夜明けを待ち望む日 濃藍が空に溶け込む頃、薄らと瞼を開けた。大きなベットの中央で背を向ける男の姿を見つめ、すうっと心に隙間風が吹き込む。
そっと手を伸ばしてぺたりと大きな背中に手のひらをくっつける。人肌のじんわりとした温もりが確かな熱を帯びて伝わった。
静かな寝息が聞こえ、ほんの少しだけ距離を詰める。起きないことに安堵して息を吐く。
情事後の身体は綺麗になっていて、ふわふわの毛布に包み込まれている。なのに温もりは感じられない。手のひらから伝わる温度だけが暖かい。
獰猛な獣を体現したかのような彼が僕に触れるとき、酷く怯えているのを知った。
まるで触れてはいけないモノのように微かに震える手で僕の身体に触れる。華奢であるが筋肉のついた男の身体はそう簡単に壊れやしないというのに、彼はいつだって僕に触れることを躊躇い、丁寧に扱う。
恋人ではない。そんな甘い関係ではない。ならば友人かと問われれば、それも異なる。
肉体関係はあれど、心を交わすような関係にはなり得ない。そのはずだった。
最初は性欲処理に面倒になって、誰でも良いかと思ったから。男同士のセックスに興味がなかったといえば嘘になる。彼を選んだのは偶然だと思いたかった。
欲しいと願われ、抱きたいと直球にも程がある口説き文句を面白がって抱くくらいなら試してみるかと笑って受け入れた。
彼がどういう風に人を抱くのか興味があった。あわよくばその顔を見てみたかった。一度抱かれて飽きたら終わりにすれば良い。本当にそんな最低な好奇心だった。
変わったのはいつからか。きっと最初に抱かれたときからだ。抱かれたというのは少々語弊がある。何故なら彼は最後まで致さなかった。男同士の性行為にさほど詳しくはないが、後ろの穴を使うくらいの知識はあった。だからこそある程度の覚悟はしていた。欲のままに抱かれるのだろうと、彼の見た目そのままに激しく抱かれるのだろうと覚悟していたのだ。
蓋を開ければ彼は驚くほど繊細で丁寧に僕に触れるのだった。興奮かそれとも別の何かか。微かに震える指先でゆっくりと。逐一僕の反応を伺い、少しでも顔を顰めれば即座に止まる。そうして尋ねるのだ。先に進んでも良いかを。この先を許してくれるのかを。
怪我をするからと最後まですることなく、彼は自分の精を吐き出すこともなくただ僕に愛撫を施して満足したようだった。
それが気に入らなかった。僕を抱きたいと言っておきながら戯れの触れ合い程度で満足する彼が気に入らなかった。その時点で僕は彼に抱かれたがってたのだ。
規則正しい寝息が聞こえ、また少しだけ距離を詰める。手を伸ばさずとも触れられる距離で、大きな背中を見つめる。綺麗に筋肉がついた身体は同性の僕から見ても惚れ惚れする。真新しい引っ掻き傷が艶かしい。僕がつけたものだ。彼の綺麗な背中につけた傷痕。
彼が僕に触れる熱を感じ、彼の弱さを知った。挿れないのかと問うたのは何度目の夜だろうか。彼はほんの少し目を丸くして、まるで断罪される前の囚人のような顔で「良いのか」と呟いた。熱を孕んだ声は微かに震えていた。
僕が挿れてほしいのだと言っているのに、何故?と思ったものだ。戯ればかりだと飽きるのだと投げかけた言葉は軽薄にも程があり、決して褒められるべきではなかった。見た目とは裏腹に繊細な彼の柔らかい部分を蹂躙する行為を僕は課したのだ。
必死な顔で劣情のままに暴くことを耐える彼の顔が歪む。ポタリと汗が落ちる。
その顔が、僕に向けられる感情が、なによりも嬉しかった。一つだけ足りない欠片が埋められ充足感を得た。美しく雄々しい女に困ることはないだろう彼が僕を求めて必死になる姿はとても愉快で面白かった。何も知らない人々に大声でこの男は僕を抱きたいのだと言いたいくらいに。反面、何も知らない人々に秘事をしている優越感に。ただ僕は酔いしれていた。自らの感情を理解することなどないままに。
背中に手を這わせる。愛しいだなんて今更。ほんの少しだけ彼が身じろぎする。怯えているのはどちらかだなんて愚問を数度。
嬉しいと思ったのは何故。飽きることなく自ら誘ったのは何故。男に抱かれるなんてプライドが許さないだろうに、そんなに安い存在ではないだろうに、何故。疑問を浮かべば薄っすらと笑う影に間違えたと悟るのは早かった。
彼は僕に対して誠実であった。誠実で清廉であった。僕の気まぐれで始まり、僕の気まぐれで終わる関係を理解して、僕の意にそぐわないことを全て排除して。強引に抱かれたことなどない。乱暴に扱われたことなどない。ただひたすら僕という人間に向き合い、幼さすら滲む純粋な心を向け続けている。
苦しくなったのはいつからか。抱かれたがっているのは誰か。本当に求めているのは誰なのか。彼の心を欲しがったのは誰なのか。
背中を撫でる手をそのままに、距離を詰める。ほんの少し動けば触れる距離。鼻の先に彼がいる。その距離まで来て、僕は彼の身体に腕を回した。一方的に彼の身体を抱き締める。抱擁にもなりきれず、逃したくないとだけを思う。抱き返されることはない。抱き締められたことなどない。
夜明け前に躊躇いがちに僕の頬に触れる手に彼の情の深さを知った。
それ以上は許されないとばかりに数秒。僕の頬を撫で、ゆるりと微笑む。寝たふりをする僕は薄らと目を開けて滲む視界で彼の表情を盗み見る。朝日に照らされた彼は一等美しい。瞳から滲み出す愛しさが溢れ、僕の心を捉える。
君、そんな顔ができるのか。いつもそんな顔で僕を見ていたというのか。
実感して仕舞えばもうダメだった。僕は彼に恋をしている。遅すぎる自覚は僕の首を絞め、嘲笑う。今更何を。自分がしでかしたことへの罪悪が溢れ出す。
こんな僕が。こんな僕を。どうして。
大きな背中に頬をくっつける。彼の体温に混じり合う熱が溶けていく。抱き返されることはない。彼に抱き締められたいのだと思っていても言葉にしなければ彼は決して行うことはない。
曖昧にしたまま彼の心だけを受け取って何も返せなかった。
それでも、今更だと理解していても、この手を伸ばすことを許してくれないか。
ピッタリとくっついた身体に鼓動が速くなる。泣き叫びたくなるほど格好悪い僕は眠っている彼を抱き締め、それだけでは足りないのだと喚く。
今更だ。だけどそれがなんだ。それを決めるのは彼であって僕ではない。
だからどうか。君の目が覚める頃に覚悟を決めるから。曖昧なままに引き伸ばした関係に終止符を。決して言えなかった言の葉を。
僕の心を告げても良いだろうか。