ただいま●
夢のようなひと時をすごしたオセアニアから、アメリカへと戻ってきた。
この家には随分久しぶりに帰ってきた気がする。「なんだかんだ我が家は落ち着くな」、とジェラードはキャリーケースを置きながら苦笑した。サクラも「セヤナ」と日本語で笑った。
それから……ほどなくのことだった。長旅とか時差とかで、ジェラードがソファに寝そべり微睡みはじめたのは。
「……」
寝顔を見下ろすサクラは眠たくない。疲れてもいない。そーっと、ジェラードの傍らに座る。
(オセアニア、楽しかったな〜……また行きたいな、ジェリーと一緒に……)
顔に顔を寄せる。静かな寝息と、閉じられた赤茶色の睫毛、彫りの深い顔立ち、白い額にかかった前髪。彼の高い鼻とサクラの鼻がつんと触れた。少年は至近距離で、ジェラードを見つめ続けている。
――俺はさ、サクラ。お前のことが……すきだよ。
思い出す、夕焼けの色と、優しい声音と、撫でてくれた指先と、抱きしめてくれた腕と、繋いでくれた手と、茜色がきらきら射し込む榛色の目。こっちを見てくれている目。
彼の愛の言葉は、サクラを都合よく支配する為でも、言うことを聞かせる為でも、セックスの道具として使う為でも、なかった。
好き、という感情に、好き、という感情が、返ってくるなんて、知らなかった。
一緒に居たいなぁって気持ちを、向こうも抱いているのが、こんなに嬉しいことだなんて、知らなかった。
サクラはジェラードのことが好きだ。一緒にいると落ち着くから、楽しいから、信頼できるから、お気に入りだから、じゃれつきたくなるから、身体を許せるから……という意味だった。でも、オセアニアの一件を経て、なんというか、感情がより深くなったというか……解像度が上がったような気がする。なんだか大事だなぁ、嬉しいなぁ、心がぎゅうっとするなぁ、あったかいなぁ、と好きの奥に感じるようになった。
心が満ちるような。足元に地面があるような。彼曰く、これは幸せというものらしい。
「んふ」
その幸せというものが込み上げてきて、サクラはジェラードに柔く口付ける。ちゅ、ちゅ、と甘えるように食んで吸う。起こさないようゆっくり、そっと。
そうしながら――オセアニアのあの夕方の後。リゾートホテルの、広いベッドで愛し合った時のことを思い返す。
見つめ合って、キスをして、体に触れて、抱き締めて、何度も名前を呼び合って――お互いの「おまえが欲しい」をぶつけ合って、求め合って、一番奥まで繋がって。
首筋が甘くむずりとしたのは、情事の時に彼に噛まれた心地を思い出したから。唇、舌、指、吐息による愛撫もつられて思い出す。耳に吹き込まれる愛の言葉が、甘い疼きと共に再生される。
――かわいい。いいこだな。きもちいいな。
――どうしてほしい? ……いっぱいイかせて欲しい? ちゃんと言えてえらいな。
――うん、うん。俺も好きだよ。
――サクラ、……俺のサクラ。愛してる。
「ジェラード……」
幼い物言いで呟く。日本語の発音は、彼にしか出さない甘えた声音。舌先で柔く彼の唇を舐めた。愛しくて、愛しくて、たまらない気持ちだった。
……愛してる、という気持ちや、恋しい、という感情を抱くのは、人生で初めてのことだった。まだサクラの中では芽生えたての感情だが……確かに、これは少年にとっての初恋だった。この感情を大事にしたいと思った。
(俺にも……こんな気持ちがあったんやなぁ……)
愛とか恋とか、自分の人生には縁が無いものだと思っていた。ましてや年上の男にこんな気持ちになるなんて思いもしなかった。……彼の傍は安心する。ずっとここに居たい。どこにも行かないで欲しい。誰かのモノにならないでほしい。そう思えば思うほど、胸が切なく甘くぎゅっとするのだ。そして、相手が同じ「好き」を抱いて向けてくれているのが――サクラには、奇跡のように嬉しかった。
「ジェラード、ジェラード……だいすき、だいすき、だいすき……ずっと一緒におってなぁ……だいすき、ジェラードだいすき……」
甘えた声の母国語と共に、高い鼻をやわやわかじかじ噛んだり、たくさんキスをしたり、唇を甘噛みしたり舐めたり……起きないのをいいことに、サクラは延々と愛情表現をし続けた。
……昼寝から目覚めたジェラードが、自分の鼻に噛み跡があることに気付くのは、少し先のお話。
『了』