マンティコアと矢盾の講義「ディシア、キャンディス、これは……」
精緻な細工の施された箱が二つ、蛍の眼前に並んでいる。
始まりはアアル村を発つ直前にかけられた言葉だった。
――旅人さん、ディシアがあなたにプレゼントがあると言っていましたよ。近いうちに二人でお家に伺ってもよろしいでしょうか?
プレゼント? と首を傾げながらもこくりと首肯した蛍は、日程をその場で決めて久しぶりに二人に会える日を心待ちにしていた。
そうして訪れた約束の日。洞天の大きな花が咲き誇る頃訪ねてきた二人を自室に通すとすぐに、それはテーブルの上に並べられた。
開けるよう促された蛍は、まずディシアが持ってきた箱に手を伸ばす。引き出しと蓋のどちらを先に開けるか少しだけ迷い、順に開ければ良いかと蓋を選択する。掛け金を外してゆっくりと蓋を引き上げると、その中は箱とよく似た装飾の施された物たちで埋まっていた。引き出しにも指をかけ、ゆっくりと引く。大小形状様々なブラシが丁寧に並べられていた。
「……メイクボックス?」
すごくきれい。幼い感想と共に尋ねると、ディシアは得意げに笑った。
「ああ、シティで見かけた時にあんたのために作られた物だと思ってな。メイクを教える約束もしていたし、丁度いいだろ」
事もなげに彼女は言うが、これはどう見ても高級品である。素手で触れることすら躊躇われるほどの。
「……旅人に似合うと思って用意したんだ。あんたが受け取らないのなら、どこにも行くあてはないぞ」
そんな非道いことはしないよな? と躊躇いを見て取ったディシアが言う。蛍は僅かに逡巡し、彼女の方へ向き直った。
「ありがとう、ディシア。これに見合う人になれるよう、努力する」
蛍が拳を握ると、ディシアは気負いすぎるな、と笑う。その様子を見守っていたキャンディスが、では、とその拳を開かせてもう一つの箱へと誘導した。
「ディシアからのプレゼントを受け取ったということは、勿論こちらも受け取ってくださいますよね」
導かれるままに箱を開ければ、所狭しと並んだ装飾品が目に入る。ヘアピンやイヤリング、用途の分からない鎖状の物など、煌びやかで見ているだけで心が弾む。
「旅人さんに似合いそうな物を集めてきました。これでもかなり数を絞ったんですよ」
これなんかとってもお似合いです、とイヤリングが顔の横に当てられた。ディシアに差し出された手鏡を覗き込むと、青い石が右耳の辺りで陽の光を反射して踊っている。
「二人ともありがとう。化粧品もアクセサリーも使いこなせるように頑張ってみるね」
手鏡を返しながら蛍が感謝を伝えると、ディシアはメイクボックスから化粧品を次々と取り出し始めた。キャンディスはアクセサリーボックスから髪飾りを一つ取り出し、蛍の前髪を上げて固定する。
「ここからが今日の本題だ」
「ディシアに可愛くしてもらいましょうね」
小首を傾げた蛍に二人は微笑んで、この色が良い、ならイヤリングはこれだ、と楽し気に少女に装飾をし始めた。
◇
「かわいい! とっても可愛いですよ、旅人さん」
必死に道具と手順を頭に叩き込んでいると、いつの間にか化粧は完成していたらしい。渡した写真機のシャッターを何度も切りながらキャンディスが喜色満面で言った。
「うん。やっぱりあんたには淡い色が正解みたいだ……」
言いつつ、ディシアは濃い色を筆に取る。写真が撮れていることを確認すると、彼女は蛍に目を閉じるよう指示した。
「ここまでは、旅人が再現できて大半の人間が良い印象をもつ化粧。ここからはあたしの趣味の化粧だ」
瞼の上を筆の感触が滑る。趣味の化粧? と目を閉じたまま尋ねれば、ディシアが手を止めずに答えた。
「旅人はあたしとは系統の違う化粧が似合うだろうから、試したくなった」
目を開けた蛍の顔を左右から見て、ディシアはもう一度目を閉じるように言った。先程とは反対の瞼を筆が撫でていく。
「ディシア、気持ちは素直に伝えるべきだと思いますよ」
指示を待たずに目を開けて、正面にいるディシアの瞳をじっと見つめる。あーとかうーとか唸りながら揺れるアイスブルーの瞳から目を逸らさずに待つと、ディシアは抵抗を諦め話し始めた。
「あんたとあいつが付き合い始めたって聞いた時、正直に言えば心配の方が勝ったんだ」
口の巧い男だし他人を利用することを迷わない性質だ、と理由を連ねるディシアに蛍は頷いた。そこで頷くのか、と零すディシアに、だって本当の事だから、と蛍は返す。
「……そう言えるあんたには必要ないかもしれないが、【お守り】はいくらあっても良いと思った。顔に色を乗せるだけで、意外と自信が持てるもんだぜ」
いい加減目を閉じろ、という言葉に蛍は従う。
「それなら、喧嘩になりそうな時はお化粧を頑張ろうかな」
ふふ、と悪戯めいた声で蛍は笑った。そうしてやれ、と相槌を打つディシアにキャンディスはため息を吐く。
「なんだよキャンディス、あんたの言う通り素直な気持ちを伝えたってのに」
「半分しか伝えていないでしょう。誤魔化せるとでも思いましたか?」
髪飾りを差し替えながら、キャンディスは旅人に話しかけた。
「旅人さん、ディシアはあなたの恋人に腹を立てているんですよ」
今のお化粧にはこちらの方が似合いますね、と呟いた彼女が続きを歌うように告げる。
「あなたが彼にだけは珍しい表情をするのに、彼は人前では顔色一つ変えないものですから。せめて特別なお化粧をしたあなたを独占してしまおうと目論んでいるのです」
目元から筆が離れるも、冷たく重くなった空気の中、目を開く勇気は蛍にはなかった。
「私も、あなたを泣かせた彼には少しだけ、本当に少しだけ、怒っているのかもしれません」
ディシアを止めるつもりにはなれませんでしたから。キャンディスの声にディシアが頷いたのが空気の動きで分かってしまった。
泣いてしまった事情を説明するわけにもいかず、唇に細い筆が触れるのを感じながら、蛍はいつ目を開けたものかと思案した。