「あのさあ、」
一瞬、三ツ谷はその声を、生活音として聞き逃してしまいそうだった。にんじんを切っていた包丁をまな板の上に置くと背後を振り返る。今、この一人暮らしの三ツ谷の小さな部屋には、自身を含めてふたりしかいない。
「なに?」
「あのさあ」
部屋を占領する不釣り合いなベッドに寝転がって、手にした携帯電話から顔を上げずに、灰谷は繰り返した。今度は何ごともなかったかのように、いつも通りだった。先程の、らしくない意気消沈した声は聞き間違いだったか。
異性間でありながら、灰谷とはかれこれ数年、『仲の良い友人です』と言えるような関係性を続けている。見目の整ったこの男はいわゆるセフレと呼ぶような女の子もいるようだが、三ツ谷には関係なかった。二人はただ、こうして定期的に手製の料理を囲むだけの仲だ。
灰谷は顔を上げて、三ツ谷を見つめること数秒。その顔に貼り付けたような笑みを浮かべた。心底めんどうなことがあった時に見せる顔だった。例えばセフレの女の子がカノジョにしてほしいと言った時みたいな。
「パーティーとか、興味ねぇ?」
いつもの灰谷ならば『パーティー行くぞ』と強制だったろう。問いかける形のその口調に三ツ谷は困惑した。思わず手を洗ってから、ベッドのふちに腰かけると、灰谷のおでこに手のひらを乗せた。熱はない。
「パーティー?」
「そう。ちょ〜っとダルいやつ」
「・・・・・・着いて来いってこと?」
そこで再び灰谷は、三ツ谷をじっと見つめた。やけに近くで藤色の瞳がふっと優しく弧を描く。まるでスローモーションのようにゆっくりと伸びてきた手が、そっと輪郭をなぞるのを、三ツ谷はただ黙って受け入れた。たぶん、こうしてギリギリのラインを灰谷が踏むのは初めてだった。
「オレは、三ツ谷に一緒にいてほしい」
キスはしない、セックスももちろんしない。それでも灰谷は気まぐれに三ツ谷のところにやって来た。作った料理を美味しそうに食べるだけ。そうやって数年かけて絆されていたのは三ツ谷のほうだ。
「・・・・・・別に一緒にパーティーに行くだけだろ」
ふっとそれはそれは美しく微笑んだ灰谷。その笑みの意味を三ツ谷が知るのは、当日、藤色のドレスに身を包んだあとだった。
✱
「オレ、コイツ以外と結婚する気ねぇから」
灰谷は壇上でマイクを通して、そう言い放った。半ば無理やり手を引かれ、三ツ谷は人々の好奇に晒されていた。会場のざわめき。どこかで囁く声は『アレが坊ちゃんの婚約者・・・・・・』と遠慮なく品定めする声。
「ちょッ」
「つーわけで、お先」
この日のためだけの履きなれないハイヒールは、いつの間にか片方脱げてしまった。だけどその靴を拾ってくれるはずの王子様は、未だ無理やり手を引いたまま、三ツ谷の数歩先を行く。
「ちょっと待てって!」
ようやく灰谷が足を止めたのは、ロビーに着いてからだった。さすが高級ホテル。フロントのスタッフはあからさまに訳アリの二人にも、ちらりと視線を寄越しただけで、すぐさま優雅な微笑みを湛える。いつも通りの風景だ。
「どういうつもりだよ」
三ツ谷は声を落として問うた。別に結婚というものにロマンティックな夢や幻想を抱いているわけじゃない。だけどそこに困惑と同時に、確かな怒りの色が乗ってしまったのは仕方のないことだろう。説明のひとつや、ふたつ、あって然るべきだ。
「結婚って」
「そのまんまだけど」
「だから聞いてんだろ」
「政略結婚なんてゴメンだからな」
ああもう!バカヤロウ!違う。聞きたいことはそんなことじゃない。キスもセックスもしたことない奴を結婚相手に選んだ理由を教えてほしいのだ。
三ツ谷がそう言おうと口を開くと、灰谷は制するように笑った。心底楽しそうな笑い方だった。
「いろいろ考えたんだけど、三ツ谷蘭って良くね?」
もはや「オマエ・・・・・・」呆れた声しか出ない。だけど三ツ谷は思わず、つられるようにして笑ってしまった。灰谷に、何と答えてほしかったのだろう。どんな言葉を並べられたとて、もう答えは決まっているのに。
「・・・・・・あー、確かに悪くねぇか。しかたねぇ。ウチの婿養子になるってことは今までのままじゃいられねぇぞ」
ちくりと刺したトゲに、灰谷はニンマリ笑った。まあ、三ツ谷との相性次第かな。ちらり。視線を向けた先、エレベーターが到着のランプを光らせた。