ペット 執筆作業が一段落したアイクは今日、次の執筆のためのフィールドワークへと出かけていった。昼過ぎに出かけ日が沈む頃に帰ってきた彼は帰ってきたっきり僕を放ったらかして机に向かい今日の成果を纏めている。
(喉乾いたなぁ、なんか持ってこよ)
一緒にいるんだから構ってよ、なんて遅れてきた思春期のように駄々をこねた時期もあったけど、今の僕はこの作業が一段落した後にたくさん構ってくれることを知っている。今ではただただ早く終わらないかな、と彼の傍でソワソワするだけになった。
書斎から出てキッチンへ。喉を潤してくれる何かが無いかと冷蔵庫を開ける。
(コーラ…は今は駄目だから…あ、牛乳の賞味期限がそろそろだ。確かドーナツもあったから牛乳と一緒に食べちゃおう)
今このタイミングでアイクに聞こえる範囲でカシュッなんて音を立てようものなら彼の集中力は途端に、それこそ炭酸のように弾けて消えてしまうというのは経験済みだった。
コップにありったけの牛乳を注いで、戸棚から個包装されたドーナツを大袋ごと取り出す。キッチンを出て書斎のドアを開けようとしたとき、書斎の中から何やら声が聞こえてきた。
「…あぁ、こらこら。君が触れると濡れちゃうんだから駄目だってば。起きたの?おやつ食べる?それともおもちゃで遊びたい?」
カチャリ、とドアを開けるとアイクがこちらを振り向いた。そして全く同じ動きをしてこちらを振り向いたのは──
「あ、タコ起きたの」
「そうみたい。僕の集中力が切れたのが分かって構ってもらいたくて出てきたのかなぁ」
ほんのり湿り気を帯びている吸盤の付いた触手。それがアイクが着ているTシャツの裾から一本伸びている。“見た”感じ妖とかそういう類ではあると思うんだけど、僕のテリトリー内の生物ではないからソレが何なのかハッキリとは分からない。生やしている、もとい共存しているらしいアイクに聞いてもやっぱり分からないから僕はそれを親しみを込めてタコと呼んでいる。
「ドーナツ食べるかな」
タコは喋ることが出来ない。でもこちらの言っていることはある程度理解しているようで多少のコミュニケーションであればとれる。僕はいつも思う。タコに脳みそはあるんだろうか?アイクにタコの付け根を見せてもらったことは無かった。アイクいわく「恥ずかしいから見せたくない」らしい。だから僕はタコの全容を見たことが無いし触手以外の部位があるのかどうかもわからない。ただ、アイクの話しぶりからすると触覚や痛覚、その他の精神的な部分で共有しているところはあるっぽいから、もしかしたらアイクの体内にもタコの一部はあるのかもしれない。ちなみに、床を這っているタコを踏んづけてしまってよほど痛かったのかタコとアイクの両方から怒られたことがある。
タコがアイクの傍からシュルシュル、とこちらへ伸びてきて、ツンツンと僕の持っているドーナツをつついている。どうやら気になるらしい。でもペットに勝手におやつをあげるのは良くないよね。
「一個あげてみてもいい?」
「どうぞ」
お伺いを立てるとすんなりと飼い主の許可が出たのでペリペリ、とプラスチックの包装を剥いで砂糖が付いたドーナツを取り出す。
「小さくしてあげよう。…はい」
もともと一口サイズではあったけれど、それを更に4分の1ほどの大きさにちぎって触手の先端にちょん、と触れさせる。すると、クルッと巻き付き僕の手から取り上げていった。どうやらお気に召したらしい。そのままアイクのTシャツの中へ戻っていった。
「はい」
手に残った、一部がちぎられたドーナツを今度はアイクの唇に触れさせる。眉間にシワを寄せてむっとした顔になった。
「…僕はペットじゃないんだけど?」
どうやらアイクもタコはペット認識らしい。
「でも美味しいよ?」
なおもグイグイと唇に押し付けると観念したのか、アイクはハァという聞き慣れたため息とともに目を伏せてパクリとドーナツに食いついた──と思えばぺろり、と僕の指まで舐める。ビックリして指を引っ込めると、してやったりとでも言いたげな顔でニヤニヤ僕を見つめるアイクと目があった。
「本当だ、美味しいね」
余裕ぶったその表情が照れくさくて憎たらしくて愛らしくてむしゃくしゃした僕は、おかわりをねだりに再度伸びてきていたタコを思いっきり力を込めてぎゅっと握ってやった。