夜桜「いつか貴方と一緒に行きたいと思っていた場所があるんですよ、ヒュンケル。もし良ければ今度2人だけで行ってみませんか」
尊敬する先生からの突然の誘いであったが、特に断る理由もないのでヒュンケルはすぐに快諾した。
そして迎えた約束の日。
「さあ、どうぞこちらへ。」
先生に手を引かれて連れて来られた場所には満開の桜が咲いていた。
「美しいな。」
「ええ、とても。この夜桜をふたりきりで見たくて予定を空けていたのですよ。料理も作ってきましたので一緒に食べましょう」
そう言いながらアバンは桜の木の下にレジャーシートを広げ、バスケットの中から手作り弁当と酒を取り出した。
「いただきます。」
2人で声を揃えて手を合わせアバンの料理に箸をつける。
「……美味しい。」
緊張気味だったヒュンケルの顔がほころんだ。それに気を良くしたアバンは満面の笑みを浮かべ
「さあ、遠慮せずにどんどん食べてください今夜は思いっきり甘やかしちゃいますよ~。」と有頂天になっている。
「先生、相当酔っていませんか」
「夢みたいです。大人になった貴方とお酒を飲み交わせるなんて……」
アバンはうっとりとした顔でヒュンケルを見つめ、その手を取った。
「先生…オレを子供扱いしたいのか大人扱いしたいのか、一体どっちなんですか」
「両方ですよ…ヒュンケル。」
アバンは微笑んでグラスの中の酒を呷った。
ヒュンケルも酒を飲み干し、2人一緒にグラスに新たな酒を注ぎアバンの手料理を食べ進めながら、離れていた年月を埋めるようにそれまでの事を話しだした。
「オレは…一方的にあなたを恨んで怒りをぶつけてばかりだった。思い違いから多くの過ちを犯し弟弟子に刃を向けた。それでも先生は…ひっく、オレの事を“誇り”と言って、ぐすっ…くださった。」
涙ぐんでしまったヒュンケルにアバンが白いハンカチを差し出した。
「泣かないで、ヒュンケル。せっかくの桜が見えなくなってしまいますよ。涙を拭いてください。」
「すまない。オレは迷惑をかけてばかりだ。」
「ノンノン貴方が無事に生きていてくれた事、それだけで私はベリーベリーハッピーですよ。」
いつの間にか寝入ってしまったヒュンケルの顔がアバンの肩にコツンと当たる。
意志の強さを示す瞳は閉じられ、銀色の長いまつ毛がヒュンケルの目元を美しく飾り立てている。
そよ風が、うたた寝するヒュンケルの髪を揺らし桜の花びらがひらりと舞い落ちた。アバンの手がヒュンケルの銀髪を優しく撫で花びらを払いのける。酔いが回って赤みが差しているその頬に触れてみたくなった。
ヒュンケルの背中を桜の幹にもたれさせてから、紅潮した頬にそっと触れる。それでも起きない事にホッとしてアバンは唇を頬に寄せた。しっとりとした感触を楽しんでいると唇にも触れたいという欲望が湧き上がった。
桜の花びらのような薄いピンク色の小さな唇が酒に濡れて艶めき、誘い込むようにきらめいている。
無防備に眠る教え子の寝込みを襲うなんて教育者にあるまじき行いだ。それでも私は――
アバンはヒュンケルの唇に軽くキスをした。
――ああ、ついやってしまった。
「…ん…う…」
唇を離した瞬間、ヒュンケルの口がわずかに動いた。起きてしまったと思ったが再び静かに寝息を立てている。
「ヒュンケル。こんな所で寝ていたら風邪を引いてしまいますよ。起きてください。」
アバンはヒュンケルの体を優しく揺すり耳元で囁きかけた。
「……先、生…オレ、寝てたの、か…」
ヒュンケルの目がゆっくりと開き、眠たそうな表情でアバンを見た。
「ええ、よく寝ていましたよ。あの頃と変わらない愛くるしい寝顔で。」
何でもないふりをして自分の想いは心の奥底に仕舞っておく事にした。この桜だけが知っている永遠の秘密――
「そろそろ帰りましょうか、ヒュンケル。あまり遅くなってはみんなに心配をかけてしまいますので。」
「はい。……あの、手を…繋いでも構わないだろうか」
「良いですよ。」
アバンはニッコリ笑ってヒュンケルの手を取り、2人は寄り添って帰っていった。
終