恩寵を受け取るためのレッスン(墓守と心眼) 「最後の試合」が終わるまでの間、試合の再現を繰り返しながら、荘園の屋敷に留まることを強いられている招待客(サバイバー)の一人である墓守ことアンドルー・クレスは付き合いが悪い。正確に言うと、悪くなった。協力を義務付けられている試合の場では必要な受け答えをするものの、試合を終えると速やかに目を逸らしながら、足早に歩き去っていく。
以前のアンドルーは、そこまで付き合いが悪くなかった――元々人目を避けたがる傾向はあったが、少なくとも、サバイバーから声をかけられることがあれば、怯えるような素振りを見せながらも、素っ気ないあまりふてぶてしいほどの態度で応答し、人手あるいは賑やかしの要員が必要だと呼ばれれば、相変わらず怯える子供のように首を竦めたまま小声で憎まれ口を叩きながら、程々に顔を出す程度には人付き合いをした。
その程度のところから、急に社交を拒むようになったアンドルーの変化を、彼と同じ屋敷に滞在するサバイバーの多くは気付かなかったし、気付いたとしても、それを敢えて問題とは捉えなかった。そもそも、彼らは馴れ合うために荘園からの招待を受けた訳ではない。
強いて言えば、医師は彼の変化を気にかけ、その姿を見かけるたびに「何かあれば相談して欲しい」と声をかけるよう気を付けてはいたものの、彼女の試みが何らかの実を結ぶこともなく、次第に医師も(彼なりの理由があるのでしょう)と納得をすることにした。
閉鎖空間であるこの荘園において唯一の医療従事者である彼女は、自分に出来得る範囲で、同席するサバイバー皆の健康状態にも気を配るべきだという使命感を持っていたが、実のところ、その「医師である」という重責から降りるために、彼女が過去に「医師として」犯した過ちを償い、我が身可愛さに見捨てた子どもとの約束を果たすためだけにここにいる彼女が、荘園で同席しているだけの彼らに対して、そこまでの献身を傾ける理由はなかった。リソースは限られているのだ。
それに、試合外での接触を拒むサバイバーは、アンドルー以外にも数人いた。例えば、特質として社交恐怖を持ち、己の確たる生活スタイルに沿って生活している様子の納棺師や、何らかの事情により口を縫い付けられており、自らも口を固く閉ざして、愛嬌らしいものはその仕草から読み取れるものの、手紙の受け渡しのほかでは、基本的に応対することができないポストマン。つまり、珍しいことでもない。
さらに、アンドルーは誰彼構わず社交を拒んでいるわけではないことが、(そもそも大体のサバイバーは他人のことを気にかけるような性分ではないが、)多くのサバイバーが彼の様子を敢えて、全くと言っていいほど気にかけようとしない様に拍車をかけていた。彼は「選択」を行ったのだろうと理解されていたのだ。
選択とは何か? 彼はサバイバー全員に対して付き合いが悪くなったわけではなく、ヘレナ・アダムスにだけは心を開いている様子で、試合外で他のサバイバーからの呼びかけに答えなくなった後も、彼女と行動をともにしている姿を見かけることはあったし、時折荘園主が姿も見せずに開催するイベントでは、彼女に伴われたのならば顔を出すことはあった。社交を他者に振りまくのではなく、気に入ったものとだけ付き合うことにしたということだろう。
しかし、ヘレナはそれを良しとはしていなかった。例え戸を閉められたとしても、神の手によって常に窓は開かれているのだから、その窓を自ら閉ざすような振る舞いを良しとするべきではない、というのが彼女の心情である。
ノックの音に応じてヘレナが返事をすると、扉を開けて彼女の部屋に入ってきたアンドルー・クレス――そもそも他人との行き来が著しく少なかったらしい彼はそのためか、本来であれば同性の友人に見せるような態度でヘレナに接してくる。ヘレナはそれに正直辟易しているところがあるが、幼気なものが、自分も当然共に行くものだと信じて服の袖を掴んでいるのを振りほどくのは、少し心が痛む――は、先の試合の再現から負傷状態で戻ってきたらしい。泥に混ざって血の臭いがする。
「クレスさん……怪我をされていますね。」
「ああ、うん、でも、勝ったんだ! はは! 治療を頼む、いや、頼みたい……頼めるか?」
良い試合の運びだったのだろう。勝利に気が高揚しているらしく普段よりも随分はきはきと喋りだしたものが、段々遠慮がちに尻すぼみになっていくのを聞きながら、ヘレナは救急キットが置かれている場所に手を伸ばし、持ち運びに無理のない持ち手のついた小型の箱を手に取る。先日荘園主から贈られた衣装は、丁寧に編み上げられたカーディガンに胸元の可愛らしい花、まるで部屋着のようにゆったりとした作りのワンピースで、それは本当に着心地が良く、ヘレナがそうやって体を動かすたびに、布地がするすると滑らかについてくる。
「……私には応急手当しかできませんから、後でちゃんと、ダイアー先生のところに行ったほうが良いですよ。」
ヘレナがそう付言したところで、アンドルーは気にした様子もない。曰く、「信じられない」からだそうだ。アンドルーは常に、嘆くようにそれを口にする。目が見えるやつが、僕を見て陰口を言わないなんてのは嘘だ。信じられない。僕のいないところで目茶苦茶言ってるに決まっている。あの女医は、庭師の女とつるんでいるだろう。あいつらはよくこそこそと話をしている。口元を隠しながら、気持ちが悪いぐらいにくっついて、聞こえないと思って嘲り笑っているに違いない。
アンドルーが確信を持って憤るように、というよりかは、ひどく嘆くように続けるそれらの言葉に、ヘレナが「彼女達は、そんなことを言ったりしませんよ」と窘めたところで、アンドルーは、体質の問題から夜に閉じこもるような暮らしを長く続けたことによってか、不健康に落ちくぼんだ目を俯かせながら「信じられない」と繰り返した。
「私が言うことも、信じられませんか?」
椅子に座らせた彼の前に跪き(作業がやりやすいからであって、特段意味はない)、差し出させた男の骨筋張った腕に包帯を巻きながら、ヘレナが少し困ったように眉尻を下げて微笑んでみると、それには「ちがう!」と、間髪入れずに強い音が返ってくる。
「あんたのことだけだ! あんたのことだけは、信じられる……あんたが信じるやつのことは、あんただって、あいつらに騙されてるんじゃないかと、思うが……」
「そんなことはありませんよ。」
嘆く調子で続けられる猜疑心に、ヘレナが堂々と返してみせると、その芯の通った声を聞くにつけ、居心地の悪そうに椅子の上で縮こまったアンドルーは、「……ど、どうやって、信じるんだ?」と弱々しく零した。
「あいつらは、僕と母さんに石を投げてきたやつと同じように見える。そいつらと同じじゃないって、どうやって信じることができるんだ? アダムス、お前には、その面を見ることはできないのに。」
そのように続いた寄る辺のなさ気な問いかけに、ヘレナは少し考えてから、「場数でしょうか」と呟く。
「ばかず?」
「はい。人と交流した経験と言いますか……私も決して、多いわけではありませんが。」
ヘレナはアンドルーの生い立ちを彼から話を聞く程度にしか知らないが、母親とラズの墓地、そして「外敵」によって構成される話を聞く限り、彼のこれまでの交友関係は随分と少なかったようだ。「そうではない人間」のことを知らないし会ったこともない。だから、信じることなんてできるわけがない。一方ヘレナは、温かな両親と理解ある恩師に恵まれ、彼らの導きで様々な人と出会い、人間が素晴らしいものだと知っているからこそ、信じられる。そういうことだろう。
「クレスさん、私と一緒に、ダイアー先生のところへ行きましょう。」
「はっ!? い、嫌だと言っただろう……」
「私もついていきますから、大丈夫ですよ。まずは、傷が膿まないようにしなくては」
「ね、」と彼の手を取ったままヘレナが念押しをすると、アンドルーは黙り込んだ。「目が見えるやつなんか信用できない!」と振り払いたいのは山々であるが、ただでさえ自分よりも力が弱く、目が見えない分相手の予備動作を察することも難しいのだろう彼女の手を無下に振り払っては、また彼女を傷つけることになるのではないかという不安があった(過去に一度アンドルーは同じような状況でそうしたことがあり、その時に結果として突き飛ばされよろめいたヘレナは机の角に頭をぶつけた。眼鏡があったから怪我こそしなかったが、なければ瞼を切っていたに違いない。彼はそれを――自分が意図せず振るいかねない暴力によって、自分が信頼できる唯一の友人関係が断絶することを恐れていた。)。
「信頼できるかどうかは、まず、一度知り合いになってから考えても、遅くはないでしょう?」
不安感に強張っているアンドルーの手を引くようにその手に手を添えたまま、ヘレナは、かつて彼女の世界を広げてくれたサリバン先生のように、落ち着いた声でそう続けた。