甘い約束の始まりに俺、Fulgur Ovidは図書委員だった。
それも2年に進級した今では、すっかり委員長最有力候補となっている。
仕事は好きで真面目にやるし、本は元々大好きだ。
それ故委員からの信頼も厚い。
だが俺が図書委員になった本当の理由は、そのどこにもなかった。
「こんにちは」
目を伏せて事務作業を淡々とこなしていた俺の頭上少し右側から、鈴のように愛らしい音色のあたたかい声が聴こえた。
心が跳ね上がったのが鼓動の速さからよくわかる。
しかし、それを決して表に出すわけにはいかない。
すっと澄まして視線を上げると、その声の主は丁度、下ろした髪を右耳にかけるというあざとい仕草を終えたところだった。
「また来たんですね、Shu先輩」
思わず、捉え方によっては大分印象の悪い台詞が出てしまい、己の口を憎らしく思う。
「またってなんだよぉ。相変わらずFulgurはつれないな」
だが目の前の彼はそんなことは大して気にならなかったようで、そう一言告げると本棚の方へと向かっていってしまった。
少しほっとしつつ、さっきの頬を膨らませた表情に意識がもっていかれる。
どうしてあんなにかわいいんだ。
必死に彼の顔を頭から払い除けながら事務作業に徹する。
無駄な期待はよろしくない。
それに、不純な動機で入ってしまった自分は尚更人一倍きちんと働かなければ。
そう、Fulgur Ovidは、3年生の先輩であるShu Yaminoのことが好きだった。
初めて出会ったのはまだ入学したばかりの頃。
蔵書数で有名なこの高校の図書館に初めて訪れたFulgurは、4冊ほどお目当ての本にも巡り会え上機嫌でフリースペースの机に腰掛けた。
その隣で、いかにもな眼鏡を掛けて数学の勉強をしていたのがShuだった。
暫くは読書に夢中になっていたFulgurだったが、段々と、美しい姿勢で微動だにせずただその右手をひっきりなしに動かしている彼のことが気になってきた。
取りあえずそっとノートを覗き込んでみると、ぞっとするほどの数字やら何やらがびっしりと書き込まれている。
しかもこれ高校の範囲ですらないだろ、とそこそこ賢いFulgurはすぐに気が付き、更に興味を煽られる。
長い髪と眼鏡で顔はよく見えない。
気になってちらちらと盗み見ていたが、つい思わず引き寄せられるようにじっと見つめてしまったその瞬間、突然その顔がこちらを向いた。
思わず悲鳴を上げた俺の口が、彼の綺麗な左手によって瞬時に塞がれる。
彼はそのまま、右手でさっと重そうな眼鏡をとった。
俺は呆気にとられ、ただ息を呑んで事の顛末を見守ることしかできない。
眼鏡は机に置かれ、かちゃ、と小さな配慮された音が鳴る。
そこには、美少年という言葉では足りないほどに整った美しい顔があった。
長く透き通った睫毛に、整った鼻筋。
さらさらで艶のある黒髪。
小さな口は僅かに笑みを湛えているようで。
彼は左目をひとつだけ瞑り、俺の口に左手を添えたまま、空いている右手でしー、という仕草をした。
お察しの通りだがこの瞬間、俺は人生で初めての一目惚れをしてしまったのだ。
俺は生まれ持ったコミュニケーション能力に感謝しながら、その日のうちに名前と学年を聞き出すことに成功した。
そして翌日すぐに図書委員会の門を叩いたのだ。
あの日から名前と顔は覚えてくれているようで、図書館にやって来ると必ずあちらから挨拶をしてくれる。
正直、Fulgurは彼を見つめていられるだけで充分であった。
しかし、そろそろ何か行動を起こすべきだろうかという不安も同じくらいにある。
そろそろ夏休みだ。彼は3年生で受験もある。
ここで勉強するつもりだとは言っていたから会えなくなることは心配していないが、卒業してしまえば本当に会う機会すらなくなってしまう。
実は以前よりFulgurは、幼馴染で頼れる友人であるSonny Briskoにこっそり相談をしていた。
初めてShuに出会った日から1ヶ月ほどは毎日彼のことで頭を悩ませていたのだが、それに気が付いた面倒見の良い彼が全てを聞き出してくれたのだ。
Fulgurには他にも3人の親しい友人がいたが、確実にからかってくるのが2人と、更に面倒くさいことになるのが1人だったため、Sonnyの存在に大変救われていた。
そしてそれはつい昨日のこと。
相談も兼ねてまた屋上で一緒に弁当を食べていると、突然Sonnyが真面目な顔で言った。
「あのさ、先輩も今年で卒業だろ。…やっぱり、思い切って何か行動を起こすべきだと思うんだ」
Sonnyはずっと茶化すこともなく親身になってくれていたので、Fulgurはその助言を素直に受け止めることができた。
「Fulgurの気持ちは尊重するけどさ」と付け加えてくれる優しい友人を前に、誠実にならなくてはと使命感に駆られる。
そしてすぅ、とひとつ息を準備してから言った。
「…夏祭り、あるだろ」
「うん、8月のでしょ?小学校くらいまで家族ぐるみで一緒に行ってた」
この辺りでは有名なのもあり、すぐに思い至ったSonnyが補足してくれる。
日差しが頬を照らした。
「…誘ってみようかと、思ってるんだけど」
Fulgurが珍しく口ごもりながら耳を真っ赤にしながら言うのでSonnyはあまりのいじらしさに胸が痛くなった。
早くうまくいってくれ…!と心からの願いを込めて「最高の案だと思う!」と背中を押す。
それから昨日は5限の始まるギリギリまで、誘う口実を一緒に考えていたのだった。
つまりは、彼が帰るタイミングでなんとか引き止めて、自然に話の流れを持っていくのが今日の作戦だった。
幾つかそこからの策も練ってきていたが、まずその時間までここで事務作業を行うことが最低限のノルマだ。
なにせ専ら優しい図書館の司書の先生は、すぐに俺たち委員を帰らせようとするのだ。
先輩を1秒でも長く見つめたいがために図書委員になった俺からしたら、非常にありがた迷惑だった。
ちなみにだが、Sonnyはこの司書の先生のことが好きらしい。
勘付いた俺がこちらの相談の合間に思い切って尋ねてみると、彼は真っ赤になって消え入るような声でYesと溢した。
確かに素敵な人なのでかっこいい彼とも遜色ないな、と満足気になりながら、Fulgurはそれ以来度々彼の恋愛相談にも乗っていた。
素敵な人だと思ったのは彼女が好む本を見たからだ。
本の好みというのは何より人格を表すものだと、Fulgurは考えていた。
最も、彼の想い人が借りていくのは数学書ばかりであったが。
そのこともややあってその好意をいつも無下にはできず、声が掛かった暁には渋々図書館を後にするのが恒例であった。
だから今日はそれを防ぐために、事前にたっぷりと仕事を拵えてきていた。
まずはそれを時間内に終わらせようとてきぱき働いていたのだが、少々量を見誤っていたようで、じわじわと差し迫る閉館時間にFulgurはとても焦った。
途中で「あとやっておくから帰って大丈夫よー?」と司書の先生から声も掛けられたが、残っているのが重い辞書類を棚に並べ直す作業だけだったので、とてもじゃないが女性にやらせるわけにはいかなかった。
今日はついていなかったんだと、閉館15分前に踏ん切りをつけて諦めたFulgurは、大人しく業務に尽力した。
どうせいつかしなくてはいけなかった仕事をこなしただけだ。
そうやって落ち込む心を抑え、ようやく作業を終えた頃には既に30分以上の時が経過していた。
司書の先生に帰りますね、と一言だけ告げると、
「おつかれさま!これ、たまたま貰ったからあげる!遅くまで本当にありがとう〜」と近くのカフェの割引券まで貰ってしまった。
短くお礼を告げると、ひらひらと笑顔で手を振って見送られる。
想い人のいる俺ですら中々にチャーミングだと思うのだから、男子生徒たちが彼女目当てに図書館へ来るのも無理はないだろう。
ひそひそと色めき立って館内で騒がれるのは非常に不愉快なのでやめてほしいが。
そんなことを考えながら気もそぞろに正門に辿り着いた瞬間、突然目の前に人影が飛び出してきた。
びっくりして声も上げずに驚いた俺は、その姿を認識して二重に驚いた。
「Shu先輩!?もう帰られたんじゃ…」
目を白黒させて驚いている俺に、彼はにこにこと笑いかけながら言った。
「いや、今日いつにもましてこっち見てたから何か僕に用事でもあったのかなって」
いつにもまして、という言葉が酷く引っ掛かり、頭をフル回転させてやっと気が付いた。
見つめていたことがバレている。しかもこの口ぶりからするに結構前から。
最悪だ…と頭を抱えながらも、観念して率直に今の感情を言葉にすることにした。
「バレてたんですね………すみません」
「謝らないでよ~僕は全く構わないから!」
その言葉にほっとしながらも、またとないチャンスに本来の目的に意識が向き始める。
「先輩、あの、」
「ん?」
立ち止まってまで次の言葉を待ってくれる彼を見て、また好きが募る。
それすら噛み締めながらFulgurはそっと目を瞑り、ひとおもいに言った。
「8月の夏祭り、一緒に行ってくれませんか?」
恐る恐る目を開けて、その表情を窺うと、目の前の想い人は先程と変わらないにこやかな笑みを浮かべたままだった。
しかしすぐに考え込むような仕草を見せた。
「でも、いつも一緒にいる黄色い髪の彼はいいの?」
いつも、と少なからず意識して見られていたことを知り、飛び上がりたいほど嬉しいのを我慢しながらも、昨日Sonnyと考えた口実をそのまま話す。
「実は彼、丁度その日用事があるらしくって、だから先輩さえよければ一緒に行きませんか?」
「うん、いいよ」
あっさりと了承され咄嗟に反応できなかったFulgurだったが、理解したその胸にはじわじわと喜びが満ちていった。
そのままふわふわとした気分で、何気に初めてきちんと会話を交わしながら穏やかに帰路を歩いていた。
彼が爆弾発言をするまでは。
「やっと、初めてのデートだね」
道中カフェに寄ったりしながら、会話も一区切りついたところで急に言われたものだから、割引券で買ったプラペチーノを吹き出すところだった。
まんまるな目で先輩を見ると、彼もまた驚いた顔をしている。何故。
すると更なる爆弾が落ちてきた。
「あれ、もしかして別に僕のこと好きなわけじゃなかった?」
俺はもう穴があったら入りたかった。
視線のみならず好意まで筒抜けだったなんて。恥ずかしすぎる。
しかし本人が、自惚れだったかな、などと言い始めたのでもう腹を括って肯定するしかなくなってしまった。
「……………あの、はい………そうです」
するとぴたっと動きを止めてするすると距離を縮められた。
かつてない至近距離に心拍数が嫌でも上がる。
「聴こえなかった。なんて?」
満面の笑みをして言う彼の、意外にも年相応な意地悪にいよいよときめきを隠せなくなりながらも、Fulgurは告白を決意した。
「Shu先輩が、好きです」
まっすぐにその流麗な瞳を見つめながら言うと、彼は数秒固まり、さっと耳を赤くしてすぐに目を逸らしてしまった。
その一連の動作が珍しくて思わず凝視していると、彼はまたすぐにいつも通りの微笑みを浮かべた。だがその耳は赤いままだ。
「はは、直球だね。照れるな」
どうやら本当に照れているようで、挙動がどこかぎこちない。
初めて目にしたあまりに愛らしいその様子に、Fulgurはどうしてもからかいたい気持ちが抑えられなくなってしまった。
「Shu先輩、絶対モテるのにこの程度で照れるとか案外初心なんですね」
にやにやと笑って言ってみたが、そんな余裕は目の前の想い人によってまたすぐに取り上げられてしまう。
「モテないよ?何言ってるの?」
とても信じられなくてこちらがからかわれているのかと疑ったが、至極真剣な顔の彼を見れば信じざるを得なくなってしまった。
少ししてあの眼鏡のせいか、と僅かながら納得したFulgurは、じわじわと高揚感に襲われた。
「…じゃあ、先輩の魅力をわかってるのは俺だけってことですね」
嬉しそうに目を細めて言うFulgurを諸に見てしまったShuは心臓がきゅっと締め付けられるのを感じた。
「………まぁね」
FulgurはFulgurで照れる彼をかわいいなと思いながら、そのまま、穏やかな歩幅と共に今の本心を言葉にする。
「…付き合うとかは、まだ、もうちょっと俺のこと知ってから判断してほしいんですけど、その、……これからも仲良くしてくれますか?」
一生懸命な彼の姿を愛しく思って再度微笑みながら、Shuは言葉を返した。
「もちろん。お兄さんにも言われてることだしね」
くすくすと口に手を当てて上品に笑う先輩ってかわいいな…じゃなくて。
「お兄さん…って…?」
見当も付かず聴き返してしまう。
「…え、うそ、もしかして知らなかった…?君のお兄さんのVox、僕と同じクラスなんだよ」
その事実を受け止めた瞬間、とてつもない量の心配に襲われた。絶対あいつ余計なこと言ってる。
すると、俺を観察していた先輩はその思考すら見透かしたようで笑って言った。
「大丈夫だよ。Fulgurが僕のこと好きかなって気付いたのはVoxの弟ってこと知る前だし。良くしてやってくれとしか言われてないよ。Voxはそういうとこ、ちゃんと慮れる人だから」
ほっとして思わず頷いたが、その言葉に埋もれて届けられたまた新たな事実に気が付いてしまう。
「…いや待ってください、じゃあ気付いたのって相当前じゃないですか……俺これでも隠してたつもりだったんですよ…」
溜息混じりに吐露してしまう。
「バレバレだよ~視線が熱烈だから」
彼は茶化すように言って笑った。
これも確実に彼なりの配慮だろう。
まあ、受け入れてもらえたから結果オーライか、と気持ちをポジティブに持ち直したFulgurの視界に再び、いつの間にか数歩先に行ってしまっていたShuの姿が映った。
その影は立ち止まると、ゆっくりとこちらを向いた。
そこに見えたのは、困ったような優しい顔だった。
「………付き合うのは、言ってくれた通りもう少し待って貰いたいんだ。………僕が、大学に受かるまで」
「先輩なんてどこの大学でも受かりますよ」
びっくりしてすぐ大真面目にそう言うと、彼はこれでもかと眉尻を下げた。
「そんなに凄いものじゃないよ。Fulgurは多分僕を買いかぶってる。勉強だって人一倍やらないとできないから…」
悲しそうに笑う彼を今すぐ抱き締めたくなったが、それはまだ俺に許された距離感ではない。
悔しくて、拳をぐっと握り締める。
すると先輩は、先程より幾分も明るい声で言った。
「君の素敵なところ、僕もこの1年でもうたくさん見つけたよ。だから………君に見合う人になりたいんだ。こんな我儘を、許してくれる?」
殺し文句のようなお願いに抗えるはずもなく、Fulgurは静かに、それでも何度も首を縦に振った。
先輩はほっとした顔で、どこか泣きそうな色を浮かべたままくしゃっと笑った。
「じゃあ、これからもよろしくね、Fulgur」
その笑顔を見て、例え未来がどう転んだって彼を必ず恋人にして、その時には精一杯の愛を込めて思いっ切り抱き締めるんだと決意を新たにする。
大きく深呼吸をして、その内にまた先へと進んでしまった背中に向かって駆け寄った。
だから、今は。
「先輩、手だけ繋いでも?」
大きな瞳を見開いて数回泳がせた後、思った通りの優しい返事が返ってきた。
「…いいよ」
その言葉を聴き終わるよりも早く、彼の細い手を掬い上げて指を絡ませる。
彼の頬がまた赤く染まるのを少し上から眺めながら、共に夕日に照らされた家路を辿った。
彼が隣りにいてくれるだけで輝いてしまう明るい道を、肌で感じながら。
きっと、この不器用な人の未来が明るいものであることを祈りながら。