『安全な場所』 風呂から上がってリビングに入るとソファーに座っていたドラルクがこちらを向いて人差し指を立てた手を口元に当てた。
もう寝ちまったのかと上着をハンガーにかけながらソファーの向こうを覗き込むと、オレンジがかった長い髪がソファーに散らばっていた。停止されたゲーム画面を見る当たり隣で寝ていたヒナイチがもたれかかって、そこから膝枕をすることになったのだろう。
「珍しいこともあるもんだな。吸対忙しいのかな。」
「昼間友達と遊びに行ってたんだって。昨日も仕事だったしあんまり眠れてないんじゃない?休ませてあげようよ。」
「いいけどお前大丈夫か?何なら俺運ぶけど。」
「耐えてみせるよ。」
「…大丈夫って言ってやれよ。」
よく見ると足が少し震えている気がする。クソザコすぎて可哀想になってきた。
ソファーテーブルに置いていた本を手に取りダイニングテーブルに移動する。50年前にフランスで発行された硬派なSF小説で、数年前に作者が吸血鬼だと判明したことで一部で話題となり日本語訳が出た物だ。
席に座ったところでドラルクが立てないことを思い出しキッチンに向かい冷蔵庫の戸を開ける。扉の裏にお茶らしき物がたっぷり入った容器が二つあったので、両方持ってリビングに戻った。
なあドラ公、と声をかけようとしたところで立ち止まる。
血色の悪い細く骨張った指が長い赤毛を絡めながらゆっくりと撫でる。手を動かす吸血鬼の表情は優しく、しかし目に少し力が宿っているように見える。一方でいいようにされている本人はムニャムニャと口を動かしながら幸せそうに夢の世界に入っていた。
「…変なことすんなよ。」
「するわけないだろう紳士じゃない。それに…ってびっくりした!気づけばゴリラが目の前に!」
殴ってやろうかと思ったが両手が塞がっているのでぐっとこらえる。これがなければヒナイチを起こしてしまうところだった。
「冷蔵庫にお茶が二つ入っていたんだが飲んでいいのはどっちだ?」
「白い蓋は紅茶、青い蓋が麦茶だよ。風呂上がりで後は寝るだけだし麦茶にしたらどうかね。」
「そうする。」
「よろしい。」
そのままキッチンに戻ろうとするもどうも気になってソファーのほうをちらりと伺う。
ドラルクは難しい顔をして優しく髪を梳いていた。
「無防備すぎると思わない?」
「何が?」
「可愛いマジロがいるとはいえ男二人が住んでいる部屋にさ、こうして涎たらしながらぐっすり眠っているんだよ。ほら、ほっぺたつついても全然起きないの。」
ドラルクは話した通りにヒナイチの頬をツンツンとつつく。ヒナイチは少し眉をしかめるだけで起きる気配はなかった。
「そりゃお前はクソ雑魚だし、俺はそんなことしねえし…」
「そうだね。君ができるわけがない。新横浜中に『顔はいい童貞』って知れ渡る草食系男子新横浜代表のロナルド君ができるわけがない。それに君可哀そうなのは抜けないもんねえ。」
「うるせえ」
「ごめんごめん。でも、だからこそこの子は安心してぐっすり眠れるし、周りからも心配されることはない。でも…この環境に慣れちゃって、この子が他のところでも無防備な姿を見せていないか心配でね。それにヒナイチ君はその辺の男よりも強いから余計にね。」
「ヒナイチは大丈夫だと思うぞ。一応警察官だし、そこはちゃんとしてるだろ。」
「ならいいんだけど…」
丁重に髪を梳きながらもまだ不安そうな影を残す横顔にため息一つぶつけてやる。
「自分の前で無防備になってくれるってそれだけ信頼してくれてるってことだろ?嬉しいことじゃねえか。お前は一人っ子だからピンと来ないかもしれねえけど、女の子って家族の前では寝っ転がりながらポテチ食ったりTシャツにパンツでうろついたりするんだぞ。それくらい安全な場所ってことだろ?」
「女性がいるのに風呂上りにパンツ一丁でうろつく君も君だし、気にしないヒナイチ君もヒナイチ君だと思うけどね。クーラーつけてるんだからせめてTシャツぐらい着てくれ。誰が看病すると思っているんだ。」
強めの口調で話しながらドラルクは目線だけこちらに向ける。俺は過去の出来事を思い出し思わず目線を逸らした。ドラルクのため息が静かに響く。
「ん~どあうく~」
ヒナイチの声とともに物音がしたので視線を戻すと、ヒナイチがドラルクの細い腰を抱き枕のように抱きしめていた。髪を梳く手がぴたりと止まる。
「ごほ~み…ちょーら…ふふ…」
「…ねえ」
「どうせクッキーだろ。」
「…だよね!そうだよね!そもそもこんなお誘い知らないだろうしね!」
声を裏返しながら早口で言ったかと思えば、はははははははとドラルクは目をかっぴらいてから笑いをしだした。大体ヒナイチはエロ本もAVも観ないだろうしそんな『お誘い』なんて知らないだろう。いや、ヒマリが持っていた少女漫画は…いやでもこの『お誘い』は明らかに男向けだからないだろう。
単調な笑い声を背にキッチンに戻り紅茶が入っているほうのピッチャーを冷蔵庫に入れ、グラスに麦茶を入れて一気に飲み干す。待ってましたと言わんばかりに体中に冷たい麦茶が染み渡った。もう一杯注いでピッチャーを冷蔵庫に戻す。麦茶をダイニングテーブルに置いてドラルクが用意してくれたTシャツを着るために脱衣所に向かった。
「ついでにヘアアイロン持ってきて!洗面所にあるから!」
「ヘアアイロンって何?頭のしわ取るの?なんでそんな拷問器具が俺の部屋にあるわけ?」
「髪の毛をまっすぐにしたり巻いたりするものだよ。…ここまで馬鹿とは思わなかった。」
殺すぞ、と悪態をつきつつ我が家に凶器がないことに安心しTシャツを手に取る。Tシャツのバナナあにハイビスカスのパンツ。悪くないコーデだ。
「あーあれか?挟める棒だよな。コンセントついてるやつ。なにするんだ?」
「ヒナイチ君の髪の毛をクルクルにする。」
「この後署に戻るんだろ、やめてやれよ。」
「それくらいやらないと気が済まないんだよ。それともなんだね水性ペンでクッキーモンスターって書けばいいのかね。」
「そんなに嫌なら起こしてやればいいじゃん。」
「それもそうなんだけど…」
もにょもにょと何か言っているドラルクにヘアアイロンとやらを渡しやっと椅子に座る。
「このコンセントが見えないのかね。本当にゴリラになってしまったのか…」
「言われたことはやったんだからいいだろ。髪の毛クルクルにすることは俺は反対だからな。」
適当に言葉を返しながら三分の一ほど読み進めた小説を手に取る。
改造人間ーそう表記されているがこの設定だと今なら遺伝子を組み換えた人間と表現されるーが普通に隣人として暮らしていることが判明し、既存の人間より明らかに強化されている彼らの特定手段を模索し始めたところまで読み進めた。今なら遺伝子組み換えでそこまで強くなったのなら見た目に大きな変化があるのではと勘繰れるが、当時はそもそも遺伝子組み換え技術が存在しなかった時代だ。大人しく『改造人間』として読み進めたほうがしっくりくるだろう。
流石に五十年もたてば表現も変わるし読者が持っている知識も異なるので読者の捉え方も異なる。この先五年、十年とロナ戦が続いたら伝わらない表現が出てくるのだろうか。
認知の違いを意識しつつ物語に没頭していると、ただいまーと可愛い声が聞こえてきた。
「おお、お帰りジョン。えっヘアゴム?ああ頼んでいたね。流石私。これで思いっきりいたずらができるぞ!ジョン、このコンセントを差してくれない?」
ヌーと何とも言えない鳴き声を吐いた後、ジョンは渋々と言わんばかりにドラルクのもとに向かった。その時にヒナイチを見て驚いていたが、意を決してコンセントを受け取りタコ足に差し込んだ。
「よーしヒナイチ君をの髪の毛をくるっくるにしちゃうぞ!こんなになるまで爆睡していたと気づいたら流石に反省するだろう。」
「ヌー!!」
「やめてやれよ。」
なぜかノリノリの二人を後目に小説に視線を戻す。
お前ヒナイチが寝た時点でいたずらする気だっただろうと出かかったがやめた。ドラルクはこうなったら言っても聞かないのだ。
そうして本を読み進めていくが、しばらくしていると隣でキャッキャと楽しそうにし出したので気になってしまった。だんだん目線が泳ぎだし読むスピードが遅くなる。これはもうだめだと本を閉じ、三人がいるソファーに向かうのにそんなに時間はかからなかった。
「おや、ゴリラもおしゃれに興味を示したみたいだよ。」
「ヌー」
「うるせえ。楽しそうにしているから気になっただけだ。」
「俺も混ぜても言えないんでちゅか?どうしよっかなーどうする?」
「ヌーヌ!」
「流石ジョン!優しいねぇ。ロナルド君一緒に遊んでいいってよ。喜ぶがいい。」
「うるせー見てるだけなら俺の勝手だろ。ジョンありがとう!とっても嬉しいよ。」
ジョンにお礼を言ってからソファーの横に座りひじ掛けに腕を置く。ヒナイチの髪の一部はは街で見る女性のようにクルクルと柔らかく巻かれていた。ヒマリはずっと髪が短かったので髪形が変わっていくのが新鮮で面白い。
「これ家でできるんだな。美容院でやってんのかと思ってた。」
「美容院は一回パーマ当てたらしばらくこれだけど、家でやったらその日のうちに取れるからね。巻いたり巻かなかったりができるからヘアアレンジが効くんだよ。ヒナイチ君は職業柄パーマが難しいからやるとしたら自分でやるだろうね。」
「ふーん。」
そう説明しながらもドラルクは髪を棒に巻き付けて、しばらくすると離すを繰り返していた。見る見るうちにヒナイチの髪はどんどんくるくるになり、ヒナイチが起きたころには体の下敷きになっていたところ以外全てくるくるになっていた。
その後、驚いて飛び起きたヒナイチに驚いてドラルクが死んだり、ドラルクが落としたヘアアイロンでドラルクが再度死んだりと事務所はいつも通りになったわけだが、最終的にヒナイチの髪を綺麗にすることができたことにドラルクはご満悦で、署に戻っていく姿を送り届けていた。上半分をお団子にしたクルクルのヒナイチはいつもの活発さよりなんか上品というかそんな感じがした。
「で、気は済んだか。」
「何のことだね?」
「ヒナイチが無防備だからって話だよ。危ないって教えるためのいたずらじゃなかったのか?あいつ喜んで帰ったけど。」
そう言うとドラルクは我に返ったかのように大きく目を見開き膝から文字通り崩れ落ちた。