生生世世に告ぐ住居とは快適さを求めればそれだけコストがかかる。故に節約を掲げた際に手っ取り早く、一番効果がでやすいところでもある。風呂ナシでいくら、トイレ共同でいくら、築ウン十年木造アパートでいくら…といった具合だ。人が眉を顰めそうな条件であっても妥協は時として必要である。
苦学生である彼は家賃3万円ぽっきりのアパートを借りていた。その安さにどんな劣悪物件なのか…と思うだろうが、なんてことない普通の賃貸だ。
たしかに築年数を感じる建物ではあるが、ユニットではない風呂とトイレが付いてこの値段は破格と言って過言ではない。近隣住民に問題があるのかといえばそうでもなく、ご近所さんと気軽に話せるような穏やかな温かみのある町であった。
アパート探しに苦労していたあの時はよくも考えず、というよりもう捨てる条件自体がなくなっていたため飛びついたわけだが、あまりの良物件に今でも何かが裏があるのではと思ってしまう。
たとえば賃貸では事故物件の場合借主に報告する必要があるが、実は3年を過ぎると告知義務がなくなるのだ。その類かもしれないと何か不自然な印がないか床に這いつくばってみたが、奇麗にクリーニングされたあとでは当然その痕跡は見当たらず、それっぽいお札も探してみたが残念なことに見つからなかった。
ところでこの部屋には同居人が居た。名は「ハルアキさん」と言うらしい。“らしい”というのも身元不明の男が自らをそう自称するのでこちらとしては「はぁそうですか」と言う他ないのである。勝手に居座っているこの男は名前以外の情報を開示しない。ハルアキも苗字なのか名前なのかも教えてくれない。突然現れて「ハルアキさんと呼びなさい」とだけ言ってきたのだ。
ここで勘のいい人は気づいただろうが、結論を言えばこの部屋は出る物件だった。実際は建物自体の経費はとっくに回収できたオーナーの道楽で驚きの価格なだけで、過去に心霊現象を含むマイナスな事件はないクリーンな賃貸だったのだが、どういう運命か貧乏学生が入居した途端に出現したのでいわくつきの部屋と呼ぶのは適切ではない。
そう、そのハルアキさんは現世のお方ではなかったのである。おそらく平安時代の狩衣と思しき和装にそれなり身分を示す烏帽子を頂く彼に初めて会った時は、部屋との整合性のとれてなさにドッキリとしか思えず、これが都会式の歓迎か…と間違えたカルチャーショックを受けたものだ。
足が透けてるだの生気を感じないだのよくある幽霊像とはかけ離れて、輪郭くっきり足元には浅沓でオシャレにキメて☆といった出で立ちであった。服装さえ変えてしまえばもうただの人と変わらない。
よくよく考えれば話に出てくる幽霊が決まって黒のロングヘアーに白いワンピースというのもおかしい話だ。パツキンカラコン鬼盛りネイルギャルの霊を見た者はおらぬのか、いやいないだろう。
恨めしく見るでもない呪詛を吐くでもないその幽霊らしくない様子のおかげで幽霊との初めての遭遇は恐怖よりも好奇心が勝った。会話に支障はなかったがはぐらかされることが多く、明らかになったことといえばハルアキさんはこの部屋に住み着いているわけではないということだ。
地縛霊などが特定の場所に居座るのは其処に執着する者があるのだが、彼は「私を縛りつけられるものなんてありませんよ」と自信ありげにニヤリと笑った。
もしかしてすごい神様とかだったりするのではないだろうか。
「まぁ遠からずですかね」
マジか。あと脳内を読むでないわ。
飄々とした態度にやや腹が立ったので何所でも売ってるメジャーな塩を投げつけてみたがダメージ0といった結果に終わった。清めの塩が効かないということは人間なのでは?と考えるだろうが、塩化ナトリウムの結晶が体をすり抜けて軌道を維持したまま着陸したので肉体を持つ者という推察は消えている。となればそもそも塩にそんな効果などなかったのか、またはそんなものが効かないほどの強力な霊なのか、はたまた幻覚障害を発症したのか。NaとClの化学式で表される物質が非科学的な事象に効果を持つわけがないと言われれば納得してしまう。嫌な仮説だけが残ってしまった。
除霊できたらいいなと半分やけくそでやってみたが成果は得られず、掃除する手間が増えるだけに終わった彼はこうして不本意ながら霊との同居を始めたのである。
この部屋には霊がいる。全然霊っぽくはないのだが、生者ではないので一応霊としておく。この霊は意思疎通が可能で自分のことを「ハルアキさん」と自称していた。
この世に未練があるのでもなく、勿論悪霊の類でもないらしい。らしい、というのもこの男、難なく会話ができるくせに自分の事をまったく明かさないのだ。
最低限のYES/NOで答えてはくれるため、現状で判っているのは先に述べたことくらいしかない。悪さをするわけではないし、一人暮らしにはありがたい話相手にもなっているため放置している。
幽霊は皆こんな感じなんですか?と聞いたことがあった。答えは「私だけ特別」とのことだ。
今まで霊感が現れたことがなかったので、初めて見た霊がハルアキさんなのも理解できた。よくあるホラー映画のようなビジュアルの幽霊が見えてしまっていたら震えに震えていたことだろう。
自分の名前に誇りがあるようで、普通名詞で声をかけると無視をされる。
狭い空間に二人だけだと態々固有名詞を使わずとも誰に話しかけているのか判るのが普通なので、この状況でも同じように接するのだが、どうあがいても耳に入るはずなのに名前を呼ばないと全く反応を示さないのだ。
まぁ確かに「おいそこの人間」と言われたら自分だってムムッと思うかもしれない。
その徹底ぶりは感心するほどで、昔あった特定のワードに反応するおもちゃを思い出す。
どこで反応するのか実験してみたときは面白かった。つらつらと話しかけているときはそっぽを向いて聞こえていない様子だったのが、語尾を名前で〆ると途端ににこやかな笑みを携えてぐりんとこちらを向くのだ。名前を呼ばれてしっぽを振る犬のようで、生前寂しい思いでもしたのだろうかと同情してしまう。
減るもんでもないだろうし、なるべく名を口に出すようにしているのだ。
「ハルアキさん」
「なんだい」
名前を呼んだだけでこの笑顔。本当に自分の名が好きなのだなと感心する。
屈託のない笑みというのも幽霊っぽくない例のひとつだが(とはいえ霊らしい定義というのも生者の創作なのだ)、着ている物もお決まりの白装束ではない。子供の頃にチョロっと読んだ囲碁漫画に出てくるキャラクターとそっくりだったので、初めてみた時は脳内にあのOPが流れたものだ。そして自分も囲碁棋士に……とはならず、祓うこともできないまま同居が始まって今に至る。
「ただ呼んだだけです」
「ふふ、可愛いことをするねお前は」
「こんな大男が可愛く見えるなんて酔狂なお方だ」
小学生時代は常に列の最後尾を任されていた彼には機会がなかった言葉だった。その形容詞はこの世で最も己にふさわしくないものだとよく理解している。
「酔ってもなければ狂ってもないさ。さぁもっと私の名前を呼んでおくれ。お前の声で紡がれる名は仏の説法より価値がある」
「また大げさな…そんなこと言ってると罰が当たりますよ」
「生憎私は神道なものでね」
「ああはいはいそうですか」
「それで」
キン、と空気を張り詰めるような声。何を求めているのか皆まで言わずとも解ろう。結局向こうのテンポに乗せられてしまうのだ。
はぁ、と全く隠す気もない大きな溜息をつく。
「…ハルアキさん」
まじまじと正面に立って凝視されては嫌でも意識してしまう。むず痒いものを感じて顔を逸らした。
言うだけタダだから、と思い立った先刻の自分にそれは間違いだと指摘したい。思った以上に彼の想いは深かった。
「おかわりお願いします」
「っ、本日は完売しました!」
「知ってます?昔と今では美人の定義が180度違うんですよ」
美人女優と人気俳優が結婚したニュースが大きく取り上げられた夕方のニュース。お似合いの美男美女カップルですね、と呑気なコメントをする人はルッキズムな発言だとは気づいてなさそうだ。
「平安時代はふくよかで目の小さい女性が人気だったそうですね。ハルアキさんの好みのタイプも漏れずそうでしたか?」
「私は色々と規格外な人が好きですね」
「またはっきりしない答え……傾奇者ってことですか?」
「まぁそんなとこです」
一般家庭で使うときなどあるのかと思うような大きなすり鉢にどか盛りされた白米の上には豆腐が2丁。適度に箸でほぐして鰹節と万能ねぎを散らし醤油を二回しかける。貧乏飯またはずぼら飯と呼ばれるだろう一品だが、これがシンプルに美味いので彼のお気に入りだった。
「今でこそある程度自由が認められて好き好きにやれますが、昔こそ様式美に厳格だったでしょう。突飛なお方は珍しかったと推察しますが」
いつの時代もモードは移ろう。洞穴式住居から寝殿造りに、大袖から小袖にお株が移ったように、初めは異質な存在もたちまち流行すれば次の時代の常識となる。もちろん理解が得られず消えていく場合もあるが。
長く続いた平安時代――この時代の人という確証はない。推測である――に現れた破天荒。興味がわかないわけがない。
「居ましたね。もう、本当に色々なところがダイナマイト!って感じの人が」
澄ました顔して実は巨乳好きだったのか、と同居人の意外な人間味に親しみを感じる。今度巨乳特集の本でも差し入れたら喜ぶだろうか。
「その方とはどうなったんです?」
結構、いやかなり顔が良い霊だ。言い寄られて嫌な女子はいないだろう。完全に「それが今の奥さんなんだ」の流れだ。ああでも昔と今では美的感覚が違ったのだった。どうなのだろう、この顔は美醜のどちらに属するのか。獣顔は受けが悪かったりするのだろうか。
「どうなったんでしょうねぇ」
「ここでもはぐらかすんですか」
「いや、本当にわからないんです。相思相愛は確かでしたが、共に暮らしたわけでもなく契りを交わしたわけでもなかったですし……でも生涯唯一の存在です」
昔の記憶を辿る彼の表情は懐かしむように眉が解けていた。それほどに良い思い出だったのだろう。
「それがこの世に残る理由ですか?」
「……どうなんでしょうねぇ……」
寂しそうに笑う姿から本当にわからないのだろう。何か手がかりがあれば成仏の手伝いができるのに。
「試してみたらどうですか。有力候補だと思いますよ」
「そんな人間みたいな」
「あなた人間でしょう」
なかなかいい線を行っていると思う。現世に残る幽霊は生前にやり残したことがあるから、がお決まりだ。幽霊本人から聞いたわけじゃない――リアルタイムで幽霊本人からは否定されている――が、生きてる人間の創作だろうが今はとりあえずなんでもやってみるないと答えがわからないのである。
「まぁいいです、仮にそうだとしましょう。で、どうするんです」
「簡単ですよう、結婚してくださいと言えばいいんです」
「それは莫迦でもわかります。問題はどうやって伝えるんですか?」
「絶対面と向かってが良いと思います」
恋愛ドラマには1ミリも感情移入をしないというのに、同居人の恋バナには不思議とテンションが上がってくる。無礼講だと言い訳をして1杯だけと決めていたはずの器におかわりの白米をしっかり1人前――彼基準の1人前であり、一般的成人男性の2.5倍の量である――盛り、ここぞという時にしか使わないバターと天かすを乗せて醤油をちょいと点す。香ばしい醤油とご飯の熱で花開いたバターのまろやかな香りが鼻腔を登っていき、頭の中に快楽物質が分泌される。
「お前は本当に莫迦ですね…シチュエーションの問題ではなく、この世に居ない相手にどう伝えるんです」
「……あ」
「やっと気づきましたか莫迦者」
そうだった。目の前に漂う男は千年近くも前に生きていた人。そして千年近くも前に死んだ人だ。不死の霊薬を口にでもしない限り、普通の人間には生き永らえない長い年月だった。
「っ、もしかすると、そのお方も心残りで現世に留まっていらっしゃるかもしれません」
挽回しようと考えを巡らせる最中も飯を運ぶ手は止まらない。飯に罪はないのだ。
「まっことお前は愛すべき莫迦ですねぇ…どうやって探すんですか。“求む!死者の貴方”と新聞に公告を出しますか?それとも電波ジャックでもしますか?」
そんなことすれば即精神障害判定を受けて退学退去も待ったなしだ。あの人を探して全国津々浦々行脚するにも時間と金がかかりすぎる。何より、成果が得られなかった時の絶望が怖い。
「なんか、こう……霊同士の交信みたいな、そんな感じのできたりしませんか?」
苦し紛れに超常現象に超常現象をかけあわせてみた。Wi-Fiが街中を飛んでるくらいだからいけそうな気がする。電波と似たようなものだろう。
「うん、シグナル伝達器官であるシナプスを参考にしたのは良いひらめきだと褒めてあげましょう。その問いに関しては皆は無理ですが私は“できます”。ですが目的については無意味です」
「それって……」
シグナルを発信しても受け手が居なければ無駄打ちだ。すでに彼は接触を試みたがこの世に残留していないと知っていたのだろう。
少し前に墓の前で泣かれてもそこに私は居ませんよ、という内容の歌が流行っていた。伝えたいはずの相手には1ミリも伝わらないのに生きてる人間は好き勝手やって勝手に満足する。それでは何の意味もない。
「やり残したことを清算すれば成仏できるのがルールならその対象が存在するはずです。逆を言えば居ないなら対象ではない」
まあ私は仏教徒ではないので仏にはなりませんけど、と蝙蝠扇を広げて口元を隠す。
クソゲーのように「重要人物が輪廻転生をしたため永久的に成仏不可!」という可能性はあまり考えたくない。それはあまりにも無情すぎる。
「勿論そのルール自体が存在しない可能性もありますからね」
「そしたら無理ゲーじゃないですか」
「昇天することがゴールだと思っているなんてまさに人間ですねぇ」
きゅう、と下の瞼がせり上がって三日月を作る。狐目がさらに狐目に近づいた。実際の狐の目は全く細くないのに何故こう呼ばれるようになったのだろう。
「私が好きでこうしている線も忘れちゃいけないよ。お前の常識が私に通用しないように」
その言葉はよくわかる。数年前までは教科書に載っていた内容が実は間違いだったと明らかになることが稀にあった。教科書がそう書いているのだからと疑いもなく信じていた人たちは狼狽えただろう。
結果を覚えるのは簡単である。重要なのはそこに行き着くプロセスを理解し、自ら証明してみることだ。常識を疑う者こそ真実を知るのである。
「ハルアキさんに出会ってから色々覆されましたしね」
塩が効かないとかその日の気分で装いも変えられるとか。クローゼットも洗濯も不要なのは羨ましすぎる。自分も死んだら欲しくても買えなかったハイブランドの服を着まくろう。
「お前の地頭は他より優れています。良く学び良く知るといい。いつかお前のためになるでしょう」
コンコンと閉じた扇の先で額を叩かれた。一応脳味噌は詰まっているようだ。
「突然褒めて怖いですね」
「自分を卑下にしてはいけないよ。自分を信じてやらなくて誰を信じるんだい。お前には才能があります。自信を持ちなさい」
大変美味であった飯に感謝の合掌を送り、延長戦終了を告げる。米櫃は減ったが腹も心も満たされたので問題ない。
「ご馳走様でした」
蘆屋道満は苦学生であった。親を早くに亡くし、身寄りのない彼は保護施設に引き取られ、勉学とバイトに身を費やして無事に高校卒業そして第一志望の大学へ進学が決まっている。そしてそれは自分を育ててくれた母屋からの旅立ちも意味した。
新しい生活の秒読みに春の陽気が心を浮つかせるのが普通だろうが、彼は違った。受験という戦争を乗り越えてまた一難に頭を悩ませている。それは新しい住処についてだった。
学業の合間に詰めて詰めたバイトだったが、されど高校生の年齢で稼げる額というのはたかが知れており、せっせと貯めた貯金は入学金と学費のダブルパンチであっけなく吹き飛んだ。高校生ブランドから解放されれば時給も良くなり働き方に自由が出るうえ、右も左もバイト募集の文字であふれている世間で仕事にあぶれる心配はない。生活費に関してはクリアできよう。
問題は入居時の費用だ。月額賃貸代に加えて敷金・礼金もそれぞれ家賃1、2カ月分上乗せになり、下手すると家賃5ヵ月分の金額を一括で納めなくてはならなくなる。学費に比べれば安いがそれでも大金は大金だ。
今手元に残っているのは6万4753円。そこから大学までの交通費とバイト代が入るまでの食費を仮に1万とみて差し引いて5万と5000円足らず。田舎ならなんとかいけるが道満が通う大学は都市中の都市であり、郊外のベッドタウンもそこそこの相場だろう。
敷金・礼金ナシは絶対条件で、あとはもう激狭ワンルームだろうが、築60年のおんぼろ木造アパートだろうが、風呂なしトイレ共用だろうが、隣近所に問題があろうが、はたまた人が死んでようが関係ない。とにかく安い物件であれば他はどうでもいい。この恵まれた肉体と精神で耐えてみせる所存だ。
勢いが萎える前に不動産屋に乗り込み、エリアと最低条件だけを伝えて物件を探してもらう。なかなか難しい条件というのは解っている。1つでもヒットすれば大勝利だと覚悟しており、この後にもいくつかの不動産屋を当たるつもりでいた。それに沢山の選択肢から選ぶよりも、これ以外ないのなら即決できて手間がかからずに済む。不動産屋を梯子する労力については問わないものとするが。
席に着いてから5分もしないうちに検索結果が出た。該当なしとのことだ。卒業シーズンの3月は新生活に向けた契約で最も物件が埋まる。何カ月も前からリサーチをして先押さえしておくのが当たり前らしいが、進学先がどこになるかぎりぎりまでわからない学生には博打すぎるだろう。
住居形態についてはもう削ぐ部分がないのでもう少し予算を上げる提案を受けたが、これが本当の限界であったため低調にお断りをして退店した。
その後、大手の門をひとしきり叩くも成果は得られず、地域密着系の不動産屋にも足を運んだが条件に合うものは見つからなかった。とうとう手帳にメモした不動産屋の名前全てに取り消し線が入ってしまい思わずため息が漏れる。
今時住み込みのバイトは絶滅危惧種になっており、ネットカフェやドミトリーホテルも一泊は安くても積み重なれば結構な額になってしまう。後ろ盾のない未成年では消費者金融に申し込むのも難しい上に、なにより借金だけは背負いたくなかった。しかし、そろそろ腹をくくらねばならぬ時がきたのかもしれない。
とぼとぼと知らぬ道をどこに続くかもわからず歩いていると徐々に店が減っていく代わりに住宅の比率が上がっていき、そして完全に住宅しか見当たらないゾーンとなっていた。一軒家が多いが、2階建てのアパートの存在も確認できる。
ここで一つの可能性がひらめいた。もしかすると直接賃貸契約ができるところがあるかもしれない。不動産屋は仲介手数料が発生する関係で家賃が高くなる傾向にあるが、そこを通さず個人で管理をして価格を抑えれば入居希望者も増え、空き部屋を減らして収入を増やしたい大家と安く借りたい借主共々ウィンウィンの関係になれる。
一筋の希望が見えたことで自然と歩の進みも早くなった。距離がどんどん縮んでくると塀に掲げられた“入居者募集”の文字が見える。もしやもしや――。
「んおお……」
そうは上手く運ぶものではない。見出しよりも小さめの文字で書かれた連絡先は不動産屋だった。しかし、物件探しの際に当てにしたリストには含まれていなかった名前だ。ただでは転ばないというか何も得ずに起き上がれない状況では新しい手掛かりは救いに等しかった。
時刻は陽が落ちかかった午後4時。閉店前に間に合うかもしれないと急いで地図アプリで事務所を探すとここから歩いて20分の位置にある。悠長に歩いてもいられず、騒音にならない程度に駆け足で目的地へと向かった。
「あの!部屋!探しているんですが!」
年季の感じる箱文字看板に期待が高まり、走ってきた勢いも加わって思ったより大きな声が出てしまう。もう店じまいかと新聞を読んでいた店員は突然の来訪者に驚いた様子だったがすぐに笑顔を掲げて椅子をすすめてくれた。まだ寒い日が続いているのに、走って入店してきた男のために冷たいお茶まで用意してくれる心くばりに感動する。人の温かみに触れて、探している物件が無くてももうここで契約してしまってもいいかもと思い始めてしまう。
もう何度も復唱した条件を伝え、探してもらっている間にお茶をすすってクールダウンをはかる。黄緑色の緑茶はのど越しがまろやかでふわっとした甘さを感じる。ホットを出され続けていた猫舌の彼はここで初めてお茶を味わい、火傷している状態では発見できなかった趣を知って思わず美味しいと声に出てしまった。お気に召したようで幸いですとはにかまれてさらにぐっときた。
検索が終わったようでくるりとパソコンの画面を向けられる。いくつか候補があるということで、意外にも予算内の物件はあったようだ。家賃4万7千円、5万円、5万2千円と小刻みにしのぎを削る価格競争がスクロールの中で繰り広げられていたが、未来の借主は冒頭の1点に集中していて他は目にも入らない様子だった。
「ここにします!」
即答である。価格順で並べ直されたページでは、小競り合いする価格帯をぶっちぎって一番安い物件がトップバッターを飾っていた。最寄駅から徒歩15分、敷金礼金ナシで家賃なんと3万という破格だ。予算は5万5千円と言っていたがこれは上限であって、突然何が起こるかわからないことを考えると抑えられるところは抑えておきたかった。
部屋の情報を見る前に即決した客に、対応した店員はあたふたしている。通常間取りやら設備などをざっと見て気になったら内覧してからの契約になるところを入店して即決定だ、無理もない。ここまで生き急いでいるのはRTAぐらいではないだろうか。
ここ以外に入居するつもりはなかったので細かい確認は不要だったが、内覧したほうが後のトラブルも防げると提案を受けたので日を改めて最終チェックに向かうことにした。
ハイブリット車に乗って連れてこられたアパートを見て驚いた。家賃3万という破格の値段だと外装の時点で難がありそうなものだが、そこに建っているのは経年劣化の跡もなく、新築と思うようなアパートなのだ。流石に月15万はいきそうな雰囲気がある所に住めるわけがない。きっと奥の方に予想通りの建物が隠れているのだろうと思ったのだが、案内されたのは車を降りた所からでもよく見えた1階の角部屋だった。
多少の差はあるが、並んだ玄関前は掃除が徹底されているようで枯葉1枚落ちておらず、乱雑に放置された私物の類もない。プランターを飾っている世帯はあるが、花もつやつやしていて、まめに手入れがされているのがわかる。他の入居者に問題はなさそうだ。
鍵は差し込み式のものだが防犯性の高いディンプルキーだった。扉の空いた先にはどんな驚き事案が待っているのか緊張が走る。しかしここでも予想は外れ、平均的な広さのワンルームが待っていた。一人暮らしには申し分ない広さだ。日当たりも良好でちゃんとしたキッチンとユニットバスも併設されており、いよいよ安さの訳に事故物件の線が急上昇してくる。
「ここらへんで事件があったとかありますか?」
それとなく探りをいれるつもりだったが失敗に終わる。どう聞けばよかったのか正解が判らない。人死んでますか、と言わなかっただけ合格点だろう。
仲介人が言うには住民たちの付き合いもよく、トラブルには無縁の穏やかな住宅街らしい。つまり答えはNOだ。堂々とした様子から何か隠しているわけでもなさそうだった。
そもそも事故物件だったとしても辞退するつもりは微塵もなかった。こんな格安も格安、めったに出会えるものではない。事故物件が怖いわけではなく、純粋に“どうしてこの安さにしているのか”の理由が知りたいだけなのだ。
床や壁には経年劣化以外の汚れはなく、水回りも良好、悪臭もなく日当たりや風通しも良い。ワックスがかかったピカピカの床は眩しい外の世界を写している。ガラス戸を開ければ柔らかな風に乗ってうっすらと子供の笑い声が聞こえた。近くに公園があるのだろうか。無邪気な声は安心する。これをBGMにしてベランダに椅子を置いて日光浴したら気持ちよさそうだ。まだ始まっていない新生活を先に脳内でデモンストレーションして確信した。
「契約書の準備、お願いします」
正式に契約を交わしてからの行動も早かった。空き部屋だったことからいつでも入居可能であると許可を頂いたので、契約の足のまま新居に移り住むよう準備を整えていたのである。もとより私物の少なかった彼の引越荷物はスーツケース1つにボストンバック1つのみで、旅行者と変わらず電車で難なく移動ができた。しかし、ベッドを始めとする家具は追々用意するとして、内覧時と変わらず物一つない部屋に二つの荷物と人ひとりではやけに広く感じることだろう。収納先がないので荷ほどきもしばらくは様子見だ。
チャリ、とポケットから受け取ったばかりの鍵を取り出す。掌に伝わる金属の冷たさと重さに少しにやける。自分だけの鍵だ。庇護を外れて新しい生活のスタートに大人になったような気持ちになり、鍵を回す感触にもどきどきしてしまう。
今日からここが自分の帰る場所になる。思った以上に重さのある扉を開いて安全地帯に入った。
「……え?」
一息ついたら散策にでも繰り出そうと思っていた。しかしゴールテープが張られているはずの塒はまだくつろぐことを許してくれないようだ。
「どちら様、ですか?」
部屋には先客が居た。部屋を間違えたと思ったがゴミ一つ落ちていない殺風景な空間は人の住んでいないことを示しており、なにより自分の手で今しがたこの扉の鍵を開けていたのだ。シェアハウスとも聞いていないし、シェアできるほど部屋数も広さもない。それなのに部屋の中央にぽつんと人が座って居る。その姿も面妖で、古文の教科書でしか見たことのない狩衣と烏帽子といった古典的な装いをしていた。
不法侵入で即通報モノであるのに、あらゆる可能性を考える頭は混乱して不審者へ的外れな問いを投げたのだった。どうやって入ったならまだしも、誰かと知ったところでどうなる、と言った本人が頭を抱えている。
「私のことはハルアキと」
「……はい?」
すう、と瞼が上がり金色にも見える瞳が姿を現す。切れ長の目尻が品良く吊り上がり優男の印象を受ける。装束との相性から光源氏が連想された――らまだよかったのだが実際は漫画のキャラクターが真っ先に浮かんだ。
「ハルアキと呼びなさい」
「えっ、と……ハルアキ、さん……ですか」
「ええそうです」
その時ふと記憶が蘇る。あれは小学生のころ、学校からの帰り道にある空き地で見た光景に似ていた。四つ角に刺さった青竹にしめ縄が張られているのを見て友達と結界だと興奮したのだ。幼い当時は知らなかったがあれは地鎮祭だろう。家を建てる前にその土地の守護神に工事を行う許しを得る地鎮祭を執り行う習わしがあったが、都会の方では入居者に対しての安全祈願をかねて行うのかもしれない。
「神主さんですか?」
「いえ、違いますけど」
「……」
じゃあますます誰なんだ。違うなら何なのだ。正体を明かしてくれ。
神主でもないのにこの格好をしているとはどういうことなのか。泥棒にしては目立ちすぎるだろう。それに問いに対して肯定した方がこの場をやり過ごせるはず。
「お隣さんでしょうか」
都会に住む人は何かと忙しい。引越挨拶を留守で対応するのもあれだからと、お隣さんの方から逆挨拶をする風習があるのかもしれない。入居時のタイミングに合わせて顔を合わせれば実に効率的だ。しかも友好を示すためにドッキリを重ねてきたと。
「いいえ」
こっちは知らない人がここに居てもおかしくない理由を必死に作っているのに一言でばっさりと切り捨てるとはなんて酷い奴だろうか。
「誰なんですかぁ」
10年近く育った場所との別れと新しい土地への引っ越しによる緊張と疲れが加わり、正体不明の男に泣きが入る。社会の闇をまだ知らない未成年のキャパシティでは処理しきれない事案だ。
「……名前を」
「え……あっ、この度引っ越してきました――」
「違います、私の名前を続けなさい」
「ええと……ハルアキさん、は誰なんです、か……?」
「お答えしましょう、私は幽霊です」
静寂が二人を包む。幽霊か。幽霊が幽霊ですなんて言うだろうか。私は人間です、なんて言ったことがない。身なりだってきちんと整っていて生気も感じるし、会話も少し難はあれど受け答えできている。はっきりいってその存在感は霊と思えなかった。
「地縛霊ですか」
「いいえ」
内覧時に事件はなかったと言っていた。仮にこれが嘘だとしたら場所に縛り付けられた霊になるだろうしあの時何かしら目撃していたはずだ。
「悪霊ですか」
「いいえ」
「良い霊ですか」
「良い霊って何なんですか」
聞いといて自分もよくわかっていない。悪さをしないとかだろうか。
「もっ、目的は?」
一番知りたかったのはどうしてこの部屋に現れたのかということだった。
「逆に質問しましょう。お前はどうして生きているのだい?」
「それ、は……その……」
「何かしらの目的を持って自分の意志で生まれてきた、のではないのかい?」
「……少なくとも、生まれてきた理由に自分はかかわっておりません」
「その通りです。そして私も同じです。……すみません、少し意地悪な質問をしました」
「いえ、それは」
もとはといえば先に質問したのは彼の方だ。しんみりした空気に流されそうになっているがここの家主は自分で無関係の人間が侵入している異常事態の最中である。ドッキリを期待したがいつまでたっても看板を持った人が現れないのでそういうことなのだろう。
「今なら通報しないであげるので出て行ってもらえますか?施設出たてで金目の物もないですし」
「まだ信じてないんですか」
呆れたとばかりの表情で蝙蝠扇を広げる。これは自分が悪いのだろうか。
「いつまでもそこに居るのもなんですし、お上がりなさい」
偉そうに勧めているが、何度も言うように部外者である。閉じた扇子をこちらに向けてクンッと引き寄せてみせるとそれに合わせて体が引っ張られた。
「おあっ?!」
見えない力によって宙に浮く体を制御しようと手足をばたつかせるが当然掴まるところがなく、バランスを崩して尻が吊り上げられたような格好になる。
「なんっ、はぁ?!」
「私直々に靴を脱がせてあげるなんて滅多にありませんよ」
感謝しろとでも言いたいのか。こっちは嬉しくとも何ともない。
「あっ、手が汚れます!」
もう何年も履きっぱなしのスニーカーはお世辞にも綺麗とは言えなかった。地面の汚れを蓄えている靴に陶磁器のようななめらかで細く、傷一つない手が触れるのは穢してしまいそうで咄嗟に声が出る。
「汚れたら禊げばよい」
1足1000円の靴が高級品を扱うかのような手つきで恭しく脱がされる。最高に意味が解らない。初めて会った霊に介助してもらうなんてどういう状況だ。
脱がされた靴はシャボン玉のようにふわふわと漂い玄関へと向かっていき綺麗にそろって着陸し、汚れる心配がなくなった体もやっと地に足を着けることができた。
「さて」
互いに膝を合わせる格好となり、恐ろしいほどに整った顔がずいと近寄る。上がった口角と吊り目が縁日に並ぶ狐のお面に似ていると思った。中国や韓国で人気の出そうな顔だ。
「これがポルターガイストですか」
圧を感じる顔面に仰け反って距離を取る。直視していたらどんどんSAN値が削られていくような気がした。
「それは人間が作り出した妄想ですねぇ。私が特殊なだけです」
ひょっとするととんでもない霊に出会ってしまったのかもしれない。他と一線を画す力を持つなら神様に近しい存在の可能性も考えられる。
「確認なんですが、ハルアキさんはこのあとどうするつもりですか」
地縛霊でないのならここを住処にしているわけではない。浮遊霊がたまたま通りかかっていたずらをしただけであることを願う。
「ここを居城とします」
「……地縛霊じゃないんですよね」
「違いますよ」
「じゃあここに居座らなくても……」
「うん、しかし縁ができてしまったからね」
衝撃が走った。このやり取りの最中、知らぬ間に憑かれる要素があったと霊が言うのだ。
「い、いつ」
「ついさっき。幽霊が見えて会話もできてしまうなら十分な縁ですよ」
「そんな……!今まで霊感なんてなかったのに!」
18年の人生の中で霊的現象に遭遇したことなどなく、小学生時代に流行したコックリさんに興味本位で参加して途中解散した時も何も起きなかった。それゆえ心霊事は信じてもおらず現在に至る。それなのに突然見えるようになり、それも生きてる人とそうかわらないほど意思疎通までできてしまうなどなんという運命か。
「私が特別なので」
「ハルアキさんの力で見えると?」
「そうです」
「一方通行じゃないですか!無効です無効!」
互いの同意なく締結した契約に法的効力はない。想像以上に契約の流れがシステム化されている西洋の悪魔を見習ってほしい。
「うーんそうもいかないんですよね。お前は私の名前を知って、唱えてしまった。それも4回も。がっしり結びついてしまってます」
「は、はかりましたね……!」
この男が呼べと言うから答えてやったのだ。確信的犯行だろう。
「まぁまぁもうどうしようもないですよ」
けろりと言ってのけるのが今回の黒幕だ。お前が言うな大賞受賞である。
独り暮らしと思ったら突然知らない人と、それも幽霊と、同居しなくてはならなくなった衝撃はまだ若い彼には重く響いた。
「邪魔はしないと約束しましょう。私のことは飾りと思えばいい」
「それ、一口くれませんか」
自分を壁の染みと思えばいいと言ったのはどこのどいつだ。壁の染みではなかったかもしれないがとにかく空気になってると約束していたはずだった。しかしその誓いが守られた様子はない。
「ハルアキさんつまみ食い好きですよね」
干渉しまくりの幽霊は何か食べていると必ずお裾分けを求めてきた。食いしん坊なのかと思えば食自体は細く、本当に一口食べただけで満足するのだ。
「他人が食べてると美味そうに見えるんですよ。特にお前は美味しそうに食べるから」
「ええ~~俺のせいにしないでください」
「一口だけですから、ね?」
「しょうがないですねぇ、スプーンはご自分で持ってきてください」
りょ!とどこで覚えたのかふざけた応答に分け与えるのをやめようかと思ったが、キッチンに向かう後姿がうきうきしていて毒気を抜かれる。
今日の食後のデザートはちょっとお高いで有名のカップアイスだ。アイス売り場に行ってもはなから視界に入れない孤高の存在。そんな大層な物をどうして手に入れたのかというと、シニアカーが溝にはまり動けなくなったお年寄りを助けて家まで送り届けたお礼に貰ったのである。もともと見返りが欲しくてやったわけではなく丁重にお断りをしたのだが、年寄りにアイスは冷たすぎるし和菓子の方が好きだから代わりに貰ってほしいと頼むように言われた。
聞けば独り暮らしらしく、今日の出来事も買い出しの帰り道に起きたらしい。坂がいくつかある道は幅も狭く、荷物を運びながらではより危険だ。近所とわかれば自分の買い出しついでに調達すれば負担はないだろう。それを受け取る代わりに買い物代行と申し出ると大変喜んでもらえた。いつでも呼び出せるように固定電話に自分の携帯番号を登録してやり、自分の連絡帳にも控える。引っ越してきたばかりでどこが安いのかまったくわからないと操作の最中ぼやくと商店街の肉屋の方がおまけがついてお得だと早速情報をもらった。
貴方ならちょうどいいかも、と言われていた通りブランドカラーの封筒にはパイントサイズの引換券が3枚も入っていた。ミニカップも手が出ないというのにそれよりも大きいパイントは夢のまた夢であり、業務用2Lを愛用している大男にはまさにぴったりのサイズだ。大切にいただこうと決意してまずは1枚を王道のバニラと交換してきたわけである。
カレースプーンで2匙だけ盛った皿は普段の摂取量からするとはるかに少ない。だがガツガツ食べるようなアイスとは違うこれは上品に留め置いておくのが美しいのだ。
「アイス用の器があれば100点だったよなぁ」
レトロなイメージのある、あの脚のついたガラスカップに盛られるのがふさわしい。家に居ながら高級レストランのトキメキを感じられる品だがバケツ直食いの生活では活用場面が限られてしまう故不要に近い立ち位置だった。
「器なんてどれも一緒でしょう」
「違うんですよこれが。ハルアキさんだって紙皿よりも金山焼の皿に乗った焼き魚の方が美味しそうに見えるでしょう?」
「……まぁ、確かに」
皿は演出だ。組み合わせ次第で料理を更に華やかに見せてくれる。皿に合わせて料理を作るのもまた楽しく、テーブルウェアはハマると沼になるジャンルだった。
「食器を買いに行こうと思ってたんですよね。見てみようかな……でも使用頻度が……」
使えば気分が上がること間違いなしだが、パイント3つ分を消費したらもう日の目を見なくなりそうだ。
ティースプーンが程よく柔らかくなった月面を掬う。雀の一口が削り取られたところが溶けて傷の修復を始める。
「かき氷サイズにしたらいいんじゃないですか?アイスどか盛りもできますし、ゼリーやヨーグルトも映えて、卵豆腐も合うと思いますよ」
「おお~~!他に使う考えはありませんでした!これからの季節、冷製ものが増えますしいいですね!うん、買いましょう!」
実は心の中では99%購入に傾向しており「買っちゃえよ」とだけ言われれば買っていた。結果的にプレゼンの影響もあったが、後押しとなる一言が欲しかっただけなのだ。
入れ物なんてどれも同じと言っていたが、器の活かし方がぽんぽんでてくるあたり抗えない教養の良さがにじみ出ている。
「本物の味がする……」
幽霊も呆然としてしまうほど高級アイスは確かだった。
「やっぱり違いますよねぇ」
「お前、これ食べきったらもとのアイスに戻れますか」
「そこ自分も考えてました」
牛乳から作ったことがわかる濃厚さを知ってしまってはラクトアイスの味気無さに物足らなくなってしまうだろう。舌が肥えるというのは怖い。
「あと2枚引換券があるんです。ハルアキさんは何味がいいですか」
「お前が貰ったんですからお前が食べたいものを選びなさい」
「どれも食べたいので決められないんですよ。迷える子羊にお告げをお恵みください」
何を選んだって美味しいに決まっているのだから全部食べてみたいところだが7種類もあると望は叶いにくい。選択肢が多いとは贅沢な悩みだ。
「それならラムレーズンで」
「あ~~いいですねぇ」
ラム酒に漬けられたレーズンとバニラアイスを組み合わせた人に表彰状を渡したい。この世に素晴らしい食べ物を創造してくれてありがとう。
「お前、何を選んでもそう言うでしょう」
「基本好き嫌いないので。逆にこれは嫌というものは?」
「抹茶」
「意外」
京出身の雅なお方だから和のテイストが好みだろうと思っていた。千利休によって茶道が確立された時期は16世紀頃だが、初めて日本に茶が伝えられたのは遣唐使の時代である。非常に貴重な飲み物であったため最初は文化として根付きはしなかったようだが、貴族たちの間では細々と愛用されていたことから彼も馴染みがあったと考えられる。抹茶法が伝来したのは鎌倉時代のため正確に言えば彼が飲んだのは団茶と呼ばれるものだろう。
「抹茶自体は好きですよ。ですが最近の抹茶スイーツとかいうのは抹茶の個性を殺してます。いいですか、茶道というのはですね、先に菓子を摘まんで口の中に甘みを残すことでお抹茶の味を引き立てるんです。菓子なしで飲むとそれはもう苦すぎて飲めません。その苦さを楽しむのが抹茶なんです。それが今のブームといったらどうですか、苦みや渋さ全くなしのただ甘いだけの塊ときた!海外では主流な砂糖が入った緑茶にはブーイングを出すくせに抹茶スイーツは受け入れられている矛盾!奴らがやっていることは趣も何もない、抹茶への冒涜ですよ!」
「地雷踏みぬいちゃったかぁ」
珍しく語気を強める彼は相当なお怒りの様子だった。抹茶を愛しているからこその憤りなのだろう。ハルアキさんの言いたいことは理解できる。抹茶というより緑茶の味もするスイーツだと自分も思う。
「一度茶道体験してみたいんですよね」
あくまで体験だ。お稽古に通うほどの金銭的余裕もないが、作法について厳しく指導を受けそうなイメージがあり敷居を跨ぎにくかった。外国人観光客に混じって最低限の所作を習う程度でいい。
「素晴らしい心得じゃないですか。器に興味があるなら尚楽しいでしょう」
「流派すべて体験した方がいいですかね」
「一日一流派体験しても一年と半年はかかるなぁ」
「えっそんなに?!表と裏と武者小路だけじゃないんですか?!」
「それは三千家というやつですねぇ。500以上ある茶道流派の中で主流のものがその3流派になります。習う人は多くてもその流派の家元は一人だけですから。飲食店で修業したひとが独立するイメージに近いでしょう」
とてもわかりやすい例えだ。ねずみ講の要領で増えていけばそれだけの数になるのも納得である。
「ちなみに“さどう”と呼ぶのは表千家、裏千家は“ちゃどう”、武者小路千家は“ちゃのゆ”になります。表は泡を三日月状に、裏は一面にしっかり泡立てる決まりがあり、泡の少ない表の方が苦みも味わいやすいと言われてますが、味は使う抹茶にもよりますし点てる人の腕にも左右されますから流派の違いというと作法がメインになってくるでしょうねぇ」
「もてなしの心を学ぶ場、という色が強そうですもんね」
あちらの流派では正しい所作を学んでもこちらの流派では通用しないのが当然のようにある。500も流派があるのなら微々たる差というものがより刻まれていそうだ。郷に入っては郷に従えとは言うが、歩数や最初に出す足を指定するのがどうもてなしなしに繋がるのかはわからない。
「美味しいお茶が飲みたいということであればお茶屋に行くのが手っ取り早いと思います」
「そこは“餅は餅屋”ですよねぇ」
その昔、茶道は華道に並んで花嫁修業に挙げられていた。それは美味しい抹茶を点てることを目的としているのではない。現に家庭で出されるお茶といえば煎茶が一般的だろう。ステータスをつけて市場価値を高める意味もあるが、一番は礼儀作法を身に着けるためだった。
「でも最低限の礼儀作法も知りたいです。流派によっては無作法に当たるものを覚えてどうするとは思いますが」
不思議なものだ。礼儀とは誰かが決めたルールであり、生きるためにご飯を食べる、といった全人類に共通する当たり前のものではない。誰かの常識は誰かの非常識になるのが礼儀作法のやっかいなところだった。
「それでも知りたいんでしょう?いいことじゃないですか。無知であることを知っている人は視野も広くなる。無理矢理知識を詰め込む人間より、本質を理解できる才能があるってことですよ」
「お世辞がうまいですねぇ~~そんなハルアキさんにはもひとつフレーバー選ぶ権利を差し上げます!」
面と向かって褒められることに慣れていないため態とおちゃらけて話題を逸らした。
「モカ」
「最高」
「ほら何でも肯定する」
「本当にセンスいいですよ。普通チョコだのストロベリーだのどのメーカーでも出しているような味が人気を取りがちですが、そこをとらないというのは逆に信頼できるといいますか。うまく言語化できないんですけど、そんなこだわらなくてもハズレにならないフレーバーを選ばないのは本質を理解しているから、って感じで……。さっきの言葉のまんまですけど」
モカにも甘いコーヒー味もあれば深みを感じるエスプレッソ仕立ての物もある。原材料や製法で振れ幅が大きくなる味を選ぶところにこだわりと信頼が置けるだろう。個人差はあれど美味しい物がどういうものなのかわかる人ということだ。
「おほめにあずかり光栄です」
扇子を前に置き三つ指立てて頭を下げる。なめらかな所作から隠せない育ちの良さが伝わってきて一瞬見とれてしまうほどだった。慌てて自分も座礼を返すが、見よう見まねでやってみせたものは彼のような美しいものとは程遠い出来だった。
「……ハルアキさんに作法習った方が早いのでは」
伏せたままふと閃く。身近すぎるが故に忘れていたが、1000年以上世の変動を見届けた生き字引のような人がここに居た。先ほどの茶道の解説からかなりの知識があると見える。それぞれの流派にお邪魔するより彼に教えてもらえば時間もろもろ節約できるだろう。
「知ってはいますけど入門して看板貰ったわけじゃないですよ」
教えてもらったのではなく近い距離から見て学んだのだ。正式な手筈を取らずに盗み見るのは邪道のようにも取れるが、それだって日本ではちゃんとした学習方法とされていた。
「お墨付きあるなしは問題ではありません。詳しく知っているかが重要なので」
宗教学者がすべての宗教に入門しているのかというとそれは違う。無神論者もその中に居り、その理由は信仰と知識は別物であるからだ。
ハルアキさんの死後に成立した茶道ならば特に肩入れした流派もなく、ひいき皆無のフラットな教えを受けられると考えた。
「もちろんタダで教えてもらうつもりはないです。食べたい物とかやりたいこととか何でも言ってください」
でも自分に叶えられる範囲で、と付け加える。フェラーリが欲しいと言われても死ぬまでにも死んでからも用意できない。理想は浮いた体験教室代くらいだろう。
「わかりました。でもせっかく興味を持ったのですから軽いさわりで終わりにせず、しっかり学びましょう。優しく教えますから」
「ハルアキさん神ですか……!」
厳しさに気後れしていたが、そのハードルを取り除いて手ほどきしてくれるとなれば願ったり叶ったりだ。辛いことを経験してこそ人生と説教する人がいるが、障害が無い方が気持ちが軽くなりはかどるのが事実である。苦痛は苦痛であり、幸福に転換することも飛躍するためのバネにもならない。親が死んだことで頑張れたことも、幸せと思ったことも自分にはなかった。
「神じゃなく人間扱いしてほしいかな」
「顕著~~それで、ご要望は?」
「この歳にもなると欲しい物もなくなるんですよねぇ」
会話の内容が完全に老人だ。“この歳”というのが他の追随を許さない重さを感じる。
「じゃあこうしましょう。『手を抜かずに学ぶ』というのが私からの要望ということで」
「でも」
それでは良心が痛むというもの。何かを得るには対価を支払うのが世の常だ。
「いつも一口いただいてますし、それで十分です。それにせっかく節約できた金を私に使ったら意味ないじゃないですか。自分に投資しなさい」
強引な共同生活だったがこの男は約束した通り同居人の邪魔をしないよう努めていた。これからが花の大学生が日中は勉学に励み、夜は生活費を稼ぐために睡眠時間を削って働きに出ている様を一番近いところから見ていて、その苦労を誰よりも知っているのである。
「その投資としてお稽古代なのですが……」
「まったく、逃げ道を用意してやっているというのに頑固者ですねお前は。幽霊に主導権を渡すものじゃないですよ。一生憑いてやると言ったらどうするんですか」
「……困りはしないですよねぇ。ハルアキさんのこと迷惑と思ったことないですし、心強いし」
「……」
呆れたという顔だ。危機感がないというか、天然というか、ジゴロというか、人が良すぎる。この先ずっと霊と同居する人生に嫌な顔ひとつもせず平然と受け入れようとしているのだ。そのうち彼女ができたり結婚したりと人生のイベントが発生しても、彼のことを邪魔とは思わないその花畑の頭が心配になる。
「……高い壷押し付けられても買わないように」
「壷?えっなんですか突然」
察しの悪い彼に頭を抱えそうになり、詐欺師の数も多いこの都会にひとりで歩かせてはならないと思った。
「ハルアキさん、冷蔵庫にギョニソーってまだありましたか?」
「ないです。代わりにベーコンでしたら」
最近の幽霊はAI家電代わりになるらしい。我が家の冷蔵庫事情を把握してくれているハルアキさんは調理の時や買い出しなどでその実力を発揮してくれている。些細なことだが、ダブって買ってしまった事故を防げるのは地味に助かる上、駄目になりそうな食材をお知らせしてくれるため食品ロスが最も怖い苦学生にとってありがたい存在だ。
「じゃあそれと卵出していただけますか」
「ポテサラは?」
「あー忘れてた、それもお願いします」
水分があると食材は傷みやすくなるのだが、ポテトサラダからキュウリを外すことはできない。あの芋のほくほく感に時折キュウリのポリポリがアクセントになっていいのだ。
ケトルからフライパンにたっぷりのお湯を注ぎ沸騰したところにくっつかないよう気を付けながら卵を三つと厚めのベーコン、ブロッコリーを投入する。あとはお湯が蒸発するまで待てばいい。
お手製のポテトサラダは凝ったものではなく平凡なレシピだ。茹でた人参と塩もみしたキュウリそして細切りしたハムを投入し、塩を少々。じゃがいもが主役のサラダ――改めてサラダというと違和感があるがそういうことにしておく――なのだから邪魔をしないようマヨネーズは繋ぎ役としてほんの少しで止めておく。代わりに胡椒をたっぷりかけて芋の甘さを引きたたせる。ゆでたまごも一緒に混ぜてしまうと水分を吸収してまとまらなくなってしまうので最後に振りかけることにしていた。スライスよりも崩したフレーク状の方が彩りになり、またバランスよく食べられるのでひと手間かけても用意するのだ。
「ちょっと味変しません?」
実は自分も昨日と同じ味では少々物足らないと感じていた。だが完成されている一品を変化させるのは難しいのである。
「グラタン、は手間がかかるし……目玉焼きにしちゃったからオムレツもナシ……」
「和えるだけの物でいいんじゃないですか」
フライパンを洗ってまた調理となると先に作っていた料理が冷めてしまう。放置中のこの時間内で用意できるのがベストだ。
「じゃがいもと合う物……チーズ?バター?うーーん……」
「アンチョビ」
「ああ~~いい!けどない!」
アンチョビを常備しているようなオシャレな生活には憧れるがゴリゴリの庶民にはまだほど遠い世界だ。
「ツナ缶かイカの塩辛で代用できるでしょう」
「ナイスアイデアですハルアキさん!」
イカの塩辛ならちょうど冷蔵庫で冷えている。アツアツのご飯に乗っけて食べるのが最も美味しいため、他のアレンジを考えたこともなかった。冷たいサラダと塩辛の組み合わせは新鮮だが間違いない。食べる前から確信できる。
「じゃがバターに塩辛を乗せるのも美味しいですよ」
「うわぁそれも美味しそう!今度やってみましょうね!」
言わずとも冷蔵庫から出してきてくれた塩辛を受け取る。手伝いだけでなく献立の提案もしてくれて大助かりだ。世間が知ったらきっと一家に一人ハルアキさんが欲しくなるだろう。
食に関して知識がありそうなハルアキさんだが食事は不要と言われている。幽霊だからカロリー摂取の必要がないらしい。なんて素晴らしい究極体なのだろうと感心すると同時に、食べる楽しみがないのは気の毒だとも思い、初めの頃は一人だけ食す食卓が気まずかった。しかし不要なだけで食べられないわけではないという自動車免許の試験ばりに捻くれた事実を聞いてからは気が楽になり、たまに興味を示して一口を所望する浮遊霊に分けてやっている。せっかくなので一緒に食べましょうとハルアキさん用の箸と食器を用意したら顔を明るくして喜んでいるのがわかり、可愛いところもあるのだなとほっこりした気持ちになった。
大きめのプレート皿を取り出し、見栄えのサニーレタスを敷いた上にポテトサラダを乗せ、頂をイカの塩辛で飾る。小食のハルアキさんの分は少なめに盛った。トースターに食パンをセットしてマーガリンやジャムなどを小皿に出す。洗い物は増えるが、ちょっとした演出で食卓が華やぐのが楽しいのだ。耳かきと呼ばれるとても小さなスプーンも可愛らしく、効率が悪いというのについ体格に似合わないちまちまとした小物を使ってしまう。自分が楽しいのだからいいのだ。
フライパンの水分がなくなった頃に胡椒だけ振りかけ、香ばしいにおいが漂い始めたら火を止めて目玉焼きを一個と二個に分ける。焼き色のついたベーコンは中に旨味が閉じ込められていて美味しそうだ。
「お前、育ち盛りなんだからしっかり食べなさい」
「食パン三枚食べるので大丈夫です」
卵半分食べておなか一杯になる彼がその4倍の量を少ないと表現するのだからおかしい。ハルアキさんがちょこちょこと口をつけて残した物を自分が片付けるので実質一人前みたいなものだ。
「コンソメとコンポタどっちにします?」
「んーーコンポタでお願いします」
慣れたようにスープカップを取り出しインスタントの粉末を投入する。電子ケトルを持つ平安貴族の画のシュールさに今更気づき、笑いを噛み殺した。家電を使いこなす幽霊という時点で面白いのに時代ボケも絡ませてくるなんて卑怯だろう。
ちょうどパンも焼きあがった音を告げた。取り出した二枚のうち一枚を半分にカットしてハルアキさんの皿に乗せて、トースターにもう一枚放り込む。
「ささ、アツアツのうちにいただきましょう」
ハルアキさんが丹精込めてかき混ぜてくれたスープをまず一口。とろみのあるポタージュはまだ肌寒い季節に染みる温かさだ。
「お味はどうかな」
「大変美味でございます」
インスタントにお湯を注いだだけの一品にさも自分が作りましたという顔をする同居人に合せて感想を述べる。事実、大手企業の味付けは非の打ちどころがなく美味しかった。
マーガリンを塗ったトーストに目玉焼きを丸々一個乗せて噛り付く。ベーコンと一緒に茹で焼きしたことで塩気が移り、調味料をかける必要はなかった。半熟の黄身がとろりと広がり黄色の花が咲く。白身ののど越しの良さにちゅるちゅると啜りたくなる気持ちを抑え、マーガリンのコクとのマリアージュを一口ずつ丁寧に味わう。
「しょっぱいものばかりになっちゃいましたね」
ベーコンと塩の染みた目玉焼き、そしてポテトサラダの塩辛乗せ。塩と塩と塩に追い塩だ。日本人は塩分取りすぎらしいが塩漬けした燻製肉を毎朝食べている国々もいい勝負じゃないだろうか。
「ジャムで相殺ですよ」
ジャムは恐ろしい食べ物だ。昔果物からジャムを作った時に見た砂糖の量はとてもグロテスクだった。そこまで入れなくてもと思いたくなるがそこまで入れないと普段食しているジャムの味にならないのだ。砂糖直舐めした方がまだマシだろう。そこまでしてジャムにする理由はわからない。この一瓶にどれだけの砂糖が入っているのか、知らずにいたらどれほど幸せだったことか。知ったところで食べるのをやめはしないが。
深みを感じる赤色はルビーのように光を反射している。若干果肉が残るタイプが高級感もあって好みだった。ハルアキさんにあげた片割れに薄くマーガリンを塗り広げ、その上にジャムを重ねる。
がりりと齧るとトーストの香ばしさに広がる果実の瑞々しさ。暖かいパンがジャムを温めてより甘みを強めている。水分を吸って柔らかくなったところに染みこんだのもまたいい。
「前々から気になってたんですが、マーガリン塗る必要あります?」
「ジャムだけだと主張が激しいんです」
パンとジャムでは後者の独り勝ちになってしまうので間に油脂のワンクッションが入ると境界線がぼやけてそれぞれの風味を生かせるのだ。バターの方が美味しいのだがコストの問題でマーガリンで我慢している。植物性油なのにこれのおかげでくどいジャムもするっと食べられてしまうから不思議だ。
どれどれと試しに両方塗って齧った顔は雄弁に語っていた。
「また生き延びてしまいました……」
「いや、死んでるでしょ」
新しい発見に食が進んだのか珍しく1/2枚を平らげてしまった。せっかくだからバターを出してあげればよかったと後悔する。ほんの少ししか食べられないのならそのわずかな機会を質の高いものにしてあげたいと思うのがおもいやりなのだ。
「集中しすぎましたね」
おかずをのこして主食が先に消えてしまったプレートを見つめて呆然としている。自分が食べたとは信じられないという顔だ。遠慮して残されるより好きなものを好きなだけ食べてくれた方がこちらも気持ちがいい。
「お気に召したようでよかったです」
第二弾のパンが焼けた音が鳴ったのでおかわりが要るか聞くと頭を横に振った。普段の量からすると食べ過ぎた方なのだろう。
温度調節が万能なトースターから取り出した物は1枚目と比べると余白が多く、まだ焼きが足らないと思う出来だった。しかし焼き目を薄めに設定したのには理由がある。
右半分にレタスごとポテトサラダを移し乗せて真ん中を軸に二つに折り込む。軽めにしたのは折りやすくするためだった。ベーコンも入れるか迷ったが、既にハムがサラダに含まれている上に塩辛があるのでとりあえず見送る。
「んまっ」
お手並み拝見の一口で生まれてこのかた塩辛はご飯のお供だと思っていた脳味噌にアップデートがかかる。ごろごろ感を残した芋のマッシュに塩辛の塩味が上手いことマッチしている。塩胡椒のパンチのあとにじゃがいもが衝撃を吸収して甘さが引き立つ。イカのむにゅむにゅとした触感も新鮮で面白い。
「目玉焼きも乗せちゃえよ」
誰の物真似かわからない悪魔のささやきが聞こえる。
「ぐつ、自分もそれ考えてました」
「ベーコンも入れたら美味いぞ」
「ああっ……!いけません、これで十分完成してるのにさらにそれは罪深い……」
たとえるなら、納豆だけでも食べられるのにそこに生卵とキムチとしらすをぶち込むようなものだ。ご飯をおかわりして卵かけごはんにもキムチでもしらすでも単品で食べられるところを一度に食べてしまう贅沢極まりない行為である。
「ベーコン月見バーガーにも同じこと思いますか?」
「今罪悪感が消えました」
ビーフパティに卵とベーコンという欲張りコンボのお手本は思ったより身近なところにあった。あれを見て贅沢と思うだろうか。いいやまず美味しそうと思うはずだ。
わずか30秒で陥落した食に対する認識はより高みを目指して閉じたパンを再び開く。あの食パンに乗せられる量はたかが知れており、目玉焼きとベーコンを受け止めた体はぱんぱんになって食事の難易度をぐっと上げた。
「いただきまぁす」
噛り付いたらあふれてしまいそうなぎりぎりのボディに気を付けながら大きな口で一口。
「んんーー!」
飲み込む前に歓喜の叫びが咽喉を鳴らす。不味いわけがない。ブルブルの白身に黄身ソースと肉汁が詰まったカリカリの厚切りベーコンが合わさった一品は最強にも等しかった。これは罪ではない。なぜならここは天国だからだ。
「美味しい……ハルアキさんも一口どうですか」
「いえ、私は結構です。胸いっぱいで」
蝙蝠扇を広げて口元を隠す。ヘビーな見た目でおなかいっぱいにもなってしまうだろう。しかしなぜか扇子の上から覗く目はしっかりとこちらに狙いを定めている。たぶん目を見開いているのだろうか、黒目の四方が白い。瞬きせずに見つめてくるのが少し怖かった。
こぼさぬよう細心の注意を払いながら食事を進める。水分補給に手を休めるのさえもどかしく、休憩を挟まずに一気に食べてしまった。
「はぁ……ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
満悦至極に手を合わせて締めの挨拶を唱えるとハルアキさんもそれに合わせてくる。
「朝から幸せすぎて……あっ」
満腹で食休みに入ろうとしたが何かを思い出し小走りで冷蔵庫に向かった。
「食後のデザートを忘れてました」
半分に切ったグレープフルーツを持って食卓に戻ってくる。奇麗にくり抜かれた中にはピンク色の果肉とナタデココがシロップに浸っていた。
ハルアキさんが残した分も平らげたあとにさらにこの量か、と驚くだろうが彼の体格からすれば口直しのソルベに等しい。
「ハルアキさんもどうぞ。さっぱりしますよ」
ガラスの小鉢に一房取り分けて差し出す。食べすぎた様子があったので甘みが追い打ちにならないようシロップはかけなかった。
苦い味は苦手だが、果肉の瑞々しさが恋しくなってたまに思い出したように買ってしまう。それでもやはり苦みが克服できないのでポンチにして食すのだ。
透き通ったピンクグレープフルーツと半白濁のナタデココが光輝いて宝石のように見える。この歳になっても心の中の女児が呼び覚まされ、目を輝かしてしまう。
「やっぱにがぁい」
「そんな顔してまで食べなくても……」
「口の中がリセットされるんですよ」
満腹感まではさすがになくならないが、酷使した口が酸でリフレッシュして風通りがよくなるのだ。油には柑橘類がよく効く。
果肉にフォークが刺さり果汁がはじける。
「酒好きには苦みが解らないからなぁ」
「羨ましいなぁ、成人までにお酒が飲める舌になるといいんですが」
大人になった楽しみといえば飲酒と喫煙の解禁だろう。グレープフルーツごときの苦みで顔をゆがませているようであれば酒も当然しかめっつらになるに違いない。
「苦いのを感じやすいのは舌が敏感ってことですよ、そちらを誇るべきです」
子供の頃に嫌いだった野菜が大人になると食べられる現象もこれが原因だった。味を感知する味蕾の数は生まれた時が最大でそれからどんどん減少していく。つまり年と共に味覚も鈍くなるということだ。美食家があれは美味いこれは不味いと評価していてもそれは鈍感になった舌による判定であり、舌が肥えてるとは言えない。逆に子供の言う不味いは的を射ているのかもしれない。
「味覚が研ぎ澄まされていたって好き嫌いが激しくなるだけでメリットないですよぉ。まだ人参もしっかり味付けしないとダメなんですよ?恥ずかしいです」
素材の味をお楽しみください、な味付けが特に苦手だった。野菜は美味しい物じゃない。大人だってマヨネーズやら醤油やらで味付けしないと食べられないのだからつまりはそういうことなのだろう。
「食べられる方が異常なんですよ。お前の反応が正しい」
「それ、ハルアキさんも異常ってことになりますけど」
「うん、普通じゃないね。幽霊だし」
ははっ、と捨て笑う高尚な幽霊ジョークは学がないため反応できなかった。返しにくい自虐系の冗談を言う人は苦手だ。
ずずとポンチの汁を飲み干す。しっかりした皮をこのまま捨てるのももったいない。マーマレードかピールにしてみようと閃く。
「まぁでも、お前と盃が交わせないのは寂しいですねぇ」
「うわぁ自分が女子だったらくらっといってました」
「キュンです?」
「前も思ったんですけど若者言葉どこで仕入れてくるんですか」
ご丁寧に指ハートまで作っている。流行とは無縁の生活だったためノリに乗ってやれないのが残念だ。こんなつまらない大学生に絡むよりギャルと居た方が合うのではないのだろうか。
「チクタク」
「チクタク?!」
チクタクとはネットリテラシーが身に付いていないお頭の緩いティーンが個人情報を振り撒きまくる闇の深いアプリだ。顔出しはもちろん、制服や近所の情報を隠しもせずに全世界に公開するのがあたりまえになっており、それで個人を特定され犯罪に巻き込まれるのもよくあった。そしてそもそもだ。
「ハルアキさん携帯持っているんですか?!」
もう1カ月近く一緒にいるのに連絡先を教えてもらっていない。もっとも、連絡の必要が発生したことなどないのだが。
「いいえ、私の霊体を電波に変換してダイブするんです」
「霊体を電波に変換してダイブ?!」
「まぁ嘘ですけど」
「嘘!!」
驚きのボルテージが上がったままオウム返しに叫ぶ。随分と遊ばれてしまった。
コーヒーでも淹れてクールダウンしようと空になった皿を持って席を立つ。
「ハルアキさんはブラックでいいですか?」
「うーん、今日はクリームも添えて欲しいかな」
「うちには牛乳しかないので問答無用でカフェオレにします」
500mlが余裕で入る大きめのマグカップと正反対のデミタスカップを出す。いつもは300g298円のインスタントだが今日は違う。大家さんからお裾分けで頂いたドリップコーヒーだ。
張り付いたペーパーを開くと豆の香りが待ってましたとばかりに広がり鼻腔をくすぐる。デミタスにセットしてまずは粉を湿らすくらいの少量を回しかけ、20秒ほど待つ。この間にマグに牛乳を3分目ほど入れてレンジで加熱しておく。牛乳を入れる分を考えて細くお湯を調節しながら濃いめに出し、そのままドリップバッグをマグに移した。120mlが適切であるところをなんとか300まで頑張ってもらう。最後はもう麦茶の色だ。苦いのが苦手なのでアメリカンまで薄めてちょうどよかった。決してずぼらとかケチの類ではない。あとはデミに牛乳を注いでレンジでチンして終わり。
「今日は一段と香り高い……エスプレッソのような深みもありますね」
「すごい、今日は濃いめに淹れたんです」
「どうりで。カフェラテの方が好みなんですよ」
「オシャレな飲み物飲んでるなぁ」
コーヒーショップでエクスペクトパトローナムみたいなコールができるタイプだと見た。まだオシャレなカフェデビューを果たしていないお上りさんの自分にはせいぜいホットコーヒーとアイスコーヒーが限界だ。サイズもSMLしかわからない。
「その呪文が唱えられる方がすごいと思いますけど」
「脳内を読まないでください」
そこはプライベートな部分だ。同居をしておいてプライベートもくそもないが。日頃も隙あらば見られているのだろうか。
「今度スタバ行きましょうか」
ただ心の中を覗き見しただけでなくフォローも忘れない周到ぶりは脱帽ものだ。メロドラマを夢見る女性だったら落ちること間違いなしだが、花より団子の男には通用しなかった。
「俺っ!あのグラニータみたいなやつ飲んでみたいです!」
「なんでその名前だと言えるんですか」
この部屋には霊が出る。守護霊ではない。昔から住み着いているのではなく自分が入居したタイミングで現れたそうだ。今までどこに居たのかも、どこへ向かうのかも曖昧な彼と不服ではあるが繋がりができてしまったため、しかたなく共同生活を送っている。
原因は我にあり、なのだろうか。神社仏閣や墓に無礼を働いた覚えはなく、誰かに付け狙われるような因縁の一族なのかとも考えたが、よくある苗字は陰謀から最も遠い農民を表すものだった。両親が事故で死んで天涯孤独にはなったけれど。
もし自分が原因だった場合、出る物件にしてしまったことに関して賠償しなくてはならないのだろうか。考えただけでぞっとする。霊感の強い人が近くにいないことを願うばかりだ。
「レポートに書籍購入レシート付けろ、って酷くないですか?」
ハルアキさんの食器を調達するときに一緒に購入したデザートグラスに盛られたアイスはいつもより量が多い。
課題に必要なのに断固として古本は認めない講義のおかげで今月の家計簿が苦しい状況になっていた。自著の本を買わせて売り上げが自分の懐に入るようにしたい気持ちもわかるが、苦学生の財布事情も考えてほしい。
「教務課に『これは経費で落ちますか?』と聞いてきたらどうです」
「馬鹿言ってんじゃねーよで終わりでしょう」
むしゃくしゃした気持ちはスプーンが掬う量を増やした。雑に扱っていいアイスではないのに憤りがゆっくり味わう余裕を奪い、あっという間に空にしてしまう。
返還義務なしの奨学金に応募したが、優秀な学生は彼以外にも居り、残念なことに選考から漏れてしまった。生い立ちを武器にすれば通ったかもしれないが、その手は使いたくなかったのだ。同情に訴えるのではなく平等にジャッジしてほしかったわけだが残念な結果に終わった。利子なしだとしても貸与型奨学金という甘い皮を被った借金は抱えられない。
「文庫1000円ならまだ我慢できますけど、ハードで4000円って!1か月の定期代ですよ!」
「学生の定期ってお得ですよね」
「おかげで一カ月三食もやしです」
「極端すぎて死にますって。普段のやりくりでできた貯金が少しあるでしょう?ちょっとばかし崩してもいいんじゃないですか」
バイトの掛け持ちで月20万近くを稼ぎ、家賃に3万、光熱費に1万、交通費0.5万、食費5万、消耗品や書籍などその他諸々に2万、を差っ引いた残りは貯金していた。
ちなみに三食もやし生活は引っ越してきたばかりの4月に経験済みだ。
「……こういう時のために使う貯金じゃない」
テーブルに伏して漏らした声はふてくされていた。半期使う教科書ならまだしも、中間レポートの為だけに必要なものに高い金を払うのは納得いかないだろう。
「あーあ、宝くじ当たらないかなぁ。買ってないけど」
「買わなきゃ永遠に当たりませんよ」
「99%当たらないものを買う勇気はありません」
「その1%を引き当てるかもしれないじゃないですか」
1等当選確率は2000万分の1という実感がなさすぎる確率。スケールの大きさにつかみどころが難しいが、言い換えれば1回の抽選で日本全国民のうち6人も当選するわけだ。となれば「自分もワンチャンあるのでは?」と根拠のない自身を持つのが人間というもの。319分の1の確率を「319回回せば必ず当たる」と勘違いして万札をサンドに投資するパチンカスの心理と同じだ。
「余裕がない状況で博打に手を出すなんてもっと自分の首を絞めにいってるじゃないですか。あれは貯えがある人がやる遊びです。あてにしちゃいけません」
高確率で0になるギャンブルはリスクが大きすぎて自分には無理だった。3000円を使うなら焼肉食べ放題に行きたい。抽選待ちにそわそわするよりすぐそばの幸福を選ぶだろう。
「当てにいけばいいじゃないですか」
「競馬ですか?」
馬の性能やダートのコンディションなどである程度分析できるが、3連単をドンピシャで当てるのは特に難しく、“ある程度”であるため番狂わせが起きるのも珍しくはない。
「それでもいいけど、億を狙うならロトでしょう」
「ロトって数字を選ぶやつでしたっけ」
好きな数字を選ぶだけの簡単なスタイルは宝くじの次に人気なくじだ。その種類も豊富で、0~9から選ぶものや1~43から選ぶもの、6つの数字を選ぶものや14個選ぶものもある。実際のサッカー試合の得点数が当選番号になるユニークなものもあるがこちらは分析の余地があるため知識のない人には向いていないだろう。
「抽選は完全ランダムですし当てにいくなんてまず無理では」
「先に答えがわかっていれば100%当たるでしょう?」
さらっととんでもないことを言い出した。先に答えが解るなんて予知能力か抽選に不正を働く他にない。超能力に恵まれなかった極々平凡な彼にできるとしたら後者になる。未成年に犯罪を犯せと言うのか。
「スパイの素質はないと思うのですが」
「見ればわかります。お前があれこれする必要はありません。私が言った番号を選べばいいんです」
「見ればわかるって何ですか。馬鹿にしてます?」
「そのでかい体じゃ眠れない日もあったろう。いやそうじゃなくて」
話が逸れていくのを軌道修正する。
才能がないと本人が言ったにもかかわらず同意されると気分が悪くなる。同級生より頭一つ二つ突き抜けて大きかったコンプレックスは慎重に扱わないとすぐ噴火するのだ。
「ハルアキさんが電子回路に潜入して小細工すると」
「この間の根に持ってたんですね。そんなことする必要はないです」
若者の間で流行しているネタの話題になった時の冗談だった。いつもの淡々とした調子で言うものだから本気で信じかけていたのだ。
予測不可能な当選番号を先に知っておくにはそのくらいのことをしないと無理なのではないだろうか。
「私には千里眼があります」
「……ふへっ」
千里眼、それは君が見た妄想。遥か遠くの土地だけでなく過去も未来も見えてしまう超人的なスキルに憧れない子供はいない。黒歴史のノートに僕が考えた最強の戦士もとい自分を書いた子は大勢いるだろう。
「信じてませんね」
「だって、んふ……いやぁ」
物質と反物質をぶつけることでその質量をエネルギーに転換させて放出する系の攻撃もできるのかもしれない。時間を止められるとも言いそうだ。
「よろしい」
どこからともなく便箋と白い封筒を取り出した。どういう原理なのだろうか。未来のネコ型ロボットのように四次元空間へ実物を収納して出し入れしているのか、または無から創り出しているのか、その場合この封筒の成分は霊体由来になるのだろうか。
「この後に起こることを紙にしたためます。それが起こるのはこれから12分後の20:23。その時間をすぎたらこの封筒を開けなさい」
「おお、御船千鶴子」
「長尾郁子です」
「いやまず透視じゃないでしょ」
「わかってるじゃないですか」
かつて千里眼事件と呼ばれた、透視ができる女性二人にまつわる実験と論争は超能力ブームを巻き起こし、小説などの題材によく使われた。彼女たちに行われていた実験は封書の中身を当てるもので未来予知についての追及はなく、狭義的な意味で千里眼という言葉が使われたのだろう。
渡された封筒の保管場所に少し迷い、半分に折ってジーンズのポケットに仕舞うことで手を打つ。
「彼女たちの力は本当だったと思うかい?」
「状況からすると嘘くさいかなと」
透視を行う対象物は彼女たちの手が届くところにあった。糊で封をした封筒を開ける裏技は今や生活の知恵として多くの人が知っている。疑わしいと思ったのも、実験中に封筒を火鉢に落として燃やしてしまった回数がやけに多かったからだ。
「手品師よりも超能力者として売り出す方がウケがいいでしょうし。説明がつかないものは神秘的、道理があるものはインチキ、って変な話ですよねぇ」
タネがある前提で見るマジックは評価されにくい。やり方さえわかってしまえば誰でもできる、という見せかけの超人トリックにマイナス値の“騙された”と感じるのだろう。
「で、ハルアキさんは真相を知っていると」
「うん?」
答えをはぐらかすが、にたりと口角を釣り上げているのを見ると隠せていない。いや隠す気がないのか。
「焦らさないでくださいよ」
「んー、まぁそのままでいいんじゃないですか。今では証拠も証人もないし、明らかになったところで誰かが得するわけでもない」
その通りである。当事者たちは皆亡くなり、こういう人物がいてそういう実験があった、で既に幕を下ろしている。真実を知ったとしてそのあとはどうするのか。誰かに伝えるのか。根拠を求められたとき幽霊の証言と正直に言えるのか。まともな人なら取合わないだろう。
「ふっておいてそれはないですよぉ、そこをなんとか!」
「目の前に超常現象がいるんだからそっちに興味を持ってほしいな」
「だってハルアキさん自分のこと聞かれるとはぐらかすんですもん」
わかっていることはハルアキという名前と平安の生まれの貴族――確証を得たわけではなく、これまでの会話の中で否定はされずにいるほぼ事実の状態だ――ということぐらい。
「ミステリアスな男ってよくないですか?」
「自分で言っちゃうような人はダメだと思います」
キャラクターをつくってまでモテたいのか。襤褸が出た時が悲惨になるというのに。何を聞いても曖昧な返事をしない人は職場でも避けたいタイプに入るだろう。
「うーん、けっこうウケは良かった気がするんだけどなぁ」
「よく知らない人には通用すると思いますけど、親しい人からはどうでした?」
少しの回顧のポーズから段々と顔に陰りが出る。
「……この話やめようか」
声のトーンも低い。見えていなかった事実に気づかせてしまったようだ。
「えっと、なにかドラマでも見ましょうか!」
何やっていたかなとチャンネルの選局キーを押す。今日は木曜、夜の時間帯で面白そうなものは――。
「っあ!洗濯機!」
切り替わるチャンネルに移ったCMで思い出した。朝に回した洗濯物を今の今まで放置してしまっていたのである。蓋を開ければ半渇きの団子が生臭い香りを放っていた。今朝はやけに時間に余裕があるなと思っていたのだ。その謎が今解けた。
しかたがないのでもう一度コースボタンを押して洗濯しなおす。今日の営業は終了した後に発覚した凡ミスに、心も体もどっと疲れる。
「やってしまった……」
しわしわになって部屋に戻ると調子を戻した同居人が帰還を待っていた。
「時計を確認してください」
「へ……?あっもうそんな時間か」
スマホのディスプレイに表示されているのは20:22の文字だ。予告の時間まであと1分というところだ。洗濯機の件は関係なかったのか。予知以前に早めに教えてほしかったという気持ちが正直なところである。
「23になった」
0秒ジャストでは何も起きないがそれは不思議ではない。滑らかに進むデジタルの秒針を見つめて半分を過ぎようとする頃。
「地震だ!」
大きな地鳴りが聞こえたので危険を察知した猫のように急いでテーブルに潜るが、座って使うことを目的とした高さでは収まる部分はたかが知れている。
「この部屋倒れるほどの物はないから大丈夫ですよ」
「失礼な!」
揺れが始まるとけっこうな横揺れだったが、彼が言うようにまだ家具が満足にそろわない部屋では落ちるものがなかった。
天井とか落ちてくる可能性だってあるだろう。万が一を考えて頭だけは死守する。
「はーびっくりした」
地震の足音が十分に遠ざかったのを見計らい緊急避難の態勢を解く。地震大国日本に生まれ住んで18年だがそれでも慣れない。慣れるというと語弊があるが、突然地震がきても冷静に判断できるようになりたいという意味だ。
「こんなことなら前もって予言しておいてほしかったんですが」
「ああそれもそうか。次からそうします」
テレビには速報のテロップが上部に表示されている。ここの地域は震度4だったようだ。
ポケットから人肌に温められた封筒を取り出し、コームの柄で折り返しを切る。
「ええと、『20:23に震度4の地震が発生。特に被害は無し。頭を守るのはいいが、ボディを負傷したらどのみち動けなくなるので対策を考えるように。』……ご忠告までどうも」
「どういたしまして」
平均よりも大分大きい体を収めるには脚の長いテーブルしかないだろうが何せこの部屋にはすでにテーブルが配置されている。命に係わることでもあり迷っている場合ではないのだが、まだ使えるものがあるのに買い替えることは節約家からするととんでもない贅沢だった。
「で?」
「……この地震はハルアキさんの仕業ですか?」
「あ、そっちいっちゃいます?」
千里眼の証明で始めたはずが、予言を本物にするために働いたと疑い始めた。それもそれでとんでもない能力ということには気づいていないようだ。
「どちらにせよなんかすごい力があるという証明にはなりましたよね」
「うう、まぁ、そういうこと……になり、ま……すね」
歯切れの悪い返事はしぶしぶ負けを認めた。
「んんー、敗北の表情はたまらないですね。ここに酒があれば完璧だ」
「顔を肴にしないでください」
正義のヒーローより性格が悪いキャラクターの方が似合っている。これが素でも違和感がないくらいだ。
「じゃあさっそく取り掛かりましょう。次回は第607392回か……メモの用意」
「はっ?」
「次回の1等番号は4――――」
「わー!わー!」
慌てて音を遮断する。
「何故耳をふさぐんです?」
「それは人としてやってはいけないことでしょう!」
切れ長の眉を眉間に寄せて「何を言っとるんだこいつは」という表情をしている。むかつくぐらいに不満を体現しているが正しいのは止めた若人の方だ。
「ここまできて何を言い出すやら」
「本当にダメです。試験問題の解答を盗むのと同じです。絶対にダメです」
罪悪感を背負って生きていきたくない。そして大金も持ちたくない。箍が外れて壊れてしまいそうだ。
「でも実際、罪ではないよね」
「ルールにかかれてないならなにをやってもOK、ではないですよ」
禁止事項をすべて書くとしたらきりがない。常識におまかせしていると必ず抜け道発見と土地を荒らす馬鹿が現れるのだ。
「まったく、固いねぇ。眼鏡かけたりあやとりしたり射撃したり昼寝を趣味にしてみたらどうです」
「痛い目にあいまくるタイプじゃないですか。自分は堅実に石橋を渡りたいので。ずるをしてまで優位には立ちたくありません。平凡が一番です」
危ない橋は渡りたくないのが普通だ。その普通から外れた人が成功を収めるかまたは地獄を見るのである。この男、ギャンブルにはとことん向いていない。それにバレるバレない以前に、善性の塊のような男は良心の呵責に苛らまれるようなことはしたくなかったのだ。
「ほんっとお前は……」
何かを言いかけて止める。その表情は真剣に見え、馬鹿にするような言葉を言おうとしたのではないのだろう。
「それでいいならかまいませんけど、実際問題どうするんですか」
「何がですか?」
「本代」
「あー……」
すっかり忘れていたが事の発端は4000円の書籍に苦言を呈していたところにある。なんならギャンブルを持ち出したのはこの男だ。
「やはりもやし生活しか」
「だから止めておきなさいと言っているでしょう!」
自分を疎かにしがちな性格から再教育が必要かもしれない。
「まだるっこしすぎませんかこの二人」
月曜の夜9時といえば恋愛ドラマの殿堂だ。その影響力は絶大で、学校での共通話題は当然、流行語大賞を受賞したり時には社会現象を巻き起こすのも珍しくはなかった。
この部屋の宿主がチャンネルを回す権限を持っているのだが、特別恋愛ものが好きでこれを見ているというわけではない。面白そうな番組がなく、かといって電源を落とした後の静寂も嫌なのでBGM代わりに流していただけだった。
小さな液晶の中ではすれ違う男女のもどかしい距離感を映している。なんとなくで見ていた部屋主はどちらかというと恋愛の成就よりも主演男優の未熟な演技を応援してしまっていた。
「それが趣きなんじゃないですか」
知りませんけど、と続ける。最初からハッピーエンドの映画なんて3分あれば終わってしまうと有名なバンドも歌っていただろう。疑ってみたり不安だったりそして最後にキスで締めるのさ。
「ハルアキさんは風流が必須科目の時代ご出身でしたよね?」
恋愛にもセンスが求められた平安時代。恋文に香を焚きつけたり、花が見頃の枝に結びつけて届けたり、和歌の才能がなくてフラれたりと、今以上にロマンチックに命をかけていたと記憶している。
「ええ、何をするにも歌の詠み合いの毎日でした。自分の前を杯が通り過ぎるまでに詠まなくてはならない宴もありましたねぇ」
「曲水の宴ですね」
庭の流れがある池にお神酒を注いだ杯を乗せた盆を浮かべ、詠み終えた後にそのお酒を頂く行事だ。この時に使われる盆を羽觴と言い、鴛鴦の姿を再現しているそれを水面に浮かべる様は景色になじんでいて雅であった。それはそれで時間制限がある中で一首作るのはなかなかの緊張が走るだろう。
「そうです。センスがない人は教養がないとみなされていた時代でしたので皆遊んでいましたが必死ではありました。手紙の内容に才能が感じられないとフラれることも日常茶飯事で、失恋から出家したり時には死の床についたりと、結構命を懸けていましたねぇ」
「ああ、命懸けの方からしたら現代の恋愛は甘っちょろく感じるかもしれませんね」
恋に破れて泣くことはあっても、失恋して俗世から離れるほどではない。剃髪とまではいかないが髪を切るくらいはありえるが。
「好きと思ったらまず伝えてからでしょう。そこから駆け引きが始まっていい感じになったら3日間の夜這いを経て婚姻。その駆け引きが古典文学でも特に長く描写されるほど面白いというのに、このドラマはまだスタート地点にも立ててないようなものです」
確かに大体の恋愛ドラマにおける告白シーンは最終話に持ってくるものが多い。恋を自覚してから思いを募らせていく過程に長きを置き、告白から返事のスパンは短く、カップル成立後は目的達成したので終わりというさらにあっさりした構成が目立つ。
にしても。
「恋愛成就できなかった人がよく言いますね」
そう、現代の恋愛事情に物言いをするこの幽霊は恋愛が上手くいかなかった敗者側の人なのだ。
「普通の枠組みにはまらなかっただけで実際はアツアツでしたよ」
「表現がおじさん臭い……実はハルアキさんの妄想だったんじゃないですか?」
好きが過激を増してそんな事実は全くないのに恋人関係にあると思い込んでしまう痛い人は一定数いる。情熱的な時代のアプローチを受けても鞘に収まらなかったとなればもう脈ナシということだろう。
「間違いなく私のことが好きでした。100パーセント。これを愛と呼ばずして何を愛とみなすか。毎日愛を送りあった仲です、私以外を好きになるなんてありえません。ええ、そんなこと私が許しません」
圧が凄まじい。脅迫ではなく当然といった過信的圧力に空気が冷えたような気がする。もしや地雷を踏みぬいてしまったかもしれない。
「う、疑ってすみませんでした」
鳥肌の立つ体は得体のしれない恐怖で固まり、変に見上げた状態で謝罪する。
あまりの馴染みに彼が肉体を離れた霊体であることを忘れていた。良き霊なのか悪い霊なのかもまだはっきりしていない中で怒らせるのはまずい。
「おっとすみません、怖がらせるつもりはなかったんです。特殊なケースですから疑うのも仕方ありませんよ」
無表情から一転していつものの見慣れた顔つきに戻り、ほっとする。
「……お相手のこと、とても愛していたんですね」
「私に初めて恋心と、他人を愛したい気持ちを芽生えさせてくれた大切な人です。何度生まれ変わっても、その人の隣は私でありたい」
そう綴る彼の表情は穏やかにも悲しんでいるようにも見えた。ハルアキさんにそう言わせる人はとても徳の高いお方だったのだろう。からかっていい案件ではなかったと察知し、先の行いを反省する。
「いつか、きっと会えますよ」
その願いを自分も応援したいのだが、彼が転生しないとずっと再会できないままだ。何かいい手はないものか。
「ちょっとお願いがあるのですが」
最近の幽霊は洗濯物を畳んでくれるようだ。最近も何も比較対象はいないのだが。
以前に塩をぶつけたときはそのまますり抜けていった。なので物体には触れないかと思いきや、ハルアキさんが触りたいと思えば触れるらしい。さすがに触れたものを霊体化させるのはできないので洗濯物を取り込むときは周りの目を気にしなくてはならない。
でも宙に浮くスタバの新作や空中で一口ずつ消失していくドーナツの画は見てみたい。残念ながら自分はハルアキさんが見えるのでただ成人男性が飲食する姿を見ることになるので叶わない。
「どうしました?」
珍しいこともあるものだ。ハルアキさん自身が珍しいわけであるがそれでも珍しい申し出である。
「この間の一件もあって、自分ももやもやしたものがあったんです。それで、まずは縁のありそうな土地から攻めていきたいと思いまして」
今までの余裕綽々な様子とは違い、そわついているのが見てわかる。他人に頼みごとをするときは誰だってそうなるものだ。
「なるほどなるほど、つまり連れて行けばよいのですね。いいですよ、場所はどちらに」
かち合わない視線によほどとみて棘を刺すことがないよう言葉を選んで先を促す。
「兵庫です」
生まれて初めて乗る新幹線のチケットを買うときはなかなか決済ボタンが押せなかった。高い乗り物であることは知っていたが、片道乗車券だけでも万近くするとは思っておらず、深夜バスで行った場合を検索する無駄あがきをした。
寝てるうちに目的地に着くイメージがあるが、道中何度かSAで休憩を取らなくてはならず、その度に車内灯全開で起こされるのだ。かかる時間と不定期に強制起床させられた後の体力を考えると新幹線に軍配があがった。費用が1人分で済むのでよしとしよう。
「どれにするか迷いますねぇ」
新幹線といえば長距離。長距離といえば弁当だ。
新幹線始発駅にはショッピングモール級のショップが集結している。毎日1つずつ食べたとしてもすべての駅弁を食べるには年単位がかかるだろう。そんな状況で今日のお供を厳選しなくてはならない。難しい選択である。
「牛重、天丼、海鮮、あっここのサンドイッチ有名なところですよね。うーん、初心に帰っておにぎりも捨てがたい……」
大都会の主要駅に出店するほどだから味は申し分ない。だからこそあれもこれもと目移りしてしまう。奇麗な盛り付けが施されている弁当たちは宝石の如く魅力的に映り、見るからにうきうきしていた。
「テンション上がってますね」
「遠足のお弁当って特別なんですよ。普段とは違う非日常の楽しみですから」
発射の時間までまだ余裕はある。弁当1つでは当然足りない体を初めて感謝した。大きめの弁当2つとサンドイッチにデザートを付けるのもいい。そういえば車内販売もあったはず。
「迷える子羊に一つアドバイスです。牛肉は控えておきなさい」
「どうしてです?」
膨大な選択肢を減らせるのは助かる。
「神戸牛です」
「!」
今から向かう兵庫県の特産品で真っ先に挙げられるのが神戸牛である。観光も兼ねてと用意したガイドブックにも一面を使って特集されており、お噂はかねがね……の存在だった。
ハルアキさんは向こうで神戸牛を食べたほうがいいからここでは他の物を選びなさいということなのだろう。しかしである。
「ですが、自分の予算では到底手が出ない代物です」
そうなのだ。神戸牛はブランド牛の中でも突出して高級の部類に入る。紹介されていたどの店も国産牛だけでいいお値段するのだが神戸牛となるとそれに更に+うん千円といった具合で、100gぽっちで1万も不思議ではない世界だ。
「私に任せなさい、いいところを知っています」
その代わり……と誘導された先でおいなりさんを買わされた。
『そのきんぴら一口くれませんか』
『脳内に直接話しかけないでください』
朝ごはんという補正がかかった状態で焼き魚弁当は強かった。鰹のお出汁で炊かれた炊き込みご飯の上に黒々とした海苔がかぶさり、身の厚い銀鱈が中心を飾る。どんと中央を構える魚の傍らには厚焼き玉子ときんぴら牛蒡、ほうれん草の煮びたしそして海老真薯が控えている。大ぶりの西京焼きの上に乗るはじかみのピンクも良いアクセントとなり、四季を詰めたような華やかさだった。
味噌の甘さに被さる日本酒のつんとした苦みが癖になるこの味はご飯何倍もいける代物だ。あっさり出汁の煮びたしと真薯が味の濃い焼き魚の箸休めとして良い働きをしている。味が薄いのではなく、口の中で出汁の香りが広がる優しい味付けなのだ。
『ぶつぶつと独り言を言ってる変人に見られてもいいならそうしますが』
『やっぱりこのままでいいです』
沢山の人が行き交う駅とは打って変わって車内は静寂を保っていた。喧騒の中なら気づかれずに済むが、ここでの会話は目立ちすぎる。
窓際の席に座り景色を楽しみながら弁当をつつく大男の隣席にハルアキさんは居た。
『ハルアキさん、そこ座るのはいかがかと』
当たり前だが手配した切符は生きてる人の分だけ。いくら幽霊でも無賃乗車でふかふかシートを享受するのはどうだろうか。
『空いてるんだからいいじゃないですか』
『今はそうでもいつ他の乗客が来てもおかしくないですよ』
旧都を始めとする主要土地が位置する西方面へのアクセスは需要が高い。チケットを取った時も空席は数えるほどで、隣の席はすでに抑えられていたはずだ。
『大丈夫です、この席は神戸まで空席になっています』
何故そんなことを知っているのか。しかし、ただでさえ一回り二回りもでかい体の隣に同じ料金で座らせるのは気の毒だったのでよかった。不思議が不思議なことをやっても転じて不思議ではない。
『ですのできんぴらを』
『はぁ、どうぞ』
お好きなようにとお重を差し出す。
『手づかみで食べろと?』
なかなか摘ままない様子にどうしたのかと顔を向けると見るからに不満顔をしていた。指で直に触れるのも、さらに汚れた指を舐めるのも、お育ちが良い人には受け付けがたい行いだろう。
『我慢してください、箸は一膳しかありません』
『嫌です、お前が食べさせてください』
『いや何故。間接キスでも構わないのでしたらご自分でどうぞ』
『箸が宙に浮いていたらまずいでしょう。ちょっと持ち上げてくれれば合せるので』
絶対に譲らないという姿勢だ。他人の目について突かれてしまうとこちらの立場がない。
態と脳内で大きなため息をつき、上品な口に似合いの量を箸で摘まんで不自然に見えない位置まで上げてやる。
『どうぞ』
『いただきます』
手を合わせる所作も絵になる男だ。と、箸を保定している男が思った。
大声なんて出せるのかと思うような小さな口が箸を飲み込んでいき、唇が触れる感触がする。むずむずとした気持ち悪さを感じた。
『んー美味しいですねこのきんぴら。照りのある味が濃い目なタイプが好きなんですよ』
実は油っぽい汁気のあるきんぴら牛蒡がこの弁当を選んだとどめだった。パラパラした上品なものよりも家庭料理みのあるこちらの方が彼の好みなのだ。
『意外ですね、西の方は薄味が好みだと思ってました』
続けて自分の口にも運ぶ。甘じょっぱい味ががつんときて、そのあとに仄かな唐辛子の辛味が残る。好きな味付けだ。
『まぁね、もともと食にこだわりはなかった方でしたよ。昔はそこまで美味しいものがなかったですし』
『そうでしたね。当時に比べたらなんでも美味しいでしょう』
義務教育時代の教科書に当時の食事を再現したものが乗っていた。素材の味を楽しめるようなラインナップにとてもじゃないが食欲がわかなかった。
油膜が張る煮汁を白飯にかけて残さず頂くのがお決まりだったが、残念なことに箱に詰まっているのは炊き込みご飯しかない。それはちょっと台無しになってしまうのでここは直飲みさせてもらう。
『誰かと食べるのも、美味しく感じる理由の一つだね』
誰か、というのは誰でもいいわけではないのだろう。それが誰なのか尋ねるのも野暮だ。
黄色の巻物を食べ終えて蓋をし、手合わせ後半戦に入るための次の一品を取り出す。
『上段左から山葵が二つ、生姜が二、普通二、下段に移り普通一、あさり二、胡桃味噌が二つ、柚子が一つ、です』
箱に隙間なくみっちりと詰まったおいなりさんだ。
『ハルアキさんは普通とあさりと胡桃が1個ずつでしたよね』
ハルアキさんとの取引で連れていかれたおいなりさん専門店は種類が豊富でサイズも大きすぎず、あれこれ食べ比べできそうと思い自分の分まで包んでもらったのだ。
同じ油揚げで包んでは見分けがつかないと思いきや、並びを見るとメニューによって油揚げの種類や色が違うことに気づいた。間違いない、これは信頼できる店だ。
確約された美味しさに手が止まらずハルアキさんの分まで食べてしまう可能性があるため、蓋に該当の3つを予め避けておく。
『ありがとうございます』
先ずは数の多い自分が一つ食べてから食わせてやろうと考えていると、日焼けのない白い手がすぐさまきつね色の包みに伸びた。
『は?』
『ん?』
『手づかみ…』
先ほどこの男は手で掴むのを拒否したはず。だが今はおいなりさんを持っている。
『うん、寿司は手で掴むものですよ』
それは、解る。解るが納得いかない。
『……汚れるのは構わないんですね』
『舐めればいいだけですし』
口の中にすべて収め終え、猫が顔を洗うように摘まんでいた指をぺろぺろと舐める。
『そう、ですか……』
ほおばった山葵のおいなりさんがツンときた。
新神戸に着いたら山手線に乗って三宮で降りろと言われた。想像よりも人が多く、キャリーケースを持ちながら不慣れな土地での移動はやや骨が折れる。
「大通りに沿って坂を登れば北野エリアです。近くまで来たら指示を出します」
東京を8時に出発してから3時間、時間はお昼時に差し掛かっていた。二人は今、ハルアキさんが言っていた神戸牛の店に向かっている。名店のため開店前から並ぶ必要があるらしく、30分前なら確実とのことだ。
「真珠のお店が多いですね」
道なりに進むだけだが中心地と呼ばれるだけあって視界に飽きはこなかった。オシャレなカフェやブティックにアンティークショップが立ち並び各々のセンスを光らせている。
「昔は国内で真珠の需要はそこまでなかったんです。神戸は真珠の産地ではありませんでしたが、養殖所の多い三重や四国に近いことから港のあるここで加工して海外に輸出していたんですよ」
「へぇ、そんな背景が」
産地は別のところでも加工したらそこの名産品になってしまうのは今でも平気で使われている戦略だ。海外で獲れた貝が一定期間国内で飼育すれば国産となるように。
「あの大きな交差点を渡ったら左の脇道に入りなさい」
メインの通りから少しずれた道でもモダンな店が続いている。見るところがたくさんあってわくわくしてしまう。
「ここです」
洋装の建物が並ぶ一角に突如現れた和を思わせる佇まい。檜の一枚板を使った看板やすりガラスのはまった木戸に格式の高さを感じてたじろいだ。
『本当に大丈夫なんですか』
すでに先客が2名並んでおり、不安を抱きながら後ろに着く。
『私を信じなさい。待ってる間に説明しておきましょう。ここのオーダーは二郎と同じく一回で全員の注文を伺うスタイルです。またメニューもシンプルで並か大盛しかありません。お前は大盛と生卵を注文しなさい』
『並?大盛?牛丼ですか?』
『そうです。A5ランクの肉を使った牛丼です』
『A5!』
普段食している肉のランクも知らないというのにいきなり5等級のものを食べたら罰が当たりそうだ。そしてそんな質の良い肉が安く食べられるなんて常識で考えるとありえない。
『あの、前もって予算だけ教えてくれませんか』
せっかくの高級肉をお勘定にどきどきしてまともに味わえないのも嫌だ。
『2,000円あればお釣りがきます』
『嘘でしょう』
『このカシオミニを賭けてもいい』
『持ってないじゃないですか』
そうしている間に開店時間を迎え1巡目で店内に案内された。他の客は常連らしく慣れたコールが続き、自分の番で言われたとおりに注文を出す。メニューは言っていたとおりでサイドも生卵か温泉卵、そしてビールしかない。一品で勝負をする店は間違いなく美味い。
壁には牛の証明書が飾られていた。実は神戸牛という品種があるのではなく、正しくは但馬牛の中で厳選されたものに“神戸牛”という称号がつけられるのだ。
客席からは調理場の様子が見える。使う直前にブロック肉から切り取るようだ。鮮度も申し分なく、また肉の差しの入りも美しかった。
期待に胸を躍らせること10分、見たことのない牛丼が運ばれてきた。大きな一枚肉が惜しみなく乗せられた丼の天辺には味が染みていそうな長葱が飾られている。付け合わせの汁物は味噌汁かと思いきや洋風スープだ。
美しすぎる景色に見惚れてしまう。これを牛丼と呼んでいいのだろうか。
言われるがままに頼んだオプションの卵はすき焼きのように肉に絡めて食べるといいと案内があり、ハルアキさんの采配に深く感謝した。
ときめく胸を押さえながらまずは一口。
「~~っ!」
美味しい。美味しすぎる。口の中でとろける肉の甘みが頭を突き抜けていく。噛まずとも食べられるであろう柔らかさは驚くほどで、その等級のポテンシャルを思い知らされた。
長葱も程よく芯が残る煮具合で、シャクシャクとした瑞々しい触感と味の染みたくったり感が合わさってたまらない。意外な組み合わせのスープもまたいい仕事をしているのだ。主役を奪わないがかといってわき役にも成り下がらない立ち位置で、ほっくり煮えたじゃがいもたちが上がったボルテージをなだめてくれる。これはリピートしたくなる美味さだ。卵も忘れてはいけない。甘みのある肉をさっとくぐらせて頬張ればまろやかなヴェールがかかってコクが増すのだ。
今までの人生で一二を争う集中力でアツアツの丼とスープを味わう。舌を火傷した気がするが兎にも角にもこの器から意識を外すような不誠実はできなかった。
「ごちそうさまでした……!」
しみじみと噛み締めたつもりでもどんどん進む箸に全てを平らげるのに10分もかからなかった。空っぽになった丼に終わってしまった切なさと胃と心が満たされた多幸感が混ざり合って、泣きそうなよくわからない気持ちになる。
良い一杯であった。
システムを考えると長居は無用だ。名残惜しい丼に別れを告げて席を立つ。本当に千円札2枚で足りる金額にかえって気の毒になる。量は足りたかとお店の人の気遣いも嬉しく、美味しかったですまた来ますとお世辞抜きの挨拶を交わして店を後にした。
とてもいい店を教えてもらった。ハルアキさんには後でお礼をしなくては。
「……あ」
すっかり忘れていた。牛丼に魅了されてハルアキさんの存在が完全に頭から抜けてしまっていた。一口ください攻撃もなかった――耳に入らなかっただけかもしれないが――ため、いつから居なくなったのかわからない。せっかく美味しいもの教えてやったのに独り占めされて拗ねたのかもしれない。地縛霊でも守護霊でもないのが仇となった。
「どこに――」
「どうでした?」
「おあっ!」
見失った人物を探すために慌てて振り向くと、お尋ね者の顔が近距離に現れた。
「はっ、ハルアキさん、どこ行ってたんですか」
「ちょっとばかし情報収集をね。で、お口には合ったかな?」
「それはもう。美味しくて箸が止まりませんでした。教えてくださりありがとうございました、そして一口差しあげるのを忘れてすみませんでした」
土下座をする勢いで頭を下げた。連れが居るのに一人だけお楽しみというのは罪悪感に責められるのである。
「義理堅いねぇお前は。もらう気は最初からありませんでしたよ」
「気遣いが足らず……」
「入店時に離れたのですが、気付いてなかったようですね」
「そう、だったんですか……今知りました」
眼中なしな己の振る舞いが明らかになり、どろりとした汗が流れていく。
「ふふ、周りが見えなくなるほど楽しんでくれたようでなにより。お口直しにケーキはどうかな」
気障ったらしいウインクをひとつ。できる男を醸して更に尊敬を集めようという魂胆が見える。女性相手なら覿面だろうに、この場にいるのは同性だけなのが気の毒だ。
「最高に整っている状態なので直しは不要です」
「あっはい」
三宮には昼食の為だけに寄った。寄り道と呼ぶのも無礼だ。ここを目的に他の予定を組んでもおかしくはない、それだけの価値がある店だった。
山陽本線に乗り宝殿駅で降りる。落ち着いた雰囲気の町を北西方向へ10分も進むと建物の並びに住宅が増えてきた。
「ここです」
目的地到着を告げられた場所は一見すると田舎によくある広い敷地に隠居と母屋そして納屋がそれぞれ独立して建てられている様式に似ていた。
「入りにくい雰囲気なのですが」
「ここは保育園併設のお寺です。観光スポットにもなっているので気後れする必要はありませんよ」
お寺らしきものはここからは見えないのだが、じっくり観察すると歩道沿いに掲示板が設置されていてそのすぐ隣に寺の名が彫られた標石が立っていた。それらは倉庫のような建物の前にあり、更にはポールが石を横切っているため気づきにくい。
おっかなびっくり敷地を踏み進むと奥にそれらしい雰囲気をまとった木造の門が見えてきた。
「おお」
門をくぐった先には立派な講堂が待ち構えていた。庭の木々たちも手入れが施されており、住宅地に突如現れる厳かな和の雰囲気に少し飲まれかける。
左には金堂と石碑があり、「道満碑」という文字が見えた。
「道満……蘆屋道満ですか?」
「ご名答」
かの大陰陽師・安倍晴明の向こうを張った人として挙げられたのが蘆屋道満である。朝廷に仕える陰陽師に対し、彼は民間の僧である法師陰陽師という立場にあった。昔から人気を博した安倍晴明を題材とする作品は多く、必ずと言っていいほど彼に対峙する悪役に選ばれていた。
石碑には彼が平安天徳2年にここで生まれて庶民に尽くした偉大なる人だと刻まれている。末尾に合掌とあったので手を合わせた。
しかし、ここに記されている内容は既存のイメージと正反対のものだ。
「物語というのは善と悪が居ないと成り立たないんです。安倍晴明を主役として描こうとすると書き手は必ず彼を正義側に置きます。じゃあ次は悪役を置こう、となったときどういうイメージがわきますか?」
「悪行の限りを尽くす強大な敵……ですかねベタに」
同情の余地なしでないと読者の感情移入が敵側にも流れてしまい、目指す勧善懲悪が成り立たなくなってしまう。
「そう、それが一般的です。ここで残念なことに、人間は完全な無から作り出す力がほぼないんです。過去の経験や知識から影響を受けたコピーを無意識下で扱っている。オリジナルを創り出すこともできない、陰陽師といえばこの人という相手に小物を充てるのも盛り上がりに欠けてしまう」
「だからその力に匹敵する人物を置いた?」
「そう、その安倍晴明と肩を並べた秀才が蘆屋道満でした」
彼は無欲で優しく、人々の為に働いた善人であり、いかにこの地に貢献した人なのかをまるで本人を知っているかのように熱く語られた。
「悪いお方ではなかったんですね」
「死人に口なしだからといって尊厳破壊も甚だしい行いでしょう」
「でもこの土地に住む方たちは本当の道満さんを知っていて、後世に語り継いでいった……」
現代までその伝承が途絶えてないということはそれだけ偉大なお方ということだ。
キリスト教が他宗教の神を悪魔に挿げ替えた事例に似ている。自国の神を勝手に悪魔にされては誰だって怒るだろう。異国の英雄をその力が欲しいがゆえに悪役に仕立てたのだ。
「もしかしてハルアキさんの正体は蘆屋道満だったり?」
先ほどの怒りが込められたような怒涛の解説に加えて、生まれが同じ平安だ。縁のある土地として道満の生家に来たのであればもうその人本人しかなかろう。
「いいえ、私の推しです」
「……おし」
「はい、推薦のすいで推しです」
思わずタイムのポーズを取る。自分探しの旅と思ったら一介のファンによるロケ地巡りになっていた。騙された大賞ノミネートNo.1か。
「あのお堂に位牌があるんですよ」
憧れの地に来てテンションが高い霊が西側の金堂に移動していく。
「安倍晴明の墓は全国各地にありましてね、晴明あるところ道満あり、といった感じで蘆屋道満にまつわるものも必ずといっていいほどセットで置かれるんですよ。所縁があるのでもなく骨が埋まっているわけでもないのに。ですがここは正真正銘道満の生まれ育った土地ですから他とは一線を画すものがあります」
オタクは好きな分野になると饒舌を通り越して早口になるというが、死者でも同じらしい。
気配を感じてか住職が現れ、頼む間もなく閉ざされていた金堂の扉を開けてくれた。勢いづいてる幽霊はお手を触れないでくださいの警告も無視しかねん様子だったので、タイミングよく出てきてくれて助かった。
中には位牌の他に道満法師を模したらしき像が飾られていた。仏像ではなく一人の僧が祭られているのは異例であり、それだけ愛された存在だということが判る。霊感はからきしだが、交わる視線に不思議な力を感じて自ずと手を合わせた。
初めて知る本当の姿に俄然興味が湧き、彼にまつわる文献があればと尋ねたのだが残念なことに消失してしまったらしい。
『顔、想像通りでした?』
住職の解説中もじっと本堂を見つめるハルアキさんの静かさが不気味だった。
『いいえ、まったく』
『現実はこういうもんですよねぇ』
漫画や映画で過剰に装飾されるのはよくあること。目の前の蘆屋道満像は円頂に袈裟をまとった初老の姿でいかにも僧のお手本といった見た目だった。
『道満の死後だいぶ後になってから作られたんでしょう。合っているのは袈裟ぐらいですね』
これは拗らせている。こんなの推しじゃない!と現実が受け入れられず抵抗する痛いファンだ。
続けて生命との決戦を前に道満が呪符を封印した井戸を案内されたがハルアキさんは興味がない様子だった。
『創作は興味ありません』
『でも』
実際に井戸があるのなら真実味がありそうだが。
『先ほども言ったように蘆屋道満は人格者です。そんな人が他人を呪う手助けをすると思いますか?』
はっとした。仏の教えを説き、医術を使って人々を助けた徳の高いお方だったと二人から続けて聞いていたのだ。像の穏やかな眼差しからは誰かを呪い殺すような人には到底見えない。
どこまでが史実でどこからが作り話なのか。裏付ける資料はなく、エンターテインメント色を強めた作品が闊歩する現代では答え合わせのしようがない。それでも、どこかには事実が隠れている。今もこうして変わらず地元の人々に尊敬されているのが証拠だろう。
『広まってしまった誤りを正すのはとても難しいことです。だからこそ彼の真実の灯を絶やしてはいけない』
眉を顰める姿は憂いを帯びていて心に触れた。
「ここから近いところに蘆屋道満の式神がぶつかって傾いた“こけ地蔵”があるそうです」
寺を出て次に向かう巡礼地は決まっていた。こちらも地元では有名で案内板にも表示がある。観光客に優しい土地だ。
「3㎞を近いととらえるかぁ」
「へぇっ?そっ、そんなに離れ――本当だ……」
大変優秀な地図アプリに“こけ地蔵”といれて検索すると即座に結果が出た。図でみるとすぐそこと思うが所要時間にはしっかり徒歩45分とある。体感は人それぞれだろうが流石に45分を近いと表現するのは無理だろう。
「バスが通っているといいんですが……あと時刻表……ああもうなんで路線バスって探しにくいんだ!」
この場所を通るバス一覧とかあれば使いやすいのに。ルート毎になんとか坂下だのこれこれ前だのバス停名を一覧で出されたってその土地に住んでる人でも難しいだろう。まずどのルートのバスを乗ったらいいのか、ここから近いバス停はどこにあるのか、まだバスの本数はあるのか、そしてどのバス停で降りたらいいのか、調べるものがありすぎる。
「んー、私の考えではそこパスしていいと思いますよ」
「……もしかして」
「うん、もしかしてです」
創作だ。
先ほどの井戸に閉じ込められた式神に関するもので、道満の死後夜な夜な式神たちが井戸を飛び出しぶつかって傾けたという逸話があるのがこけ地蔵だった。
「おなじみの石仏が作られるようになったのは平安時代末期です。蘆屋道満は958年に生まれたので、彼の式神がお地蔵さんにぶつかったというのは時代整合がとれていない」
今でこそふとしたところにあるお地蔵さまだが、道祖神との融合などにより悪い気が入ってこないよう結界の役割をもって村の境界線である道の角に置かれるようになったのはもっと後の時代で、地蔵菩薩信仰が最高潮に達した江戸時代に最も盛んに作られたという。つまりは、平安時代はまだ道端に石像がぽんと置かれるスタイルはなかったということだ。
「へぇ、ためになりました」
行く必要はないと言われて正直助かった。既に天手古舞でもういっそ徒歩でかちこむかと誤った判断をしそうになっていたのだ。
「閉じ込めたはずがないなら出てくるはずもない。創作から派生した創作です」
それに仏僧の式神がお地蔵さんにぶつかるなんてとんでもない罰当たりな話だ。
「彼は慈愛に満ちた人でした。式神にも粗末な扱いはしません。絶対に」
信念の強いガチ恋っぷりに少し引いた。
住職はやってきた若者を安倍晴明ファンとみなしたのか、近くの巡礼地をいくつか教えてくれていた。蘆屋道満の出身地でも晴明に関連するスポットが数多い事実から、彼の人気は全国的だとわかる。
「安倍晴明は播磨に住んだことはありませんが、播磨守に任命されたことから彼に関する伝説が多数残っています」
そう言う彼は不服そうな顔をしていた。というのも、親切な住職が教えてくれた場所に行きたくないと言うのだ。創作には興味がないと発言していたが、ハルアキさん曰くその提示された場所のほとんどがそれに該当するらしい。そして推しは蘆屋道満であって安倍晴明はどうでもいいというのが一番のポイントのようだ。
「ライバルのホームタウンでも受け入れられているってすごいですよね」
せっかくの好意を無碍にするのも躊躇われ、おまけで道満さんのエピソードもあるかもしれないし創作は創作として楽しめばいいとなんとか説き伏せて連れてきた。
加古川線に乗って着いたのは厄神駅。住宅地に作られた駅といった様子で、改札口を出ると車一台が何とか通れる狭い道に一軒家が密集していた。
先ほどの寺はその地の有名な観光スポットらしく至る所に道しるべがあったため安心して進めたが、ここには看板も地図も何もない。東に進み視界の開けた道に出ると田畑が広がり、極端に建物が無い光景への不安が生じる。
「目印がない……」
右も左も畑が続き、素人目ではどの道に入っても区別がつかなくなる。地図のアプリを開いて目的地の名称を打ち込んだ結果は該当なしだった。道のそばにあるとざっくりとした情報を聞いていたが、他に案内できる標が無かったためそう言わざるを得なかったのだろう。しかし向かう道しるべがないまま闇雲に進めばとんでもないことになる。ローカルな情報は現地の方に聞くにもまず人が見つからない。
「……こっちです」
かくなる上は一般住宅のインターホンを鳴らすしかないと緊張がピークに達したとき、ずっとだんまりだった浮遊霊がしぶしぶと先頭に立った。
「ハルアキさんありがとうございます……!」
困ったときのハルアキさんだ。この旅のいいだしっぺではあるが彼に助けられてばかりだった。
行く気がないと言っていた場所へのルートを知っていたということは前に来たことがあるのだろうか。その時は誰に連れてきてもらったのだろうか。それとも生前にお参りしたのだろうか。
車の往来に気を付けながらアスファルトで舗装された畦道を進む。秋口を過ぎたが夏の強い日差しはまだ健在で、畑には青い葉が生い茂っている。
「あのトタン小屋がお探しの所です」
「あれですか」
「あれです」
確認したくなるのも仕方がない。年季を感じる小屋は物置のように見え、霊験あらたかなものが祭られている場所とは思えないだろう。出口も道からは確認できず、建物の情報を知らない人だったらそこの家の納屋かと思って通り過ぎてしまうこと間違いなしだ。
「地元の方の信仰が厚いんですね」
きっちり整えられた寺院とは違い、住民の皆で持ち寄って祀られた雰囲気が親しみを感じさせる。重々しく緊張してしまう境内よりも道の端に立っているお地蔵様の方が日常に溶け込んで身近に思う、といったところか。
道路から見て裏側に回り込むと扉があったが破損した部分をテープ等を使って間に合わせの補強をしていて、かなりの年季の入り様だった。傍らには文化財を示す立て看板があるのでここが目的地に間違いない。それでも少し不安を覚えてしまうようなボロボロの扉だ。
立て看板にはここに祀られているのは石棺の蓋に掘られた像であること、稚拙な出来だから素人が彫ったと推測すること、いつ彫られたのかわからないこと、「セイメイさん」と呼ばれていること、井戸掘ったときに見つかったこと、が記されており、セイメイさん自身がどういう存在なのかについては全く書かれていなかった。
「鍵かかってますね」
厳重な施錠ではなく、古典的な取っ手に棒を差し込むタイプだが鍵は鍵だ。勝手に入ってはいけないということだろう。幸いにも扉には穴が開いていたためそこから中を覗くことにした。
「んん……?あぁ、顔ですかねあれ」
説明書きに素人だろうとあったように、なんとか人の輪郭であるとわかる浮彫の石板が左に見えた。よくよく目を凝らすと末広がりの鼻に切れ長の目と口らしきうっすらと彫られた線が見え、確かにお世辞にもプロの技とは言えない出来だ。
「首の線が三道にも見えるのですが…どこらへんが安倍晴明なんでしょう」
まだ彫り始めたばかりにもみえるのっぺらとした像には人物を特定できるようなアトリビュートはない。かろうじて首に横線が何本か入っていて皴に見えるので仏教関係の像なら納得できるのだが。
「あれ自体が安倍晴明ではなく、その石板に安倍晴明の術がかかっているからセイメイさんと呼ばれてるようです」
「えっ、じゃあますます誰なんですかあれ」
「今ではもう彫った本人以外はわかりませんが、先ほどの気づきはいい線を行っていましたよ。有力なのは青面金剛明王でしょう」
元々は帝釈天の使いだったが後に道教の三尸の説が混合した夜叉神だ。人の身体に棲み着く三尸と呼ばれる悪い虫を押さえる力を持ち、病魔を退散させると信仰されている。このセイメイさんもマムシよけの神として祀られたとも病気を治してくれるとも言われているらしい。
「セイメイさん……セイメンさん……」
字面が似ているのも偶然とは言えない。セイメイさんが持つ能力を考えれば青面金剛の説が強く、安倍晴明がマムシよけの神になる理由を考えるよりはるかに有力だ。
「ここまで来たのなら安倍晴明と思いたい……!」
「だから言ったのに」
そう、この男は行くことをしぶっていた。それを無理矢理連れてきたのは自分だ。蘆屋道満の痕跡を得るどころか安倍晴明ではない可能性にショックから天を仰ぐ。
「ここが特殊なだけですよ、次行きましょ次!」
幽霊に励まされる人間が今までにいただろうか。