尾月原稿喉から絞り出した声は酷いもので、それに顔を顰めた月島はぽすりと尾形の背中を軽く叩いた。その衝撃で、溶け出していた自我をかき集めることが出来た。
「大丈夫か、顔真っ青だぞ」
そんな声に縋りたくて、指先が白む程に月島のシャツを握りしめる。行かないで。声に出さずとも尾形は雄弁に訴えていることを、月島は悟ってしまって気まずくなる。生白い肌の男は、騒がしいネオンの光に照らされて今にも立ち消えてしまいそうな気がした。
「あの、貴方は……」
突然現れた強面の男に困惑した勇作はそう問いかける。
「ああ、すみません。私、金神商事の月島と申します。尾形と同部署で働いておりまして」
「そうでしたか。いつも兄がお世話になっております。花沢勇作と申します」
心配そうに尾形の背を摩る青年が発した『兄』という単語に月島は目を見張った。だとすればこの男が、例の。母親に似たのだろうか、花のような顔は兄とは似ても似つかない。到底同じ父親を持つ異母兄弟とは思えなかった。
「コイツ、このところ無理してて今日も体調が悪そうだったんですよ」
「えっ、そうなのですか。それならそうとおっしゃってくだされば……。いえ、すみません。私がお会いしたいなどと我儘を言ったからですね……」
しゅん、と落ち込む勇作から、なるべく自然な動作で尾形を引き剥がして間に割り入った。恐らくこのαのフェロモンにあてられたのだろう。確かにこの祝福の子のフェロモンは恐ろしいほど強力だ。彼が何か欲しているわけでもないのに、何かを差し出してしまいそうになる。二人とも早々に距離を置いた方が良さそうな予感がした。
月島が何度か尾形、と呼び掛ければ、その腕に縋りついたままか細い声できこえてる、と返した。その全く覇気のない声にため息を吐いた。これは駄目だ、限界だろう。
「もーっ、月島さん! 急に走り出してどこ行くんですか! 見失う所でしたよ?!」
そんな時、場違いな程軽快な声が人ごみをかき分けて駆け寄ってきた。三人全員がそちらを見る。そこには、あからさまに不機嫌そうな顔をした整った顔立ちの青年が、月島を睨みつけて立っていた。
「ああ、江渡貝。悪かったな」
「悪かったなじゃありませんよ、もう! 月島さんってばいっつも周りが見えなくなるんだから。走りながらスマホ落としてたし。ハイ、割れてなくて良かったですね」
「えっ。本当だ、気づかなかった。ありがとな」
「スマホ落として気づかないとかありえないですよ。すぐ落としたり忘れたりするんですから、いい加減ストラップでもつけてください! 毎回探すのに付き合うこっちの身にもなってくださいよね」
「悪いって思ってるって」
随分と親し気な様子だった。上司とも部下とも違う距離感に、未だ逸る心臓を押さえながら尾形は顔を顰めて月島を見上げる。パチリ、と目が合った。月島が目を見開く。自分を見上げる尾形が随分と弱弱しい顔をしていたからだ。余裕と皮肉たっぷりのニヒルな笑みを浮かべているいつもとはまるで違う。こいつ、こんなに幼い顔をするんだな。月島はそんなことを思いながらガシガシと頭を搔いた。
「あー、すみません。見ての通り体調が悪そうなので、連れて帰りますね。穴埋めはするように言っておきますので」
「えっ、いえ、そこまでしていただくのは……!」
「家が近いんですよ、何度か行ったこともありますし。ついでですので」
家が近いのは嘘、月島の自宅は全くの反対方向だ。何度か行ったことがある、それは本当。でも月島は尾形の家のベッドルームしか知らない。
勇作は月島と尾形を見て少し考えた後、丁寧に深く深く頭を下げて言った。
「分かりました。お手数をおかけしてすみません。今度必ずお礼をさせてください」
「いえ、お気になさらず」
「兄様、お店の方は私がキャンセルしておきますね。ご無理をさせてしまい申し訳ありませんでした」
勇作は自分がこれ以上傍に居ても尾形を苦しめるだけだと悟ったのか、案外素直に身を引いた。月島のシャツを握って離さない兄の姿を見て、どこか安心したような素振りさえも見せた。
「それでは」
月島は尾形に肩を貸し、事の成り行きを見守っていた青年に声をかけて駅に向かって歩き出した。勇作は、ずっとその背中を見守っていた。
「で、どうするんですか、それ」
空気を読んで黙っていた青年は、駅の改札付近まで戻ってきた辺りで口を開いた。それ、とは尾形の事だろう。生意気な口をききやがってこのガキ、と思いながら青年を睨みつけた。月島の肩を借りている時点で格好はついていないが。
「ああ、さっき言った通り送ってくる。悪いが今日は不参加にさせてくれ」
「ええっ?! 僕らの方が先に約束してたじゃないですか!」
「こいつ一人で帰れそうにないだろう。前山にも謝っといてくれ、埋め合わせは今度する」
ぶう、と膨れる青年を見る月島の目は随分と優しくて、尾形の心の奥底がまたぞわりと騒めく。その目は、知らない。知らない月島ばかりだ。当たり前だ、尾形はこの男のことを知ろうとしたことが無かったのだから。
「次は月島さんの奢りですよ」
「分かってる。前山もそろそろつくみたいだ、それじゃあな」
高いお店選んでやる、と言う青年ににこやかに手を振り返した後、尾形を引き摺ってタクシー乗り場へと向かった。
「良かった、んですか」
タクシーの座席の中、長い足を窮屈そうに折りたたんだ尾形が、月島にぐったりと身を預けながらそう問いかける。会話から察するに、恐らく今日はあの青年との約束があったのだろう。何せ今日は花の金曜日だ。仕事の鬼も羽目を外したかったに違いない。それが、何が悲しくて自業自得で瀕死状態になった部下の介抱をしなくてはならないのだ。そう思ってるに違いない、と思った。
「別に江渡貝たちとはいつでも飲める。気にするな」
「タクシーに放り込めばよかったでしょう」
「そんな状態で部屋まで辿り着けるのか? お前、多分熱あるぞ」
そっと掌が脂汗まみれの額に添えられる。ぬるい体温は気持ち悪くて、でももう少しだけそうして欲しい、とも思った。残念ながら掌は呆気なく剥がされてしまったが。
「それに、今のお前は一人にしちゃダメな気がしたんだ」
酷く優しい声で、尾形の知らない声でそんなことを言うものだから。キャパシティオーバーで悲鳴を上げる脳は、強制シャットダウン寸前だった。分からないことが多すぎる。知らないことが多すぎる。知りたいことが、多すぎる。
どんどん重くなっていく瞼が、かさついた指の腹でそっと撫ぜられる。
「ほら、寝てろ。着いたら起こすから」
独特なタクシーのシートの匂いの中、隣からふわりと漂う石鹸の香りは、崩れ落ちそうだった尾形の自我の輪郭を正しくなぞってみせたのだった。