山猫は美氏風力階級の最上階で眠る。「おや。まだそれを使うの?」
青い筆記体のドラッグストアで、ミスタが無造作にカートに投げ込んだ黒いスプレーを見遣り、ヴォックスが含むような言回しをしたので、孔雀色の瞳をパチパチとさせてちょっと首を傾げた。
「もうすぐ無くなりそうだし。ん?なんかあったっけ?」
「今使っているのが無くなったら、私とメゾンに行くと約束していたよ」
あーそうだったっけ。とクリスマス商戦に乗ったカラフルなコフレやグルーミングギフトのセットの箱やらバッグやらがぎっしり並んだ棚を眺める振りをして、僅かに機嫌を損ねた金色の瞳から目を逸らす。
特に拘りがあった物でも無くTEENの頃からの習慣。約7ポンドの嗜み。
『ミスタ、お前の纏う物を私に贈らせてはくれないか?』なんて言われていたっけ。
すん。と耳の後ろから首筋周りの酸素が奪われて、換わりに吐息交じりのバリトンが周辺の空気を揺らす。
「シトラスとタバコ葉の爽やかな香りはもう終わりだね。ジンジャーの深みとトンカビーン、ムスクとアンバーがお前の匂いと混じって色気良い。ヴァニリンは好ましいが、私の好みとしてはココナッツの賑やかしは要ら無いかな?」
「うっわ!」
とても似合っているけれど、ね?と寄せられた唇は何事も無かったかのように遠のいて、 皮膚に温もりの余韻を残す。
白く明るい店内が、 ミスタの声帯を鋭く震わせる事を思い止まらせ、代わりに大きなアーモンドアイを半月に眇めて、 Molest紙一重のちょっかいを出す齢400の鬼を見る。
当の本人は鮮やかな黒髪をさらりと揺らして、 ドラッグストアの清潔感を体現した様な爽やかな笑みを浮かべていた。
「ヴォックスはどんなコーデにしてくれンの?」
「……そうだね。燻る程の煙(タバコ)、革のホルダーに下げられたリボルバー(レザーとガンパウダー)。 恐れずに手を伸ばした者だけがその肌のしなやかな甘さ(アンバーとムスク)を知る事が出来る。 なんてどうだ?」
お前は武装するのが好きだろう?リズミカルに指先を、組んだ腕の端で弾ませて応じる。
ミスタはショルダーから脇に沿う革のホルダーに収まったウェブリー・リボルバーから漂う火薬と、切りたての葉巻から薫る苦いタールと青い甘さ。随分中二病っぽいチョイスだと思う傍ら、カッコ良いと称賛する自分が居るのも確かで。
好みを把握されているのが悔しくて、素直に返事をするのを辞めた。
「うっは。ごりごりジャン。で、手を伸ばすのはアンタ?」
「お気に召さなかったかね?」
「べっつに〜?」
行儀悪くカートに足をかけて逃げるように漕ぎ出したミスタへ、くすりと笑ってゆっくりと後を追う。どうせ入口のミールディールで軽食を選ぶために立ち止まるのだ。
去り際に動いた口許は『tackyって言わねぇの、うれしかったから』跳ねる毛の隙間から見える耳は淡く桃色。
「おやおや」
予想外のリアクションに苦笑する。
ぶっちゃけ、ヴォックスには特に価格価値などどうでも良かった。
金で全てが買える等と言えるようになったのはここ200年にも満たない。まぁ、現代を生きる以上、TPOは必要かもしれないが。
実際、 ミスタはとてもセンスが良く、自分の魅力を十二分に引き出すことが上手だ。
それよりも、彼を自分の手に及ぶ範囲のもので覆い隠したい。
自分の所有権を主張し、周囲を牽制するのにブランドを利用する事が効果的な場面は意外と多い。115ポンドの主張。
それ以上に。
素肌の匂いを知るのは自分だけだという、欲。
入浴後の揮発する果実香のオクタナール、ノナナール。閨で誘うオキシトシンはヤコブソン器官を刺激し、鈴蘭の薫りの幻影は卵子から分泌するブルゲオナールの如く私を惹き付けて止まぬ。
俯いた表情の奥、瞳を己の執着と同じ濃度の金赤硝子に染めて黒い鬼は嘲笑う。
「そんなに美しい話では無いんだ。すまないね。ミスタ」