タイムトラベルシンドローム ep.03 前編 決して、お前が弱いヤツだと思っていたわけじゃない。
でも、頼って欲しいと思ったのはお前が弱っていたからだ。
類はいつだって強くて、頼もしくて、みんなを一歩下がったところから支えてくれる。悪い癖なんて言うが、周りが見えなくなるほど集中できることはすごいと思うし、そのくらい演出を考えるのが好きな証拠だ。オレは類のそういうところが本当に好きで、尊敬している.
そんなお前に、頼ってもらいたい。
窮地に立たされたら背中を合わせて戦って、
一緒に笑って、沢山の人を笑顔にして、
どちらかが辛い時は、互いに肩を貸し合おう。
そう、望むのはいけないことだったのか。
そして、それ以上を望んではいけなかったのだろうか——
**
(ん……く、苦しい……なんだ……?)
胸が圧迫されるような寝苦しさを感じて、司は目を覚ます。胸を前と後ろから押さえつけられている、そんな感覚。呼吸がし辛く肺が上手く膨らまない。生存本能から、身体は酸素を取り込もうと、息を吸って吐いてを何度も短く繰り返していた。
「なっ………——————‼︎」
ネネロボが音声を取り込めば、120dbと計測されかねない大声を呑み込んだのは我ながら褒められて然るべきだと司は思う。
「いや、いやいやいや……オレは昨日いつ寝たんだ。それより、何故類に抱き締められている!」
目の前には目蓋を伏せた類のどアップ。風呂に入っていないのか、目尻の赤いアイラインがそのままで、下目蓋に影を落とす伏せられたまつ毛がゾッとするほど綺麗だった。
「む……やはり、顔が良いな……。類は美人だ」
スリーピングビューティー、ふとそんなおとぎ話のタイトルが脳裏を過ぎる。未だ起きぬ類の彫刻めいた端正の取れた顔を司は眺めることにした。司の前髪を微かに揺らす、類の吐息に熱が上がりそうだった。薄く開いた唇から覗く舌がやけに赤くて、誘惑されているような気にもなる。惑わされる、手を伸ばしたい——そう、欲を刺激される。
「キス……二回も、この唇と……したんだな……」
柔らかく触れるだけの優しいキス。けれど、どこか激情を孕んだように熱く蕩ける。一日の間に二度、そんなキスをされ、好きだと告げられ、抱き締められたまま眠っていた。互いの感情が伴っているかはともかく、これではまるで恋人同士の触れ合いではないか。
「………………バカ類」
こんなもの、どうしたって意識してしまう。元々好意を向けている相手に、自分のことを好きだとあらゆる言葉と態度で示されてしまえば、司は無碍にできなかった。元より、他人から向けられる自分への好意や期待といった感情には、全力で応えたいと思ってしまう質だった。
「っ……類……」
だが、類への想いだけは特別らしい。少なくとも、他の誰かとキスをしたいなど司は考えたこともない。
(寝ている……から、大丈夫だろうか……)
類は司を好きだと言った。強請ればキスもしてくれるだろうし、むしろ類の方が喜ぶかもしれない。だが、はっきりとした返事をしない内から、類の好意に甘えるのは失礼なのではないか、と司は思う。だから、眠っている間にキスしてしまおうと言うのだ。
(ズルいと分かっている、だが……目の前に差し出されて黙っていられるほどオレは無欲ではないぞ、類……)
顎を突き上げて、少し顔を近付ければ届く距離——目標を見失わないように、と目を開いたまま司は顔を近付けていく。類の呼吸が唇に触れた。あと数ミリメートルの距離——
(っ……やっぱりダメだ!)
ぎゅっと目を固く閉じて、何とか踏み留まる。誘惑に抗い、大きく息を吐いたその瞬間——。
「…………寝込みを襲うなんて大胆だね、司くん」
唇を生温かく濡らす感触に司は目を見開いた。焦点が徐々に合っていく。目の前で類がアイスクリームを舐め取るように舌先を突き出して、意地悪く嗤っていた。
「へ…………? る、るい……?」
「うん、おはよう司くん。おや、僕以外の誰かに見えるのかい?」
「————————⁉︎」
今度ばかりはさすがに呑み込み切れなかったらしい。理解が追いつかず言葉にならない叫び声を上げ、反射的に逃げようと司は類の胸を押した。だが、類に抱き締められていて、距離を置くことは叶わない。
「なっ、なななっ⁉︎ ……るっ、類……いつ、いつから……!」
耳元で司の大声を聞いて、思わず片目を瞑った類がにっこりと笑った。
「あ、朝から元気だね……司くん。そうだねぇ……〝いつオレは寝たんだ〟ってところくらいかな」
「殆ど最初からではないか! 起きていたなら言ってくれ、心臓に悪いだろう……」
「ずっとぶつぶつ独り言を呟いていたらさすがに起きるよ」
「……忘れてくれ」
「ふふっ、僕としてはあのままキスされても良かったけど、眠っている間じゃ一回にカウントしてくれないだろう? それに……僕の好き、をちゃんと理解してからしてくれた方が嬉しいかな」
ぐっ、と司の腰を抱き寄せ、類が耳元で囁く。隙間なくぴったりと密着したことで司は気付いてしまう。
「ひっ……」
「一晩中、君と一緒に眠っていただけで僕はこうなるんだ。……ねぇ、分かる? こんなに硬くなっちゃったよ」
ごりごりと、腹に押し付けられる硬い感触に司は真っ赤に顔を染めた。耳元で囁く類の掠れた声に司の息が切れていく。寝起きと欲情を乗せた低く掠れた声、初めて鼓膜を揺さぶる周波数は、司の吐息に昂ぶる熱を乗せていく。
(こ、これは……類の……か? 大きくて……硬い……)
昨日の甘えたがりな様は可愛いと、そして寝顔は美人だと、そう称した類は紛れもなく男だった。着替えの時に裸を見たことはあったし、もちろん女だと勘違いしていたわけでもない。だが、何となく類は性欲に無頓着なのだと、司は思っていたのだ。
会話に加わることは滅多にないものの、司も男子高校生なので友人が性に関する話をしていることもあるし、性行為の類に興味がないわけではない。硬い性器を押し付けられ、〝そう言ったこと〟を司としたい、という類の意思表示だとも気付いている。
(あ、あの……類が、こんなに……。だ、だが、男同士では……ど、どうやって……繋がるのだ……)
身体を重ねる前提の元に、その疑問は生まれると司は気付いているのだろうか。繋がる方法を知ってしまえば、わけもわからぬまま司は容易く踏み込んでしまうに違いない。純真無垢なヘンゼルとグレーテルが、森の奥に魔女によって作られたお菓子の家に誘い込まれてしまうように。
「さあ、これでちゃんと理解してくれたかい? それともまだ……友達としての好きだと思い込みたい?」
——分かってもらうために、深いところまで繋がってみようか。
ぞわり、と司の背筋が粟立つ。恐怖からではない——歓喜の所為だ。類から欲望を向けられ、確かに司は悦んでいた。
「あ……類……」
「なんてね。冗談だよ」
「…………は?」
空気が一転する——性欲を足の間に孕ませた男とは思えぬほど、爽やかな笑顔を類は見せた。
「怖がらないで。僕はただ、そのくらい君のことが好きだとちゃんと分かっていて欲しかっただけだよ。
さて……僕はシャワーを浴びてくるよ。まだ起きるには早い時間だから君はゆっくりしていて。……じゃあね」
二人を包む、異様な熱と湿気がいつの間にか消えていた。司の額にキスを残して、類は風呂場に消えていく。
「類……」
(もし……あのまま、類がやめなければオレ達はどうなって、いたのだ……)
頬の熱が引かない。それどころか更に熱が上がっている気がする。
正直、やめてくれて良かった、と司は思う。「冗談だ」と言うのは、深いところまで繋がろうか。という言葉に対してではないとも気付いていたからだ。類が司に性欲を抱いているのは明白で、身体を重ねたがっていることも本音なのだろう。
「…………本当に、すべて見せてくれているんだな」
頼れる仲間としてではなく。
熱中すると周りが見えなくなるが、最高の腕を持つ演出家としてでもなく。
性欲を抱くほど司を好いている神代類を、この類は見せてくれる。
司はこの世界に一昨日までいた類と良好な交友関係を築けていたのだから、少なくとも嫌われてはいない自負がある。だが、劣情も愛情もとなれば話は別だ。
「…………〝類〟は、オレのことをどう思っていたのだろうか」
違う世界から来た類と接して、司は自分がこの世界の類に恋をしていたのだと、初めて気が付いた。ふとした瞬間に、自分の視線が類を追っている。誰かを笑顔にするためにいつも全力で、仲間思いで、頼り甲斐があって、——何より類自身の笑顔が司は好きだった。友情以上の感情を全く見せないこの世界にいた類に、心のどこかで恋を諦めて昨日までを過ごしていた。恋が実らずとも構わなかったのだ。ワンダーランズ×ショウタイムの仲間として、これからも共にショーができるなら。
しかし、別の世界からやってきた類の存在は、蓋をしていた恋心を無理やり暴き嫌と言うもほど司に自覚させる。それは、恋が叶う見込みのない現実を突きつけ、夢の中でならその恋を叶えられると誘惑した。
この世界の神代類と恋人になれずとも、
昨日からこの世界にやってきた神代類となら結ばれる。
手に入らない類に、自分に好意を向けてくれる類を重ねて、理想通りに創り変えようとしている——そんな打算で自分は類に手を差し伸べているのではないか。と司の胸が軋んだ。もちろん、類を心配する気持ちに嘘はない。また仲間と共にショーをする楽しさを思い出して欲しいのも事実なのだが。
「どちらの類も……欲しいだなんて、最低だな。オレは……」
布団と枕から類の体臭が色濃く漂い、酔い痴れてしまいそうだった。この世界の類と過ごしているだけでは、彼の体臭など知らないままだったかもしれない。
越えられなかった一線、越えさせてくれなかった一線——それらを易々と乗り越えて距離を詰める別の世界の類。そう、始めにキスをしたのはこの類からだった。
——だからこそ、きっと自分は彼の想いに応えてはいけない。
類の腕からはとっくに解放されているが、司の呼吸は一向に楽にならない。それどころかずきずきと痛みを伴い、胸の圧迫感に喘ぎながら涙をひと筋こぼし、目蓋を下ろした。
——何だかとても疲れたな……もう少しだけ眠っていたい。
意識が睡魔に呑まれていく。微睡みの刹那の瞬間に司の手が何かを探し——目的のものが見つからず、代わりに類の体温が未だ残る布団を抱き寄せた。
**
「…………っ、ふふふっ……」
とても、可愛かった。眠っている僕にキスをしようとしていることも、罪悪感が勝ってキスを止めたことも、勃った性器を押し付けた時の照れた表情も。
だが、彼は可愛いだけではない。
「んっ…………優しいなぁ、司くんは」
傷だらけ、と判断したのは君だけど、そんな僕に躊躇いなく手を伸ばしてくれた。そして、醜い欲望を向けても君は清廉潔白のまま僕を受け容れるだろう。
美しい、僕にとって理想の存在。
常に笑顔で、誰かを笑顔にしようと必死で、眩しくて、優しくて、まさにスターを体現するに相応わしい。
彼の光になら焼かれても構わなかった。でも、彼は僕を焼き尽くすことはしないだろう。星のように自らを燃やしながら、そして包み込むような優しい光を与えてくれる。
そんな彼に僕の欲をぶつけるわけにはまだいかない。
こんなどろどろに濁った泥では澄んだ水を穢してしまう。それではダメだ。だから——————————。
**
「司くん、君もシャワーを……って、寝ちゃったかな」
布団を抱きまくら代わりにして眠っているみたいだ。頬が緩む、僕のベッドで君が寝ている——ただそれだけのことがこんなにも嬉しい。
夢じゃない、夢じゃなかった。ちゃんと触れられる、ちゃんと温かい。
「ふふっ、さっきは僕の寝顔を見られたから今度は君の寝顔を見せてもらおうかな。これでおあいこだ」
床に座ってベッドに肘を突くと、ちょうど司くんの寝顔が見えるだろう。本当は布団の中に潜り込んで間近で眺めたかったが、それでは彼を起こしてしまうだろう。
それにしても、そんなに小さくなって眠らなくても良いじゃないか。今は一人でベッドを使っているのだから、もっとリラックスしてくれれば良いのに。
「ほら、足も腕も伸ばして、司くん……」
「すまない……るい……」
——時が、止まった気がした。
唇の隙間から零れ落ちた名は、確かに自分の名前だった。だが、自分のものではないと何となく理解した。
司くんはこの世界にいた僕の夢を見て謝っているのだろうか。
ああ、夢の中にまで彼は入り込めるのか。
どれほど想われれば気が済むんだ。
こんなに想ってくれている司くんを、ずっと放っておいたくせに。
「……謝ることなんて何もないよ。そう、君が僕に謝ることなんて……ひとつもないんだ……」
どうして君は謝っているんだい?
本来の部屋の主に無断で入ったから?
彼がいない状況に慣れてきたから?
それとも……僕とキスをしてしまったからかな。
キスをした後の君は嫌そうな素振りを全く見せなかった。気付いているかはともかく、神代類に恋心を抱いていたのは明白だ。真面目で誠実な〝司くん〟は二股をかけているような罪悪感を感じているのかもしれない。
「……ねぇ、僕じゃダメかな。違う世界に生きていた、君を傷付けてしまった僕だけど……。今、目君の前にいるのは僕で、こうして涙を拭うことができるのも僕だけなんだよ……?」
胎児のように身体を丸めた司くんを抱き締める。これ以上踏み込むな、と壁を創られたようだったが、どうにかして触れたかった。
親指で目尻に溜まった涙を拭っても、顎まで伝う筋が痛々しくて頬にキスをした。涙を吸い取ると、舌の上に塩辛い味が広がり、君が悲しんでいると知った。
少しでも苦しみが薄れるように、何度も頭を撫でる。この手の平から彼に涙を流させる悪夢を吸い取ってしまえたら良いのに。君にはいつも笑っていて欲しい。でも——涙を流させているのは紛れもない僕の存在だった。
「……代わりには、なれないけれど。僕は君を、二度と傷付けないから……だから……」
——赦してくれ。そう願うことすら罪なのかもしれない。
僕ではきっと君を笑顔にすることはできない。
その事実が酷くもどかしくて腹立たしいが、当然のことなのだとも思う。それがきっと、天馬司から笑顔とショーを奪った僕への罰なのだから。
**
柔らかく、頭を撫でられている気がした。
母さんから与えられる無償の愛のような、優しい手の平だ。
撫でてくれているのは類の手だろうか、類の手であれば良いと思う。
目蓋を上げるのは怖い。夢の中に浸っていれば幸せだろう。でも、ちゃんと目蓋を開いて見なければならない。目を逸らさないとオレは類と約束したのだ。
「ん……るい……?」
朧げな視界でも見間違える筈のない、金色の瞳と目が合った。良かった、この手の平は類のものだった。
ああ、そんな悲しい顔をしないでくれ。
笑ってくれ、類。オレはただ、お前の笑顔が見たいだけなんだ。
**
「おはよう、類……二度目だな」
「そうだね。おはよう、司くん」
当然のように交わされる挨拶を司は尊びたくなった。目の前にいる類と、もう一人の自分は挨拶を交わすどころか、目を合わすことすらなくなってしまったのだから。
霞んだ視界に、一瞬だけ辛そうに眉を下げる類を見た気がしたが、司と挨拶を交わす時には優しく微笑んでくれていた。だが、辛そうな表情は気のせいではないと、司は確信している。
「今、何時だ?」
「ちょうど六時だよ。まだゆっくりできるけど……取り敢えずお風呂に入ったらどうかな。お湯も張ってあるからゆっくりしておいで」
「ああ、助かる。ありがとう、類。だが……」
不思議そうに首を傾げる類に告げるのは、正直司も心苦しい。できれば司とて、このままでいたかった。
「どうしたんだい、司くん」
「その、非常に言いにくいことなんだが……
「君が歯切れ悪いだなんて本当にどうしたの? ほら、遠慮せずに言ってごらんよ」
「む、それはそうなのだが…………類、離してくれ。そうでなけば、風呂に行くどころか起き上がれない」
「…………! ご、ごめんね!」
力強く、守るように抱き締めていたのは類の無意識だったのかもしれない。縮こまる司の身体を包む類の大きな身体は温かくて、離れたくないのも本音だった。
弾かれたように類は司の身体を離す。顔を真っ赤に染めて、申し訳なさそうにまた眉を下げてしまった。指摘すればこうなると分かっていたから、司は言いたくなかったのだ。折角の笑顔が隠れてしまった。
「謝るな、類。風呂を借りるぞ」
ベッドから降りて、類のまだ湿気った髪を撫でる。不安そうに見上げる類に、司は笑顔を向けた。
「八時からだ」
「え……?」
「今日の練習の集合時間だ。どうせしばらく誰かとショーをしていなかったのだろう? 今日はお前のブランクを取り戻すためにも、少々……厳しくするつもりだ。覚悟するんだな、類!」
「っ……! 分かった、君がお風呂に行っている間に準備しておくよ。朝食はトーストで構わないかい?」
類をワンダーランズ×ショウタイムの仲間だと、当然のように扱う司にどれほど彼は救われたのだろうか。微かに潤んだ瞳と、それ以上に笑顔を、類は浮かべてみせる。少なくとも司には、それが自然な笑みに見えた。
(良かった、ちゃんと笑ってくれたな)
「ああ、ありがたくいただくぞ!」
もう心配はないだろう、と司はほっと息を吐く。
「あ……司くん」
去ろうとする背中に投げかけられる類の声。首を傾げて振り返った司に、類は照れ臭そうにはにかんだ。
「その……行ってらっしゃい」
「ああ! 行ってくるぞ!」
しばしの別れにも二人は手を振り合う。
それは一見微笑ましく、見えたことだろう。
だが、この瞬間、司に見せた以上の笑顔を〝神代類〟がこの先見せることはなかったという。
**
風呂から上がった司は、類と朝食をとった。共にご飯を食べるのは決して初めてではないが、朝の出来事が二人を何となく緊張させてしまう。窺うような視線を二人でチラチラと向け、目が合った瞬間思わず二人一緒に吹き出した。
類が焼いてくれた少し焦げたトーストにバターを塗って食べ、二人はフェニックスワンダーランドに向かう。まだえむや寧々に会うのは気不味いのか、集合時刻の八時に近付くに連れて、類は少しずつ元気がなくなっていった。
「大丈夫だと言っているだろう」
「…………君が言うならそうなんだろうけど」
背筋を伸ばすよう、何度か類の背中を司は叩いた。その度に、数秒は持ち直すものの、目的地に近付くとまた背が曲がっていく。
「ほら、お前が渋るからあまり時間もないのだぞ。本来ならば、座長のオレが一番早くに来ていなければならないのに……」
「……それでも僕に付き合ってくれるなんて、君は本当に律儀だね」
「置いて行ったらお前は来ないだろう」
叱られるのを待つ子どものように、類は首を竦めた。
「そうだね。一人だったら、僕は逃げ出していたかもしれない。まさか、こんなことまで君に捕まえられていたとは」
「お前がちゃんと捕まえておけと言ったのだ。ほら、早く行くぞ」
観念したように類は司の後を追う。遠くからでもフェニックスワンダーランドのゲートが見えた。今日はワンダーランズ×ショウタイムのショーは開演されないものの、休日の朝だ。近付くにつれて、開場を待つ客達で賑わっている。
スタッフに許可証を見せて、二人はパーク内に足を踏み入れた。
何度も通い慣れたルートを通って司はワンダースステージに向かう。少し後ろをついてくる類は、きょろきょろと周囲を見回しているようだった。物珍しいのか、懐かしいのか——どう感じたのか司には分からない。だが、類が辛い想いをしていなければそれで良い。
「類、もうすぐ着くぞ」
「…………」
司の視界の端で、唇を噛み締め拳を強く握る。
「大丈夫だ。……オレを信じてくれ」
仲間ではなく、自分を信じろと言ったのは、司の小さな独占欲だ。
見て分かるほど手が震えて、類が緊張しているのは明らかだった。力のこもった指を一本ずつ開いて、司は震えが止まるまで撫でることにする。
(冷たい……屋上の時と同じだ。お前を傷付けるものなど、もうここにはないぞ。それをゆっくり思い出してくれ)
類の指先が誰かの体温を思い出すまで、司は何度も摩り続ける。
「っ……ごめん。もう大丈夫だから行こうか」
覚悟を決めた類は強い。それは別の世界に生きる彼も同じらしい。類の視線からは、もう迷いは感じられなかった。摩るために触れていた司の手を取って、類はステージまでの道のりを先導する。木々の間を分け入って、類は足を進めていく。
「遅くなってごめんね。昨日は僕の都合で練習も休みになっちゃって」
開けた空間、客席の半ば付近からワンダーステージに向かって類が大きな声を上げる。なにごとかと、えむと寧々が振り返った。先に練習の準備を終えていた彼女達は類と司を見て嬉しそうに大きく手を振る。
「類くん、司くん! ぜんぜん大丈夫〜。まだ、集合時間前だよ〜」
「……類、気にしなくて良いよ。来てくれてありがとね。
……それより、司が最後なんて寝坊でもした?」
「ひと言余計だぞ、寧々! お前はオレに何か言わねばいられんのか!」
「朝からうるさいのは司の方でしょ……」
この賑やかさもいつも通り。寧々と司がじゃれ合うような口喧嘩を始めて、えむが「ふたりは今日も仲よしさんだ〜」とはしゃぎ——類が笑顔でその光景を見守っている。
「ええい! お前が余計なことを言わなければ良いだけの話だろう!
それより類……なっ、ど、どうした、類⁉︎」
急に狼狽える司を見て、振り返った寧々やえむもただごとではないと驚愕の表情を作った。
「え……類! 何かあった? どこか痛い……?」
「類くん〜! 泣いちゃダメ〜!」
一人、静かに涙を流す類に、三人は慌てて駆け寄った。類に飛び付くえむ、頭を撫でる司、ハンカチを差し出す寧々。皆が心配して類の顔を覗き込んでいる。
「何でもない、何でもないんだ……」
はらはらと涙を零し続ける類を客席に座らせて寧々とえむは顔を見合わせた。
「何でもないなんてことないでしょ……」
「寧々ちゃんの言う通りだよ……。類くんがしょんぼりしていると、あたし達もしょんぼりしちゃうよ……」
泣いている類を見て、えむと寧々も泣き出してしまいそうだ。だが、司だけは微笑んでいた。
「久しぶりだったんだろう、類」
えむと寧々に意味は伝わらずとも、類にはしっかり伝わったらしい。こくりと頷いて、寧々から借りたハンカチで涙を拭った。
「ごめんね、取り乱して。…………二人に、聞いて欲しいことがあるんだ」
改まった類にえむと寧々は顔を見合わせて首を傾げた。今から話す類の話と彼の涙に一体どんな関係があるのか、気になるのだろう。
ゴクリ、と一度、唾液を飲み込んで類は唇を開く。
「僕は——今君たちの目の前にいる〝神代類〟は、君たちの知っている〝神代類〟じゃないんだ」
自らの理解を超えた事実を知ると、人は言葉を失うという。えむと寧々もその例に漏れず、目を見開いたまま、硬直していた。
そう言えばみんなが揃うとこうなるんだっけ。四人で最後にショーをしてから、それほど時間は経っていないのに、もう随分昔のことのような気がするよ。僕は君たちとの楽しかった時間を懐かしむことすら、忘れてしまっていたみたいだね。
僕のいた世界には、君達が歩んだ過去、そして目の前の現在、待ち望んでいるだろう未来——それらが存在しない。
シンプルに言ってしまうと〝ワンダーランズ×ショウタイム〟は存在しない。消えて無くなってしまったんだよ
僕達が共にショーをする未来は、僕に訪れないはずだった。
「な、何を言っているの、類。ワンダーランズ×ショウタイムが存在しないなんて……」
「類くん……」
信じられない、それも無理はないだろう。えむや寧々の前にいる類に、見た目の変化は殆どない。彼女達には一昨日、ここで共にショーの練習をした類がいるように見えるのだ。
「……だから、泣いてたの? あたしたちと一緒が、つらくなっちゃった?」
えむの泣きそうな表情に類は縦に振りかけた首を項垂れさせる。
「どう、なんだろうね……どう言うのだろう。ああ、もう僕には手に入らないんだって気持ちと、こんな僕にも君達は優しくしてくれるのか。って喜びが半々ってところかな」
力なく微笑みながら、類は話を続けた。
どういうわけか、昨日の朝目が覚めると僕はこの世界にいた。パラレルワールドが存在したと言うことなのかな。
そして……今まで、この世界にいた僕がどうなったのかは分からない。恐らく、僕と入れ換わる形で向こうの世界に招かれているんじゃないか、とは思うけれど確証は持てないよ。
ワンダーランズ×ショウタイムの件は……きっと僕が我慢して、ちゃんと司くんの話を聞いていれば、あんなことにはならなかったのに——。
「きっかけは、司くんが寧々を責めたことかもしれない。でも……最終的にワンダーランズ×ショウタイムを、みんなの夢を壊したのは、他でもない僕だ……」
何を言ったら良いのか分からないのか、えむや寧々は黙ったままだった。呆然と類を見つめている。
「……こんな話を、本当はしなくても良いのかもしれない。でも、僕はどうしたってこの世界の類にはなれない。もう間違いを犯すつもりはないけれど、それでも同じことをいつかするかもしれない……ああ、違うんだ。こんなことを言うつもりじゃなくて……」
助けを求めるように類が司を見た。潤んだ瞳が揺れて、見ているこちらが気の毒なほどだった。だが——
「類、時間がかかっても良い。ちゃんとお前の口から話すんだ」
縋るものを失くして、類がきゅっと唇を噛み締め、眉を下げる。寧々が咎めるように司を睨んだが、司はその視線を黙殺して類を見つめ続けた。
俯く類の米神から冷や汗が流れ落ちた。それは、顎に溜まって雫を作り、服にシミを作る。短く息を吸い、倍以上の時間をかけて吐き出してもその吐息が声帯を震わせることはなかった。類の唇からは喘ぐような呼吸が漏れただけだ。
それでも、司は何もしない。本当は、司も冷たく突き放して申し訳ない気持ちでいっぱいだった。だが、類の想いは類にしか分からないし、司が代わりに言ってはいけない。司が彼の想いを口にした瞬間——、それは偽物になってしまう。
「っ……少しの間だけかもしれないし、迷惑をかけるだろうけれど……こんな僕と、また一緒にショーをして欲しい」
そのまま土下座をしてしまいそうな勢いだった。心臓の辺りの服を掴んで、皆の視線から逃れるように硬く、類は目を閉じた。
「…………正直、とんでもない話ばかりで頭が追いついてない」
寧々のため息に類の身体が跳ねる。
「でも……そんな当たり前のこと一々聞かないでよね、類。私たち、仲間でしょ?」
「そう〜だよ〜! あたし、類くんも類くんの演出だ〜いすき! だから、類くんがいやじゃないなら、一緒にやりたいな」
「類……ちゃんと見ろ」
司の声で、怯えて閉じた目蓋を類はゆっくりと持ち上げた。金色の瞳に写ったのは、眩い光だったのか。眩しそうに目を細めて、重力に誘われた涙が目尻から零れ落ちた。
「……あり、がとう。みんな」
三人分の手が、類に差し伸べられている。類は、小さなふたつの手を纏めて包み込み、もうひとつの手に自分のものを乗せた。
「お礼言われることじゃないよ、類」
「そうだよ! だから、ね! 類くん、わんだほーいだよ!」
「よしっ! じゃあ、早速だが練習を始めるぞ!」
——わんだほ〜い!
四人の笑顔も悲しい表情も、幾度と見守り続けていたその日のワンダーステージは、朝陽を反射してキラキラと輝いていたそうだ。
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沢山、話したいと思った。
僕が傷つけてしまった彼と交わされることのない〝当たり前〟を少しでも取り戻したかった。
それは、元の世界に戻るためじゃない。
この世界で新しい関係を僕は築かなければならないのだから。
当然だろう。どうしたって僕は元の世界に戻りたいと、思えるはずがない。
——僕は君にとって、どう足掻いたって悪役でしかないのだから。
だから、僕は。自分自身を殺す覚悟をしなければならない。