あの素晴しい日々をもう一度「あ、せや。今度ボクとデートして?」
女だ。
女だった。
そこを違えたことはない。最初から。一目見れば分かること。オリバー=ホーンは女だった。
そして、それだけだ。
少なくとも、ロッシにとっては。
目を惹かれる剣の使い手の、そのすぐ傍に陣取っていた地味な人物がたまたまロッシとは異なる性別の持ち主だった。それだけ。ただそこにあるだけの事実。魔法使いであるからには性別など些末なことだ、と。当時のロッシはその考え方に疑問すら抱いていなかった。
だからあのとき。口にした言葉も挑発の一貫に過ぎなかった。『デート』だなんて。オリバーのような堅物、ロッシの好みでもなんでもなかったが、いかにもな優等生にはこういった方向性の揶揄が効く。勘と経験ゆえの発言。
「デート? 何故君と?」
予想に反してオリバーは首を捻るだけであったけれど。とぼけているのか素であるのか。判断できるほどオリバーの為人をまだ知らない頃の話。けれど澄ました表情は、やはり、気に入らなかった。
迷宮第一層『静かの迷い路』。一番気に食わない相手だったから一番に倒すことにした――あっさりと潰えることになる目論見の最中。
高く伸びた鼻先をへし折られる未来を知らない少年は、若く青い傲慢さで以って相手の苛立ちを煽るための言葉を舌先に乗せていく。
「えー? 分からへん? 勝ち星を取るにしても、やっぱりなんかご褒美がないとテンション上がらへんもん」
「……勝ち星を取る?」
ロッシが勝つことを前提とした言葉にオリバーは眉根を寄せる。
「せやでー? ええ案やろ?」
掛かった、と。
ロッシは隠しもせずに嗤った。
「ボクは女の子と遊べるし、」
腰の杖剣を抜き放ちながら口を動かす。視線でオリバーの動きを捉えつつ、実のところ、ロッシの意識は彼女自身へ向いていない。
瞼の裏に浮かぶのは過日の斬り合い。
異邦のサムライが振るう異色の剣技。
あの剣と斬り合ってみたい。授業中のお行儀の良い立ち合いでは駄目だ。不殺の呪いなんて無粋だろう。
「ジブンとデートしたって知ったらナナオくんだって嫉妬して、ボクと本気の勝負をしてくれるんとちゃう?」
例えば最初の魔法剣の授業。
斬り結んだふたりのような。
アレはきっと本気の斬り合いだった。ひとつしかない命を互いの刃に乗せた、真剣勝負。殺し合い。まったく。この優等生も余計なことをしてくれた。折角の抜き身の剣に鞘を誂えるような真似をしている。
「成程。教育に悪いな、君」
嘆息が落ちて、オリバーは剣の柄に手を掛ける。相手の流派は知っていた。お手本通りのラノフ流。
「君の発案に乗った身だ。勝負を辞するつもりは勿論無かったが、負けられない理由が増えてしまった」
「へぇ。ジブンも案外吹かしよるなぁ」
「君の無駄口ほどじゃないさ。……今度、なんて。勝負の前に口にすることじゃない」
死んだら未来なんてないんだよ、と。教師が生徒に言い含めるような響き。ロッシのこめかみがぴくりと跳ねる。
何を当たり前のことを。言われずとも分かっている。そんなことを訳知り顔で宣うなんて、やっぱりこの優等生は気に食わない――大人に反発する子供のように思って。
否。
まさに子供であったのだ。
十五歳の少年は、年相応に自分のことを子供だなんて思っていない子供だった。
故に。肥大したプライドごと叩き斬られて手痛い敗北を味わうことになったのだけど。
「――――」
ひどく懐かしい夢を見た、と思う。あるいは走馬灯。死に瀕した脳が過去の記憶を漁り活路を見出そうと足掻いた結果。――それで浮かび上がったのが、よりにもよって、あの女と関わってしまったときの記憶なのだから舌を噛み千切りたくなる。その程度で死ねる身体ではないが。
忘れたくて、忘れがたく、鮮烈で、鬱陶しくて、超えたくて――怒り恨んで憎くて憎くて憎い。渦巻く激情を無理やり封じ込めて血錆の奥へと沈めるしかなくなった、青い記憶。
「っ……」
ロッシは瞼を持ち上げる。視界は赤かった。自身から流れる血の赤色。深く抉られた利き腕が強烈な痛みを放つ。杖剣は些か離れた位置に転がっていた。
夢から醒めても世界は赤く、暗い。
結局、自分は血と闘いの中でしか生きられなかった。――追うべき背中を喪って、自暴自棄に陥っていたロッシの襟首を引っ掴み、自身と同じ進路へと引き摺り込んだオルブライトの行動は正しかったのだろう。死と隣合わせの環境であろうとも今すぐ死ぬよりはマシだと判断された。世話焼きだ。おそらく根っこの部分で。実際、教職にも向いていたのだろう――なんて。今更だ。
今更だ。
ぜんぶ。
数多あった可能性の中からひとつを選んだ先に今のロッシがいる。
ただその背中を追いかけて、いつか追い越してやるのだとさえ考えていれば良かった子供はもういない。その背中の持ち主に未来なんてなかったから。
追いかけていた背中はある日を境に消えて、それっきり。向けられていた思慕も何もかもを置き去りに。当たり前に来るのだろうと願われていた未来なんてどこにも存在しなかった。親しい誰もの心に傷を刻んでいなくなった、ひどい女が、
「……今更や……」
ロッシを見下ろす、黒い瞳。
一切の光を拒絶する闇。底の知れない泥沼めいた、奈落の瞳。
見間違えるはずがない。けれど彼女であるはずもない。視界が勝手に滲む。違う。いやだ。そんな筈はない。
実は生きていた、なんて。夢想が現実に顕れたにしては目の前の相手はロッシの記憶そのままに――若く、幼すぎた。
「っ、」
幻覚。死霊術。より現実味のある可能性を模索する。肉体の老化を遅らせる手段は数あれど、それをする意味はないのだから。
だってたかだが十代だった。子供だった。魔法使いとしての成長過程に肉体の年齢を留めておく理由はない。
……思考に無駄が混じっている。都合の良い夢に浸りたがっている。ありえない。オリバー=ホーンは死んだ。事実を見誤るなとロッシは自身に言い聞かせて、
「許せなかった。許せなかった。許せなかった」
滔々と。
言葉が落ちる。
「母を裏切り弑した魔人たちを。尊厳を踏みにじり魂すら砕いた責め苦を。ひとつだって許せなかった」
地を這うように響く、声。
「――だから、とは言わないさ。母を理由になどしない。すべて私の意思による、私が決めた、復讐だ」
壁に凭れるように蹲ったロッシを少女が覗き込む。仮面のように冷徹な表情。ロッシの知らない表情だった。行儀の良い優等生は、案外、表情の豊かな相手だったから。
けれども凝り固まった表情はその顔貌によく馴染んでいる、と思った。
……実のところ。紡がれる言葉はロッシに向けられたものではないだろう。ひとりごとだ。そも、少女の振る舞いに正気はない。怨霊。そんな単語が脳裏に浮かぶ。死霊術も魂魄学も最低限の知識しか持ち合わせないロッシであったから直感的な閃きでしかないけれど、そう遠いものではないと感じた。
残り火。燃え滓。焼き付いた影。遠い日の残像。残骸。そういう、なにか。
「止まれる選択肢もあったさ。本当は。ふふ。ほら、私は女だから。丈夫な胎だったから! お爺様だって私が生きていい『価値』を認めてくださった!!」
叫びは空虚にからからと。乾いた骨を打ち鳴らすように。意味なく響いて、ふつん、と途切れる。
「――とまれるわけ、ないのにね」
小首をかしげる。小鳥のように。幼い少女のごとき仕草。
「私の腕は、もう、産んであげられなかったあの子の血で染まっていたのに」
そうして初めて、少女はロッシを見た。
「……ふ、ふふ。そんな顔も出来たんだな。君、女性に対して幻想を抱いている性質でもないだろうに」
今、自分がどんな顔をしているのなんて分からない。
けれども狂気の中にある少女の、なんらかの琴線を刺激し得る表情ではあるらしかった。
「ああでも――君。そういうところは魔法使いらしくなかった。浮草みたいに渡り歩いているくせに魅了も媚薬も使わない」
細い腕がロッシの胸倉を掴み上げる。
「そういうところは、嫌いじゃなかったよ」
クソが。ロッシは歯噛みした。相手の苛立ちを煽るための言葉はロッシの十八番であるのに。
「そういう価値観のまま生き延びることが出来たのも、君の才能だよ」
言葉が続く。
皮肉を交えて。
少女の吐息がロッシの頬を擽っていく。温度はなかった。洞を通り抜ける風のようだった。
「なにせ君――、」
反対に。ロッシの方は脳天が沸き立つような心地があった。ふつふつと。ひどく懐かしい感覚だった。
思い出す。
「殺し合い。その意味も分かっていなかっただろう?」
――瞬間。ロッシは己の頭蓋を少女の顔面へと叩き付けた。
「ッ、!?」
驚愕が空気を揺らす。大きく仰け反る少女の腕に引き摺られるようにロッシの身体も傾いて――開いた口から覗く犬歯に察したか。白い喉笛に噛み付く寸前で、少女の足先がロッシの脇腹に食い込む。
「がっ、」
呼気が漏れる。だが、咄嗟の一撃であるためか大した威力は乗っていない。受けた衝撃を流し、むしろ距離を取るための勢いに変えて。地面を転がりながらロッシは逆腕で杖剣を回収し、体勢を立て直す。
「は、は、ッ」
額に感じるぬるりとした液体。ロッシのものではない。見据えた先、少女の鼻筋からは血が滴っていた。
痛み以上に呆然とした、予想外と言わんばかりの表情にいつか見た光景が重なる。
「は、ははッ!」
ロッシは唇を吊り上げた。
口元にまで垂れ落ちてくる血液を舐め上げながら、
「あっまいなぁ……! ジブン、利き腕を取ったくらいでボクに勝ったとでも思ったん?」
腕は欠けども脚がある。歯がある。舌がある。ああ全く。その甘さが嫌になる。誰かを彷彿とさせる甘ったるさ。
「まぁ、おかげで思い出したわぁ……」
ふつふつと。血潮が沸き立つ。脳が怒りで茹で上がる。随分久しい感覚だ。思い出した。思い出している。
「ボク、最初――あの女のことが心っ底気に食わなかったんや!」
吠えた。
歯茎を剥き出しにした凶相で、いつかのように、子供じみた理由で拳を握る。
「ごちゃごちゃと御託を垂れ流しよって。うっといねん。ホンマに」
最低限の握力を回復させた利き腕で剣柄を掴み直す。治しきっていない身体で戦うことにはとっくに慣れた。そもそも今のロッシの力量は彼女と剣を交えていた頃の比ではない。
にもかかわらず不覚を取った原因は、
「知らんわ。あっちの事情なんて。うっとい。辛気臭い。なんなんもう、どいつもこいつも重いもん背負うて。責任感ばっか強ぉて。お行儀のええ面で聞き分けよぉて。ホンマに腹立つわ」
記憶の奥に沈めたはずの顔に、少なくない動揺を受けた。
だからまあ。怨霊なんて都合の良い悪夢なわけがなくて。こちらの油断を誘うための幻覚の類いなのだろうけれど。
「ボクの理由はシンプルやで」
だからこそ、斬れない理由がない。
「その澄まし面が気に食わん。それだけや」
八つ当たりで。今更で。意味はない。
けれど。
溜め込んだ鬱憤をぶつけるくらいはさせて欲しい。
「始めよか。そのツラ、もういっぺん、歪めたるわ」