🐱 集中力が途切れ、一旦顔を上げた猫魔族はギョッとした。
それこそ自慢のしっぽがボワッと膨れ上がる程にはびっくりした。これは後できちんとクシを入れなければならない。
猫魔族は無意識に己のしっぽをかき抱きながら、必死に心を落ち着かせようと試みた。
ぱっちりとした猫目を閉じてすーはーすーはー深呼吸をする。決して猫吸いはしていない。己自身が猫なので。
必然的に自分のしっぽの匂いを嗅いでいるとか、自分の体臭が落ち着くとか、そんなことは全く気づいてすらいなかった。
だって、だって。
黙々と仕事をしていた上司、ナジーンの膝の上にさっきまでいなかったものがちょこんと居座っているのだから。
ナジーンはカタブツで知られるファラザードの二番手である。一番手のユシュカがなかなか仕事をしないため、ユシュカの仕事まで半分くらい……いや、三分の二、四分の三……とりあえずかなりの量をこなしているのがナジーンだ。
もちろんバリバリと書類を捌き、机にうず高く生まれたタワーとも山とも表現出来る物体をあっという間に崩していく。とはいえ、それらは一つや二つではなく複数あるのだが。
始業時には机の向こうにいる麗人は埋もれて見ることが出来なかった。大柄な魔族であるにもかかわらず、ありとあらゆる契約書や草案、陳情書に埋もれているのである。
始業から数時間経過した現在、山は半分ほど崩されて、正面が空く形になっていた。チラホラと同僚が認可や裁可が必要な書類を提出しに行く為だろう。
その覗く隙間から見える光景。ナジーンの膝の上に鎮座する、ファラザードでは比較的慣れ親しまれ始めた人物。
一体いつ部屋に入ってきたのだろうか。
最近立て付けが悪くなってきた扉は、出入りの際にキィキィと軋んだ音を立てる。いくら集中していたからとはいえ、猫魔族の耳はいいのだ。聞こえないはずがない。
ナジーンの執務机までの足音もしなかったのだ。雑然と、主に書類類が積まれている狭い通路だって、誰しもが通る時必ず一度は引っ掛けてしまうものなのに。
まるで実態がない幽霊のようなもの。けれどそこに存在して、ナジーンにべっとりくっついている。……というか、寝ている。
ぴるぴると耳が動き、ぷうぷうと実に間の抜けた寝息を拾う。
ナジーンの胸に頭を預けてすっかり寝入っているのだ。この状況で。
じっと観察していたのが悪かったのだろう、気がついたらしいナジーンが少し厳しめの視線を向けてきた。これは威嚇か牽制か。
魔界では弱者である猫魔族が上位魔族であるナジーンにかなうはずもない。上位魔族に勝てるのだとしたら、今現在間抜けな寝息を立てている少女だけだ。彼女は神々さえも倒した英傑である。
高い武力を誇る氷の魔女、ヴァレリアからは勇者姫以上に再戦を願われ、悪意の純粋培養、アスバルの魔法にも対処してしまう。もっと言えば魔界大戦で破壊と殺戮の限りを尽くした太古の魔人さえも倒している。こわい。
まず挑もうとさえ、猫魔族には思えない。
ヒゲをピンと伸ばして、ブルブル震えながら手元に目線を落とせば、抱きしめていたらしいふわふわのしっぽが目に入った。とっても、とーってもぼさぼさになっていた。
「ナジーン!」
と、そこに空気を読まない闖入者がひとり。
我が国でナジーンのことを呼び捨てする人物で、男なのはこの人だけ。女性ならばレジャンナ三つ子王女などが挙げられる。
ばぁんと勢いよく扉を開けた為、いくつかの書類の山が崩れてはらはらと宙を舞った。
あっと思っているうちに風が吹いて、部屋の中を吹き荒らし、目を開いたら書類は先程よりも綺麗に積み上がった状態になっていた。なにがあった。
ちら、とナジーンの掌中の珠と化している少女をみやれば未だにぷうぷう寝ている様子。流石に寝顔を見せたくないらしい独占欲全開のナジーンが、胸元に顔を押し付けるようにして隠しているが。
「ユシュカ、静かにしろください」
なんだろう。丁寧に接しているように見えてその声はとてつもなく低い。元から声が低いのに、重低音ってここまで低くなるんだって思うほどに低い。そして声ってここまで小さくしても聞こえるんだっていうほどに小さい。確かに猫魔族は耳がいいけれども。
しかもちゃっかりしっかり少女の耳は大きな手に塞がれている。そこまで起こしたくないのならもう部屋に連れていった方がいいのではないだろうか。
ボソッと隣の席の普通の魔族の同僚に呟いたら「いやいてもらった方がいいぞ。だって見てみろよ、普段より仕事の減りが早い」と言われた。言われてみれば確かにそうだ。なるほど、仕事の効率が上がっていたのか、それは仕方がない。
執政官という職は、ナジーンのお陰で超絶ホワイトなのだ。代わりに優秀な副官殿の仕事量は凄いが。
上司が頑張って仕事をこなしているのに、部下がサボるなんてありえない。故に、執政官たちは等しく働き者だ。
だというのに、てっぺんに位置する魔王ユシュカは気にすることもなく、いや、労いの言葉がないとかではないのだけれど、とりあえずご機嫌急降下中のナジーンを気にしなかった。いやしろよ。
ここは灼熱の砂漠国家のはずなのに、びゅうびゅうと吹雪が吹き荒れているようだ。魔界には雪は存在しないけれども。
氷の魔女と並んで吹雪の副官とか名付けられそう。というか、腕の中の少女ならそう名付けてそう。いや、少女の前では吹雪かせないか。
ぶるぶる震えながら、同じくぶるぶる震えていた同僚とからだを寄せ合う。セルフ猫団子。猫以外も混ざってるけど。
ユシュカは炎属性だからか吹雪をものともせず、あれやこれや話しかけている。強い。さすが魔王。畏怖の念を再認識する。
それよりもこの状況ですぴょすぴょ寝ていられる少女の方が凄いけれども。鈍感なのか大物なのか。
「仕事の話でしょうね」
ギロリと向けられた剣呑な、おおよそ主兼幼なじみに向けるものではない睨みにもユシュカは動じなかった。
それどころかカラカラ笑うのだからこちらは震えてしまう。火に油を注がないで欲しい。永久凍土になってしまう。
「今度大きな式典を開催しようと思ってるんだ」
「式典、ですか」
「ファラザードは新興国家でマトモに祝祭日がないだろ? あるのは建国記念日くらいだ」
連日お祭り騒ぎのような国だが、建国記念日は特別な日だ。仕事は執政官はもちろん最低限を残して休みだし、兵士たちは駆り出されるがキチンとその後に休みを貰える。
商人の国なだけあって、盛り上がれば経済効果にも繋がる為、この日だけで巨額のゴールドが動くという。
「どのような名目のものなのですか」
ユシュカのことだから名目を考えずに丸投げしてくるか、はたまたものすごくしょうもないものなのか。
多分ナジーンの頭の中では瞬時にそのふたつの可能性が弾き出されているのだろう。
もう既に眉間をグリグリ揉んで頭が痛そうだ。後で頭痛薬差し入れよ。
「魔界の解放記念日だ!」
ユシュカの金色の瞳がキラキラと輝いて、そこから熱烈な売り込みが展開される。
ファラザードだけでなく魔界三大国家とゴーラでの祭りにしたいらしく、規模がやたらと大きい。
できれば魔界全土でやりたいと言う祝祭日は、魔界を苦しめ続けた異界滅神を討伐したことに由来させたいらしい。
確かにこの偉業は、未来永劫語り継いでもいい英雄伝だし、嘘のような真の話だし、当事者すぴょすぴょ寝てるけ……あっ、起きてる。
ユシュカが熱く語ったのが原因か、目覚めた少女はどうやら寝起きでぼんやりしているようだ。
ナジーンが呆れてため息をつきつつ、頭痛を堪えるように今度はコメカミを揉んでいる。ヘッドマッサージ器でも贈ったら喜ぶだろうか。
「新しい祝祭日はいいでしょう。大義名分としても悪くはない。ですが、魔界全土となると根回しにどれだけの時間が……ぁうッ」
滔々といつものお説教が開始されたのをああまたかという気持ちで聞いていると、不意にその声が遮られた。……とても艶めいた声で。
にゃ、ニャーハナニモキイテナイニャ。
同僚たちも目を逸らし、耳を塞いでいる。自己防衛、大事。
バッチリ原因を目撃してしまったのも記憶から消す。絶対に消す。……ナジーンの喉仏に少女が噛み付いたから、なんて、そんな事実は存在しない。存在してはならない。
喉に立派な歯型が付いたナジーンだとか、やたら満足気な表情をしてまた寝入った少女だとか、呆気にとられたユシュカだとか、何も見てない聴いてない。
執政官団子はガタガタ震えながら、なんとしてでもこの大災害を生き残るべく、机の下へと身を隠した。ニャーたちは空気。空気です。
さて、吹雪の副官と炎の魔王がかたまること数秒。
やはり阿鼻叫喚地獄絵図が爆誕したのだった。
なお最大の元凶はその後、ナジーンにしっかりとからだで躾られた模様である。
……歯型が消えるまで放置されていたのは、なんというか……いたたまれなかった。とても。
喉元が見える度に何度目を逸らしたことか。
でもまあ、ナジーンたちが幸せならもうそれでいいニャ!