全部雨のせい 日暮れからの雨が本降りになった夜更けのバス通り。少し強めの風に対抗するように傘を差した咲也が歩いていた。目指すは自宅から徒歩十五分の秀彦の家。どうしてもやりたくなったゲームを返してもらいに行くところだった。
それはまあ口実で、このところ仕事が立て込んでいた秀彦に会いたくて。今日は帰っているはずだった。
雨がやむという明日でもいいとは思ったが、ゲーマーなのにこじつけてでも行きたい気持ちだったのだ。
しかしこの雨。やめろと言わんばかりに吹き付けてくる。足元も腕もそれなりに濡れていた。早くマンションで温かいコーヒーの一杯でも飲ませてもらいたかった。手土産の一つでも持ってくるべきだったかと思ったが、自分が何よりの土産だろうと考えた瞬間、急な突風に傘が大きく煽られた。運が悪いことに、
バシャーッ
すれ違った車が水たまりの水を盛大に跳ねた。
「………」
あまりの間の悪さに誰を咎めていいのか分からなかったが、ずぶ濡れになった咲也は傘を捨てたいやけくそさ加減で残りの距離を急いだ。
誰に見られることもなく、そこそこのマンションのエレベータに乗った。床にしたたった水がたまって、これはもう秀彦にどうにかしてもらわなければ気持ちが治まらなくて。
なのに、チャイムを押しても秀彦は出てこない。明かりはついているのに出てこない。
むうとしながら合鍵を取り出し、中に入る。シンとした部屋に上がると、電気がつけっぱなしのリビングを抜けて寝室へ行った。
「…寝てるし」
部屋の主は脱いでいる途中で力尽きたのか、半分着た状態で熟睡していた。名を呼んでも寒いんだけどと話しかけても起きる様子はない。
「何だよ、俺が来たのに…っくしゅん」
くしゃみをしたら急に寒気がした。勝手知ったる家だ、シャワーを借りることにした。
男の一人暮らしの割には綺麗に保たれている風呂場でしっかり湯を浴びて出たら、今更のように着替えがないことに気づいた。濡れた衣服はカゴの中だ。
「…一式借りるからな」
秀彦に、というよりは一人で呟き、クローゼットを漁り始める。まだパッケージに入ったビキニを先ず取り出して、それから上に羽織るもの。だが、下げられているのはどれもこれも仕事用らしくて咲也には派手だ。それにクリーニングに出してあるだろうものに袖を通すのは気が引けて。
このままでは風邪を引いてしまうと、引き出しを引っかき回してパジャマを発見した。ボタンはかけずにそれを羽織ると、咲也は改めてクローゼットの中を見回した。
何と言うか、秀彦の匂いで満ちている。まだデビューし立ての頃によく着ていたセーターがあって、懐かしくなって手に取った。顔を埋めれば、嗅ぎ慣れた匂いなのに何故か胸がギュッとして、
「…会いたい」
そんな言葉がまろび出た。
そこへ、
「誰に」
と声がかかって振り向けば、ベッドの秀彦がこちらを見据えていた。
「オレ様がここにいるのに、誰に会いたいのよ」
「…いっ、いつから見てた」
「割と前から」
声のトーンが低い。機嫌が悪いのは寝起きのせいばかりではないようだ。秀彦はのっそりと起き上がってあぐらをかいた。
「何かゴソゴソしてるから…夢かなーと思ったけどそうじゃないみたいだし」
「夢だよ」
「違うでしょー? 大体、何してんのよ。起こしてくれもしないで」
「起こしたよ」
咲也のつっけんどんな物言いに、秀彦は溜め息をついた。
「まあいいよ何でも。それよか、誰に会いたいんですかー。オレ様が後ろで寝てんのに誰に会いたいって言うんですかー」
「上杉しつこい」
機嫌がいいときには出ない呼び方に、秀彦は眉根を寄せる。
「しつこくないでしょ。オレってお前の何? 彼氏でしょ? そーゆー相手の部屋にいて、他の誰に会いたいって言うんだよ」
言外に失礼だと言われ、咲也は唇を噛んだ。悪いというより、こちらもムカムカがつのっている。
「誰に?」
「………」
「だーれーにー?」
「………に」
「聞こえませーん」
「…お前に会いたいって言ったんだ! 服の匂い嗅いでたら口をついて出たんだよっ! 誤解するなら寝てるなバカ いるのにいないのはお前の方だろ 帰る」
秀彦相手に感情が高ぶったときのよく分からない怒り方をして紫色のセーターを床にたたきつけ、咲也はしどけない格好のままで部屋を飛び出た。だがドアの前できびすを返して、ぽかんとしている秀彦に赤い顔で手を突き出した。
「俺の服濡れてるから帰れない! 服貸して …ちょ、抱きつくな」
「咲也の照れ隠し可愛すぎー 抱き締めちゃうから思う存分オレ様の匂い嗅いで」
「やめろ、くさい」
「恥ずかしがり屋さんなんだからー」
「そんなんじゃない、バカ離せ」
「離しませーん」
もがく咲也をそれはもうグイグイと抱きしめる秀彦。
やめろやめないで攻防は続く。
恥ずかしさと怒りがない交ぜになった咲也がヴィシュヌのてんきょうちばくだんを喰らわすまであと数秒。
秀彦の運命や、いかに。