金曜日金曜日、終業時間を一時間程過ぎた頃、月島は小さく息を吐いてキーボードを叩く指を止めた。
『そろそろか?』これから来るであろう男の事を想像していると想定通りに声がかかった。
「よぉ、お疲れさん。今日は行けそうか?」
人好きのする笑みを浮かべて菊田が声をかけてきたのだ、グラスを口元に傾けるジェスチャー付きで。
「ソレ、おっさんっぽいですよ」
「いいじゃねぇか、おっさんだもん」
月島が素っ気ない態度をとっても気にする様子は無く、菊田はおどけている。おっさんと自称するわりには少しも引け目を感じていないであろうその態度は自身が世間では所謂【イケオジ】である事を自覚しているからだ、と月島は思った。
「それよりどうなんだよ、行けそうか?」
「はい、今終わりにするところです。」
金曜日の終業後、月に1~2度くらいの頻度で菊田は月島を飲みに誘う。月島もそれを断らず、そろそろ誘いが来る、と言うタイミングを見計らって仕事を終わらせるようにしているのだ。
「よっし!行こう行こう、いつものとこでいいよな?」
「はい」
菊田は大げさにガッツポーズをすると月島のコートを取りに行った。月島は菊田が戻ってくるまでにパソコンの電源を落として帰宅準備をする。戻ってきた菊田からコートを受け取ると2人でよく行く飲み屋へと向かった。
菊田は1年ほど前に月島のいる部署へと移動してきた。月島のいる会社には顔の良い社員が多いが菊田もその1人である。月島の直属の上司であった鶴見の昇進に伴い転属してきて、鶴見がいたポストに入ったのが菊田だ。月島自身は昇進などに興味無く、部下を従えるよりも部下でいる方が楽なので菊田がそのまま自分の上司になっても何も思わなかった。月島よりも同じ部署の女性社員たちの方がうるさかったくらいだ。うるさい、と言っても歓声の方であったが。
菊田は実に如才なく振る舞った。この会社は人たらしが昇進の条件なのかと月島は思ったくらいだ。上司としても申し分なく、月島に不満は無かった。
菊田が移動してきて1ヶ月ほど経った時、菊田から飲みに誘われた。
「お前さん、実質この部署のナンバー2なんだろ?鶴見部長も色んな場所で月島の仕事ぶりを褒めてたぜ。この部署に早く馴染みてぇし、色々教えてくれねぇか?」
菊田はもうとっくに部署に馴染んでるように見えたし、教えること等何もないだろうと月島は思ったが独身で趣味も特に無いので断る理由を考えるのも面倒くさく、誘いを受けることにした。
「鶴見部長があんだけ言う部下の月島ってどんなやつなのか気になってたんだよ」と言って仕事の話をしたのは最初だけ。その後も飲みに誘っては月島とただ楽しく飲んだ。
月島も毎回ご飯が美味しく、だが気軽に行ける店を教えてもらえるし、菊田の雑談をBGMに飲むのは良い息抜きになった。そのうちに金曜日は自然と仕事を早く切り上げるようになったのだ。
「それにしても野郎と顔つき合わせて飲むのももうすぐ1年かぁ」
「いつも誘ってくるの菊田さんでしょう、嫌なら他を当たればいいものを」
溜息ついてテーブルに突っ伏す菊田のつむじを月島は焼き鳥を齧りながら無表情で見下ろしている。実際誰であろうと菊田が誘えば二つ返事でOKするだろうに、菊田は月島ばかりを誘っているのだ。
「他を当たると大体めんどくせぇ事になんだよ」
「はぁ。」
「自分で言うのも何だが、俺はモテる方だろ?」
「そうですね。」
何を言い出すんだ、と月島が冷めた声色で返答しているのも構わずに菊田は話し続ける。
「俺が誘うとほとんどの女は来てくれるだろ?それでほとんど惚れてくるじゃねぇか。」
「良いことなのでは?」
「良くねぇよ、俺はそこまで惚れねぇし。で、振らないといけなくなるだろ?めんどくせぇんだよ、俺ぁこう見えても優しいんだぜ?好きでない相手でも傷つけるのは良い気分じゃねぇよ。だから結婚を考えられるほどの女がいたら誘おうと思ってたんだが、そんな女なかなかいねぇし。」
拗ねたような顔で話す菊田に、どんな自慢の仕方だ、と月島は思ったが嘘ではないのだろうな、とも思った。1年ほどの付き合いだが菊田の人間性を少しはわかっているつもりだ。人好きのお人好しなんだろう。一人で飲むのは寂しいが、誰かを付き合わせると惚れられてしまい、振って、また探さないといけなくなる。
「それなら他の男性を当たればいいでしょう」
「何で野郎の顔見ながら飲まないといけないんだよぉ。」
眉と口をへの字に歪めてしょぼくれる菊田に、何を言っているんだ、俺への当てつけか、と月島が少しムッとする。
「その点月島なら俺の好みで飲みながら眺めるには最適だし、惚れてこねぇし。」
相当酔ってるな、と頬を上気させ若干焦点の合ってない目でビールのジョッキに話しかけている菊田を見て月島は呆れた。月島も結構酔っているので菊田の発言の前半がおかしいことには気づかなかった。
「あぁ、でも流石に最近人肌恋しくなってきた・・・月島、俺とヤってみねぇ?」
衝撃の発言に月島の霞がかった思考が無理やりクリアにさせられる。口に含んでいたビールを危うく吹き出しそうになるのを必死で堪えて嚥下すると月島は思わず菊田に問いただした。
「は?!どう言う意味ですか?!」
「いや、月島なら一緒にいて楽しいし嬉しいし、これでヤれたら最高なんじゃねぇかな、って」
月島の剣幕に全く動じず菊田は赤ら顔でへらへらしている。
「菊田さん、ゲイなんですか?」
「いんや、バイかな?女相手のが多かった。女の方が相手探すの楽だったしな。」
「男性経験は?」
「ん~、ほとんどねぇかな~。でも月島ならお願いしたいくらいだ。」
自分は上司となんて会話をしているんだ、と月島は思ったが止められなかった。何故なら月島こそがゲイで菊田の事をずっと好みだと思っていたからだ。飲みに誘われて断らなかったのは月島も菊田を見ながら飲むだけで楽しかったためだ。今も酒のせいでぼんやりした顔でニコニコしている菊田を好ましく思っている。
しかし職場の人間との面倒事は避けたかった。上司相手なんてとんでもない、と普段の月島なら思うところであるが、あまりの据え膳に酒のせいにしたくなってくる。
「・・・一回だけなら」
「え?マジ?!」
しまった、心の中で考えていたつもりが口に出ていたらしい。月島は慌てて自分の口を抑えるが後の祭りである。
「じゃあ、月島の気が変わらねぇうちにな。」
さっきまでの酔っ払い特有のゆったりとした動きはどこへやら、菊田は急に俊敏な動きで伝票と月島の手を取り店の出口へと向かった。
次の日、月島は大変後悔していた。ベッドの上で、両手で顔を覆い、指の隙間から隣で寝ている菊田を見る。
『やるんじゃなかった・・・』
菊田が下手だったわけでは無い、むしろ良すぎた。
『何が男相手の経験はほとんどない、だ。今までの全ての発言の信憑性も怪しくなってくる』
初め、菊田のモノを見た時は帰ろうかと思った。実際帰ろうとしたが、あれよあれよと言いくるめられベッドに引き戻され、百戦錬磨かと思う程の手管で最終的には到底無理だと思ったサイズのモノを受け入れていた。今までに経験したことない程の奥まで暴かれて快感で意識が飛んだのも初めてだった。それだけに
『会社の上司に本気でハマるなんて御免だ』と月島は菊田を起こさぬようにコッソリベッドから抜け出し、宿泊代を菊田の財布に忍ばせてから帰路に就いた。
そして月曜日、予想通り菊田から咎められた。
「なぁ、この前何で先に帰っちまったんだよ?そんなに下手だったか?」
ベッドでの月島の反応を目の当たりにしているのだ、そんな風に全く思っていない口調で聞いてくる。終業後の喫煙室で人気は無い、わざわざ喫煙室に向った月島を菊田は追いかけてきたのだ。
「金曜の夜?」月島はしらばっくれて何を言っているかわからない、と言う顔をする。
「ホテルで、帰ったろ。朝起きたらいねぇんだもん、寂しかったぜ。」
「ホテル?金曜日は菊田さん、かなり酔っぱらっていたので夢でも見たのでは?」
「いや、お前さん、さすがに無理あるからな。俺の財布に金突っ込んで、あわよくばホテルに行った事自体無かった事にしようとしたろ。」
ばれたか、財布の金が減ってなければもしかしたら誤魔化せるかもと思ったが、そんな作戦が通用するかもしれないと思った時点で月島も相当酔っていたのだろう。
「俺の何がまずかった?こう言っちゃなんだが、結構上手かったろ?」
結構どころでは無いから月島は逃げようとしているのに、菊田にしてはずいぶん察し悪く食い下がる。月島の思っていた菊田なら例え理由がわからなくても脈が無さそうならスッと引き下がると思っていたのだが。
無言を貫き、目を逸らし続ける月島の眼前に菊田は何度も回り込んで「なぁ、月島~」と困り顔で甘えた声を出す。
「俺はかなり良かったから、一回だけなんて言わねぇで欲しいんだがな、月島。」
月島が菊田の視線から逃れきれなくなったところで、菊田は色を含んだ表情に変えて月島の耳元で吐息混じりに名前を呼んだ。途端に金曜日の情事が思い出され月島は無表情のまま顔を紅潮させてしまった。
「ほら、やっぱり満更でもねぇんだろ?何が気になるんだよ?」
イタズラが成功した子供のように喜ぶ菊田に月島は苛立ちを募らせる。
「菊田さん、面倒は嫌だとおっしゃっていましたよね?惚れられて振るのは嫌だと。」
月島の発言が想定外だったのか、菊田は目を丸くして黙って聞いている。
「あんなこと続けたら今度は俺が面倒な相手になりますよ。俺だってあなたと同じくそんな事になるのは御免だ。」
「・・・今、月島は俺に愛の告白をしたのか?」
「御免だ、と言っているんです。」
「月島に惚れられても振らなきゃいいんだろ?」
「はぁ?!」
この前と言っている事が違うだろうと、月島は思わず部下の仮面を捨てて悪童面をのぞかせてしまう。
「やべぇ、すげぇ嬉しいわ」
今度は菊田が赤面し始めたので月島は悪童面をまた引っ込める。
「男性と付き合った事はほとんどないんですよね?」
「わりぃ、あれ嘘。興味はあったんだが、実際したのは月島が初めてだ。男相手は童貞だなんて知られたら月島に断られると思ってな。」
顔の下半分を手で多い、菊田はバツが悪そうにそう言った後、すまん、と手刀を切る。
「だって、あんなに」上手かったのに?と言いかけて月島は言葉を飲み込む。もはや意味がわからない、全て嘘なのでは無いかと思いそうになる。
「いや、男でも女でも相手の反応見て探る作業ってのは一緒だな、何とかなって良かったわ」
照れ隠しなのか月島にはわざと軽く言っているように聞こえるが、要は相手の望むことを察する能力が高いから人たらしであり、ベッドでの手腕もあるのだろう。これでは抱いた女が片っ端から惚れるのもわかる気がする、気が利きすぎるから『本当に愛されている』錯覚を起こすのだろう、と月島は大きなため息をついた。
「で、結局菊田さんはどうしたいんですか」
「え?付き合うんじゃねぇの?」
「嫌ですよ、上司となんて。それに別れても職場で顔合わせるなんて想像したくも無い」
「別れなきゃいいじゃねぇか」
出来もしないことを、と顔で表現した月島が無言で菊田を見つめる。
「わかった、じゃあ、結婚しよう」
「は?!」
「月島と今後ヤれねぇのも飲みに行けねぇのも嫌だしさ、結婚するなら少しは信用出来んだろ?」
「は?!?!」
「日本だとパートナーシップ制度とか言うんだっけ?・・・お、隣の自治体でやってんじゃねぇか。どうせ結婚するなら一緒に住むよな?二人で引っ越そうぜ。」
「は?!?!?!」
月島の理解を置いてきぼりにして、菊田はスマートフォンを使って不動産の検索を始めている。
「愛してるぜ、月島」
完璧な笑顔で見つめてくる菊田に月島は考えるのを放棄した。
そして1週間後には揃いの指輪を嵌めることになり、2週間後には引っ越してパートナシップ宣誓をし、月島は3年後の今も毎日菊田から溢れんばかりの愛情を注がれている。何で俺なんかを、と月島が思った事はもちろん沢山あったし、その度に菊田から説明を受けても納得はいかなかったが、毎日ニコニコしている菊田を見ているうちに『まぁ、もういいか』と気にしなくなった。今では月島も出来る限りの愛情を注いでいる。