その姿を見るのは八年ぶりだというのに、すぐにわかったのは、きっと淡い藤色の瞳があの頃と変わらない美しさだったからだろう。自身と少し似ていて、だけど全然違うそれ。
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じんわりと汗の滲むような、真夏の、蒸し暑い日だった。
三ツ谷は両手に抱えた、空の酒瓶が詰まったケースを地面に置いた。少しでも暑さを和らげたいが為によれたTシャツの袖を捲りあげて、ちらりと空を見上げる。今宵は新月なのか、はたまた雲隠れしているのか。静まり返った路地裏は、ほの暗い外灯の光だけが頼りだった。
蒸発した父親の残していった、汚い借金。返済するためにあと幾時間、働けばいいのか。考えている余裕はない。
ここのところ取り立ては激しくなっている。相手は薬に、延いては殺しにも手を染めているようなやつらだ。いつも想像するのは最悪の結末だけ。
「あ、いたいた。アイツっす」
そのときだった。三ツ谷のいる路地裏の入口から、酒のせいでしゃがれた声がした。はっと顔を上げてその方を見ると、いつも取り立てに来ている男が数人と、その背後に見慣れない目付きの鋭い男がいた。細いフレームの眼鏡、その奥の瞳は宵より暗い。
すぐに、本能が逃げの一手を打つ。あの男に捕まれば最期、身の保証はない。たぶん、まともに話が通じるからこそ、だ。とうの昔、小さなやんちゃをしていた頃に培った経験や勘が警告を鳴らす。
三ツ谷のボロボロのスニーカーが地面を蹴り、路地裏をでたらめに行く。みっつほど角を曲がった時点で、息があがっていた。走ったからってだけじゃない。心臓が脈を打つ音が、耳の奥、すぐそばで聴こえる。
そうしてむっつ、再び何処かの路地裏へ足を踏み入れたときだった。上質なスーツを身につけた男がひとり、壁を背にして煙草をふかしていた。外灯ひとつない道、逆光で顔は見えない。そんな場合ではないというのに、三ツ谷は思わず足を止め、綺麗だと嘆息を零してしまった。
そのとき。おもむろに、男が三ツ谷のほうを向いた。
実に八年ぶりほどになるだろうか。互いに変わったところばかりだ。というのに、その姿を見てすぐにわかったのは、その深い藤色の瞳がきっとあの頃と変わらない美しさだったからだ。
一瞬、世界から音が消えた。そうして、ひゅっと息を飲んだ音が自身から発せられたことに気がついたとき。男はニンマリと空に浮かぶ三日月のように、その、深い藤色の瞳で弧を描いてみせた。
「貸しイチな〜」
三ツ谷が目の前の懐かしき男の名を口にするより先に、手を引かれ、壁に強く背中を打ちつける。その衝撃にうっと呻き、目を瞑ると視界は真っ暗になった。
ぬるり、湿った生暖かい感触が三ツ谷の唇をなぞった。そうして三ツ谷が男に抱いていたイメージよりも幾分も優しい手つきで、耳を、輪郭を撫でられる。
抵抗する間はなかった。男の膝で足を割られて、すぐさま逃げ場はなくなっていた。三ツ谷の伸ばした手のひらは男の胸元を押し返そうとしたのか、縋っていたのか。くしゃりと手触りの良いシャツが皺を作る。
小刻みに三ツ谷の長いまつ毛が震えた。一度開いた瞼がまた落ちて、潤んだ瞳を隠す。男の舌は丁寧に、口内を暴いていく。堪えきれずといったふうに、んっと上擦った甘い吐息が三ツ谷の唇から漏れた。
「次はもっと色気のあるカッコしろよ。三ツ谷」
耳元で囁かれた言葉。そして男は突然、ぱっと身体を離した。さりげなく周囲を窺うように何度か往復した視線に、ようやく三ツ谷は『貸し』の意味を知った。
きっと数秒前まで、この背中に隠されていて、三ツ谷は路地裏で彼氏と睦み合う女に見えていただろう。キスをされたことによって沸騰した頭が冷えていく。
「灰谷・・・・・・、助かった。サンキュー」
素直にお礼を告げると、灰谷はふっと笑みを零した。記憶よりも穏やかなのは、歳を重ねたからだろう。
「貸しって言ったろ?」
「おー、そうだったな。あいにく金はねぇから力仕事あったら呼べよ。引越しとか」
「・・・・・・うーん、それは足りてんだよな〜」
一歩。灰谷が踏み出したことによって、三ツ谷との距離が再び縮まる。キスされる、と思った。
だけど、違った。灰谷は、三ツ谷の唇の上で囁いた。
「次って言ったの、忘れちゃったの? 三ツ谷」
「つ、ぎ?」
「めいっぱい、オレのそそる服装で来いよ」
何度か頭の中でぐるぐるとその言葉が回り、やっとのことで理解したあと三ツ谷は「次なんてあるわけねぇだろ!」と怒鳴った。少し間を置いて、ぱちぱちと灰谷は目を瞬いた。心底驚いているようだった。その端正な顔を乗せた首を傾げて、言い放つ。
「アレ、三ツ谷って青姦が好きなんだ?」
へぇ意外、と続けようとするものだから「はあ!?」三ツ谷の叫び声が路地裏に響いた。せっかく撒いたのに。慌てた三ツ谷は、目の前の灰谷の口を手のひらで塞ぐ。
「なんでそうなんだバカヤロウ!」
また叫んでしまった三ツ谷は間違いに気がついて、自身の口を塞ごうと、灰谷の口から手を離そうとした。が、しかし、手首を掴まれて阻止される。決して強い力ではないだろうに、もはや身体すべてが硬直してしまう。
「な、に・・・・・・」
「三回まわってワンじゃ済まなくてザンネンだな〜」
「オレは、男だぞ」
「知ってるけど。だから?」
灰谷はわざとらしい音を立てて、三ツ谷の手のひらに口づけた。そうして移りゆく唇は、簡単に首元へと辿りつく。はっと思ったときには遅かった。そこに真っ赤な一輪の華が咲く。
「次がねぇなら今しかねぇじゃん?」
両手をあっという間に頭上で纏めあげられる。同じ男だというのに振り解けないのは、決して力の差ではない。灰谷という奴は人間を拘束する方法を知っている。対して三ツ谷はそれから抜け出す術を知らない。
「三ツ谷は誰かに見られたらって思うともっと興奮するタイプ?」
「わけねぇだろ」
「オレはするかも、なんてな」
灰谷は満足そうに笑って、三ツ谷に口づけた。さっきのは手加減されていた。そう痛感させられる、なにもかもを奪うようなキス。逃げ惑う舌を執拗に絡め、絶え間なくそそがれるつばき。息が苦しい。
「三ツ谷。オレが、オマエを買ってやるよ」
捕まった――、それが三ツ谷の正常な思考の中で浮かんだ、最後の感想だった。
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「この間の例の組、潰しました。あの借用書はいかがいたしましょう?」
「もう必要ないから捨てて」
「かしこまりました」
折り目正しくお辞儀をする男を見遣り、灰谷は「おー、ご苦労さま。一本どう?」煙草に火をつけた。ぷかりと白いもやが部屋を漂う。
「――ご機嫌ですね」
部屋を出ていこうとした男は踵を返し、細いフレームの眼鏡、その奥で目尻を下げて微笑んだ。灰谷は重厚なソファから身体を起こして手を組む。その甲には赤々とした引っかき傷ができている。
「見て。最近飼い始めた、ネコのしわざ」
「・・・・・・あー、あの」
「そうそう。オレ、あの目がお気に入りなんだよな〜」
灰谷は瞼の裏に、初夏の風吹く日に目を奪われた、あの淡い藤色の瞳を思い浮かべる。自身と少し似ていて、だけど全然違うそれ。そうして、そっと、まるで慈しむような手つきで傷口をなぞった。