その夜、嫌というほど教えられた。 路地裏は腐卵した生ゴミの臭いと吐瀉物が充満している。
下品な落書きだらけの壁。転がる空瓶。誰かの血痕。錆色のゴミ箱は役割を放棄してスクラップと化している。
浮浪者が「アー……アー……」とダラダラ涎を垂らして這いつくばる。野良犬と鴉が死肉を奪い合い、ギャアギャアと騒がしい。孤児が転がっている女の死体から財布を盗むのを横目にひっそりと隠れている地下へ繋がる階段を降りる。
顔色の悪い受付嬢が顕になった胸を寄せて上目遣いに媚びた笑みを浮かべ、骨と皮にしか見えない鶏ガラのような指で触れようとするのをサラリと躱した。
「あら、つれないわね」
「ヤク中の誘いは受けねぇよ」
黄ばんだ眼球がギョロリと動いて森を睨む。
たらり。ポタ、ポタ、と血液が受付に落ちていく。薄汚れたカウンターは血が混じったところで何も変わらない。
鼻から血を出した女に「お迎えが来たみたいだぜ」と背後を指す。
女が振り向いたのと同時、黒服の男が女の首を掻き切った。
ヒギュ。と絞められた鳥のような鳴き声が一つ。それだけで事切れた女はだらりと力の抜けた身体を床に打ちつけた。
「……汚ねぇなァ」
飛び散った血を指で拭うと心底申し訳ないという顔で黒服の男が頭を下げた。男の喉元にはツギハギの縫い目がある。子供が適当に針と糸で縫ったような傷跡だ。口が聞けぬ男が代わりに態度で許しを乞うのを片手で制し、代わりに「もう少しマシな女にやらせとけよ」とだけ告げた。
こくりと頷いた男が乱暴に女を掴み、ずるずると引き摺っていく。両手をパーカーのポケットに突っ込んでボケっとした顔のまま見送った森は、くわりと欠伸を一つ漏らした。
女が如何処理されるのかに興味はない。皮を剥がれるのか装飾されるのか。どちらにせよ悪趣味な金持ちの娯楽として使われるのだろう。
生きながら売られるよりマシじゃねぇの。
コンクリートの壁にもたれようとして、ガムやら虫の死骸やらが粘りついてるのを見咎めてやめた。
さっさと帰りてぇなァと思うも、戦利品無くして帰れない。帰る家には待ち人がいなければ意味がない。
カチコチ不規則な秒針の音を聞きながら壊れた時計をボーッと眺めて待つ。
やがて先程とは違う黒服の男が慌てた様子でやってくる。冷や汗を掻き、ブルブルと震える身体。恐々と森を見上げる目は屠殺されるのを待つ家畜に似ていた。
威圧しているつもりはないが、己の目付きが到底ヒトの感情を宿してないことは自覚している。端的に言えば森は苛立っていた。誰でもいいから殺したいほどに。反面、無闇矢鱈に殺すほど理性を捨ててはいなかった。
カチカチ噛み合わない歯が不快な音を立てている。脅かすつもりはなかった、とは言えない。脅すつもりで来たのだから、怯えてもらわねば困るのは森だ。
「彼奴、何処にいる?」
「ハ。ハハ……あ、あい……?」
「派手な髪色の美人だよ。来てんだろ」
「エ、エー、ット……」
うろうろと視線を彷徨わせる男に合わせて首を傾げる。うん?と森にしては優しく続きを促してやったのに、男は命乞いをするかのように媚び諂う笑みを浮かべたままだ。
ガシガシと頭を掻く。元来、気の長い方ではない。己にしては良く保った方だ。
ー……と上を見上げて数秒。もういいかと判断を下した。
「ッ、ッ」
「俺ァ、気が短くてよ。お前のゴシュジンサマが何言ったか知らねぇが、人のモン取ったら駄目だろうが。大人に教わっただろ?」
森の大きな手が男の首を締め上げる。パクパクと口を開けて必死にもがく姿が滑稽だ。幼子に言い聞かせるかのように朗らかに話しかけ、なあ?と同意を求める。ギリ、と力を込めれば即座に何度も首を振る。
「仏は三度許すらしいが、俺は鬼って呼ばれてるからよォ。一度も二度も無いんだわ。わかるよなァ」
酸欠で赤く染まり始めた顔を無感動に眺め、ドスの効いた声で囁けば、男の目から涙が溢れた。
○
ペタペタと歩みを進めれば耳を壊す爆音でごちゃごちゃとした音楽が弾け出す。
フロアは熱狂的な盛り上がりを見せており、煙草と酒とクスリの香りが混ざって吐き気がしそうな欲が溢れている。
泡を吹いて倒れた男が吐いた言葉に従い辿り着いた場所はクラブとは名ばかりの狂宴。何処を見ても碌でも無い人間ばかりだ。
そんな中でポツンと強張った顔でガッチガチに固まり、ソファに座り込んでいる男がいる。
左右から場末の娼婦でも品があるだろうと思うほどに下品に露出された肌を剥き出しにして女が男に纏わりつく。
眉を顰めるが、男が触れられる度に身を固くするのを見て苛立ちは吹き飛んだ。
「よぉ、色男」
「もりくん……?」
大股で近寄り声をかければ、迷子の目をした高杉が思わずといった風に手を伸ばした。
指先を絡め取り、探していた男の手を握る。未だに纏わりつく女は睨み一つでそそくさと散っていった。
空いたスペースに腰を下ろすとすかさず高杉がしがみついてくる。
「もりく、もりくんっ!!」
怖かったのだろう。涙目で縋り付く高杉は大層可哀相であり、可愛らしい。ぎゅうぎゅうと抱きつかれるのをそのままに、高杉の前に置いてあるグラスを拝借して一口飲む。
「……お前これ、飲んだか?」
「飲んでない。何が入ってるか分からないじゃないか」
「自分で頼んだのか?」
「知らない。僕を此処に連れてきた奴が勝手に頼んだ」
「ソイツは?」
「あそこ」
すぐに森の胸元に顔を埋めた高杉の頭を撫で、顔だけで示された場所を見遣る。ギャハギャハと笑いながらパイプを吸っている男が丁度景気良く口から血飛沫を吐き出していた。
残念。ヤクで死ぬくらいなら俺が殺したかったのに。
好奇心のままにホイホイついて行った高杉も悪いが、高杉を騙して連れ込んだ奴の面を拝むだけになってしまった森はなんとなく不完全燃焼だ。
一口飲んだカルーアミルクはリキュールの分量がとんでもなく多く、下心が見え透いて気分が悪い。飲まなかったことは評価してやるが、唾をつけられたようで腹立たしい。苛立ちの矛先は当然、高杉にも向けられている。
「……んでこんな場所に来てんだよ」
「だって」
「?」
至極真っ当な質問をすれば歯切れ悪い返事が返される。だって、てなんだ。だって、て。可愛いなクソ野郎が。
普段の高杉なら好奇心はあれど見え透いた下心に引っ掛かると思えない。危機管理能力はあるはずだが……と疑問に思ったからこその質問だ。無論、好奇心のみである可能性は捨て切れないが。
より一層しがみついて離れない高杉の耳元を擽り「だって?」と囁く。びくっと反応した高杉がぎゅっと繋いだ手に力を込めた。
「……もりくんが喜ぶやり方知ってるって言うから。教えてくれるって……」
「はあ?」
喜ぶ、とは。何を。何が。意味が分からない顔をする森は、そのまま「意味が分からねぇ」と直球だった。唸る高杉は如何してか耳まで真っ赤に染めて、ぐいぐいと森の胸元に顔を押し当てている。見られたくないらしい。
「も、もりくんはいつも僕を気持ちよくさせてくれるけど、僕はその……男同士なんて初めてで、わかんないから……。だから……」
「………だから?」
「僕だって……森くんを気持ちよくさせたかったから…」
「……………。」
成る程。それで、教えてくれるって…に繋がるのか。そうか。俺を気持ち良く……。それは所謂情事の話で……そうか……。いや阿呆か。
もう如何言っていいのか分からない森はひたすら素数を数えた。なにこの可愛い生き物。此処じゃなかったら犯してた。
つまり?高杉は?森を喜ばせようと怪しい誘いに乗っかってホイホイこんなクズの掃き溜めみたいな場所に来たと。けれども怖気付いてガチガチに固まり、ひたすらソファに座って黙りを決め込んでいたと。帰るタイミングが分からずカルーアミルクと睨めっこをし続けていたと。そもそのカルーアミルクですら緊張で飲めなかったと。ぐずぐず話すことを要約すればそういうことらしい。
「………帰るぞ」
「うん」
スッカリ怒りが消失した森は高杉を抱き抱えるようにして立ち上がる。まだ怖いのか森に引っ付いたままの高杉は心なしかしょんぼりしているように見えた。
ずるずる引き摺るように腰を抱いて外へ出る。むわっと鼻をつく臭いが不快だが、森の脳内は夜のことで埋め尽くされていた。
「……取り敢えず、抱くわ」
「えっ?」
決定事項を告げると、しょげこんだ高杉がパッと顔を上げる。そして、思い切り頬を引き攣らせた。
「あ、あの、もりくん、怒ってる?」
「んー?」
「ご、ごめん、まさかこんな場所だなんて僕、思ってなかったからっ」
「あー、そこじゃねぇんだよなァ」
焦る高杉とは裏腹に、森の心は凪いでいる。
さて如何してくれようかこの可愛い生き物を。という心で埋め尽くされている。
一先ず言えることとしては、だ。
「人に聞くよりまず俺に聞けよ」
「え、え?」
ポカンと口を開ける面倒な恋人に分からせることが最優先だ。