炎天のまろうど「こんにちは、お若い方。《一匙の甘味》はいかがですか?」
背後から控え目にかけられた声に、黒髪の青年は振り返る。遮る物の何もない剥き出しの地面からの照り返しを全身に受け、今にも行き倒れそうに覚束ない足取りで歩くその旅行者の姿が同情を誘い、ちょうど庭先で薬草を摘んでいた老主人は咄嗟に挨拶をしたのだ。
サファリハットに麻混素材の半袖シャツ、濃紺のベイカーズパンツというカジュアルな出で立ちは典型的なバックパッカーであろうか。剥き出しの前腕が少し赤くなっていることに目を留めた老紳士は(これはかなり酷い日焼けになるな)と若さゆえの蛮勇に内心苦笑する。
「《グリカ・クタリウ》…?」
乾燥に少しひび割れた唇をペロリと舐めた青年は好奇心旺盛な子供めいた瞳で老主人を見返した。精悍な顔立ちながらどこかあどけなさが残る、人懐こい笑顔が印象的だ。右目に眼帯をしているのは一時的なものか、あるいは先天性のものなのか……、いずれにせよ初対面で尋ねることではないだろう。
目深に被っていた帽子を押し上げ、額を伝う汗を手の甲で拭った青年の髪はしっとりと艶やかでまさに人生の盛りとしての夏を謳歌しているような彼の生命力に主人は少し眩しそうに目を細める。
「さぁ、そこにかけていてください。すぐ、お持ちしますから」
古びた門扉を押し開け、大小様々な庭木や良く手入れのされている家庭菜園の中を案内された青年は一際大きな木の陰に置かれているテーブルと、その傍らに寄り添うアンティークのチェアを勧められた。背から降ろしたバックパックを脇に置き、どっしりした木の椅子に腰かけた青年はようやくほっと息を吐く。
ギリシアの夏の日差しは強い。未だに剥き出しの荒い路面の照り返しが、閉じた瞼の奥で弾けズキズキと頭を苛んでいる。けれどこうして木陰に入ってしまえば、からりと乾いた空気は存外心地好かった。
かちゃんと金属が擦れる音に木漏れ日を見上げていた青年は顔を向ける。
「《グリカ・クタリウ》をお食べなさい」
テーブルに置かれた小振りの盆には水の入ったガラスのコップと、傍らに添えられた小さな皿に銀の匙が乗っている。スプーンの中には、果実の砂糖煮だろうか……?とろりと瑞々しい赤いジャムのようなものが入っていた。
「さぁどうぞ、旅のお方。コップ一杯の冷たい水と、一匙の甘味です」
青年は少し緊張した風に姿勢を正すとまずはガラスのコップを手に取った。水滴に濡れた硝子の表面が熱を帯びた掌にひんやりと気持ち良い。中に満ちた水の冷たさに期待しつつそっと口を付ける。本当はゆっくりと味わうつもりでいたが、乾いた大地に沁みる慈雨のような誘惑には抗えず半分ほど飲んだ後で一旦コップを置き銀の匙を手に取った。
チラと斜め向かいの椅子に腰を下ろした老主人に視線を送ると、穏やかな頷きが返る。ぱくりと口に含んだ青年はしばらく思案気に瞬きを繰り返していたが、確信したのか小さく声を上げた。
「トマト……!あ、これってトマトですよね?てっきり果物だと思っていたので、少し驚いて……」
「正解です。もちろん、果物をお出しすることもありますよ。果物でも野菜でも、その時に旬のものを甘く煮たやつをね」
トマトの瑞々しい果肉と砂糖、蜂蜜にレモン果汁……、いたく感心した風な青年は残りの水を今度はゆっくり味わうとコップを置いた。老主人は深いしわの奥の目を悪戯っぽく瞬かせて告げる。
「空になったグラスにスプーンを入れて返すのが《一匙の甘味》の作法です」
ホストである主人の言葉を受けにわかに慌てた青年がコップに匙を入れた。涼し気な金属音が辺りに響く。そんな若い客人の挙動を微笑ましげに見守っていた老紳士はどこか懐かしむように口を開いた。
「この辺りは元々出稼ぎや移民の多い国柄でした。それはもう、遥かな昔からね。《旅人に親切にする》というしきたりが励行されているのです。土地に染み着いた古い習慣のようなもの、とでも言いますか……」
「そうなんですか……、素敵な習慣ですね!」
青年の屈託のない笑顔に釣られ老紳士もかすかな笑みを零す。
「失礼ですが、こちらへは観光で?当てはお有りでしょうか?」
「あ、はい。古い知人と待ち合わせをしているのですが……、俺が少し、道に迷ってしまって」
「それは……、難儀されたでしょう。この辺りはこの通り、有名な史跡もない片田舎ですから。もしこの先に行かれるのでしたら電話をお貸ししましょうか?スマートホンなんて代物もここでは使えないのだとか……、」
「いえ、俺の《待ち人》はそのスマートフォン?とかよりずっと高性能なジーピーエス??……を搭載してるような奴ですから!何ならもう、きっと向こうから…………、」
ゴーン……、老主人の耳にいつかどこかで、そして幾度となく聞いたような重厚な鐘の音が届いた。けれどそんなはずはない。この近くに教会や鐘はないはずなのだから。それでも確かにその鐘は高らかに周囲に鳴り響いたのだ。
まだ幼い時分ただおろおろと見送った父の葬儀の時に聞いた鐘、不慮の事故で早世した友の弔いで響いた鐘、病死した最愛の妻の…………、年経た樫の木めいた頬を透明な雫が伝う。老主人は突然の己の感情の発露に驚いて、けれど嗚咽を止めることができなかった。
「―え、あの、大丈夫ですか……!?」
慌てて席を立った青年が傍にやって来て遠慮がちに優しく背を擦る。その掌の温かさに救われた気がして老紳士は気恥しそうに顔を上げ、傍らから心配そうに覗き込む青年に礼を言おうとした。
刹那、唇がわなないて言葉を失う。ついで顔の色も失った。視線の先の木陰に誰かが、否、《何か》が佇んでいる。匂いのない気配。まるで警戒心の強い野生動物のような……。
身体を強張らせ一点を見つめる老主人の様子に気付いた青年が視線の先を辿った。小さく感嘆のような息を零す。
「来てくれたのか!」
弾んだ声に誘われた風に木陰の暗がりが形を変え一歩踏み出した。影を落とす楡の巨木から滲み出て来たかの滑らかな足運びに老紳士は息を呑み凝視する。ニレの精かと思われたその影は博物館に展示されている数々の青年像もかくやという風貌の美丈夫だった。自身の性別も年齢も時すら忘れ魅入ってしまうような魔力がある。
白亜の神殿の柱よりなお眩い銀の髪、青みを帯びた暗褐色の肌、纏う衣服の上からでも判る破綻なく整った体躯……、その全てがまさしく黄金比を元に形創られた人型の美術品のような男だった。
人は真に美しい物を目にした時、視線を逸らすことが出来ない。そして、美しいものはそれと同等に恐ろしいのだということも、古くから神々との交流が深いこの地の人間にとっては魂に刻まれた教訓でもある。暗いサングラスの奥に隠された瞳がじっと老人に注がれる。
「俺の命の恩人なんだぞ?そんなに睨むなよ!怖がってるじゃないか」
「睨んではいない。……日差しが眩し過ぎるせいだろう。それに、その人間は少し勘がいいだけだ。俺の神気に当てられたか……。じき、落ち着く」
「そうは言ってもやっぱり心配になるじゃないかおまえはもう少し穏便に移動できないのか」
気安い友にかけるような声色で近寄ろうとする青年の腕を老主人は咄嗟に掴み引き留めた。驚いて見返す純朴な顔に老人はただかすかに首を振る。
(《あれ》はこちらの世界のものではないですよ……!)
喉が引き攣れるようで恐ろしく、とても言葉にはならなかった。一瞬新緑の瞳を瞬かせた青年はそんな老紳士を安心させるようにそっと腕にかけられた年老いた男の手を取りやんわりと握り返す。
「今日、貴方に受けた施しは一生……、いえ、死んでも忘れません!ありがとうございました」
そしてバックパックを背負い直すと離れ際に悪戯っぽく微笑んだ。
「大丈夫です。俺と彼はもう、かれこれ数千年来の付き合いですから!」
散歩に繰り出す犬さながら嬉しそうに銀髪の男の隣に並び立った青年は老主人を振り返り一度大きく手を振る。
クラシックなチャコールグレーのスーツに身を包んだ銀の髪の男と、傍らに立つカジュアルなバックパッカー、一見ちぐはぐな組み合わせだったが不思議と二人の雰囲気は自然に馴染んでいた。
椅子に腰かけたまま動けずにいる老主人を一瞥したサングラスの男は仮面のように端整な唇を開く。夏の日差しの下においてもうっすらと冷気を纏う声で囁いた。
「俺の連れが世話になったらしい、―感謝する。……見たところごく平凡な、《信仰心のある》一市民であるようだ。ならば、またいずれ嫌でも遭うことになる。……では、その時に、また」
「なんであんな脅かすようなこと言うかな……、」
「脅しではない。単純にまだおまえの番ではないと告げただけだ」
「そうかもしれないけど……、言い方ってものがあるだろ?」
「そもそもなぜ待ち合わせ場所に来ない?」
「それは……!道の向こうに泉が見えたから、ちょっと寄ろうと思って…………、」
「この炎天の道中に泉?―ザグ、それは《逃げ水》だ。蜃気楼のような幻で、永遠に辿り着けないぞ……」
「そんな…………!?」
髪色と同じ男が差し出した銀色の日傘の元、炎天下を寄り添うように進む二人の背を、老主人はただ視線だけで見送った。軽快な声と地を伝うような低音の響きの輪郭とが段々と遠ざかる。
真夏の白昼夢のような邂逅にしばらく魂が抜けたようになっていた老紳士は、まだかすかに震える膝を撫でるとどうにか椅子から重い腰を上げた。そのまま引き寄せられるように楡の木へと近付く。ごつごつと縦にさざ波だった樹肌にためらいがちに深いしわの刻まれた手を押し当てる。灰褐色の樹皮は今しがた目にした銀髪の男の面影と重なる気がして、老人は慌てた風に手を引っ込めた。
(その時に、また……)
今の老主人に恐怖はなかった。自身でも意外なことに、むしろほんの少し楽しみでさえある。またいつの日か会えると言った、その言葉が《真実》ならば……、いや、抗いようのない、そして定められた《事実》なのだろう。
その時は、サングラスの下に隠されていた彼の瞳の色を知ることができるだろうか……?
それは銀の匙に入ったトマトのように血液めいて赤いのだろうか、あるいは高原のタイムから採れる香り高い蜂蜜のような…………。
〈了〉