一万一回目の正直三ツ谷はグラスについた赤いルージュを親指でさりげなく拭い、上目遣いでそっと正面の相手を見た。時刻は二十三時。僅かに白く濁った窓の向こうでは、雲がどんよりと月を覆い隠す。二十を幾許か過ぎた男女が別れ話をするにはうってつけの夜分だった。
『君ってひとりでも生きていけるよね』
なんて、言われて振られたのが数分前。
どうしても付き合って欲しい、君の気持ちが僕に向いていなくたっていい。土下座までされて情に絆されるかたちで付き合ったのが三ヶ月前だ。
煌びやかなネオンが飾る夜空とは裏腹に、三ツ谷の心には暗雲がたちこめていた。やさぐれて溜め息をついてみたり、さめざめと涙を流したり。なんてしても世界は変わらないので、平静を装い――きれずに唇の先をちょんと尖らせ――ながら、ふらふらと宛もなく歩いていた。
ひとりでも生きていける、そりゃそうだ。高いところにある物だって背伸びすれば取れるし、虫がちょっと出たくらいじゃ動じやしない。そうでなければ三ツ谷は働きに出ている母に代わって、幼い妹二人の面倒を見てあげられやしなかった。
会ったばかりというわけじゃないのに、なにを今更。じゃあ一体全体、どこを好きになったというのだ。そんなことを考えようとして、しかし思考は途切れた。
それこそ今更だ。何度目なのか、もう数えるのもやめた。似たような告白をしてきた歴代の彼氏たちは揃って同じことを口にする、『三ツ谷さんってかわいいね』。
あの頃――、男たちに混ざってヤンチャしていた頃。性別も容姿も関係なく弐番隊隊長として三ツ谷はそこにいたし、隊員たちもまた慕ってくれていた。でもあの頃を知る人はもうひと握りもいない。懐かしい、なんて思ったら笑みが零れた。
ふっと立ち止まった路地裏。ポケットから取り出した携帯電話のディスプレイが煌々と三ツ谷を照らす。伏せたまぶたに、灰色の瞳を飾る長いまつ毛が影をつくる。
連絡先に並ぶ懐かしい名前を見ながら、久しぶりに誰かを飲みにでも誘おうかな、なんて思った時だった。スワイプしていた指先が誤って画面をタップしてしまった。
は行、一番上。
「ヤベっ!」
生粋の機械音痴である三ツ谷がアワアワとひとりで焦っている合間に、ツ、ツと断続音のあとにワンコール。軽快な音はすぐに切れた。代わりに聞こえたのは、
『・・・・・・三ツ谷?』
まさか。
「は、灰谷蘭」
『そうだけど。三ツ谷が電話してきたンだろ』
電話口から聞こえる灰谷の声は相も変わらず柔く、どこか楽しげだ。向こうの通りでは酔っぱらいの陽気な歌声が風に流れて、三ツ谷の耳元に小さく届く。夢と現実が混ぜこぜになって、脳がくらりと溶けてしまう気がした。
「な、んで」
『なんでって、ハハ。こっちのセリフな?』
「・・・・・・電話、変えてねぇの?」
『まあな〜』
連絡先を交換した、もとい一方的に交換されたのは、もう八年ほど前になる。灰谷に背後からコンクリートブロックで殴られ、病院の真白いベッドの上で目を覚ましたら、携帯電話には新しい番号が登録されていた。
それから月に一度ほど灰谷の気紛れで連絡が来ること一年と少し。三ツ谷ひとりでは行けないようなブティックに行ったり、代わりに男ひとりでは行きにくいとフルーツパーラーに行ったり。
まるで昔からの友人のように、意外にも穏やかだった異文化的な交流は、唐突に終わった。その理由を三ツ谷は今もまだ知らない。
『で、なに沈んでンの?』
「へ?」
『オレが気がつかねぇとでも思った?』
たぶん、逡巡したのは一瞬だった。
「失恋、した」
灰谷の優しい声に誘われるように口に出してようやく、割と自分は傷ついていたのかもしれないと三ツ谷は思った。でも失恋したことではない、振られたことでもない。たぶん『ひとりでも生きてきけるよね』その言葉が生き方を否定された気がして嫌だったのだ。
『・・・・・・ふぅん。じゃあさ、慰めてやるよ。おいで』
そうして唄うように続けられたどこかの住所を覚えるのは、今の三ツ谷には酷く簡単だった。
✱
✱
✱
「懲りねぇのな」
あの日から季節は巡り、日中は容赦ない太陽が地面を照りつけ、コンクリートは陽炎をゆらゆら揺らす。夜が更けてなお、その暑さは身に纏わりついてくる。そのぶん仄暗い店内は冷房が効いていて、三ツ谷は晒した腕をそっとさすった。
「一万回だめでも一万一回目は変わるかもじゃん」
「そんで何度でもオレを呼ぶって?」
横に座る灰谷が覗き込むように頬杖をついて、くすくすと揶揄い混じりに笑う。三ツ谷は少し頬を膨らませてから、冷たいグラスを色味の薄い唇に寄せた。納期明けで疲れた身体に甘い酒が巡る。
「こんなん他のやつに聞かせらんねぇもん」
こんなん――同じような理由で振られて、そのたびに並べる愚痴の数々――を、灰谷は嫌な顔せずにうんうんと相槌を打って聞いてくれる。むしろいつも『しかたねぇなァ』なんて、ともすれば三ツ谷が勘違いしてしまいそうな優しい顔をするのだ。
「ふぅん、オレならいいんだ」
まただ。言葉に反して嬉しそうな灰谷に、三ツ谷は唇を結んだ。そのくせ、あの頃となんら変わらない距離感。あくまでもふたりは友人なのだ。
灰谷と一緒にいると、三ツ谷はらしくいられない。根づいているはずの姉気質も、冷静沈着な性格も、全部ぜんぶなかったことになってしまう。それは灰谷が兄だからか、はたまた。
「オレもさ、三ツ谷ならいいよ」
さらりと落ちた前髪、随分と色香をまとう灰谷のその雰囲気が重ねた時間を感じる。たぶん、数々の女の子を食べてきたんだろう。そんなことを三ツ谷が思っていると、射抜くように見つめてきた藤色の瞳が、ふっと弧を描く。
「なあ、オレにしない?」
「・・・・・・・・・・・・、は?」
「オレなら三ツ谷にそんなこと言わせねぇよ?」
ぱちぱち、三ツ谷は目を瞬いた。オレニシナイ?まるで異国の言葉を聞いているような気がした。あれ、友人なんじゃなかったっけ、なんて数分前の自分に問いかけても答えは返ってこない。
「え、オマエ。は?」
「このオレが下心もなしに、何度もこーやって呼び出しに応じると思ってンの?」
テーブルカウンターを滑る節くれだつ指先が、グラスを掴んでいる三ツ谷の指先へ到達する。と、その前に慌てて手を引く。
「ッオマエのセフレのうちのひとりになる気はねぇよ」
すると今度は灰谷が、ぱちぱち。何度か目を瞬いた。ほんの少し子どもっぽい仕草は出会ったあの頃を彷彿とさせた。若いなんてもんじゃなく、互いに幼かったあの頃。
「えー、オレそんなヤツだって思われてンの?」
「そりゃ・・・・・・、そうだろ」
「三ツ谷が嫌ならセフレもちゃんと切るぜ?」
「ろくな恋愛したことないんだな」
呆れて溜め息をつけば、灰谷は「お互い様じゃね?」とくすくす小バカにしたように笑った。己の恋愛遍歴を省みて、反論できそうもないのが三ツ谷は悔しかった。そうだ、ろくな恋愛なんてしたことがない。
「でも次が一万一回目だろ?」
「どっから出てくんだよ、その自信」
「だってオレ、三ツ谷のこと好きだもん」
明日の天気は?晴れです、みたいにあっさり。さらりと告げられた言葉。もはや異星人の言葉を聞いているような気さえしてくる。
たしか天気予報では、明日は猛暑日、熱中症に注意。水分補給をしっかりしましょう。ここ最近はいつも通り。いかにも女の子って感じの可愛らしいお姉さんが、にっこり笑顔で言っていた。
「で?」
「・・・・・・、へ?」
たぶんキャパオーバーで現実逃避をしていた三ツ谷は、灰谷に覗き込まれて現実へと引き戻された。目の前の藤色の瞳は照明に当てられて、ゆうらりと穏やかな水面のように揺れている。
「ま、聞かなくたってわかってるけど」
テーブルカウンターを滑る節くれだつ指先は、今度こそ三ツ谷に触れた。灰谷は襟足に伸びた銀髪を僅かに掬うと弄び、ふっと優しい吐息を零した。
「三ツ谷もオレのこと、好きじゃん」
まさか人間としてだとか友人としてだとか、そんなことを言っているんじゃないことは、ろくな恋愛経験がない三ツ谷とてわかった。からん、氷の溶けた音が響く。
「な、んで急に」
「急じゃなくね?」
「だって昔、オマエ連絡取れなくなって」
更に言い募ろうとする三ツ谷に「あー、そうだっけ」と灰谷は誤魔化すように笑った。
「ああ。あの頃の三ツ谷、脈ナシだったから?」
けらけらと笑う灰谷に、唖然。もはや溜め息ひとつ零れない。三ツ谷はたっぷり間を置いて、腹一杯に息を吸い込むと言い放つ。
「テメェそれで口説いてるつもりか出直せ」
「いーや。じゃあさ、本気で口説いていいの?」
三ツ谷はそっと息を飲んだ。時刻は二十三時。今宵は雲ひとつなく、空にはぽっかりと真ん丸の月が浮かんでいる。二十を幾許か過ぎただけの男女が愛や恋だを語るにはうってつけの夜分だった。
「オレはかわいくねぇ三ツ谷も好きだよ」
優しく弧を描いているくせに、その藤色の瞳にはさっきまでとうって変わって揶揄いなんて欠片もない。
「男勝りで口悪くて、コンクリで頭殴ってもくたばんねぇ三ツ谷が好き」
史上最悪の告白だった。だけど反して今まで聞いた『好き』とは違うこと、三ツ谷はちゃんと自覚していた。もう答えに迷うことはない。
「そんな口説き文句があるかよ」
はたまた――、の先。
「でも、オマエのそういうとこ嫌いじゃねぇ。ウン・・・・・・、好きかも」
ろくな恋愛なんてしたことがない。もしかしたら今までと同じように絆されているだけかもしれない。でも次はきっと一万一回目のような気がするのだ、そうあってほしいと三ツ谷は思ってしまうのだ。
「女の頭に傷つけたんだから責任とれよバーカ」
「ハハ、三ツ谷取ーり」
懐かしいセリフ、でもあの頃とは違う。三ツ谷に触れたのはコンクリートブロックなんかじゃなく、ほんの少し冷たくて、だけど柔く穏やかなものだった。