魂の片割れ 深い緑に囲まれた地を疾走する影があった。深紅の衣をひらめかせ軽快に駆け抜ける。弾む息と踏みしめた地に刻まれた燃え盛る足裏の熱の残照とが、久遠の楽土を彩る何よりも生命の輝きに満ちていた。
年経た石造りの橋を渡り新たな区画に足を踏み入れたその影は、かすかに風に乗って届いた控え目な声に顔を上げると歩みを止める。そして再び、今度はゆったりとした足取りで進み出した。最近とみに絆を深めた友人達の元へと。
柔らかな草地を過ぎてひび割れた石の階段に足をかけ、数段上がったところでようやく談笑している二人の姿が目に映る。―刹那、影は息を呑んで立ち止まった。
「ザグレウス?」
立ち竦む影に気付いた金の髪の男が少し驚いた風に目を丸くしたのち、穏やかな声をかける。その視線を辿るようにして振り向いた黒髪に褐色の肌の男も一瞬遅れて微笑んだ。
「―あぁ、君か。歓迎しよう、さぁ、こちらへ……」
いつものように支援物資の提供を申し出てくれる心強い友の声に、名を呼ばれた影は、ザグレウス王子は何やら気まずそうに一度頭を掻くと、はにかんだ笑顔と共に二人の元へ駆け寄った。
◇
草いきれに咽そうな緑の中、霧立ち込めるレーテーの流れに向かいタイルの欠片を放っていた王子の耳に重厚な鐘の音が響く。一瞬ぴたりと動作を止めたザグレウスだったが、何事もなかったかのように足元の石くれを拾うと霧に霞む川面めがけて振りかぶった。雷帝ゼウスの纏う白雲にも似た霧が、刹那ひやりとした薄緑に染まる。
「……たまたま近くで気配がしたから来てみたが、こんなところで《仕事》もせず、おまえはいったい何をしている?」
背後から発された淡々とした低い呟きに、けれど王子は振り返ることもせず手の中の幾つかのタイル片に目を落とす。表面に薄っすら残る装飾の模様は、けれど隣り合うタイルと繋がりそうで繋がらない。ままならない思いを振り払うように欠けたタイルを前方へ投げる。視界を覆う白い霧の向こう側へと。
「ザグ……、」
「しっ!」
低音に静かな苛立ちを滲ませた声にようやく振り返ったザグ王子は手を翳し制すると視線だけ川面の方へ滑らせる。口を噤んだタナトスも少し険しい顔のまま王子の背後に広がる霧の彼方に目を向けた。
(ピシッ、パシッ……)
硬い物が水の表面を数回跳ねながら遠ざかる音がかすかに聞こえる。カロンの金貨めいて硬質な瞳を瞬かせた死神は、回答を求めるようにザグレウスの顔に再度目をやった。水切り遊びで回数を更新した子供のような得意気な表情を浮かべているものとばかり思っていたタナトスは、思いがけず沈んだ王子の横顔に開きかけていた唇を結ぶ。
「レーテー川の水を飲むと生前の記憶を失ってしまうんだって?いつも霧が立ち込めててよくわからないけど、魚も釣れるし、どうやら飲める水もちゃんとあるらしいな」
妙にお道化た風なザグ王子の声に死の化身は怪訝そうに首を傾げた。
「なにか、忘れたいことでも?」
その問いには答えずに王子は再び霧の水面に目を凝らす。いつの間にかその顔から取り繕うような笑みは消えている。
「創造主は、《球形だった人間の魂を二つに割った》んだってさ」
「だから人間は、《一人では不完全な存在》で……、《世界のどこかにいる自分の魂の片割れを探してる》んだって」
ザグレウスの唇から紡がれた唐突な内容に少し眉を顰めた死神は一拍遅れて聞き返した。
「―なんの話だ、人間のおとぎ話か?」
「あぁ、うん……。酒場で亡霊たちが話してたんだ。―ほら、館のみんなの意見を聞いて回るのも大切な仕事の内だからさ!」
「どうだか、《油を売っていた》の間違いではないのか?」
「……言うようになったな、タナトス」
王子は派手な溜息を吐くと脱力した勢いのままドサッと草地に腰を下ろした。小高くなった土手の縁から両足を垂らしブラブラさせて足元に纏わりつくひんやりした霧を爪先の熱で散らしている。
「それで?」
「……なにが?」
「おまえはなぜ、そんなに浮かない顔をしている?」
一瞬驚いて古い友神の顔を見上げた王子は、少しバツが悪そうに視線を逸らせたのち、いつになく重い口を開く。紡がれる言葉も常の彼と比べるとどこかぎこちなかった。
「ふたりが……、アキレウス師匠と、パトロクロスが強い絆で結ばれてるってことは、俺だってわかってた。そんなふたりと友としての絆が結べていることが、誇らしかったんだ」
タナトスは特にその人物達と関りがあるわけではない。けれど冥界王子が彼らの為に奮闘していたことは、あちこちから聞き及んでよく知っていた。
「―だけど、二人でいる時の、師匠のあんな顔、見たの初めてで……、」
溜息と共に途切れたザグレウスの声は周囲を漂う霧のように儚げだった。黒い睫毛を伏せた顔はもう子供などではなかったが、その表情には迷子のような隠せぬ心細さが滲んでいる。
「師匠は魂の片割れに出逢えたんだなって思ったら、なんだか二人が急に眩しくなってさ」
「俺にもいるのかな?魂の片割れ……、」
密かに慕っていた存在に他に愛する者がいたと知った時の諦めと祝福と羨望、かすかな胸の痛み。そんな傷心の王子の様子にまさかザグレウスが、人間であり師匠であるアキレウスに対して恋に近い感情を抱いていたとは露ほども思っていなかった死神は、動揺から咄嗟に口を開いた。
「それは人間の話だろう、神は本来完全であるはずだ」
「―そ、お、俺はほら!神に成り損なったようなものだから……!」
相変わらず他者の気持ちを汲めないやつだとでもいうような恨めし気な王子からの眼差しに、タナトスは若干慌てて、けれどそんな素振りはおくびにも出さずに告げる。けして頭ごなしに否定した訳ではなかった。むしろ励まそうとしていたのだ、死神なりに。慣れぬことをしたせいであえなく失敗に終わったが……。
「おまえは、神だ」
「……なんの神だっていうんだよ!?」
上目に、へそを曲げて拗ねる子供のような表情で冥界王子が尋ねた。少し逡巡したのち、タナトスは観念した風に呟く。
「…………脱出の神」
「やっぱり不完全そうじゃないか!―あ、でもちょっとヘルメスの親類っぽいところは良いかもな?」
付き合いの古い友神の真面目くさった表情と返答の温度差に思わず笑った王子の身体から緊張が抜け、硬かった顔にいつもの人懐こい笑みが戻る。無意識に安堵した死神は今度はもう少し慎重に考えてから口を開いた。
「死に、抗う神……?」
薄い灰色の唇から零れた言葉にザグレウスは虚を突かれた様子でタナトスの顔をまじまじと見上げる。
「どうかしたのか」
鮮やかな色違いの両目をパチパチと数回瞬かせるとザグ王子はさも可笑しそうに声を上げた。
「ははっ、それだと対になる俺の魂の片割れは、おまえってことになるな!?」
無邪気に笑う王子の言葉に金の目を丸く見開き硬直した死神には気付かずにザグレウスは朗らかに続ける。
「―あ、そもそも完全な神に片割れはいないんだっけ?」
「でも、それってなんか、寂しいよな」
「不完全なら、いくらでも完全に向かうことが出来る。―でも、最初から完全だったら、いつか不完全になるかもしれないってことに怯え続けなきゃいけなくなるんじゃないか……?」
小首を傾げ独り言のように喋る王子の声をぼんやり聞き流しながら、死神は己の鉄の心臓がかすかに震えた感覚に黄金の瞳をおろおろと彷徨わせた。
「……まぁ、俺には到底、父上が《完全な神》とは思えないけど、―な!」
勢いをつけて立ち上がった王子は尻に付いた草を払うと一つ大きく伸びをする。
「さて、そろそろ《仕事》に戻らないと。おまえもそうだろ?」
両手を頭の後ろで組んだ格好で死の化身に振り返った冥界王子は屈託なく笑った。
「つまらない話に付き合わせて悪かったな。―だけど、おまえに話せたおかげで少し気分が上向いた」
「ありがとな、タナトス……!」
ひらり片手を振るとザグレウスは振り返ることもなく駆けて行く。涼やかな風吹き渡る楽土に独り残された死神は、燃え散る月桂樹の冠を戴いたその後ろ姿から目が逸らせず、しばらくそのまま動けずにいた。
ザグレウスが何気なく零した言の葉が、彼がレーテーの流れに放った石の礫のように死神の胸の泉に波紋を広げ、さざ波を立てて水底に降り積もる。いつかこの泉が溢れたら、その時はどうすればいいのだろう……?
タナトスは自身の魂が欠けていたことに今、初めて気がついた。
〈了〉