潰す、とは恐ろしい言葉だと思う。
ドラルクの思い浮かべる『潰す』とは、圧をかけ、物を平たく変えること。社会的地位や立場を奪い、再起できぬようにすること。そういえば家畜を処理するときにも『潰す』などと表現する。意味は色々あるけれど、パッと浮かぶのは物騒なものばかり。少なくとも、好意的に使う言葉ではないだろう。
だから銀糸と見まごう前髪の奥で、アイスブルーの瞳を細めながら「抱き潰してみるか?」なんて挑発的に笑うロナルドを見て、なんと返したらよいのかわからず逡巡した。
「……なんだよ、そんな気分じゃないか?」
「いや、そうでもない、けど」
「そうでもない」なら「あなたを『抱き潰す』というお誘いは大変に魅力的です」ということなのだと、言った本人も言われた側もわかっている。
しかし、ドラルクは苦笑した。彼はなぜ、こうもいちいち物騒な物言いばかりするのだろう。吸血鬼が退治人を家に上げ、寝室まで招き、傍若無人に振る舞うことを許している時点で物騒もなにもないのだが。
「ならいいだろ、チャンスだぞ」
「お誘いのことチャンスっていうのやめてくれない?」
「なんで」
「奥ゆかしさがない」
ドラルクの言葉が予想外だったようで、ロナルドはふっと息を吐いて、それから、シーツの上で笑い転げた。
「ふ、はは、奥ゆかしさって。俺、奥ゆかしさなんて求められてたのか」
「求めちゃないけど、でも、ほら……肉食系の人ってちょっと、こわいじゃない」
「吸血鬼がなに言ってんだ?」
ドラルクの返答に、ロナルドはますますケラケラと声をあげた。
背を丸めてくつくつと笑い、揺れる前髪の奥で目を細める姿は、いかにも年相応の若者に見える。とはいえ彼がこうもあどけない姿を見せることは珍しく、ドラルクもつられて笑った。
それからロナルドはふむ、と鼻を鳴らすと、背筋を伸ばして姿勢を正す。そしてピンと張られたシーツの上に三つ指をついたかと思えば、恭しく頭を下げる。
「どうかこの機に、吸血鬼様のご寵愛を賜りたく……」
「くっ、やめて、ほんと、笑い死ぬ」
わざとらしい慇懃さと、いたずらにドラルクを見上げる瞳のいやらしさにドラルクはひえっと引き笑いを起こした。そのまま純白のシーツを握りしめて腹をよじる。 そんなドラルクを前に、ロナルドもごろりと横になり破顔する。
くだらない。あまりにくだらないやりとりで、お互いどうしようもなくおかしくなってしまった。
「きみ、いつものキャラはどうしたの」
「笑いのためならやむを得ない」
「いやそれもキャラ違うでしょ」
「くは、こんなん誰かに見られたらスキャンダルだ」
「ロナルド様には失望しました。ファン辞めます」
「当然の結果」
「でも新刊は買います。特装版で」
「どっちだよ」
「特典ランダムやめてください」
「とかいいつつ絶対全部揃えるタイプのファン」
「いるねぇ」
「いやしかし実際に面と向かって失望とか言われると結構クるな」
「えっごめん」
「へーきへーき、ウケたからよし」
「そう……?」
「特典ランダムは俺の目の届く範囲ではやらせないけどそれ以外は広告代理店のせいだから」
「そこ!?」
生産性のない会話は、着地なのだか墜落なのだかわからないまま弾けて消えて、おしまいに2人分の笑い声が重なった。
「あー……アホらし」
ロナルドは目尻にうっすら涙すら浮かべて、こんなに他愛のないことで笑ったのはいつぶりだろうかと考えた。そう昔のことではないだろう、だがすぐに思い出せるほど最近のことでもない。ただ、そのときもこの枯れ枝のような指先で目尻を拭われた気がする。
横になったまま視線だけで隣を見やると、やさしく微笑む赤い瞳と目が合った。
「先にシャワー浴びておいで」
いつもより、半音低い声。
ロナルドのフェイスラインをなぞりながら、さも愛おしそうな顔をしながら、ようやく覗かせた紛れもない雄の顔。ふわふわとしたあたたかな空気が、ほんのわずかに震えるこの瞬間が、ロナルドは好きだった。
きっと自分がさっさと身を清めている間に、この男は部屋にタオルを持ち込み、室温を少し高く設定して、必要な小物をすっかり揃えて待機していることだろう。気を利かせてレモンとローズマリーを入れた水差しなども用意するかもしれない。そして半刻後には始められるであろう甘い営みは、きっといつものように首筋へのキスから始まる。
ロナルドはそこまで想像して、不覚にも肌の奥から湧き上がる、じんとした熱と痺れを感じていた。
少し、浮かれすぎているかもしれない。
数日前まで見通しの立たない不安と焦りから、泣きたい気持ちでいっぱいだったというのに。
ドラルクはシーツを伸ばしながらベッドを降りて、ロナルドの額に軽いキスを落とし部屋を後にした。ロナルドも後に続いてシャワールームへと向かった。
ロナルドが城の扉を叩いてから優に三日が経つ。
隙あらば仕事をすることに余念がないロナルドが、三日前からこの城でほとんどなにもしていない。それは本人の意思によるところもあれば、不服ともする理由があった。
時はロナルドが城を訪れるさらに一週間前へ遡る。
誰しも予期し得ない、突然の異変だった。
吸血鬼が、こぞって人間の前から消えてしまったのだ。
ロナルドが拠点としている新横浜は、特段吸血鬼の多い地域である。
世間的に吸血鬼は『人間を害する生き物』という認識が強い。ゆえに新横浜では吸血鬼がらみのトラブルも多い。しかし、吸血鬼が多いということは退治人にとって、それだけ飯の種が増えるということだ。不謹慎ではあるが、事実であるからして、ロナルドは新横浜に事務所を構えている。
とはいえ、吸血鬼のすべてが人と共存できないわけではない。
理性と分別と、人間社会に適合する良識と常識、そしてなにかしら人間との関わりを持つ吸血鬼は確かに存在する。そういう吸血鬼は、至極真っ当な手続きで戸籍を取得し、人間となんら変わらず穏やかに暮らしている。
現にロナルドの同級生に、正真正銘の吸血鬼を母に持つ男がいた。その男は昔から心根の清い母を敬い、尊敬し、今では神奈川県警所属の吸血鬼対策課に勤めている。実に我が国のリベラルとアンチレイシズムを体現した境遇だ。
そして、吸血鬼がこぞって消えてしまった、というのは語弊があった。
正しくは、敵性吸血鬼がこぞって消えてしまった、というべきか。
なにをもって敵性とするかは人間によるところだが、ある日を境に吸血鬼による傷害、および物損事故の報告件数がゼロになったのだから、表現としては最も近しいはずである。
新横浜のはずれに、とある暗い路地がある。そこには高等吸血鬼と呼ぶには力も品格もなく、生き血を欲する卑しさを隠さない、はぐれ吸血鬼たちが集まる場所だ。
ロナルドは、その路地を犯罪抑制のためにあえてよく通るのだが、ある日ときたらまるで雰囲気が違った。
いつもはうなじにピリピリと感じる視線など皆無で、それどころか物音一つ聞こえない。誰もいないことを証明するように、ビルの合間をひゅうっとからっ風が通り過ぎる。
ロナルドは閑散たる情景に思わず唖然とした顔で立ち尽くし、少し悩んでから路地の奥へと足を運んだ。しかし、行けども行けどもそこにはガラの悪い吸血鬼どころか人っ子ひとりいない。突き当りを曲がったところで、住処の活用スペースが増えて意気揚々と顔を出したネズミと目があっただけである。
吸血鬼のいない新横浜は静かだった。
いや、新横浜に限らずどうやら他の地域でも、敵性吸血鬼が一斉に姿を消したらしい。 聞くところによると、一部の下等吸血鬼ですら活動が鈍くなっているという。
『吸血鬼の異常行動』といえば事態を重く見るべきなのだが『吸血鬼の行動がないという異常』は、吸対もギルドも戸惑うばかりであった。むしろ下手を打って吸血鬼を刺激することは好ましくない。この平和を享受すべきだという意見が出たのも道理である。
しばしば下等吸血鬼の駆除を頼まれている同僚いわく、裏山の婆さんの畑では吸血野菜が発生しなくなったばっかりに、今度は害虫が増えてしまい代わりの駆除に当たっているそうだ。人気商売とはいえ仕事は選べ、と言いかけたロナルドはそっと口をつぐんだ。それと、お前は頼られていていいな、という言葉も。
結局のところ、吸血鬼の行動調査なら専門機関であるVRCに投げるしかないということで落ち着くまで、そう時間はかからなかった。
県警からはA4サイズ1枚分のPDFが発行され、なんやかんや書かれたそれは「警戒を怠らないように」の一言で集約される内容だった。
平和だった。
吸血鬼の血を見ることがなく、自らも血を流すことのない日が続いた。
それはたかだか一週間程度の出来事であったが、ロナルドにとってはまるで別世界のようだった。
夜がこんなにも静かだったことを、久しく忘れていた。
月光は、敵を見つけるための作業灯ではなく、太陽が登るまでの地表を飾るネオンだった。
なにもない夜は、なにもない朝をたぐりよせ、昇りきった太陽はゆるやかに落ちて、そしてまたなにもない夜を生む。
毎日が同じことのくりかえしというのは、ある意味幸せなことなのだろう。しかし、ロナルドにとってそれは、毎日自分の存在意義を探す作業のくりかえしでもあった。