君が入学する前のお話 ●
昭和という時代が過去になって久しい。そんな某日某市、某UGN支部。
「……UGNエージェントが教師を?」
伊緒兵衛――というのは古風すぎるので今は伊緒と名乗っている男は、手にしたセイロンティーから顔を上げた。
隆々たる巨躯の男が、後ろ姿、窓から街を見下ろしている。最高品質のスーツに瀟洒なる佇まいは、彼の高貴さを物語る。
「さ、左様だど。あの町は少々特殊で――覚醒した青少年を、す、速やかに発見する為の措置だど」
少し訛りぎこちない言葉遣いだが、その物言いと態度には凛然たるものがあった。
「ま、まさか祖国から遥々日本へ来て、小学校の先生をすることになるとは、このオーデストルートも驚いたど」
振り返る巨漢、オーデストルートの相貌の造形は厳しいが、微笑みは穏やかだ。「へえ」と伊緒は紅茶を一口。かちゃり、白磁がソーサーに置かれる。
「貴方が直々に教鞭を。……確かにノイマンシンドロームの貴方ならば、容易い仕事でしょうね」
「ははは、いやいや。こ、子供を教え導くというのは、知識だけでは如何とも……尤も最善は尽くすがね」
「そうですか……」
漫然と答える伊緒は、透き通った濃琥珀色を見下ろしている。その機微に、オーデストルートは正面のソファに座すと、己の分のティーカップを巨大な手で器用に持った。
「……どこか浮かない顔を、しているど。な、何か懸念でも?」
「ああ――いえ。少々、考え事を。口にするまでもない些事です」
と、言いつつも。伊緒の中には懸念が、確かにあった。
(あの学区は……鉱太郎がいずれ入学する小学校だな……)
UGNのごたごたに、彼らの一族をできるだけ巻き込みたくはない……が。
(まあ……鉱太郎は覚醒もしてるか分かんないし。レネゲイド事件に無縁であればそれでいい……)
まだあの子は産まれて間もない。祖父母こそオーヴァードだが、彼までそうなるかは不明だ。このまま覚醒することなく、衝動や非日常に蝕まれることなく、普通の人間としての人生を歩んでくれたら……とは思う。もちろん、覚醒したらしたで支える心算だが。
(未来がどうなるかは、誰にも分からんからな……)
ゆえにこそ答えたのだ。口にするまでもない些事です、と。
「――ご馳走様でした」
さて。空のティーカップを置いて、伊緒は立ち上がる。
「失礼、そろそろ空港に向かわねば」
「どちらへ?」
「ちょっと遠くへ。なに、いつもの『ルーチンワーク』ですよ」
伊緒は中折れ帽を被った。無間の呪いを解く為に、彼はUGNと協力し合いながら各国を渡り歩いている。かつては終わりのない旅に心を病ませ続けていたが――今は希望を以て、前に進むことができていた。
「よ、良い旅路を、残野さん」
「ええ、オーデストルートさん。ではまた」
『了』