灼熱のシンポシア「―ねぇ、ザグレウス。今度アスポデロスを《通過》するとき、エウリュディケのところに顔を出してお行きなさい」
「え……、彼女が何か言っていましたか?オルフェウスからは特に聞いていませんが」
冥王譲りの闇色の結膜に浮かぶ紅い瞳がきょとんと見返してくる様が何だか微笑ましくてペルセポネはふふっと笑う。
「行ってみればわかるわ!」
「はい、母上がそうおっしゃるのなら、忘れずに立ち寄ってみます!」
一片の疑いもなく素直に頷いた王子の姿に、我が息子ながら純粋に育ち過ぎやしないかと一抹の不安が頭をもたげた冥界王妃だったが、あの気難しやのハデスの元ですくすく育った彼自身の強かさを信じることにした。
◇
「―ふぅ、こう暑いと早く歌乙女の所に寄って美味しいフレッシュネクタルでも飲みたくなるな……」
灼熱のアスポデロスで煮え滾るプレゲトンの流れを恨めし気に眺めていたザグ王子は亡者の骨で組まれた筏に飛び移る。ゆらゆらと危うげに揺れる溶岩の水面に目を落としていると、どこからともなく愁いを帯びた歌声が耳に届いた。
「エウリュディケ……!」
勢いよく顔を上げた王子は辺りを見回し、煮え立つマグマの中から突き出した古のティタン族の骨の一部と思しきものを引っこ抜くと、即席のオール代わりに声のする方へと筏の進路を変更し向かった。
◇
「皇太子殿下様!」
髑髏の筏で乗り付けた冥界王子の姿を確認したエウリュディケはよく通る声を響かせた。彼女が口を開くとまるで周囲の木々がぐんと伸び、花が綻ぶようなエネルギーが発される。それがなんだかくすぐったくて、釣られて笑顔になってしまう不思議な魅力のあるニンフだった。宮廷楽師であるオルフェウスが彼女を伴侶とし、ミューズとして敬愛しているのも頷ける。彼女という存在自体が変幻自在な歌のようなもので、その朗らかさは触れた者の心を労わり、慰めるのだろう。
「あんたが来るの、待ってたよ!―このひとも……、」
すらりと高いニンフの背に隠れるようにして立っていた影が脇からひょいと顔を覗かせた。
「母上!?」
予期せぬ待ちびとの登場に一瞬ぽかんと口を開けたザグレウスはすぐ我に返り慌てて尋ねる。
「どうやってこんな危険な場所まで?父上はこのことをご存じなのですか?さぞや心配されているのでは…………、」
「カロンに送ってもらったの。そんなに心配しなくても子供じゃないんだから大丈夫よ、優しい子ね。それに私の行動を一から十まで全てあのひとに話す必要もないでしょう?」
「そう、ですが……」
「ほらほら、そんなことより、今この時を楽しみましょうよ早く上がって来て」
相変わらず天真爛漫な少女みたいに屈託のない顔で笑う実母にザグレウスも釣られて苦笑した。
(この《笑顔》には逆らえそうもないな。あの父上も、もしかしてそうだったのか……?)
王妃が帰還して後、じつに《性質のよく似た母子》だと最近冥界でもっぱらの噂になっていることを、当のザグ王子はまだ知らない。
「わぁ…………!!」
気を取り直して段差を駆け登り歌乙女の居住区へと飛び込んだ王子は、突如目の前に広がった光景に思わず感嘆の声を上げ立ち尽くす。エウリュディケの簡素な厨房兼寝所には一体どこから運び込んだのかと思うほど大きなテーブルが設置され、目にも賑やかな料理の数々が所狭しと並べられていた。
素焼きの鉢には大麦の白パンが盛られ、小振りの器に色とりどりの野菜ディップや豆のペースト、オリーブオイルが添えてある。銀や陶器の大皿には魚介と肉類をメインにした揚げ物や串焼きが重ねられ、付け合わせの艶やかなキノコのソテーにアスパラの緑が目にも美しい。季節野菜のグリークサラタや、ナッツソースでパリッと焼かれた鴨肉からはハーブの豊かな香りが漂ってくる。
冥界王子の目にはどれも新鮮で、中には何なのかさっぱりわからない料理さえあったが、辺りに漂う美味しそうな匂いだけでもお腹が空いて仕方なかった。
「それじゃ、どうぞごゆっくり!」
上機嫌で料理を並べた歌乙女は別の調理材料を仕込みに貯蔵室へと姿を消す。そんなニンフの背を見送ったペルセポネは朝日に似た微笑みと共に王子を振り返る。秘密を打ち明ける少女めいて輝く瞳で悪戯っぽく口を開いた。
「ほら、少し前まで私、地上に戻っていたでしょう?冥界に帰り際、お土産を沢山持って来たの。地上で育った美味しい物を、あなたに食べてもらいたくて……。エウリュディケの手を借りて、はしゃいでちょっと作り過ぎてしまったけれど。―迷惑だったかしら?」
「迷惑だなんてそんな!とても、嬉しいです。母上の手料理が食べられるなんて!……確かに、少し量は多いですが」
期待から落ち着かない様子で食卓のご馳走をそわそわと眺めていたザグレウスが何か思いついたのか小首を傾げ控え目に提案する。
「―あの、母上。もしよろしければ、他に呼んでも…………?」
どこかもじもじした王子の様子に一瞬エメラルドの瞳を丸くしたペルセポネは何かを察した風に微笑んだ。
「えぇ、そうね!《彼》にも是非、食べてもらいたいわ!」
「ありがとうございます!」
王子は早速、懐から取り出した盟友に嬉しそうに呼びかけた。
「タナトス……!」
◇
「これは……!何事だ、ザグレウス」
大鎌を携えた死の化身は引導を渡そうとした眼前に広がるご馳走の数々に刹那彫像めいて固まる。
「今日の《勝負》だ。また共に戦ってくれるか?」
妙にキリっとしたザグ王子が真剣な眼差しで問うた。
「なにがどうなっている?……説明しろ。状況がまったくわからない」
困惑に揺れる金の瞳に、見かねたペルセポネがそっと声をかける。
「急に呼び立ててすみません、タナトス。あなたが忙しいことはわかっていますが、少し息子と一緒に食べて行ってくれないかしら?」
「王妃……!?なぜ、このような危険な場所に?」
「まぁ!あなたまで、私を子供扱いして……!」
腰に両手を当て心外そうな顔をして見せる王妃の姿に思わずザグレウスは苦笑いする。
「やっぱりそこは俺と同じ反応するよな、普通……」
「もう、みんな真っ直ぐ育ってくれたのは嬉しいけれど、もう少し信用して欲しいわ!」
「大変失礼致しました、王妃様。けして貴女を侮ったつもりは……、」
慌てた様子で生真面目に頭を垂れる死の化身に軽く手を振ると、ペルセポネは華やかな笑顔を向けた。
「いいの!今日はそういう堅苦しいのはよしましょう?―さぁ、どれでも好きなものを食べて行って頂戴!」
有無を言わさぬ笑顔で取り皿を押し付けられた王子と死神はその勢いのままテーブル脇の寝椅子へと追いやられる。
「ごめんなさいね、テーブルを置いたらそれ一台しか入らなかったの。仲良く使ってくれるわね?」
寝椅子に並んで腰かけた状態で互いの顔を見合わせた二神は次いで手元の皿に目を落とす。
「タン、何か食べたいものがあれば取ろうか?」
「いや、おまえこそ……。俺はもう少し端に寄る、横になればいい」
何だかぎこちない雰囲気の息子達を微笑ましく見守っていたペルセポネは、これでは埒が明かないと判断するや奪った皿に各種料理を手早く盛り合わせ、手指を清めるための銀の小鉢と共に差し出すと揺るぎない笑顔で迫った。
「あなた達、食べられないものはないかしら?―さぁ、召し上がれ!」
「「い、いただきます……!!」」
ハーブが浮かべられた香り高い水で手を洗った二神は緊張した面持ちで料理に手を伸ばす。
「……美味しい!この輪っか、弾力があって歯応えが良いですね!」
「ふふ、イカのから揚げね?―あ、タナトス、卵のサラタのお味はどうかしら?口に合う?」
「はい、とても美味しいです。まさか王妃様の手料理の相伴ができるなど……、身に余る光栄にございます」
「ふたりとも、遠慮せず食べてね!」
その身に人間の血が混ざるザグレウスはこれまでも時折食事を摂る習慣があった。それは生命活動の維持というよりは《趣向》に近いものではあったにしても。対して死神は食に対する興味自体が希薄だった。そも、神は人とは異なるので本来食事の必要はない。ネクタルやアンブロシアを《楽しむ》という感覚ですら、王子に贈られるまでは理解できなかったくらいだ。けれど味覚が無いわけではないので、美味しいものが美味しいのだということはわかる。
「そうか、今度父上に赤玉葱をもらったら、こうして酢漬けにすればいいんだな!」
「レッドオニオンのマリネね?魚と合いそう……!」
和やかな母子の会話に死の化身の青銅の心もほんの少し和らいだ。
「白茄子のムサカを取り分けましょうか?ラムのシチューもあるのよ!」
挽肉と茄子を重ねて焼いた料理の表面で濃厚なチーズがこんがりとろけ食欲をそそる。肉汁の染みた茄子に舌鼓を打ったザグ王子がチラと隣を見やると、タナトスは葡萄の葉で米に刻み野菜、ひき肉を包み煮込んだ料理を興味深げに味わっていた。
「それはドルマーデス。ウゾとも合うのよ、……飲んでみる?」
手渡された杯には底の方に少量の蒸留酒が入っている。軽く揺すると透明な液体から強い香草アニスの香りが立ち昇った。ペルセポネが水差しで水を足すとみるみるうち雷雲のように濁る。
「へぇ……!」
白く色を変えた酒の変化が面白く、死神に新しい杯を手渡した王子は手ずから水差しでそっと水を注ぐ。顔を突き合わせて覗き込んだ杯の中で蒸留酒がもやもやと白濁した。好奇心旺盛な子供みたいに感心する王子の姿に薄く微笑んだ死の化身は杯を口元へと運ぶ。
「―確かに、この料理によく合う。口当たりがさっぱりしているな。地上で、香りだけは嗅いだことがあったが……、」
感慨深げなタナトスの呟きに、兎肉の串焼きを頬張っていたザグ王子も誘われるように蒸留酒に口を付けた。スッとする香りや淀むような甘さは成程、さっぱりとしていて油や乳製品との相性も良さそうだ。
ペルセポネに勧められるまま、王子は刻みオリーブの実とダイス状のフェタチーズをオイル漬けにしたものを薄く切ったパンの上に乗せ噛り付く。オリーブの香りと山羊チーズの塩味はなかなか相性が良い。そろそろ葡萄酒が飲みたくなってきた。
「タン、こっちの皿の食べたか?エビや貝の酒蒸しも身がプリプリで美味しいぞ!マルベリー?……だっけ?このソースも甘酸っぱくて合うな!」
「あぁ、美味そうだ。少し、貰えるか?こちらの白身魚も滋味深い。焼く過程で表面を覆ったチーズが殻の役割を果たし、魚の水分や旨味を閉じ込めているらしい。……よく考えられているな。―皿を、ザグ。俺が取り分けよう」
純粋に食としての味わいを楽しむザグ王子と、冷静な洞察力で調理法に関心を示す死神。そんな対照的な息子達の食事風景を楽し気に見守っていたペルセポネは、空いた皿や汚れた器を手早く取り除くとテーブルを綺麗にし、どこに置いていたのかと疑う程の新たな食器類を並べて見せた。
「うわ……!これは、凄いな…………!!」
何度目かも忘れ圧倒されるザグ王子達の眼前に並べられたのは、今度は色とりどりの果物やナッツ類、甘い菓子の盛られたプレートだった。アーモンドにクルミ、デーツ椰子の実。瑞々しい葡萄や無花果に、煮林檎とカスタードのパイ。ころころと丸い揚げ菓子には胡麻や芥子の実が振られ、たっぷりの蜂蜜がかけられていた。飴状に煮詰めたハチミツでレーズンやナッツをカリカリに固めた菓子や、小麦粉を炒め種実を練り込みまとめた濃厚なハルバもある。辺りに立ち込める甘い香りに眩暈がしそうだ。
「甘味と一緒にワインはいかが?《ヘラクレスの血》とも称されるネメア地方の赤葡萄酒よ。甘い方が好きなら、デザートワインもあるけれど……、」
ペルセポネが新しい杯と葡萄酒の入った小振りの甕を手に王子の傍に寄る。甕をテーブルの端に置いた王妃は他の道具を探して辺りをきょろきょろ見回した。豊かな芳香に釣られたザグ王子は甕から少し赤葡萄酒を注ぐと香りを堪能するように飲み干す。黒に近い葡萄酒は香り高く濃厚で、頭の芯まで強烈に痺れさせる。酒の神に魅入られたかのように夢中で杯を重ねる王子の姿に不安を感じた死の化身がやんわりと肩に手をかけ諫めた。
「流石に飲み過ぎだ、ザグ……」
ふたりの遣り取りに気付き、顔を向けたペルセポネが驚いた声を上げる。
「―あら!素で飲んでは駄目よ、とても強いお酒なんだから!まずはクラテールに入れて水で割らないと……!」
王妃の朗らかな高音はもはや内容さえ定かではなかった。ただ声の輪郭のみが歌のように耳の表面を撫でていく。地面がぐにゃりと沈み込む感覚に慌てて手を付いた冥界王子は、当然だが足が床にめり込んだのではなく自身が膝からくずおれただけだと少し遅れて気がついた。その頃にはもう世界が天地も定かでない速度で回り出し、傾いだ身体を灰褐色の腕に抱き止められたところでふつりと記憶が途切れる。
◇
急遽開かれた《宴会》でつい深酒してしまった冥界王子はそれ以上の《職務遂行》が困難との判断を下され、死神に伴われステュクス川経由でハデス館へと帰還した。最後の方の記憶がだいぶ怪しげだったが、辛うじてタナトスが運んでくれたことは漠然と覚えている。
身体は《帰館》したものの、腰まで赤い川に浸かったまま魂が追い付くのを待つように虚空を見つめていたザグ王子は数回瞬くと頭を振った。瞬間、胸元に違和感を覚え覗き込む。いつの間にやら身に覚えのない小さな包みが入っていた。表面に薄っすら付いたステュクスの雫を払うと、幸いにも中までは浸水していないようだ。薄いパピルスに丁寧に包まれていたのは、先程宴の席で見た様々な菓子の一口大の詰め合わせだった。
(……そういえば、食べる前に酔い潰れてしまったんだっけ)
「―案外、可愛いことをする」
恐らくは勤勉な《彼》がメモ代わりに携帯していた物であろう。慌てて破いた風な端を指でなぞったザグ王子は胸の辺りがじわりと温かくなる感覚に弱ったように微笑んだ。
赤い川の水でしとどに髪を濡らしたままぼんやり突っ立っていた王子がようやく館内へ足を踏み出す。視界の隅で放蕩息子の帰還を察知していた冥王ハデスが何か皮肉を言う前に、広間へと進み出たペルセポネが少しバツの悪そうなザグレウスの手を取り気遣わしげに声をかけた。
「ごめんなさい、あなたに内緒で驚かせたかったの。私が浅はかだったわね……」
「謝らないでください、母上!どの料理もとても美味しかったですし、タナトスと一緒に食べることができて本当に嬉しかったんです。俺が……、浮かれて少し羽目を外してしまっただけで…………」
「でも…………、」
新緑の瞳を陰らせた王妃を安心させようとザグ王子は微笑んだ。
「これに懲りず、―また、作ってくださいますか?」
「えぇ、勿論よ……!」
仕事に勤しむ冥王のデスク前で、手を取り合い何やら絆を深めたらしいよく似た気質の母子を黙殺し執務に当たるハデスの姿を、脇で寝そべっている赤い毛並みの番犬だけが同情めいた三対の眼差しで見ていた。
「あ~……、調子に乗って飲み過ぎたな」
黄泉返ったとはいえすっきりしない頭を抱えたザグ王子は王妃と話したのち、手を煩わせたことへの謝罪と菓子の礼を告げるべく件のバルコニーに死神の姿を探す。けれど先の《宴会》に参加した反動の仕事に追われているようで、勤勉な彼は既にそこに居なかった。残念に思いながらも日頃の習慣からそのままふらり酒場に立ち寄り、何気なく表彰者の肖像に目をやった王子は夢でも見ているのかとその場で足を止め二度見、三度見する。
「母、上……??」
そこには可憐な笑みを浮かべたペルセポネ王妃の肖像が華々しく飾られていた。そしてザグレウス王子が王妃が表彰されているのを見たのは、後にも先にもこの一度きりであったという……。
〈了〉