「クリスマスなのにまたお前らと一緒かぁ〜」
そう誰かが溜め息と共に零したのを覚えている。年末に差し掛かり空気が冷えたある日の夜だった。その日もギルドに詰めて、何年来の同僚と今日の依頼が入るのを待っていた時だ。
「わかってる……わかってるんだけどさ……吸血鬼なんていつ出るかわかんないし、盆暮れ正月関係ない仕事なわけだしさ」
「ロナルドもいいのかよ。初めてのクリスマスなんだろ?」
銃を磨いていた手を止め顔を上げると、何人かが口を尖らせ飲むでもなくストローの先を噛んでこちらを見ている。
「え、あ、何? クリスマス?」
「そうだよ。どっかディナーとか行ったりしねぇの?」
「あぁ、うちは……まぁ彼女も仕事だし、そういうのは」
もう一度深い溜め息が聞こえたが、その音がさっきとはほんの少し違っていることに気づく。なんだと首を捻れば、派手な音を立てて背中を叩かれた。
「ロナルドは結婚してもロナルドだよなぁ。ノロケの一つもないのかよ」
「なんか食うか? 今日は奢ってやるよ」
「あ、ありがとう……?」
なぜかよくわからないうちに注文されて、机の上が賑やかになる。ああ、そうか。今日はクリスマスで、クリスマスはこうして親しい人と過ごす日らしいということを、ようやく思い出した。
今日も当然仕事で、月末に年末も重なる今の時期は彼女も仕事が忙しく当たり前に遅くなる予定だった。だからお互い早く帰れたら何かできたらいいくらいの認識でいた。納得の上で仕事をしていたのだが、どうやらそれは周囲には寂しいことのように映るらしい。
お互い仕事に誇りを持っていて、それを尊重しているからこそこうして仕事に打ち込めている。
「今日くらいは平和だったらいいんだけどな」
そんな同僚の言葉に頷きかけて、ふと止まってしまう。
平和になるということは、吸血鬼がいなくなるということ。退治人という職はどうなってしまうのだろう。退治人である自分は。
背筋にぞくりと冷たいものが走る。
「皆さん、仕事です。今日もよろしくお願いします」
マスターの低い声が空気を変えた。いつもの退治人の日常に。そして庭のような夜のシンヨコの街を駆け抜けた。
何年もこうしてきた。これからも変わらないはずだ。そう思いながら。
「ただいまぁ!」
クリスマスの陽気なBGMを掻き消すような声にハッとしてドアを見ると、鼻先や頬を赤くした息子がいた。明らかに寒いだろうに笑顔で近づいてくる。
ほんの一瞬、ほんの少しだけ昔のことを思い出していたらしい。昨日のことのように思えるあの頃のことを。
きっとあの日と同じ曲が流れていたからだ。
「ごめんね、遅くなって。急いで着替えて僕も入るね」
「ああ、悪いな」
近くの席に座る常連客に一言断ってカウンターを抜け、二階へと続く階段へと足をかける。
「なんだ、ずいぶん荷物が多いな」
カサカサと乾いた音が気になり背後に視線を向ければ、通学カバンの他にいくつもの袋を抱えていた。今朝はこんなに荷物を持っていなかったはずだ。
「これ? なんかね、貰ったりとか色々」
「お前、今日用事があったんじゃ? だったら店は気にしなくていいぞ?」
「あ、そういうのじゃないよ。別に何もなくって。それにほら、週末なのに今日はドラ公もいないわけだしさ」
そう、今日はドラルクがいない。一族でのパーティーだとかなんとかで渋々出かけていった。クリスマスの週末で店が混むことを気にかけていたが、二人でならなんとかなるとこいつが押し切っていた。
けれどこいつはまだ高校生で、しかも今日はクリスマスだ。友達なりなんなり、何かしら予定があってもおかしくはない。こいつは俺と違って友達も多い。
若いうちの貴重な時間を俺のために費やすことをさせたくはない。そう思っているはずなのに、足は二階へと上がっていく。
あの扉を開けた後、いつも何が起きているかをわかっているくせに、足は止まることはない。息子の人生を自分なんかで消費させたくないと言いつつ、華やかな街に戻すこともなく閉ざされた空間へと進んでしまっている。
ただ荷物を置くために家に帰るだけ、鍵を開けてやるだけ、そんな言い訳が勝手にいくつも湧き上がってくる。何も悪いことなどしていないのだと、無意識にそう思い込もうとしている浅ましい自分を見たくなくて一度目を閉じた。
何もない、ただ鍵を開けるだけ、無駄に鼓動を速める心臓に気付かないふりをして、鍵穴に鍵を差し込んだ。回す指先が重く感じる。
カシャンと尖った音が耳に届く。自分は何を期待しているのかを知りたくなかった。
「マスター」
ドアノブには自分より先に手が伸びていて、指先には金属の冷たさではなくあたたかいものが触れた。え、と顔を上げるとすぐ目の前には見慣れた顔があり、額に小さな熱を感じる。
それがこいつの唇だと気付いたのは、ゆっくりと離れていく顔を見たからだ。なんでもない、いつもと同じ家の外での顔で笑っていた。
「父さん、呼ばれちゃってたね。待たせちゃいけないから先に戻ってて。僕も着替えたらすぐ行くから」
そう言い残すとするりと扉の隙間へと消えていった。静かに扉が閉まり空間が分けられると、背後から陽気なBGMが聞こえてくる。
いつもならばこのまま一緒に世間とは隔離されたこの部屋に二人で入った。誰もいないひんやりとした空気の残る部屋に二人で。
扉の前でこうして一人見送ることがなかったから、どういうことかとしばらく呆然と立ち尽くしてしまう。もう一度階下から名前を呼ばれようやく階段を下りることができた。
「…………っ」
腹の奥がジンと甘えたように痺れた。足りないと静かに訴えてくる浅ましさに吐き気がした。
何を望んだ。子供らしく過ごしてくれることを願ったくせに、一体今、何を望んだ。
挨拶のように毎日この扉の内側で求められていた体が、自分の意志とは関係なく何かを思い出させてくる。
早く、早く下へ行かなくては。バーテンダーとして、ギルドマスターとしての顔をしていられる場所へ。余計なことを考えずにいられる所へ。
フロアに戻ると、誰もが知っているクリスマスソングがジャズアレンジされて流れていた。明るい曲が、激しく鳴り響く鼓動を掻き消してくれるようだった。
クリスマスだからか夜まで忙しくて、ろくに休憩も取れなかった。そんな状態だから閉店まで働くと言う息子を無理やり二階へと帰した。
法律がとかそういう話ではなく、高校生のうちからバイトにだけに明け暮れるような生活をしてほしくないからだ。今しかない時間は自分のために使うべきなんだ。
クリスマスに似つかわしくない顔で渋々戻る背中を見送った。それでいいと思えたことが良かった。
「ふぅ……」
CLOSEの看板をかけ、二階へと向かう。BGMのない店内のせいで、階段を踏む音がやけに大きく聞こえた。
今日、この扉の内側には息子しかいない。もう寝ているだろうか。むしろそうであってほしい。鍵を開けた途端にじくじくと疼いている腹の奥に気付きたくなかった。
「…………」
扉を開けた先は驚くほど静かだった。寝てしまったならそれでいい。とりあえずシャワーを浴びてしまおう。今日は酷く疲れた。気を抜いたらすぐにでも寝てしまいそうだ。
熱い湯が肌が当たるとピリピリと痛む。夢じゃない。今この部屋には、息子と父親である自分だけだ。
制服も脱いでしまったからもうマスターとしてもいられない。シャワーの中で一つ息を吐いた。今、自分はどんな顔をしているのか分からなかった。
「…………え?」
リビングのドアを開けた瞬間、目に飛び込んできたのは予想とは違う光景だった。いつもならリビングは真っ暗で、もうベッドの中にいるはずの息子がいたのだ。
「あっ、父さん! お疲れ様」
「お前、まだ起きてたのか。それに、これ……」
「ちょっとそれっぽいでしょ? さ、座って。お昼もほとんど取れなかったからお腹空いたよね」
「あ、あぁ……」
促されるままにテーブルにつくと、目の前にはコンビニかスーパーで買ったであろうオードブルやサンドイッチなどがいくつか並んでいた。普段はあまり見かけない骨付きのチキンもあった。それを見てようやく今日はクリスマスなのだと思い出した。
「皆がね、色々くれたんだ。でもお店に飾る時間もないし、ちょっと合わないかもって思ってね。もったいないからここに飾ってみたんだ」
「そうか」
「あと夜作る時間ないかもってそれっぽいの買っちゃった。今日はドラ公もいないし、夜間に合わないとヤダったからさ」
キッチンから楽しげに話す声がする。一人座りながらリビングを眺めると、厚紙やキラキラとしたモールがあちこちに貼り付けられていた。
懐かしい。こいつが小さい時に一緒に折り紙で飾りを作り、こうして部屋に飾っていたっけ。こいつはもう覚えてはいないだろうけど。
「僕はこれくらいしか作れなかったけど。はい、どうぞ」
湯気の上る皿を二つ持って戻ってきた顔はずいぶんと穏やかだった。
「凝ったの作る時間はなかったからさ。でもコーンたっぷり入れてみたんだ。冷めないうちに」
具沢山なシチューだった。ごろごろといびつな形の野菜が沢山入っている真っ白なシチュー。
「いただきます」
一口頬張ると、優しい甘みが口いっぱいに広がった。空っぽの胃の中がじんわりとあたたかくなるのがわかる。
美味しい、そう言うと目の前でこいつは嬉しそうに目を細めた。冷めるからと言いながら自分は食べるでもなく俺を見ている。自分が作った料理を食べる俺のことを嬉しそうに。
促されてようやく二人揃って食べ始めた。静かな部屋に咀嚼音だけが響く。二人きりが気まずいわけではなく、ただ何も喋る必要がないくらいに心地良かったのだ。
懐かしい感覚だった。ただいるだけで他には何も必要としない。前からこうだっただろうか。
いや、それは違う。もう何年も三人での暮らしで、こうしてこいつと二人きりという空間はあまりなかった。
「ごちそうさま。父さん、まだ食べられそう? 一応ケーキも買ってみたんだ。遠くまで行けなくてコンビニのカットケーキだけど」
立ち上がり皿をまとめながらそう言われて、ようやく思い出した。
「はい、どうぞ。なんとなくクリスマスにはケーキがあったほうが嬉しいかなって」
ドラ公が作るやつのが豪華で美味しいけど、たまにはいいよねなんて笑っている。久しぶりに見た切られたケーキは派手なデコレーションもなく、絵に描いたようにシンプルなものだった。
口にいれると甘ったるくて、コーヒーでも欲しくなりそうだったけれど、この甘さが懐かしかった。そうだ、昔これと同じようなものを買っていた。
「それじゃ現地解散で」
ギルドへの連絡の後、ようやく今日の仕事は終了となる。全員特に用もないため、まったりとそれぞれの帰路につく。
けれど俺は必死に走った。くたくたの体を必死に動かして自宅へと戻る。さっきまではもう銃も構えられないと思っていたはずなのに、体は自然と家へと向かっていた。
もう店はどこも閉まっていて、眠りについたように街は静かだった。せめてと思い唯一明るかったコンビニに駆け寄り、また家路を急ぐ。
そう、今日はクリスマスなのだ。別に自分にとっては何か特別な日ではないけれど、初めてのクリスマスというイベントに少しでも一緒にいたいと思うのは自然なことだと思えた。
この日が特別なわけじゃない。そんな日を誰と一緒にいれたか、誰と思い出を作れたかが大事なんだ。
結婚してからは全ての出来事が初めてのことで、どれも特別なものになっていたから。
「ただいま」
勢いよく扉を開けると、まだ帰ったばかりの妻がいた。寝支度もしてないところを見ると、ほぼ同じくらいに帰れたのだろう。
疲れているだろうに、笑顔でおかえりと返してくれた。それだけでさっきまで体を重くしていた疲労もどこかへ吹き飛ぶ気持ちだった。
「こんな時間だけどさ、せっかくだからと思って……。あの、これケーキ。あ、でもコンビニの小さいやつだけど」
こういう時、本当はパティシエなんとかのとか、ホテルのケーキとかのが良かったのかな、なんて差し出してから気がついて急に恥ずかしくなってしまった。きっと顔が赤くなってる気がする。けど寒くてすでに赤くなってるはずだから、どうかバレませんようにと願ってしまった。
けれど君は綻ぶように笑った。嬉しいとコンビニの小さな袋を受け取って、ありがとうとこちらを見る。
「あ、あとチキン。夜だからどうかなと思ったんだけどさ、クリスマスにはって書いてあったから」
同じ袋にあたたかいものと冷たいものを一緒に入れていたということに、俺は更に慌てた。買ったものがこれで良かったかもわからないのに、食べれない状態になっていたら目も当てられない。
なのにもう一度、ありがとうという声が聞こえてホッとした。こんな時間だったからシチューくらいしか作れなくて、被らなくて良かったとコンロに置かれた鍋の蓋を持ち上げて見せてくれた。
白い湯気がふわりと甘い香りを運んでくる。夜の街を駆け抜けて冷えるだろうから、せめてあたたかいものをと急いで準備してくれたらしい。有り合わせだけれど、コーンをたっぷり入れたから少し豪華になってるからとおどけて笑う。
その顔を見れただけで、もう胸がいっぱいだった。こんなプレゼントを貰えて、明日死んでしまわないだろうかと不安になったほどだ。
「おまたせ」
土埃で汚れた体をシャワーで手早くキレイにしてテーブルにつくと、チキンやシチューなどがテーブルに並んでいた。コンビニで買っただけのチキンも、皿に置かれ他のものと一緒に並べられただけで途端に豪華に見えるから不思議だ。
「いただきます」
二人で向き合って手を合わせ、シチューを口に運ぶと、優しい味が口いっぱいに広がった。飲み込めばじわりと体の中があたたかくなるのを感じた。それだけ冷えていたのか、それとも。
わかってる。こうして自分を待っていてくれるだけで嬉しいのだ。家族だからと自分のことを考え、待っていてくれる人がいる。
それだけで満たされる気がした。
「うっ、すっぱい……」
食後のデザートにと出されたコンビニの小さなケーキ。真っ赤な苺は見た目に反して酸っぱくて、思わず顔を顰めてしまった。
けれどそんな俺の顔を見て君が笑い、同じものを食べた君も俺と同じ顔をした。そんな特別でないものが特別に思えた。
最高のクリスマスプレゼントだった。こんな時間を貰えた。クリスマスというものを楽しみにする気持ちが少しわかった気がした。
幸せを知ってしまった俺は少しだけ贅沢になってしまって、こんな日がいつまでも続きますようにと祈らずにはいられなかった。
「昔、二人で食べたね」
「え?」
「ドラ公が来る前はさ、こういうケーキか焦げたホットケーキにフルーツ乗っけたりさ? 覚えてる?」
「あぁ、そんなこともあったな」
高校生の食欲は底なしなのかと思うほど気持ちの良い食べっぷりだった。小さなケーキはあっという間に細い体の中に消えていった。
自分の目の前の真っ赤な苺にフォークを刺すと、果汁が溢れ瑞々しい香りが広がる。白いクリームのついた苺を口の中に放り込んだ。
「え、父さん……!?」
なぜかはわからなかった。ただ懐かしかった。
「なんで泣いてるの?」
「なんでもない。ちょっと、酸っぱくてな」
あの日と同じ。けれど自分が今、何を願っているのかを自分が一番わかっていないのだと笑うしかなかった。