「ああ、場地のヤツ結婚するもんね」
千冬の真向かいに座る万次郎がなんてことないように言い放った。その口にすぽんっとメニューにはないはずのたい焼きのしっぽが吸い込まれていく。
がやがやと遠くで聞こえる居酒屋の喧騒。千冬が一度フリーズした頭をようやく再起動して「・・・・・・え?」と万次郎へ聞いた頃には話題はとうに変わっていた。
「え、ちょっと。場地さんが結婚?」
聞いてないんですけど。なんて声は左隣に座る三ツ谷と、その向かいに座る龍宮寺がグラスを合わせる音にかき消された。二人だけで空けたグラス十数。宴もたけなわ。
「マイキーくん。今、なんて? 場地さんが?」
当事者不在のなか話を根掘り葉掘り聞く罪悪感と、まさかという気持ちが生んだ一種の怖いもの見たさは後者が勝利した。千冬の思い浮かぶ限りでは、場地にそんな素振りはなかったのに。
例え千冬がパイロットという多忙な職業ゆえに皆の近況を知り漏れるということはあれど、場地の、ましてや結婚などという重大な話を知らないなんて思いたくなかった。
「アレ〜千冬、知らねぇの?」
とは、右斜め向かいに座る一虎だ。その顔だから許されるような卑しいニマニマとした笑みを浮かべる。ともにペットショップを経営しているから、場地のことはなんでも知っている――とでもいうのだろうか。
時刻は午後九時三十分をまわっていた。酒の力も相まって千冬の目が据わる。テーブルの端、いわゆるお誕生日席に座っていた武道はそれを見て背中に嫌な汗を流した。
「場地、そいつの誕生日に籍入れてぇって」
「誕生日に・・・・・・」
千冬の口から思わず零れ落ちそうになったのは、いいなと相手を羨む言葉だった。たぶん高校生くらいの時、読んでいた少女漫画でヒロインが誕生日にそれは大層ロマンティックな告白をされていて、興奮した千冬は部屋に訪れていた場地にうるせぇと怒られた。そんな記憶が微かに思い出される。
「場地さん、あん時は全然興味なさそうだったのに」
「そりゃ好きなヤツの為だからじゃね」
「・・・・・・そう、っすよね」
場地という男はただでさえ、情に篤い。それが好きな人となれば殊更だろう。千冬の頭の中で上映会が始まる。ジャンルはもちろん恋愛。主演は場地で――、相手は黒髪ロングの華奢で可愛らしい女の子だ。この前に月九でヒロインをやった女優によく似ている。
ふたりの出会いのきっかけは、女が輩に絡まれている時だった。颯爽と場地が現れて、あっという間に女を助けると、返り血の付いた優しい顔で笑うのだ。
『ペヤング好き?』と。
――ああ、そうだ。あの時の場地さん、カッコよかったな。千冬は思い出す。この先なにがあっても忘れやしないだろう、中学一年生の春のことだった。
あの日、あの時から、千冬は場地とともに生きてきた。
千冬の初めては、場地圭介だった。
初めて敬語を使ったのも、初めてカッケェと思ったのも、初めて着いて行こうと思ったのも。
――初めて、恋をしたのも。
ぜんぶ、全部。場地圭介だった。
途端、脳内の上映会は千冬の過ごしてきた日々へと変わる。そりゃあ恋愛映画らしい、恋人らしい戯れなんてない。だけど頭を撫でてくれる少し乱雑な手のひらも、隣でくしゃっと笑う優しい笑顔も、千冬が思い出す場地の全てに恋が色づいていく。
「あーあ・・・・・・、サイアク」
自覚のきっかけ。そのトリガーである一虎を、千冬はじとりと睨む。このあと、どんな顔で場地に会えばいいというのか。顔のほてりは酒でごまかせるか。
そうして、いつかに訪れるであろうその日、千冬は上手に笑って、場地に『おめでとうございます』と言えるだろうか。泣かずにいられるだろうか。
「なにがサイアクなんだよ、千冬ぅ」
ぎぎぎ、とまるで長い年月の果てに錆びついてしまったロボットのように、千冬はゆっくりと振り返る。そこにいたのは、トイレから戻ってきた場地だった。
「お、かえりなさい。場地さん」
「おう。つか、オマエなんか顔赤くね?」
言いながら伸ばされた場地の手のひらが、ぴとりを千冬の頬を包む。ひんやり冷たかった。
「ばッ、場地さん!」
千冬は慌てて場地から距離をとる。これ以上、体温が上がってしまったら、救急車のお世話になってしまうだろう。その様に場地は不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。
「ンだよ」
「いや、あの、」
口篭りながら、千冬は思った。
――東京卍會 一番隊副隊長。松野千冬。
くよくよするのは柄じゃないだろ。隊長である場地圭介に恥じることない男であろう。
ぐっと顔を上げる。腹は括った。
「場地さん、ご結婚おめでとうございます!」
千冬は膝を正すと握った拳を床に置き、あの頃とは違う、真黒い頭を下げた。それはそれは綺麗な土下座だった。空気が一瞬にして固まる。
「あ?」
時間にして凡そ数十秒。その空気は場地の地を這うような低い声でようやく弾けた。誰も彼もが息を潜めて、ことの成り行きを見守っている。
「どういうことだよ、千冬ぅ」
「場地さん、結婚するって聞いて。オレ、知らなくて」
「・・・・・・マイキーか」
呟いた場地の涼し気な目元が射抜くような鋭さを伴って、万次郎に向けられる。とはいえ当の本人、万次郎は終始この険悪ともいえる空気にも臆することなく、口元のにやけを隠さない。周囲の様子に気がつかない千冬は口早に続け、とうとう頭を垂れた。
「どうして教えてくれなかったんすか。オレ、場地さんの口から聞きたかった。そしたらちゃんとおめでとうって言えたかもしんないのに」
もう随分とわがままになってしまった。だけど、それも場地のせいだ。千冬は唇を噛んだ。青い春を引き連れた懐かしい鉄の味が口内に広がる。
千冬の休みの日は必ず場地も仕事を休みにして、いつも一緒にいてくれる。その別れの時だってちょっと名残惜しそうに、またなと笑ってくれる。これでは『そばにいられればいい』なんて思っていたあの頃にはもう戻れやしない。
「・・・・・・、うそです」
千冬は重い息を吐いた。
「やっぱりおめでとうございますなんて言えねぇや」
嘘だとしても、言えるわけがないのだ。嘲笑混じりの呟きは千冬自身が誰に聞かせるつもりはなくとも、場地にきちんと届いた。
「だってオレ、場地さんのこと好きだもん」
好きな人には誰よりも幸せになってほしい、もちろんそうだ。千冬は場地に幸せになってほしい、世界中の誰よりも。だけど、それは自分以外の誰かとじゃない。
「場地さんには、オレと一緒に幸せになってほしいんすよ」
ふっと落ちた沈黙に、千冬は我に返った。思わず口から零れた言葉の数々に嘘はひとつもない、だからこそいけなかった。小さく息を飲んで、唇を手のひらで押える。
「・・・・・・千冬ぅ」
場地が呼ぶ。親しい人にはわかる、優しい声だった。顔上げろ、とその声は続ける。千冬はままよと勢いよく顔を上げて、そうして泣きそうになった。
「・・・・・・じゃあ逆に聞くけどオマエはさ、オレと一緒だったら幸せになれるわけ?」
「当たり前でしょ!」
即答だった。
「場地さん、アンタと一緒にいられる限りオレはずっと幸せっすよ。むしろ場地さんが隣にいてさえくれれば不幸せなことなんて、この世にひとつもないんで」
途端、力いっぱい背中に回された場地の腕。抱きしめられてると気がついた時には、いっそ熱いほどの体温がその身体を伝って千冬へと移ってきていた。
「オレも」
「へ?」
「千冬ぅ、オレたち結婚するぞ」
ほんの少し前を思い出す、だけどもあの時よりも幾分も甘さを含んだ手つきで赤く染った頬を包まれる。千冬は目を丸めて、まるでスローモーションでも見ているかのように、その口付けを受け入れた。
好きな人とのファーストキスは観覧車の頂上でも、彼氏の部屋でもない。もちろんレモンの味なんてしない。
憧れた少女漫画のロマンティックな世界はひとつもなかった。
だけど、それでも千冬は十分だった。
✱
「つまり、マイキーくんの嘘ってことっすか?」
騒ぎもようやく落ち着いた頃。本来の結婚相手に申し訳ないと眉を下げた千冬に、場地は言ったのだ。すべてはマイキーのせいだ、と。どうやら元より結婚の話なぞなかったらしい。
「いや、嘘じゃねぇ。だってほら、場地、ちゃんと結婚すんじゃん」
万次郎のそれは結果論だ。納得できず訝しげな千冬に、場地は嫌そうな顔をした。すぐにわかる、これは深堀するなってことだ。わかったうえで続きを促す。
「でも、それでどうして」
「だから場地はオレらに相談してたの。好きなヤツの誕生日、十二月十九日にそいつと結婚してぇんだけどって――」
「マイキーッ!」
一虎の拘束から外れた場地の怒号が、店内を震わす。それが万次郎の言葉を肯定していることに、本人はまだ気がついていない。
十二月十九日――千冬の誕生日だ。もしかして、場地は覚えていてくれたのだろうか。なんてことない日の思い出を。なんてことない千冬の理想を。
「で、千冬は場地のこと好きじゃん。つまり場地が結婚してぇ言った時点で、オマエら結婚すんじゃん」
まるで当然と言い放った万次郎に、千冬の口から気の抜けた笑みが零れた。この総長には敵わない。きっと再び一虎に羽交い締めにされている場地が、ひいてはここにいる全員が同じことを思っているだろう。
「ハ、ハハハ。さすがっすね、マイキーくんは!」