったわけではないので友とのおふざけの範疇に入れていいのではないか?
なんだか混乱してきたので、荷物をまとめて自分も帰ることにした。
眠る前に、ベッドの上でテキストを広げて今日教わったことを復習する。
ここで学んだことが役に立つ日が来るのかどうかは分からない。
自分は彼がデルカダールという大国のどこかにいるということしか知らない。
ダメもとで旅行会社に彼の連絡先を教えて貰えないか聞いてみたが、当然のごとく断られた。
個人情報保護法の壁は厚い。
連絡先が分からない以上彼がまた来てくれるのを待つしかない。
しかし、果たしてまた来てくれるのだろうか?
もし彼が再びこの国を訪れてくれたとしたって、うちではないどこか他の会社にメイドを頼むかも知れない。
見送りに行くと言って行かなかった自分のことをきっと怒っているだろう。
「………」
初級者用テキストを閉じて、サイドテーブルに置いた。
眠ろうと目を閉じると、絶望にも似た感情が頭の中でぐるぐると渦巻き始める。
もう会えないかも知れないのに、言葉を覚えたところで、意味などあるのだろうか。
何もかも、無駄なことではないのか?
それでも、何もしないではいられない。
彼に会いたい。会って謝りたい。
話がしたい。
彼がいた時には、明日は何を食べさせてやろう、あの店で甘いものを買って行ってやろう、
そんなことを考えながら、どこか幸せな気持ちで眠りについていたのに。
記憶の中の彼は、自分の作った料理を微妙な顔で、けれどいつも残さず食べていて、甘いものを食べる時はゆるゆるの笑顔になっていた。
窓際のソファでよく読書をしていて、リビングのテーブルではたまに仕事をしていた。
そう言えばよく電話もしていたな。
きっと仕事の話だろう。
会話の最初はいつも同じだ。挨拶、そして名前…
名前…
そう言えば名前の前にいつも何か付けていたな
『……の、ホメロスだ』
……社の、ホメロス
エー…社、のホメロス、
「エーグル・ア・デュー・テット社!」
思わず大きな声が出た。
そうだ。確かにいつもそう言っていた。
ベッドから跳び起き、枕元の携帯で記憶の中から出てきたその単語を検索する。
小さな画面に立派な社屋の写真と共に会社の概要が表示される。
デルカダールの大都市に本社を構える大企業。
間違いないだろう。
勤務先がわかったからと言って直ぐに会えるわけでもないし、もしかしたら今画面に映っている本社ではなくデルカダール国内にも多くあるらしい支社のどこかに勤務しているのかも知れない。
それでもほんの少し、希望が見えた気がした。