その愛は始めの呼吸から「Fulgur、出掛けるぞ」
「いやだ」
露骨なはぁという溜め息が聞こえるが、知ったこっちゃない。
事の発端は全てVoxだ。Voxが悪い。俺は悪くない。
Voxはもう一度、俺に伝わるようあからさまな溜め息を吐いて少しだけ笑った。気配がした。
「わかった。ならば置いていくからな」
そう言ってVoxは鼻歌を歌いながらコートを羽織り、鞄を肩に掛けた。
随分とご機嫌じゃないかと様子が気になってちらっと横目で窺う。やつの格好は、明るい茶色のトレンチコートにジーンズ、質感のある黒いバッグに足元には白いスニーカー。
比較的ラフだが、スタイルが良いので悔しいくらい様になっている。なんならこちらのほうがフォーマルな服装よりも、美しい容姿がよく映えてとても似合っている。
身長は同じなのに、と、隣に並んだときのことを思い返してさらにむすくれながら毛布にくるまっていると、近付いてきた名残惜しそうなVoxに頭を優しく撫でられた。
愛しさを隠さない手に少し絆されかけた。危ない。
「…では、行ってくるな」
少しだけ寂しそうな声色を残して足音が遠ざかる。
玄関のドアが音を立てて閉まるのを確認したら、ほぅっとひとつ息を吐いた。
酷くブルーだ。
伊達に400年生きていないあの鬼は、愛を伝えるのが至極上手である。
それは、動作であったり、言葉であったり。
そういうところも、とても気に入っていた。
けれどそれこそが、この一方的な喧嘩の他ならぬ原因なのだ。
あの鬼、距離が近いのである。
特に近しい友人に対しては。
男女問わず愛を囁くし、あちこちくっついて回る。
要するに、パーソナルスペースが異常に狭いのだ。
愛情深いやつだから、それが単なる親愛の印なのだということは十二分に理解している。
それでも渦巻くこの胸のどろどろはなかなかにどうにもならなかった。
俺にだけだったらいいのに、なんてひとりごちてからあまりにみっともない願いにほとほと嫌気が差す。
一体いつからこんなに自分は女々しくなっていたのだろうか。
わざとらしく溜め息を吐き、朝から攻防戦を繰り広げていたせいで食べ損ねた朝ご飯を求めてキッチンへと向かう。
ダイニングテーブルには、ラップのかかった彩り鮮やかなサラダが置いてあった。
芸術と言えるまであるそれに、思わず感嘆の息が漏れる。
朝からまた俺のために作ったのだろうか。
ろくに理由も言わずに無視したことに、少しの罪悪感を覚える。
嫌な考えを振り払うように首を振り、カウンターの背もたれのない椅子に腰掛けた。
サラダにはいつかの休日、Voxが楽しそうに作っていたドレッシングをかけて食べる。やはり旨い。一緒に住むようになってからは、市販のドレッシングを買うことは一切なくなった。悔しいことに、俺の舌に合わせて作られたこのドレッシングが一番旨いからだ
あの鬼は料理もできるのだ。伊達に400年生きていない。
俺はあいつに胃袋まで掴まれているのか、となんだか自分が情けないやら虚しいやらの急激な負の感情に襲われ、ぼーっと空を見つめた。
きっかけは、些細なことだった。
けれどずっと積もり積もったものがあったように思う。
それは一昨日のこと。
その日は久々のふたり揃った休日だった。
一緒に気になっていた映画でも見ようかと少し期待してそわそわしていた俺に、唐突にやつは出掛けてくる、と告げたのだ。
こいつの告白を受け入れたとき、面倒くさい恋人にだけは絶対にならないと誓って決めていたから、俺は快く送り出した。つもりだった。
だがあまりにも帰りが遅い。
だからなんとなく検討をつけて、
雨が降っていたので傘を2本持って、
走って迎えに行ってやったのだ。
それなのにやつは、綺羅びやかなショーウィンドウの前で女と腕を組んで歩いていた。
その時の俺の心情ったらない。
心配して、探して、迎えに来てやったのに。
走ってきたせいで泥だらけになった靴に、雨に濡れたTシャツ。なぜだか急に自分が酷くみすぼらしく思えた。
おかしい。こんなことで自信を失うなんて。
やっぱり、女が良かったか、なんて一生考えたくもなかったことが次々頭をよぎっていく。
小さな不安と、大きな悲しみが線になり、心に影を落とした。
こんな気持ちは知らない。知りたくなかった。
今までもモヤっとすることは沢山あったが、ここまでの激情を覚えたことはなかった。
放心状態のまま、じっと地面を見つめた。
どれくらいの時がたっただろう。
暫くして、なんとか足を家の方角へ向けた俺は、そのまま気付けば家に辿り着いていた。
なんとかリビングまでなだれ込んだが、もう何をする気力もなく鍵の開いた音がした瞬間には咄嗟に、リビングのソファで寝たふりをしていた。
寝ている俺に気がついたVoxは、音を立てないようこちらに近づきそっと頬にキスを落としてから上に上がっていってしまった。
いつもは嬉しい愛らしいキスも、今は混乱を与えるだけだった。
考えて、考えるうちに、その日はそのまま眠りに落ちていた。
そして迎えた昨日。
俺はVoxと出くわさないことだけを目標として、早朝に家を出て、深夜にこそっと帰ってきていた。
結果を言うと無事にそれは成功し、やつの顔を見ずに床に就くことができたのだ。
といってもそれはまた、ソファであったが。
しかし、翌朝だ。つまり今朝のこと。
ほっとしてつい長めの夢に浸っていた俺は、ここがリビングのソファであることをすっかり忘れていた。
朝の呆けた頭でも、悩みの渦中である顔が目の前にあったのを認識した瞬間には飛び上がって驚いた。
そして俺は思わず言っていた。
「出ていけ。お前とする話はない」と。ふたりで借りている家のリビングなのにな。これじゃ馬鹿丸出しだ。
Voxはそんな俺に心当たりがあるようなないような微妙な反応をしていた。
そしてそのまま先の状況に至る。
俺は朝から頑なにソファから動かず、きっと昨夜やつが心配してかけてくれたであろう毛布を存分に利用して籠城していた。
声掛けには基本的には無視か拒否。
そのせいで朝から飯を食べ損ねたんだ。shit。
またそんなことをいつまでもぐだぐだと考えていたらいつの間にかサラダを食べ終えていた。すぐに立ち上がって流しへと持っていく。
そしてまた所在無さげにソファに横たわった。すっかり居心地が良くなってしまっている。
しかし、どうしても思考は一昨日のことから離れてくれない。
浮気してるのか、とか、あの女は誰だ、とか、一昨日は何をしていたんだ、とか、言うのはきっと簡単だ。
浮気はまずないと思いたいのに、一昨日見た光景が脳裏にくっきり焼き付いてしまってもうどうしようもない。
それにしたって、あいつが浮気をするだろうか。
どこからどう見てもあんなに俺が好きなのに?
そもそもそんな不義理をするやつじゃない。
億が一本当に浮気だとすれば、あからさますぎて声も出ない。もっとうまくやれ。
考えれば考えるほど悩みと溜め息だけが増えていく。
だんだんと襲ってきた眠気に抗うことも辞め、そっと静かに目を伏せた。
本当のことを言えば、あの女が誰かとか、一昨日何をしていたのかとか、そんなことはどうだってよかった。
ただ、俺は───。
「Fulgur、Fulgur」
とても好みの声が近くから聴こえてくる。ああ、また寝てしまったんだな。無理もない。一昨日からかなり頭を悩ませていた。それは全部やつのことで───
「Fulgur」
「うわっ」
目の前にVoxの顔があった。それも今しがたキスしたかのような距離に。近すぎる。
「おはよう。随分ぐっすり眠っていたな」
「あ、お、おぅ」
急過ぎてなにか忘れている気がするが、なかなか頭が働いてくれない。
というかなんだこの妙な笑顔は。些か気持ちが悪い。
まるで悩みが紐解けたような…そんな…
「お前、一昨日どこで何してたんだ」
考える間もなく思わず口から出ていた。しかも睨むように言ってしまった。まただ。ちっともこんなつもりじゃなかった。ついさっき、あの女が誰かとか何をしてたかなんてどうでもいいと言ったばかりなのに。
こいつのことになると途端に何も思い通りにはいかなくなる。
すると全ての発端である、やつの口角がみるみる上がっていく。
何故だ、と一瞬眉を顰めたが、次の瞬間小さなひとつの可能性に思い至り、頭を抱えたくなった。もしかして。
こいつは子どもじみたところはあれど、本質はとても大人で、つまりはいつだって俺のことなんて全部お見通しなのだ。
それが悔しくて堪らなかったりもしたが、そういうところもまぁ結局、嫌いじゃない、に至った。
何度も言うが、伊達に400年生きていない。
そしてそれを今の状況とそれを照らし合わせると。
「もうわかった。意地を張るのはやめる。降参だ。だからその顔が一体何なのか早く教えてくれ」
目を伏せ、軽く両手を上げるジェスチャーをする。
もう溜め息もでない。考える気も失せた。
すると、言われて初めて自分の緩みきった顔に気がついたVoxは、こほん、とわざとらしく咳払いをしてからいつもの美しい顔に戻った。
「わかった。だが、まずは顔をちゃんと見せてくれ」
そう言ってVoxは、俺の隣に優しく座った。少しだけ体が右側に沈む。
頬を両手で包まれる。あたたかい手でなによりだ。
「やっと、目があったな」
嬉しそうな顔。確かにここ数日、俺はこいつから逃げることに精一杯だった。
Voxは手を降ろし、今度は俺の右手を少し大きい自分の左手で包んだ。
そして一息で言った。
「名付けて、嫉妬大作戦だ」
「は?」
突拍子も無さ過ぎる。今聞こえた単語が本当に発した言葉なら、蹴り飛ばしたいところだが。
Voxはにこにこしている。こんな状況でなければ、少しかわいいと思っていただろう。だってちょっとレアだ。
「お前は、俺が好きか?」
突然だ。突然過ぎる。ただでさえ愛を囁くのは性に合っていないのに。
「…まぁ」
目の前の鬼は、煮えきらない返事にそっと眉を顰める。
「まぁとはなんだ。はっきりしろ」
「……っそうじゃなきゃ付き合ったりしない。俺をなんだと思ってるんだ」
隙あらば憎まれ口を叩いてしまう。己が憎い。可愛げがないと何度言われたことか。
「そうか」
ふと隣を見てぎょっとした。何故だ。何故驚いた顔をしている。
「まぁ、確かにそうだな。お前はそんなやつではないな」
しかも妙な納得を見せている。なんだ。本当になんなんだ。
はっと、また俺を置いてきぼりにしていることに気がつき、やつは再度息を整えた。
先程よりも眉尻の下がった顔がこちらを向く。
「俺のことを、そんなに好きではないのかと思ってな」
「…は?」
は?だ。は?でしかない。だって俺は今この瞬間もこんなにもこの鬼への愛に苦しめられているというのに。
ははっと、隣から乾いた笑い声がしてそちらを見ると、Voxは少し寂しそうな、ほっとしたような、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
その顔を見たとき、気づけば目の前の男の頬に左手を添え、その美しい瞳を真っ直ぐに見つめて言っていた。
「Voxxy。お前を愛してる」
すると、普段はキリッとしているその美麗な目が、情けないほど大きく開かれた。それだけで幾分か顔全体の印象が幼くなり、俺はついに吹き出した。
「ハハハッ!かわいいな」
けらけら笑ってやると、やつの頬の高いところが少しだけ赤くなった。
なんだか、初めて俺のほうがこいつを翻弄できているようで楽しくなってきてしまう。
「年上をからかうものじゃない」
驚くほどに照れていて、今まで一度も聞いたことのない台詞まで言い始めた。
段々と悩んでいたことがどうでもよくなるほど、愉快な気持ちでいっぱいになっていく。
「で、なんだその嫉妬大作戦とかいうのは」
にやにやしながら聞いてみる。
だいたい名前がチープ過ぎるんだ。ちっともテンションがあがらない。こいつには、作戦に最も肝心なのは名前なのだということを教えてやらねばならない。
400年生きている相手に教えることがあるのは吝かではないが。
Voxは一瞬全て忘れていたかのようなきょとんとした顔を見せ、その後弁解するかのように慌てて話し始めた。
「それは、まぁ、その」
今更なにか恥ずかしいことでもあるようでまごまごしている。
はぁ、と満更でもなく溜め息を吐きながら握られていた手を握り返してやる。
Voxはこちらを見て、仕方なく、といった調子で話し始めた。
「…先程言った通りだよ。俺は、お前にあまり好かれていないのだと思っていた。告白をしたのも俺だったし、お前から愛してると言われたことは一度もなかったからな」
少し口を尖らせて、拗ねたような声色で言う。
頭を抱えたくなった。付き合っているのは紛れもない事実なので、何を馬鹿なことを言っているんだと一蹴することもできたが、なかなかに俺の責任が否めなかった。
確かに、俺はまだ一度も目の前の恋人への愛を直接言葉にしたことがなかったからだ。
先程までより幾分か肩身が狭くなる。
それでも察しろよ!俺のことを誰より見てるんじゃないのか!とは思うが。
Voxは少しだけこちらを伺いながら、また少し目線を下げて話を続ける。
「それで、まぁ、よくあることだが、俺が他の人間と仲睦まじくしていたらお前は嫉妬やらなにやらをしてくれるのか、試してみたかったんだ。こういったことには慣れていないから酷くあからさまなものになってしまったが。一応言っておくが、あの日隣りにいた女性はNinaだよ。事情を話したら、笑いながら付き合ってくれた。どこからどう見ても相思相愛だと思うけどって。髪型まで変えてな。本当に彼女には頭が上がらないよ」
Voxは情けないような溜め息をひとつついてから、またあらたまってこちらを向いた。瞳をまっすぐに見つめられる。
「すまなかった。本当にお前にも悪いことをしたな。折角の休日をだめにしてしまったし、結果的にお前をベッドではなくソファで寝かせてしまったし。結局どうも心が痛んで、お前が迎えに来たのを見てすぐに帰ったんだがな。昨日から様子が変だったのもそのせいであろう?」
それは事実なので黙って肯定の意を示す。
すると急に後ろから抱き締められた。
「………愛してる、なんてこの400年山程言って、言われてきたのに、こんなにもときめいたのは初めてだ」
ちらっと振り返ってみると、Voxの嬉しそうに少し細めて伏せた瞳は、溢れんばかりにきらきらと輝いていた。
それを見た瞬間に、耐えきれず言っていた。
「…すまなかった」
「なぜお前が謝るんだ」
Voxが心底驚いた声を出す。
それもそうだ。俺が謝ることもまた、愛の言葉を囁くことと同じくらいとても珍しい。
俺はすぅっとひとつ息を吸う間に、なけなしの恥を捨てる覚悟を決める。
「俺が、今まで素直に気持ちを伝えられていたなら、お前を、こんなに悩ませることはなかっただろ」
慣れないため途切れ途切れになりながらでも精一杯伝えると、耳元で鈴のなるような高い笑い声がした。
あまり聴かない笑い声に思わず振り返ると、そこにはとても可愛らしい笑顔があった。
Voxはそのまま笑いながら言う。
「確かにそれもそうだが、それがお前の可愛いところだろう。気にするな」
全てわかって愛してくれるという宣言そのものである恋人の言葉に、耳がかーっと熱くなる。
「おっと、照れているのか。顔が真っ赤だぞ。薄々勘付いていたが、お前は案外初心だなFulgur?」
からかうように言われて更に体温が上がるのを感じる。
やっぱりこうなるんだ。いつもこうやってこいつの手のひらの上で転がされる。
でも、それでも今日は少しだけ立場を逆転できた。
僅かな時間だったがこのままいつも通りの関係になんて戻してやるものか、と最後の"恥はかき捨て"を発動する。
くるっと振り向き、風のように素早く、眉目秀麗な顔に配置された世にも綺麗な朱色に噛み付いた。
優しく、甘く。言葉ではまだうまく伝えられない想いを精一杯乗せて契りを交わす。
長いそれを終え、ぽかんとしているVoxの耳元で囁いた。
「Vox、世界で一番愛してる」
まっすぐ目を合わせるとVoxは顔一面を桜色に染めてバッと勢いよく俺から離れた。
よっぽど初心なのはお前じゃないか。
くすくす笑っていると、今度は少しムッとした様子のVoxxyの方から熱烈なキスが返ってくる。
また満ち溢れた愛の合間に、そっと、聴こえないほど優しい囁き声がした。
「ありがとう」と。
いつも手一杯で、それでも側にいたくて。
言葉足らずな俺たちは、そのありったけの想いを呼吸に乗せる。
確かめるようなキスが心地良く傷に沁みていく。
きっとまだ愛は、芽生えたばかり。