薄い壁越し、軽やかな鼻歌が聞こえる午後六時三十八分。ご機嫌な隣人は、たぶん、納期明けだ。龍宮寺は手を洗いながら、彼の奏でる学生の頃に流行ったラブソングを聞いて、そのときを待ち焦がれていた。
ピンポーン。音階のいびつなチャイム。がっついていると思われたくないのに、龍宮寺の足は無意識に小走りで玄関に向かう。鼻腔をくすぐるは、カレーの匂い。ドアを開けたら寸胴鍋を持った三ツ谷がいた。
「カレー。作りすぎちゃったけど、いる?」
「いるに決まってんじゃん」
いつもと同じ答え。龍宮寺は三ツ谷がこうして、作りすぎちゃったなどと嘘までついて訪ねてくる理由をわかっている。きちんと、違えることなく。
「良かった。助かるワ」
龍宮寺はドアを広く開けて、三ツ谷を招き入れる。迷いなくキッチンへ向かう足取りは、隣人ゆえ間取りが同じだからという理由だけじゃない。勝手知ったる他人の家。もしかしたら家主よりもキッチンの内情に詳しくなるほどに、三ツ谷は龍宮寺の家を訪れていた。
目の前でカレーを口に運ぶ三ツ谷を見やる。伏せた瞼にかかる、長いまつ毛。龍宮寺が見つめているのに気がつくと、ほんのり頬を赤く染めて、藤色の瞳をふっと柔く細める。なに、見すぎ。薄い唇が形作る。
「美味しいなって」
「ハハ、ありがと。作りがいがあるわ」
「また食いたい」
三ツ谷は一瞬、きゅっと唇を結んだ。そうして、ゆっくりと笑顔を作って、うん、と小さく頷いた。
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数年前、三ツ谷が実家を出るタイミングで、一緒に住まないかと持ちかけたのは龍宮寺からだった。自身もちょうど契約も切れるし、引っ越そうと思っていたところだった。
独り身の男同士。きっと三ツ谷とならば、楽しく過ごせるだろうと龍宮寺は軽い考えで誘った。金銭面の負担なんて、二の次だった。
龍宮寺と三ツ谷は、双龍だ。相棒で、最高の友人だ。この提案が拒否されるなんて、一分たりとも思ってもいなかった。むしろ喜んでくれるだろうと思っていたのだから、今となっては救えない。
重い、重い沈黙の末。ごめん、と三ツ谷の口から零れ落ちた言葉は、どこにも届くことなく消えてしまいそうなほど小さかった。なんで、と反射的に聞いた。龍宮寺は聞いてしまった。
『ドラケンってさ、オレのこと友だちだと思ってくれてるでしょ』
龍宮寺は正しい答えがわからなかった。そりゃそうだろ、と言えたら良かった。だけど、言えなかった。
そうして、何も言えないままの龍宮寺に、三ツ谷は一瞬、酷く冷めた目をした。そのくせ、すぐさまいつものように人の良い笑顔を繕って言った。ふと、そのとき互いに重ねた月日の長さを、付き合いの長さを実感した。
『じゃあドラケン。またね』
それが言葉通りの意味じゃないこと。龍宮寺は察せないような子どもじゃない。だけど、嫌だと、失いたくないと思えば思うほど、正解がわからなかった。三ツ谷の黒髪が瞼の裏に焼き付いて、淡い光を残して消えた。
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なんて、思っていたのを懐かしく思うよりも早く。龍宮寺は、三ツ谷と再会した。互いにダンボールを両手に抱えて、ポカンとあいた口。そうして、いつかの日のように。
「えええぇ!?」
悲鳴に似た叫び声が近所に響き渡る。
「なんでだよ!?」
「こっちの台詞だわ!?」
とはいえ、まあ、トリックは簡単だ。それぞれから引越しの相談を受けた不動産屋もとい、共通の友人である林田が紹介したのが同じアパートだったわけだ。バストイレ別、駅まで徒歩五分以内、あとは程々の予算。
「パーのやつ・・・・・・いや、」
「仕組まれたわけじゃねぇだろうな」
小さく、三ツ谷は笑った。しかたない。きっと胸中ではそう呟いただろう。それから龍宮寺に「じゃあよろしく。お隣さん」と言うと、ダンボールを抱え直し、外階段を上がっていった。
ちゃりん。パンツのポケットに入れた鍵が音を鳴らす。こうして、龍宮寺と三ツ谷は『お隣さん』という関係性に収まったのだった。
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