仕様なのか不具合なのか、比較対象が無いので判断のしようがないがこの本丸ではそういう『仕様』ということで政府に申請をしたのは暦が弥生に変わってからだった。
如月に行われた催しを媒体にこの本丸へと顕現した水心子正秀には明らかに同位体を含むほかの刀剣男士とは異なる仕様があった。そのため顕現してから間も無く一度政府へと検査のために預けられ基礎能力や言語、動作、戦闘等に関するあらゆる項目を調べたが結果として例の仕様以外は通常の水心子正秀と何ら変わらなかった。
検査を終えて本丸に戻った水心子の特別仕様を個性として捉えた審神者はその仕様説明を本丸内の男士たちに行ない、少しでも早く本丸に慣れるよう世話役を所縁がある刀剣男士であり先に本丸へと顕現していた源清麿に任せたのだった。
「清麿、」
「もう少しだけ」
「さっきもそう言った」
「うん、ごめん」
「昼から出陣だろう?」
「そう。だから、もう少し」
朝餉の時間だと起こしに来た水心子を布団の中に引きずり込み腕の中にぎゅうと閉じ込めてしまう。はじめこそもだもだと腕の中で暴れていたが少ししたら諦めてしまったのか仕方ないとでもいう風に大人しく納まってくれる。
昨日は遠征で帰還が遅かったため今日の任務は午後からの偵察を中心とした出陣のみ。必要に応じて時間遡行軍による歴史改変の影響が出そうな箇所があれば戦闘ありきで対処するが、基本は偵察を得意とする短刀や脇差の援護だ。
普段であれば自他共に厳しい水心子のことだから早く起きろと怒られるところではあるが、昨夜遅くの遠征帰りおよび数時間だけ間を空けての連続出陣のためか今朝は少しばかり甘やかしてくれるらしい。
後ろから抱きしめたまま首筋に顔を寄せゆっくりと息を吸い込めば甘い香りがする。
香や洗剤の匂いとも違う、僕の好きな香り。
この水心子正秀に実装されている異なる仕様とは香りのことで、いわゆる南蛮菓子や西洋菓子などの甘味に等しい甘い匂いがするのだった。
体調によって多少の変化があるのか蜂蜜や砂糖のような香りがする時もあれば西洋菓子の香料にも似た香りがする時もある。今日はおそらく綿菓子だ。
「くすぐったい」
「ねえ、今日の朝餉なに?」
「清麿の分は茶漬け。出陣前にまた食べるだろうから軽めにと言ってた」
「水心子と一緒がいいな」
「ならば私も茶漬けにしてもらおう。今日は手合わせの予定があるからあまり食べ過ぎても動けなくなるだろうし」
「え、なにそれ僕も見たい」
水心子の手合わせは正直見たい。
例の特別仕様の所為で顕現直後から時の政府管轄内にある研究施設にて検査ばかり受けていたこの水心子はほかの同位体より戦闘訓練が足りていなかった。検査を終え本丸に戻ってから訓練を始めたようなものなので同時期に顕現した男士と比べてもその差は誰の目にも明らかであり、周囲は「仕方ない」と彼を励ました。それでもやはり彼は水心子正秀なのだ。現状に甘んじることもなく、手合わせや実戦を交えた難易度の低い任務への出陣以外にも夜遅くまで道場でその日の復習をしていたり時に書庫へと籠り座学での知識を増やしたり、一緒に付き合って朝早くから稽古をしていたことだってある。
そんな水心子の努力とひたむきさを知っているからこそ今現在どれだけやれるのかを見たい。彼の伸び代はもっともっと先にあるのだから置いて行かれないように一緒に強くなりたい。隣に、ずっといられるように。
そんなことを含めた他愛もない話をつらつらと繰り返してひとしきり笑い合ったところでいつまで経ってもやって来ない僕たちを呼びにこの本丸の近侍殿がやって来たらしい。足音が部屋の前でぴたりと止み、戸の向こうから「起きてるなら早く来な」と言われたあたりでようやく僕らは布団を出たのだった。
朝餉の茶漬けを平らげ、簡単ではあるが評定を行うと言われたので部屋には戻らずそのまま大広間へと向かう。出陣の行程確認や予定外で起こりうる可能性のある事態をいくつか予想してある程度の対処法を用意しておくお決まりの会議である。
今回の出陣内容自体も難しいものではなく部隊編成も修行を終えたものが半数以上を占めるため、評定といってもほとんどが情報の確認作業でつつがなく終わったのだった。
自室に戻れば先に帰っていた水心子がわざわざ僕の出陣準備をあらかた終わらせてくれていた。昨日帰還して手入れもそこそこにしまい込んでしまった気がする外套は皺ひとつなく壁に掛けられているし、雑に外して部屋の隅に追いやった防具も綺麗に整えられている。
「ありがとう水心子。わざわざごめんね」
「昨日は帰還が遅かったんだ、疲れていて当然だろう。それにこれは前に清麿が私にやってくれていたことだから」
「気にしなくていいのに」
「それならお互い様だ」
「今日の帰りも遅いと思うから先に寝ていて構わないからね」
「……そんなに心配そうな顔をしなくても大丈夫だ。もうきちんと寝れる」
人の身体を得て初めての眠るという感覚に慣れず顕現したばかりの頃の水心子はなかなか寝つけなかった。だから手を繋ぎひとつの布団で共に寝起きしていたのはまだ記憶に新しい。
戦装束に着替え出陣の準備をしながら水心子へと視線を移せば軽く頬を膨らませ手合わせに向かう支度をしていた。
「第一、昨日だって問題無く寝れていただろう?」
「そうだね。隈とかも無いみたいだしさすが水心子だね」
親指でそっと目元を撫でれば少しばかり緩む表情が愛おしい。
外套を纏ったまま『少しだけ』と許しをもらい一度被った帽子を脱ぎ、そのままぎゅうと抱きしめ深呼吸をひとつ。肺の中が彼の甘い香りでいっぱいになったところで名残惜しくもその手を離した。これ以上貰ったら本格的に行く気が削がれ部隊長殿に怒られてしまう。
「それじゃあ水心子、いってきます」
「いってらっしゃい、清麿」
***
血の匂いばかりが鼻につく。びしょ濡れの顔を拭って鏡を見たらただ濡れているだけの己の顔があるはずなのに、洗っても洗っても汚れの落ちていない錯覚がして嫌になる。
出陣内容自体は想定通りさほど難しいこともなく予定通りかむしろ予定よりいささか前倒しで終わる、はずだった。偵察も終わりいざ帰還しようかとほんの僅かばかりみんなの気が緩んだところだった。青白い雷鳴と共に突如現れたのは時間遡行軍と検非違使の部隊。敵の襲撃についてはあらかじめ評定で挙がっていた内容だったのでさして手こずることも無く撃退、部隊内で傷を負ったものも無く戦闘が終了次第改変箇所の有無を確認して即帰還。
浴びたのは返り血ばかりで自身に傷は無い。立ち回り上やむを得なかったとはいえ最後に大型の敵を真上から斬ったのがよくなかった。上から攻撃しているのだから切り口から噴水の如く噴き出した血は当たり前のように重力にならって下へと降り注ぐ。それをまんまと浴びてしまったのだ。
普段ならばこんなにも鼻につくことなどない。仮眠を挟んだりはしているが連続出陣による疲労の蓄積かもしれないので早く寝てしまおうと思いつつ、頭を過るのはただひとつ。
彼の甘い香りに満たされたい。
布団に潜り込み抱きしめてしまいたいが先に寝ていてと言った以上個人的な理由で起こしてしまうのは忍びない。でも欲しい、どうしよう。
あれこれ悩みながら廊下を歩き、自室の前まで来たところで間接照明特有のぼんやりとした明るさが隙間から漏れていることに気づく。本を読んでいる途中で明かりを消す前にうっかり眠ってしまったのかもしれない、とそっと戸を開ければ内番着のまま文机に向かっている水心子と目が合う。
「すい、しんし……」
「おかえり。帰還直後は報告や手入れで忙しいかと思ったから、迎えに行けなくてすまない」
「ううん。それは、平気なんだけど……」
単純に嬉しかった。てっきり眠ってしまったと思っていた彼がまだ起きていて、気を遣って迎えには来ず部屋で待っていてくれたその事実が。
疲労由来の鬱々とした気分が少しずつ溶けていくのがわかる。すごい、やっぱり水心子はすごい。
「清麿、あまり顔色が良くないがどこか悪いのか?」
「大丈夫だよ」
「無理しなくていい」
「……水心子の顔を見たら気が緩んでしまって……今日はちょっと、疲れたかな」
外した防具や脱いだ外套を片付けながら笑えば水心子は少しばかり苦い顔をしてしまう。隠そうとしても彼にはわかってしまうのだろう。たとえ違和感から来るなんとなくであったとしても最早それは適切に当ててくる第六感のようなもの。そうなれば手っ取り早く正直に言ってしまったほうがいい。
読んでいた本に栞を挟み机の端に寄せた水心子が内番着の高い襟に隠された顎があるであろう位置に指をあて何かを考えている。その間に自分と彼の寝巻きを準備していざ着替えようかというところで立ち上がった水心子がいくらか距離を詰めてくる。少しずつ強くなる甘い香りの誘惑にこちらがなんとか耐えていればそんなこと露にも知らない彼はゆっくりと口を開くのだ。
「甘いものは疲労回復に効くらしいな。匂いにも同等の効果があるはわからない、けど」
「うん」
「……吸う?」
おいでと言わんばかりに両腕を伸ばし少しばかり首を傾げて誘う姿の愛らしいこと。
誘われたのならば遠慮なんてもうしない。誘った君が悪いのだ。自分に都合良く責任転嫁し、伸ばされた手を掴み引き寄せ思い切り抱きしめた。
部屋の中に響くのは僕の呼吸音ばかりで彼の息遣いは大人しく静かだ。それでも触れたところからぬくもりは伝わるし心臓の鼓動が聞こえるから存在している事実は確かにここにある。
僕の、僕だけの水心子。
「あ、あまり熱心に嗅がないでほしい……」
「でも吸ってもいいって言ったのは水心子だよ」
「それは、そうなんだが……」
自分から言い出した手前やめてほしいとは言えないのだろう。優しい水心子、でも今日はあいにくやめてあげられないから誘った自分を恨んでね。
濡羽色の髪と翡翠の瞳、それとどの個体にも無い僕の水心子だけの甘い香り。
首筋から肩、胸元へとずるずる下がっていき幼子が寂しいと抱きつくようにぴたりとくっついても彼は優しく笑うだけだった。
「……僕はね、甘い匂いが好きなんじゃなくて純粋に水心子の香りが好きなんだ」
「う、うん……」
我ながら何を言っているのだろうと思うが疲労により回転速度の落ちた思考回路ではこれが精一杯だ。水心子の匂いがすると安心するし落ち着く。
微睡んだ意識のまま深く考えずに口は言葉を溢し続ける。ひとつひとつに水心子は相槌を打ったり言葉を返したり僕の欲しいものをなんでもくれる。きっと意図なんかしてなくて無意識なのだろうが僕はそれが嬉しかった。
「君は優しすぎるから、誰彼構わずこんなことしちゃ駄目だよ」
「しない! 清麿以外にはするわけないだろ!」
否定の声を大きくする水心子にまたたまらなく嬉しくなってしまい人差し指を唇に添えて笑う。丑三つ時にはまだ早いがそれでも既に夜は更けているのだ。意味をきちんと汲んでくれた彼が薄らと赤くなっているであろうことは月明かりが教えてくれる。
抱きしめる腕に力を入れて再び大きく息を吸えば肺いっぱいに大好きな甘い香りが満たされる。今はそう、和三盆のような優しい甘さ。
「ねぇ水心子」
「なに?」
「このまま抱きしめて寝てもいい?」
抱きついた状態のまま顔を上げれば翡翠の瞳と視線がかち合う。水心子が寝つけないから、という口実で以前共に寝起きしていたけれど実際のところは今も昔も僕が一緒に寝たいだけなのだ。もういなくならないとわかっていても不安になってしまうことがあるから、叶うならばこの手に、この腕に、ずっと繋ぎ留めておきたい。
そんな自己中心的な我儘を知らないまま、水心子は胸元にある僕の頭を抱え込むように抱きしめてくれる。苦しくはないけれど収まりのいい適度な閉鎖感。心地良い体温と落ち着く心音、それと大好きな香り。好きなものばかりの空間にどろどろと溶かされていく。
「いいよ」
「やった。ふふふ、嬉しい」
「そんなにか?」
「そんなに」
「おやすみ、清麿」
「おやすみ、水心子」
明日は非番だから何をしよう。一緒に惰眠を貪るのも悪くないけれど真面目な君は定刻通りに起きてしまうのだろう。また起こしにきた君を布団に引き摺り込んでしまおうか。
でもとりあえず今は、君と微睡むこの時間が愛おしい。そしてどうか夢の中でも君に逢えますように。