尾月原稿「……お前、営業なのにプレゼン下手くそだな」
あまりにも拙く、しどろもどろなそれらの言葉が耳から潜り込み、食道を伝って落ちて、そうして腹の奥底にすとりすとりと降り積もっていくような感覚がした。いつもの無数の膜を重ねた言葉ではない、剥き出しの言葉の漣。それらはどこか、幼い子供が一生懸命に紡ぐその響きに似ていた。
「……自分に価値があって、売り込むことになるなんて想定してなかったので。完全な資料不足ですな」」
「営業成績一位取ったこともある奴が、聞いて呆れるな」
「アンタも同じようなもんでしょう」
自分に、誰かに乞われるような価値があるかと問われれば、多分月島も同じように否と答えるだろう。その上で長所を上げて売り込めなんて言われたら途方に暮れるだろう。欠陥部分は慣れたように指摘し並べ立てられるが、逆をするのは酷く難しい。何よりも、自分にそれだけの価値があると声高々に宣言しているようで恥ずかしくて堪らないのだ。
それでも尾形はそれをした。変な方向にプライドの高いこの男が、お得意の二枚舌を装着するのも忘れて、武器とする甘言も嘲笑も使わずに。俺を選んで、と、恥ずかしげもなく言ったのだ。
「お前。……お前、可愛いなぁ」
「はあ?」
びく、とベルトに触れる指先が跳ね上がる。顔は見れないがきっと猫のように目を丸くしているに違いない。そうやって想像出来るくらい、月島はいつの間にかこの男の事を知っていた。覚えていた。それが多分、答えなのだろう。
「なれると思うか? 俺らが」
「なってみなきゃ分かりません」
「事後対応最悪すぎるな」
「保証書なんて一つも付けられませんよ、俺だって」
なったこと、ないんだから。月島の肩口にぐっと形の良い額を押し付けたまま、消え入りそうな声でそう呟く。ずっと獣で、クズで、人でなしだった。中身が腐りきった何かが、人並みに情緒だとか愛だとかを育めるかは分からない。それでも。一緒に人間になりたいと思ったのだ。
「……なあ尾形。前も言ったがな、これのせいで俺は多分一生孕めんぞ。男でも孕むというオメガの唯一の希少性が無いんだ」
すり、と撫ぜる下腹部の抉れたような傷口は、今も時折じくじくと痛む。あの日の破片が突き刺さって抜けないそこは、触れる度に戒めるように記憶を呼び覚ます。
「傷物の中古だ、お前ほどのアルファには釣り合わんぞ」
祝福の子、では無いとはいえ。尾形は紛れもなく優等種だった。自分のような訳アリのオメガを番にする必要は全くない。平然とそんな言葉を並べ立てたのは、尾形への最後のチャンスのつもりだった。それさえも振り払われたら、きっと、月島はその手に縋って引きずり落としてしまうだろうから。だから最後に逃げる口実を与えた。なのに。
「馬鹿ですね月島さん、俺がガキ欲しがると思いますか?」
冷えきった指先が引き攣れた醜い傷痕をなぞる。あの日の欠片が、一つずつそっと、抜かれていく───。
「俺の血も、アンタの血も、一滴だって残しちゃいかんでしょう。あんなクズどもの血を引いてる俺らは、きっとまともな人間作れやしない」
「酷い言い草だな」
「事実でしょうに。それに、俺は」
尾形は優しい声で言い含めるように言った。
「オメガだから好きになったわけじゃない。アンタが月島基だったから、好きになったんだ」
現実主義者の尾形にしては随分と曖昧なその言葉が、ずっと心に刺さっていた沢山の欠片たちを丁寧に抜き取った。痕には、穴だらけの醜い心が残った。未だどくどくと血を流すその傷口が、尾形が与えてくる言葉と、愛と、祝福で、そっと止血されていくのを感じ取った。
「……ありがとう、ありがとな。俺も、お前が尾形百之助だから、一緒に生きていきたいと思ったよ」
まだ血は滲むだろう。痛みはきっと一生消えない。それでもこの男と一緒なら、いつかその傷も塞がるだろう、と思った。
「俺と一緒に人間になってくれ、百之助」
月島もまた、一世一代の告白でその愛に応えたのだった。
恐る恐る、汗で湿った項に唇が這わされる。あの日以来己で触るのも憚れていたその場所に、自分以外の体温が触れている。その事実に月島の呼吸は僅かに浅くなった。早鐘のように身体全体に心臓の音が鳴り響く。他の肌よりもずっと剝き出しのそこに、獣がすり寄っている。
「月島さん」
——否。これは獣などではない。尾形だ。人だ。共に人になろうと言ってくれた同胞だ。
「月島さん」
もう一度耳元で名を呼ばれる。聞く誰もを魅了して堕とす声は、ただ一途に己の名を呼んでいた。それだけで。たったそれだけで、息が出来た。
「怖いですか」
恐怖。それは随分と昔に『諦めてきた』感情のはずだ。怖いものなど何もなかった。あの子を傷つけてしまったことより、あの人の運命的な幸福を見せつけられることより、怖いことなど何も。
そのはずだったのに、この男と居ると全部が怖くなってくる。惜しくなって、怖くなる。
「怖いですか」
失いたくないと怯えるのは、その手に得たものが握られているからだ。その手にあるものが美しければ美しいほど、人は終わりを恐れてしまう。手放したくないと、願ってしまう。
「確かに怖いぞ。でも」
腹に回された腕の、ボコリと浮き出た血管をなぞる。その下の血潮は、きっとお互い同じ色をしている。何一つ変わらない、ただ上手く生きれない不器用なだけの人間の血だ。
「お前となら、怖くてもいいかな、とも思ってる」
傍にお前が居るのなら。恐怖と言う感情の急所を、さらけ出してもいいと思った。自分がいつかの終わりに怯えても、それ以上の始まりを与えてくれると信じているからだ。
「……とんだ口説き文句ですなあ」
「一世一代のだぞ、さっさと受け取れ」
耳の端から端まで熱くなるのを感じながら、今顔が見られない体勢でよかった、と心底思った。それは尾形も同じだったようで、軽口を叩く声が、腹の傷を撫でる指先が震えていた。
ぬるり、と舌先が項を這う。
「じゃあ、有難く。頂戴します」
男の白い歯が、真っ赤な肉にぞぶりと埋まる。それは番の上書き。本能の契約。理性ある愛。
月島の身体は、その日ようやく地獄から解放されたのだ。
*
「月島さん」
男に呼ばれて振り返る。日付を超えてなお光り輝く繁華街の雑踏の中、真っ黒なコートを羽織った色男はポケットに手を突っ込んだままこちらを見つめている。
「なんだ」
「人間、って、デートという代物をするらしいんですけど。明日……ああ、もう今日か。空いてます?」
黒瑪瑙のような瞳を僅かに彷徨わせながら言う。上司や取引先への嫌味は顔色一つ変えず平気な顔で言うくせに、デートのお誘いはこんなにも上手にできないものなのか。器用で不器用な男の姿が面白くって、ふは、と空気を零して笑う。月島は思い至った。ああそうか、これが愛しいってことか。
「笑うなよ」
「いやだってお前、そんな、人間一年目みたいな、あははっ」
「……で、どうなんです」
じと、という拗ねたような目線に答えを促される。その仕草が子供みたいでまた笑う。滲んできた涙を指先で乱暴に拭いながら月島は答えた。
「俺の趣味が仕事と筋トレしかないの、知ってるだろ」
「じゃあ、どこか行きたいとこ、ありますか。……基、さん」
尾形はその日初めて、ホテルの外で月島の名前を呼んだ。
「——百之助の、行きたいところでいいぞ」
月島もまた、その日初めてホテルの外で尾形の名前を呼んだのだ。