お題:「引っ込みがつかない」「背伸び」5/15 近所のカフェで食事をしたあと、甘いもの好きの店主が考案した新作「五段重ねパンケーキのメイプルシロップ五倍がけ★ホイップ&チョコレートを添えて」を注文したルークは新作完食キャンペーンとやらで映画のペアチケットをレジで渡された。お客様が第一号です、との言葉と共に。ルークは、あんなにおいしいスイーツを食べて映画のチケットももらえるなんて、と大はしゃぎだったが、アーロンはそんなル-クを珍しい動物でも見るような目で遠巻きに眺めている。
「せっかくだから観に行こう!そこのシネマで上映している映画ならどの映画でも観ることができるらしいぞ、アーロン、何が観たい?」
「…別に、てめえの観たいもの選べや」
二人は映画館の前にズラリとならぶポスターを眺めながらああでもないこうでもないとタイトルを吟味していた。
「お、これでいいじゃねえか」
アーロンがひとつのポスターを指差す。
「…、いや、ホラー映画はちょっと…」
「何でだよ、ホラー映画好きだろ、研究所にいたとき…」
そう言いかけて、アーロンは黙った。アーロンはそのとなりに掲示されていたポスターに話題を変えたが、ルークは神妙な顔つきで考え込んでいる。
「…研究所…?…そうだ、もう少しで何かを思いだせそうなんだけど、…そう、確か研究所で…、」
「いや、別に思いださなくていい」
「いや、思いだす!君との想いでをひとつでもとり戻したいんだ!」
「いや、マジで、やめろ」
アーロンの目が本気だ。何やらその手からはにょき、と鉤爪も伸びてきそうな気配さえする。何がそんなにいやなんだ?ホラー映画と僕たちのあいだにいったいどんな秘密が?!ルークはぼんやりとした記憶をたどっていった。
各地を巡回していろいろな学校や施設で映画を上映している興行師が研究所を訪れた。映画は少し時代の古いものばかりだったが、百本以上あるフィルムの中から好きな映画を選ぶことが出来る。研究所主催で近隣の子供たちを招いて上映会を催すことなった為、そのフィルムの中から研究所の大人たちが五つのタイトルを選び、子供たちに意見を聞いて上映する映画を決めることになった。サバンナに暮らす野生動物たちの記録、幻のドラゴンを探して世界中を旅する少年の冒険譚、国を滅ぼされ鳥に姿を変えられてしまったお姫様が新たに国を創るまでの物語、言葉をしゃべる動物や歌う花たちが登場するミュージカルアニメーション、数年前に大ヒットしたある屋敷で起こった怪奇事件をめぐるホラー。ホラーはどうかと議論が起こったが、数年前に観たことのある一人が一見の価値ありと大絶賛をしたため、ラインアップに加わった。結果、意外にも子供たちが選んだのはホラー映画だった。
「どうしたの?ルーク」
なにやら落ちつかない様子のルークの顔をヒーローがのぞき込む。
「…な、なんでもないよ!…ねえ、ヒーローは何の映画を選んだの…?」
「ホラー映画!」
ルークは一瞬、真顔になった後、微笑んだ。その唇はほんのすこしひきつっていたがヒーローが他の子供たちと興奮しながら映画の話をしている輪のなかで一緒にはしゃいだ。
「ルーク、大丈夫?」
ルークはヒーローにしがみついたまま離れない。映画の上映が終わってからずっとヒーローに抱きついたまま顔をヒーローの体にぴったりとくっつけているものだからどんな顔をしているのかよくわからないが時折、鼻をすする音が聞こえる。ヒーローはなかばルークをひきずるようにして自分の部屋へ戻ってきた。ベッドの上に腰掛けると、となりにルークも座ったが、しっかりと抱きついたままヒーローから離れようとはしない。
「そんなに怖かったの…?」
ヒーローがルークの顔をのぞき込むと、ルークは目を真っ赤にして鼻をすすりながら俯いた。ヒーローはルークをぎゅう、と抱きしめるとルークの髪にそっと口吻ける。そうして、大丈夫、もう怖くないよ、僕がずっと傍にいるから、そう何度もくり返して、震える背中をずっとさすっていた。ようやく少しおちついたルークは、自分があまりにも恐がってしまい他の子供たちといっしょに楽しんでいたヒーローに迷惑をかけてしまったことなどを考えるとまた少し涙がでてきてしまいそうになったが、ぐっ、とこらえてヒーローに謝った。
「ルークがあやまることなんて何もないよ、僕のほうこそ気づかなくてごめんね」
ヒーローの声があまりにも優しくて、ルークはまた泣きそうになったが、ぶんぶんと頭をふって、だけれど何を言ったらよいのかわからず黙ったままずっと俯いていた。
「…映画も楽しかったけど、やっぱり僕はこうやってルークとふたりでいっしょにいるほうがずっと楽しいな、今日はいっしょのベッドで朝までずっとくっついて眠ろう」
電気を消したあともベッドのなかでこそこそとおしゃべりをして、ときどき、相手の鼻に触れるくらい近づいてしまい、くすぐったくて笑う。ほんとうはもう眠たくてたまらないのに、何だか眠ってしまうのがもったいなくて、ふたりはいつまでもベッドのなかでじゃれあっていた。そのうち、ルークが何やらもじもじとしはじめたので、ヒーローがどうしたのかと問いかけると、ためらいながら、小さな声でルークが答える。
「…おしっこ、」
トイレへは行きたいが、電気の消えた暗い廊下を歩いてひんやりとしたトイレの中へひとりで入ることを考えるとどうしても行きたくない。しかし、もう我慢も限界、そのはざまでどうしたらいいのかわからずぐるぐると悩んでいたルークの額にはうっすらと汗がにじんでいた。
「ぼくも!おしっこしたいと思ってたんだ、いっしょに行こう!」
ヒーローはベッドの上からいきおいよく跳びおりてルークにむかって手をのばした。ルークは、いつか見たアニメーションのなかで敵に捕らわれたお姫さまを救けにきたスーパーヒーローがお姫さまへその手をさしのべたシーンを思いだしながらヒーローの手をとった。部屋の扉を開けると、普段はまったく気にしたことのなかった扉を開けたときの軋む音がやけに大きく聞こえた。ヒーローがルークの手をぎゅ、と握ると、ルークがその手を握り返す。廊下は昏い灯りがぼんやりとついていたけれど、廊下のずっとむこうはぽっかりと穴があいているように暗く、その先にはいったい何があるのか、どれだけ歩いても永遠に何処へもたどり着くことのない宇宙の果てがつづいているのか、二人は小さなランプひとつを手に、その果てなき未知の世界へとつながる廊下へと一歩踏みだした。廊下の突き当りを左へ曲がるとその先に目的のトイレはある。しかし本当にトイレはあるのか、この角を曲がったら、もうそこはまったく知らない世界で、振り向くと今まで歩いて来た廊下は跡形もなく、後ろには只々、昏闇が広がっているだけ、もう二度と戻ることはできない。そんな事を想像しながら二人は決死の覚悟で角を曲がり、そうして振り向いた。廊下は変わらず其処に在り、何も変わりはない。二人はほっと、胸をなでおろし、扉に掲げられた陶器のプレートでいつも自分たちが使っているトイレだと云うことを確かめると、ようやく冒険の旅の数着点へたどり着いた二人は大きな安堵のため息をついた。そのため息があまりにも大きくて、思わず、二人で顔を見合わせて笑う。
「ルーク、僕は此処で待っているから先に入って、大丈夫、扉の前にちゃんといるよ、心配になったらいつでも声をかけて、必ず返事をするから」
ルークは頷いて扉を閉めた。あたりはふたたび、しん、として、暗闇がほんの少し深くなったような気がした。ヒーローは手にしたランプにゆれるたよりない灯りを掲げた。廊下の向こうにぼんやりと曲がり角が見える。ヒーローはあわててランプを床に置いた。そう、あの「映画」の中で…主人公の他に誰もいないはずの屋敷の中、その長い廊下の曲がり角から、ぬるり…と長い蛇のような“白い手”が現れる。その“白く長い手のような何か”はどんどんどんどん伸びて、主人公の目の前までやってくると、百本、千本以上ある指がぐんぐんと伸び、やがて大きな口のようになって主人公の頭をまるごと呑み込んだのだ。そこでヒーローは思わず目を瞑ってしまったので、主人公の悲鳴が只々聴こえるばかりで、そのあと主人公がどうなったのか実は解らない。そう、そのホラー映画は、ヒーローもあやうく失神してしまうんじゃないかと思うくらい実は恐かったのだ。ようやく映画が終わり、どきどきしながらルークに話しかけようとしたら、ルークが震えながら自分にしがみついていた。ルークも恐かったんだ、しかも、ものすごく。小さな手で、自分の服をぎゅ、と握っているルークを見たら、ヒーローは恐かったと言えなくなってしまい、そうして、自分がルークを護らなくちゃ、そう思ったヒーローはルークを恐がらせないように、ホラー映画なんかまったく恐くなかったと、何でもないふうに笑ってみせた。そうして何だか引っ込みがつかないままここまできてしまったが、今更ながら恐怖がよみがえってきた。ヒーローはあたまをぶんぶんと振って、廊下の先から目をそらした。ふと、ルークが扉の中へ入ってからずいぶんと時間が経っていることに気付く。あれからルークはヒーローに声をかけることもなく、静かなままだ。
「…、ルーク、大丈夫?」
返事はない。扉に耳を近づけたが、物音ひとつしない。静寂が、ヒーローを襲う。ヒーローは扉を叩いた。はじめは小さく。そして、だんだんと大きく。
「ルーク…?どうしたの…?ねえ、返事をして、ルーク、ルーク、」
ヒーローの首すじに、何かが触れる。ヒーローは思わず振り向いた。その先には、昏い、廊下の曲がり角。ひときわ深い闇が満ち々たその向こうから、ずる、ずるる…ずる…何かが“来る”気配を感じてヒーローが声を上げようとした瞬間、トイレの扉が開いた。
「…ごめん、ヒーロー、途中でちょっと眠っちゃった、…ヒーロー?どうしたの?」
「…………何でもないよ、大丈夫?」
「うん、ヒーローがいてくれたからぜんぜん怖くなかったよ、有難う!」
やっぱりヒーローはほんとうにヒーローだね、ルークは頬を紅潮させて微笑った。
「……てことがあったなあ!思いだしたよ!君、ほんとうに記憶力がいいなあ」
「…お前の記憶力がザルなんだよ、つうか、なんだよ、やっぱりてめえも怖かったんじゃねえか、」
「うう…、面目ない…好きな子のまえでは背伸びしたかったんだよ」
この男はさらりと、何でもないふうにとんでもないことを言う。アーロンは、あのときの“ルーク”が“ヒーロー”のこの言葉を聴いたらホラー映画を観たときなんかよりももっと心臓が爆発しそうになっただろうと思うと、命拾いしたな、とかつての“ルーク”に苦笑しながら語りかけた。
「でも何で今は嫌いなんだ、ホラー映画」
「その話はしないでくれ…」
「何でだよ?」
「嫌だ」
アーロンの眼が、ぎらり、と光った。獲物を見つけた猫のような悪戯な眼だ。ルークは視線をそらして、色とりどりのポスターの中に記された適当な映画のキャッチコピーを大げさな様子で読み上げた。アーロンが不敵に笑う。その微笑みの威力は万力の武器にも勝る。狙った獲物は決して逃さない、それがアーロンだ。ルークがあの忘れてしまいたい過去の白状をさせられるまで、あと十秒!