Hope is a waking dream.希望は目覚めているときに見る夢である。

　鼻唄交じりでフライパンを揺すり、卵を器用に片手で割り入れると、ジュワっと軽快な音と、バターの甘いミルクの香りがキッチンに拡がった。
　後ろで無造作に束ねられた黒髪がふわふわと揺れてシャツの上を滑っている。

「おはようミスタ、動けるなら皿を取ってくれ」

　取立てて物音を立てて歩いたつもりも無いが、適切な距離まで近付くと振り向きもせずに声を掛けて来る。

「おはよう…こんにちは？もう昼だよね」
「１日の始めの挨拶はおはようで良いんじゃないか？」

　そ。何でもイイけど。遅めの朝は少しばかりしっかり目のメニュー。ベーコンとスクランブルエッグ。オレンジジュース。ヴォックスは更にポテトと温野菜も喰う。朝イチから野菜を食いたくないって言ったら、パルプ入りの１００％ジュースで妥協した。
　何でも無い日常。穏やかな時間。
　アッシュピンクの後ろ髪をピコピコと揺らしながら、美しいアクアマリンの瞳をダルそうに半目にして正面の、身支度が整った美丈夫を見遣る。

◇

「…！」

　ヴォックスの寝室から押し殺した叫びとも怒号とも取れる声が漏れている。そっと窺うと、何時もなら気配を察知して目覚める鬼が、苦しそうに魘されて、虚空に手を伸ばしている。
　何度か遭遇する内に、聞き取れたキーワードで、それがアイツの大事なモノを失った過去の出来事だって知った。

　食い縛った歯から伸びる牙、鋭く瘴気を纏った爪、きつく閉じられた眦は泪と鬱血で朱を刺すより朱い。

　あぁ、別に俺の知らない過去なんてどうでも良い。ただ、その血みどろの苦痛をヴォックスが自分だけで消化しているのが気に喰わないだけだ。
　アイツの愛はちっぽけな人間風情では、与えられたモノを受け取るだけで精一杯。だけど、ソレじゃあ対等じゃない。寂しいじゃ無いか。

　俺も同じになったら、オマエのその感情を少しばかり分かち合えるだろうか。

「ヴォックスが好き、だ」
「知っているが？」

　身体の中心にある、何処にも属さない臓器から、溢れて紡いだ言葉を、そのカタチのまま平然と受け止めて、ヴォックスは微笑う。
　何を今更。地球は丸い。位の当然確定事実であると肯定された。

「寂しがりで嫉妬深い可愛い恋人にリップサービスを認めさせる代わりに、ベッドで朝を明かすのはお前だけと約束しただろう？悪魔の私が唯一守る戒律なのだが。まだ信じられない？」

　ベッドの上でマウントを取った時のような、美しい弧を描いた流目に、ピンクトルマリンを覗かせて、揶揄いも愛しさも全部混ぜた蕩けた声で身体を撫でられて、心拍数を無理矢理跳ね上げさせられたミスタは、ぐ。と次の言葉を呑み込んで自室へ逃げて行った。
　ベッドに飛び込んだらしい、床の悲鳴を聞きながら、鬼は、一切の感情を削ぎ落とした大理石の彫像の様な表貌で言葉を吐いた。

「まだ、だよミスタ。その先は言ってはいけない」

まだ、お前は人のまま、私をニンゲンで居させて。