想いが叶う朝には「Vox〜んふふ〜」
小動物と錯覚するようなかわいい鳴き声を上げたその人は、そのまま俺の肩にのせた頭を擦りつけてくる。
思わず、大きなため息を吐いた。
途端にムッとしたのか、ばっとこちらを向いた彼に頭を軽くはたかれた。
再度ため息を吐きそうになって慌てて呑み込む。
Voxは、もうだいぶ参っていた。
とにかく、数時間前の自分に言ってやりたい。Ikeには飲ませるな、と。
VoxとIkeは家飲みの真っ最中であった。
久々にふたりきりでご飯に行く機会を得てウキウキでいたところに、Voxの手料理が食べたい、と驚きのご指名があったため家へ招いて料理を振る舞うことにしたのだ。
その道で生きているプロ並みだとはとても烏滸がましくて言えないが、400年も生きた鬼にとって好きな人の胃袋を掴むことなど造作もなかった。
Ikeは、Voxの想い人であった。
けれど彼は自分にはいつも殊更冷たくて、甘えてくれることなど滅多に無い。
それ故に、珍しく彼から取り付けられた今日の約束をとても楽しみにしていたのだ。
「ゔぉっくす〜なに考えてるの?」
もう明らかに呂律の回っていない口でにこにこと問いかけてくる問題の彼。
「君のことだよ」
半ば呆れてグラスを呷りながらそう言うと、目の前の彼はまたんふふ、とさもご機嫌そうに笑った。
400年きっと沢山培った筈の口説きのスキルも、何故だかこの人の前では意味を為さない。そんなことはとうに検証済みだ。
「僕?えへ〜?ほんとに〜?」
「ああ、本当だ」
もういっそ吹っ切れてやろうと一気に飲み干したそれに少しの目眩を覚えつつ、彼と向き合い、見つめ合った。
無性に愛しくて思わず抱きしめそうになったが、その綺麗な額にひとつデコピンをすることでなんとか流す。
Ikeは「あたっ」と声を上げて、額を両手で抑えた。いい加減にしてほしい。どうしてこんなに可愛いんだ。
「俺が一日のうちに、どれくらい君のことを考えているか、知りたいか?」
しっかりと目を見つめて言ったものの、にこにこと笑うばかりの彼の眼差しに耐えきれなくなってまたウイスキーを呷る。
なかなか酒には強いと自負しているが、それにしても今日は明らかに飲み過ぎだった。
頭がふわふわしてくる。
特有の全能感に駆られ、今ならなんでも手に入れられそうだ、なんて馬鹿なことを考えた。
「おっ、と、あぶない」
視界がぐるっと回った。何が起こったのかよくわからないまま、ぽす、とIkeの肩に頭がのった。
酷く動揺するが体がうまく動かない。
段々と恥ずかしさで堪らなくなり、おとなしく黙って体を預けることにした。
「ふふ、いつもおつかれさま」
すると彼の細くて美しい手が、俺の髪を撫で始めた。
心臓を貫くようなときめきに耐えながらも、その優しくて温かい体温に眠気が誘われた。
実のところ今日も、朝早くから料理の試案や買い物をしていてあまり眠れなかったのだ。
「Vox。おやすみ」
その優しい、大好きな声にそう言われて、とうとう俺は意識を手放した。
はっ、と短い息を吐いて覚醒した。
そこはいつも通りの寝室で、寝心地に拘った紛うことなき我が家のベッドの上であった。
だが、いつもと違うことがひとつだけ。
隣に、Ikeが眠っていた。
しかも、一糸纏わぬ姿で。
もうパニックを通り越して、頭が痛くなってしまう。
俺は一体何をやったんだと必死に記憶を辿っている最中に、隣からかわいらしい欠伸が聞こえた。
「んぁ〜〜〜、ん!Voxおはよう〜起きるの早かったね」
にこにこと呑気に朝の挨拶をする彼に、恐る恐る尋ねた。
「あー…………Ike、昨日の、その………寝る前のことだが……………俺は…何かしなかったか…?」
それだけで俺の思考を全て汲み取ったであろうコミュニケーションに長けた彼は、少しだけ照れた顔をしてみせた。
「あー、これ?」
そのまま布団を剥がそうとしたので必死で待ったをかける。
Ikeはその様子にくすくす笑いながらも、すぐに真相を教えてくれた。
「これは、僕がこの部屋ちょっと暑いねって言っただけなのにVoxが異様に脱がせたがったからさ。まあ涼しいし良いかなって。それだけ。それに下は履いてるし」
そう言って再度止める間もなく布団を捲った。
彼は確かに、俺の洋服ダンスから取ったのであろうグレーのスウェットを履いており、ほっとして胸を撫で下ろす。
「ところで」
急にIkeの視線が鋭くなった。その美しい瞳に凄まれて些か動揺する。
「Voxは一体、どうして僕を脱がしたかったのかな?」
無意識か舌舐めずりをする彼に、そのまま押し倒されてしまった。
影に溶けたその表情が酷く美麗で、思わず息を呑む。
「………実はこの部屋エアコンが壊れていてな。それしか方法がないと思ったんだろう。生憎記憶がないんだが」
かなり動揺しながらも平然を取り繕って口からでまかせを言うと、その綺麗な目がまた少し吊り上がったように見えた。
また何か気に触ることを言ってしまっただろうか、と思案に入ろうとした次の瞬間。
彼の唇が、俺の口にぶつかるように触れた。
その行為を認識するよりも前に、思わず目の前の小さな頭に手を回してもう一度、俺から同じことをした。
ゆっくりと顔が離れた。
未だ何が起きたのか認識できず、ぼうっと惚けていると、水滴のようなものが頬に落ちてきた。
はっと視線を上げると、Ikeはその瞳いっぱいに今にも零れ落ちそうな涙の粒をためていた。
「Ike、どうしたんだ!?すまなかった!!!急にキスなんて」
狼狽えながらも、取り敢えず背中を擦る。心からの友愛だけが、伝わるように願って。
彼は俺の人より高い体温に安心したのか、とうとう嗚咽を漏らしながら堪えることのない涙を流した。
「ゔぉっくすが〜全然告ってくれないからぁ〜」
何のことか全くもってわからずに聞き返すと、ぽかぽか、という効果音の付きそうな拳で殴られてしまう。
しかし、その後告げられたのは更に混乱を招く一言であった。
「だって、僕のこと好きなんでしょぉ〜!早く好きって言ってよぉ〜!」
どういうことだ。唐突すぎる展開に頭は未だ追いつけないままであったが、ここは男を見せなくちゃいけない場面なのだと、本能がそう告げていた。
「Ike」
彼が少しでも落ち着くように、先程までより何倍も丁寧に、そして優しく呼んだ。
Ikeはしゃくり上げながらも呼吸を整えようとしてくれた。その一連の動作さえ愛しくて堪らなくて。
「好きだ。俺は、君が好きだよ」
目を見つめて。真面目な顔でそう言った。
はずだったその顔からは、微笑みが溢れていた。
それは、心からの愛しさに満ちていて。
「Vox!」
Ikeは飛びつくようにして抱きついた。
Voxは慌てて起き上がってから、きちんと抱きしめ返す。
少しも離す気はないようなので、そのまま説明を求める。
「なぁIke。そろそろどういうことか説明してくれないか?………まさかとは思うが、君も、俺が好き、なんてことはないよな?」
すると、最後まで言い終える前に凄い剣幕で怒鳴られた。
「好きだから、キスしたんじゃないか!!!じゃあ君は僕のことを誰彼構わずキスするbitchだと思ったわけ!?!?」
信じられない、と大変ご立腹な様子の彼に慌てて弁解をする。
「違うんだ。そもそもまだそんなところまで頭が回っていないんだよ!まず、君のように素敵な人が俺を好きだということが信じられないんだ。わかるかい?」
優しく宥めるように言ってみたがあまり効果は無いようで、そのまま激しい口調で言葉をぶつけられる。
「だって、Voxがいつまでも告ってくれないから!家に行っていい?なんて恥ずかしいお願い、自分からするはめになっちゃったんじゃないか!抱かれる準備までして…これじゃ僕が馬鹿みたいだ!この意気地なし!!!」
何か衝撃的な発言を聞いてしまった気がするが、それ以前に彼が泣きながら怒鳴っているのでそちらが最優先だ。
「すまない。すまなかったよIke。想いを告白しなかったのは、その……………君の道を、私のような悪い男が縛ってしまうのはどうかと思っていたんだ。本当だよ。信じてくれるかな」
一生誰にも言うはずのなかったそれを、本人に伝えてしまっている事実に、Voxはそっと目を伏せた。
罪悪感と感傷に浸っていると、段々と呼吸を落ち着かせたIkeに、とんとん、と肩を叩かれた。
「Voxは悪い男なんかじゃないでしょ?」
上目遣いで尋ねられるその不意打ちに、心臓が簡単にやられる。
「う………まあ、良い男ではあるが……」
「もう、すぐ調子に乗る」
そう言って笑う優しい彼に、例えどんなことであろうと、好きな人が笑ってくれるのは嬉しいものだな、と心から感じた。
「で、どうするの?」
「どうするの、とは…?」
またも彼の思考が読めずに聞き返した。
同じ想いを互いに抱いているだなんて、これ以上に素敵で、望むことはないだろう。
「僕、今日一日休みなんだけど」
Ikeは、まだきょとんとした顔をしているVoxを焦れたように押し倒した。
「だから、好きな男が同じベッドで寝てるのに何もしない馬鹿がどこにいるの?って聞いてるの」
その言葉をもって完全に理解したVoxは、にやりと口角を上げ、彼の頭を優しく支えながらゆっくりと体勢を逆転した。
そして、耳元に吹き込むようにして囁いた。
「Ike?それは、"いい"ってことなんだな?…そこまで言われると、嫌がっても止めてやれないぞ」
小さな欲と愛しさで濡れたその鬼の瞳に震えを覚えながらも、Ikeは笑って言った。
「君は、僕が嫌がったらやめるでしょ?だって、"良い男"、なんだから」
Ikeの白くて柔らかい手が、頬をなぞった。
「これは参ったな」
この人には一生敵わないな、なんて夢のように幸福なことを考えながら、その瞼にそっとキスを落とす。
擽ったそうに笑う彼は、お伽噺のプリンセスのように美しくて。
朝日がその一部屋にひとつ、祝福の光を灯した。
互いに翳らないその瞳だけが、朗らかに愛を謳っていた。