憧れと、切情と、消えない愛と「ふーふーちゃぁーん」
「なんだ」
浮奇はこたつに半身を埋めたままこちらを向き、よじよじとカーペットを這ってこちらに来たかと思うと、俺の腰にひしと抱き着いてきた。
今日は日曜日だ。
俺たちは、中学で初めて出会った頃からずっと、休日を共に過ごしている。
浮奇には父親がおらず、俺には母親がいない。
自然と暇なときに集まるようになり、高2の今で早5年だ。
そうなってくると流石にすることもなくなってきて、今ではただ集まってだらだらする時間がほとんどだ。
俺は今本を読んでいる。
傍らに積み上げられたそれは、全て昨日近所の市民図書館から借りてきたもので、できれば今日中に消化したいものだった。
浮奇はこたつに入って、俺の記憶ではソファにもたれ掛かってテレビを見ていたはずなのだが、おそらくどんどんずり下がって最終的に床に寝転がってしまったのだろう。
起き上がるのも面倒くさくてそのままだったに違いない。浮奇は少々怠惰なところがある。それもまた彼の愛らしいところだが。
「ふーふーちゃぁーん」
思考と読書に耽っていたら、ゆったりとした声でやたらねっとり呼ばれた。
彼しか呼ばないその渾名はいつ何時も必ず俺の耳に届いて、不思議と輝かしい音色を鳴らす。
付随する必然的な胸の高鳴りに少し笑って、なんだ?と優しく応えてみる。
すると少し声色が変わったことに気がついたのか、太腿に埋められていた顔がぱっとこちらを向いた。
「…何?」
呼んでおいて怪訝そうな顔で何?とはいい御身分だ。
「浮奇が呼んだんだろう」
呆れたように多少大袈裟に肩をすくめて読書に戻る素振りを見せると、浮奇は慌てた。
「ふ、ふーふーちゃん、違うごめん、びっくりして」
「じゃあ一体なんなんだ?」
大仰な溜息を吐いてから、腕を組んで尋ねてみる。
そんな振る舞いをしつつも、いつも浮奇に振り回されてばかりなファルガーは主導権を握れることに少しばかり気分を良くしていた。
「その…最近お休みの日もふーふーちゃん本読んでばっかりでちっとも構ってくれないから…」
ほう、と自らの口角が上がっていく。つまり構ってほしいんだな。
「じゃあどうしたいんだ?俺が今、今年一面白いと賞賛しているこの冒険小説よりわくわくする何かを教えてくれるなら、乗ってやってもいい」
浮奇はバッと起き上がり、きらきらした顔でこちらを見た。
と思うと1も2もなく、言った。
「じゃあ僕と付き合わない?」
「…………………………は?」
あまりにもこちらの想定を飛び越えた言葉に思わず思考をやめてしまった。
だがすぐに考え方を変え、納得して尋ね返す。
「あ、あぁどこに?」
すると浮奇は珍しく真面目な顔でこちらに近寄ってきた。そして微かに微笑む。
不思議なその表情の変化に呆気にとられていると、
「違うよ、付き合うっていうのは、」
唇が何か柔らかいものに触れた。
「こういうこと、ね」
パニック寸前の瞳に、にっこりと笑う浮奇が映った。
唐突も唐突過ぎて唖然とする。
そしてやっと今されたことを認識した瞬間、俺は声にならない悲鳴を上げた。
「う、ぅぅう浮奇!?何してるんだ!!?」
「何って、キスだけど」
まるでこちらがおかしいとでもいうような顔で見てくる。
先程まで没頭して読んでいた小説のことなんて、もうすっかり頭から抜け落ちてしまっていた。
はてなだらけの頭をなんとか整理して、至極真剣な顔になって尋ねる。
「浮奇、お前、男が好きなのか?」
本当に聞きたかったのはそんなことではなかったが、俺が好きなのか、なんて恥ずかしいことを聞けるはずがなかった。
だが少し空気の読めないところがある彼は、その配慮すら跳ね除けて直進してくる。
「ふーふーちゃんが、好きだよ?」
俺はとうとう頭を抱えてしまった。
「………いつからだ」
とにかく話を進めなくては、と、辛うじて今脳内に浮かんでいる中で一番簡潔な質問を捻り出す。
「んー、いつからだろうねぇ」
煮えきらない答えと、この場面に相応しくない穏やかな声色に思わず顔を上げると、浮奇はいつも通りの穏やかな表情でにこにこと微笑んでいた。
なんだか拍子抜けしてしまって、動揺している自分が馬鹿らしく思えてきたファルガーは、とにかく一度落ち着こうとひとつ深く息を吐いた。
幾分か頭がすっきりしたことに安堵しながら、一番彼の頭を占めていた事案をまずさらっと吐き出してやることにした。
「ファーストキスだったんだが」
途端に、隣から聴こえてきていた優雅な鼻歌はぴたりと鳴り止んだ。
ちらりと視線を寄越すと、浮奇は文字通り固まっていた。
そして、少しするとはっと我に返ったように目を泳がせ始めた。
先程と立場が逆転したようで、また少し気分が良くなる。
浮奇は弁明を開始する。
「…だってふーふーちゃん、彼女いたじゃんか。それも2人…」
口を尖らせて、責めるように言い訳をする彼に思わず笑ってしまう。
そして事実を述べてやる。
「なんて言って振られたか知ってるだろ?…あなたからは同じ熱量の愛を感じない、って。2人とも同じ台詞でだぞ?そんな男が、手なんか出してるわけ無いだろ」
「…それは、まぁ、確かに…」
認めたくなさそうにしながらも頷く浮奇。
だがその表情は、先程の動揺一色からいつの間にか少し変わっていて、嬉しそうな色を隠しきれずにいる。
その耳は濃い桜色に染まっていた。
それを目の当たりにしたファルガーは、思わずしみじみと言った。
「………お前、本当に俺が好きだったんだな」
すると少しムッとした様子で返される。
「酷いよ。だってふーふーちゃん、全然気が付いてくれないんだもん」
ここまであからさまにされると何だか本当に気付かなかったこちらが悪いように感じてきてしまう。
「いや、悪かったよ。俺のことをかなり好きでいてくれてるのはわかっていたが、まさか恋愛的な意味だとは夢にも、」
「ねぇ、僕と付き合ってくれる?」
唐突に、遮るようにそう言われて、またも言葉に詰まってしまう。
彼は打って変わってきらきらと輝くような瞳を向けていた。
こういう、相手を振り回す気分屋なところも、また浮奇の魅力なのだろう。
なんとか、今度こそ思考をきちんと巡らせながら思い至った率直な疑問を口にする。
「でも付き合うって、今と大して変わらないんじゃないか?」
学校はもちろん、休みの日もこうして一緒にいるわけだし、何か変わることでもあるのだろうかと本当に心から不思議に思って出た言葉であったが、浮奇はとても驚いた顔をして、次の瞬間にはもうしたり顔で詰め寄ってきていた。
「ふーふーちゃん、そんなこともわからないの?」
完全に何かやらかしてしまったことを、ファルガーはその瞬間にまた悟る。
するっと、頭の後ろに右手が回された。
その手慣れた仕草に驚いた瞬間には既に、唇が合わさっていた。
ばっと、反射的に体を離してしまう。
咄嗟に拒否するような素振りをしてしまったことに焦り恐る恐る表情を窺ったが、浮奇は先程と一切変わらない笑みを浮かべている。尚更不気味だ。
「恋人としかできないことなんていっぱいあるでしょ?」
続けてそう言うと、次は抱きしめられた。
身構えた俺に与えられた、存外優しい手付きに思わず胸が高鳴ってしまった。
脳内で激しく警鐘が鳴る。これはかなり、まずい。
「ほら、こういうことも、ね?」
浮奇の倍音の美しい、色気のある声で囁かれる。
ファルガーはその声にめっぽう弱く、ついには大人しくその腕に抱かれることを許してしまう。
そうしていると段々と落ち着いてきて、最後は完全に体の力を抜こうとした、その瞬間だった。
浮奇の手がTシャツに侵入してきたのだ。
ファルガーは悲鳴を上げて今度こそ遠慮の欠片もなく飛び退いた。
浮奇は平然と、未だこちらを見据えたまま、片方の口角だけを上げて唇の端をぺろっと舐めた。
その顔は完全に捕食者のそれで。
「待った!!!待ってくれ…!」
必死に、ジェスチャー付きで待ったをかける。
そこまでしてやっと、浮奇はいつも通りのふわふわとした雰囲気に戻ってくれた。
そのことに非常にほっとしつつ、そのまま話をする。
「その、付き合うとかは、ちょっと待ってくれ。そもそも、俺は今日初めて浮奇の気持ちを知ったんだ。少し考える時間がほしい」
それは殆ど懇願であったが、また不機嫌そうに頬を膨らませた駄々っ子モードの浮奇から、容赦なくNoを突き付けられる。
「だめ。今考えて」
そんな無茶苦茶な…と思いながら、いつもの浮奇にどこか安心感を覚えてしまう自分がいた。
これは、自分の望む答えが相手から得られるまで粘るモードの浮奇だ。
このモードで女装を懇願されてしまい、断れずにステージに立つこととなってしまった文化祭での出来事は一生忘れないだろう。
ファルガーは大きな溜息を吐いた。
そして、きちんと正しく決心を固めて言った。
「じゃあ、わかった。付き合おう」
観念して告げたはずのその言葉は、案外さらっと口から出ていた。しかし大事なのは次だ。
案の定ぱぁっと顔を輝かせた浮奇の顔にすぐに、最も大事な条件を突き付けた。
「ただし、俺が許可するまでスキンシップはなしだ」
浮奇は今日一番落胆した顔を見せた。
そしてこれもまた予想通り、抗議という名の駄々が始まる。
「ふーふーちゃん!!!お願い!キスまでは………!……ハグまででも良いから許してよぉ~!!!」
半泣きで腰に抱き着いて縋り付いてくるが、ここだけは絆されてはいけなかった。
俺がそのままだんまりを決め込んでいると、浮奇は突然静かになって何か考え込むような仕草を見せ始めた。
不思議に思いながら、そのつむじを訳もなく見つめていると、紫の髪の持ち主がばっと顔を上げた。
その顔には、にやりとした笑いが浮かんでいる。
何か、とても嫌な予感がする。
「つまり、ふーふーちゃんが、許可すれば良いんだよね?」
は?と言う間もくれず、浮奇の顔が近付いてくる。
本当に、触れ合う直前の至近距離まで。
そっとその長い睫毛が伏せられ、綺麗だな、と思考する前に惚けてしまう。
次の瞬間、逃れられない罠に嵌められてしまうことも知らずに。
「ふーふーちゃん、キス、して…?」
色香をわざとらしいまでに含んだ好みの声が、俺の耳元に向かってそう言った。
そのおねだりにどうしたって抗えず、俺は遂に生まれて初めて自分からキスをした。
浮奇は楽しそうにけらけら笑っている。
「ふふ、夜はまだ長いよ…?」
あざとく笑う浮奇の背中側からは、いつの間にか夕日が差し込んでいた。
ぼぅ、っとその時間の経過に思いを馳せた瞬間、視界が反転した。
衝撃に備えて咄嗟に目を瞑ったが、俺の頭はきちんと浮奇の右手に支えられている。
まだ何が起きているのかよく理解できずに目をぱちぱちと瞬かせると、目の前の男は酷く甘く笑った。
耳元にまた、その美しく赤い唇が寄せられる。
「もう抜け出せないくらい、愛してあげるね」
その言葉に俺は一切の抵抗を捨て、溢れるほどの重い愛情を、この両腕いっぱいに受け止めてやることを決意した。
そっと、諦め半分に瞼を閉じ、残りたった一つだけ眠っていた本音を、零すように口にした。
「浮奇。俺はお前が────」
その言葉を聴いた彼が、大きな瞳に薄っすらと涙を浮かべながら微笑むまで、あと数秒。
歪な愛に埋もれた、夜の底。
揺れるさざなみに溺れながらふたり、小さな誓いを立てた。