深淵の輝石箱 ハデス館の外れ、冥界王子の秘密の裏庭で暇を持て余した骸骨男は、組み合わせた両手の関節をポキポキ鳴らすと恨めし気な視線を壁前の一角へと向ける。
「坊ちゃん、そろそろあっしにも《仕事》をさせてくだせぇ!……《掃除》ならあっしと同じくらい働き者のゴルゴンにでも頼めばいいじゃないですかい?坊ちゃんには似合いやせんよ!」
「―もう少し待ってくれ、スケリー。これが済んだら、ちゃんとおまえの《手入れ》もしてやるからさ!」
背を向けて黙々と作業していたザグレウス王子は少しだけ振り返ると悪戯っぽく笑う。
「……はぁ、口ばっかり達者になられやしたね」
骸骨男の呆れた風な呟きと共に口蓋の中の2オボロス貨がからりと乾いた音をたてた。
王子は手にした柔らかい布で丁寧に《賜り物》を磨いている。私室含めこの武器庫にも使用人の出入りは原則禁止していた。それに仮に掃除を頼めたとしても、冥界王子が皆から賜った絆の証である品々の手入れは、やはりザグレウス自身の手で行いたかったのだ。一つ一つを丹念に想い出ごとぴかぴかに磨き上げるように作業に没頭する。
不思議な力を秘めた賜り物の数々。小さな髑髏を模った耳飾りから、滾々と葡萄酒が湧き続ける金の杯まで……、各々が贈り主の個性を主張しこうして収集棚に並んで収まる様は壮観ですらあった。
一通りの手入れを終えたザグ王子は満足そうに頷くと、さて本日の脱出劇の伴侶はどれにしようかと再度コレクション棚を見渡す。隅の一角にふと目が留まった。先程スケリーに話しかけられた時に気が逸れて、磨き忘れていた賜り物があったことに気付いた王子は慌ててそれに手を伸ばした。
柔らかい布越しにもつるりと滑らかで硬質な感触が伝わる。見た目に反しずしりと重いのは内包する途方もない質量のせいだろうか?堅い殻の奥に森羅万象を閉じ籠めた、掌の中で息づく創世神話の箱庭めいた卵型の賜り物……。光を反射し煌めく鉱石のように薄暗い靄の中で瞬く無数の輝きにザグ王子は束の間魅入ってしまう。
ここより遠い地上の更に天上、遥かなる高みに広がる広大な宇宙の似姿がその手の中にあることをザグレウスはまだ知らない。
「久しぶりに、逢いに行ってみるか……」
小さく零した呟きと共にキトンの胸元に卵型のそれを丁重にしまうと、冥界王子はもはや日課になりつつある《職場》へといそいそ《出勤》した。
◇
賜り物を身に着けているからといって必ず逢えるわけではない。けれど絆を繋いでくれるのか邂逅できる確率は不思議と高くなるのだ。
慣れた様子で亡者達を蹴散らしタルタロスを駆け抜けていた王子は、早速目当ての印を見付けると意気揚々と飛び込んだ。かの神からの賜り物を身に着けている今は悪戯に体力を奪われることもない。夜の闇よりなお昏い深淵がザグレウスの身体をかき抱き、その懐深くへと招き入れた。
「祖神カオス……!」
隠された空隙に産み落とされた赤子の産声のような呼びかけに、この閉じた空間そのものにして神である空隙カオスは、ほとんど表情の窺えない顔でそれでも心持ち目を伏せると、この小さな客神の急な来訪に歓迎するような眼差しを送る。
天も地も定かでない異空間に浮かぶ原初の創造者の領域は、王子がこれまで訪れたどの世界とも似ていなかった。
果てなく続く深いラピスラズリ色の闇の彼方では金や銀、青銅の色彩を帯びた数え切れぬ微細なきらめきが絶えず瞬いている。
さながら賑やかな生命の素がひしめき混ざり合う途方もなく巨大な乳鉢の中にでも放り込まれた気分だ。
その中で浮島のように点在する雲母をまぶした白亜の神殿は奇妙に欠け、それは同時にこの領域の不安定さをも暗示しているかのようだった。
大理石に似て滑らかな床が薄っすらとザグレウスの影を鏡映しにしている。王子が恭しく見上げた先、かの神がかすかに頷きを返した。
「ハデスの息子……、」
仰ぎ見る尊顔は遥かに高く、辛うじて確認できるのは上半身のさらに一部のみで、その全貌はとても把握できそうもない。何度邂逅を重ねても一瞬たじろいでしまう格違いの神にして古の《神産みの神》だ。
「永劫に近い時を揺蕩う我に時間という概念は希薄……、されどこの者が前に姿を見せてよりそれなりの時間経過を感知。……我とニュクスとの永き隔たりの年月には遠く及ばず、けれど不思議な既視感。―何故、」
カオスの発する呟きは辺りの空間から滲むようで大き過ぎることはない。けれども内容は相変わらず難解で、男とも女ともつかぬ曖昧な声の輪郭も掴みどころのない言葉も意味を汲むのが難しかった。
「それは……、―ええと、しばらく顔を出せなくてすみませんでした。……俺も、あなたにお逢いできず寂しかったです」
(―で、いいのかな……?)
全てが他の神々とは一線を画するような最古の神であるカオスを前にすると、流石の冥界王子も全身に奔る緊張を隠せない。震えが来るような強い畏怖を覚えるせいだ。けれどそれでもこうして足繫く通っているのは単に恐れだけではない、憧れめいた畏敬の念もまた同時に抱いているからであった。
「……好ましい回答」
祖神の白蝶貝のように淡く輝く顔の中、紫水晶色の瞳がかすかに細められる。どうやら間違ってはいなかったらしい、ザグレウスは内心でほっと胸を撫で下ろす。
いつものように提示された功徳の中から好きなものを選択すると外界へと繋がる扉が出現した。素直に出口に向かいかけたザグ王子は、けれど途中で足を止め振り返り少し躊躇ったのち原初の神の御姿を仰ぎ見る。
「あの……、もう少しだけここに居てはいけませんか?」
カオスのみぞおちあたりから連なる大小様々な虚ろな顔達のピジョン・ブラッドめいた赤い瞳が一斉に王子を見た。ザグレウスの心臓がドキリと跳ね上がる。
「―何故か。返答を、ハデスの息子」
ぱちぱちと不規則に瞬きする石榴の実のような数多の瞳からの視線に晒されながら、冥界王子は何とか勇気を振り絞り口を開く。
「冥府の神も、そして地上の神々でさえ干渉できないあなたのこの生命に満ちた領域の静けさが……、俺は好きなんです。オリュンポスの神々や皆に散々助けてもらっているというのに、我儘なのでしょうか……。けれど、時折無性にこの空間が恋しくなるんです。ただこの場所の賑やかな静寂に身を委ねていたくなる」
奇妙な間が開いた。普段ならば即反応を返すカオスが、珍しく長考している気配を察したザグ王子は若干慌てて訂正する。
「……あ、すみません!こんなこと突然聞かされても困りますよね!?原初の創造者である貴神に対し馴れ馴れしい口をきき、礼を欠いたこと、ここに深く謝罪致します!すぐ外に出て…………、」
「われの領域にて安寧を覚えるか。―では、かの者の望むままに……」
頭を垂れた王子の上に降って来た声は今まで聞いたことのない柔らかな響きを帯びていた。
「え……?」
反射的に顔を上げた先、山と連なる顔達も黙認した風に各々虚ろな瞳を冥界王子から散らせる。
「標本の採集もまた自由……、」
続くカオスの声に呼応するようにザグ王子の背後の暗がりがぱしゃんと跳ねて水飛沫のようなものが上がった。
「あ、ありがとうございます!」
ザグレウスは嬉々として早速取り出した釣り糸を垂らす。一転して顔を輝かせた冥界王子の様子にカオスもまんざらではないようで、はしゃぐ客神の姿を興味深げに傍観している。
祖神が少し身を乗り出すと空間そのものが押し寄せてくるような圧力に軽い眩暈に襲われ、煌々と燃える王子の足元がほんの少しだけ揺らいだ。小首を傾げるカオスに何でもないと手を振って返したザグ王子は張り切って釣果を上げて見せる。
「採集に成功……」
息を潜め見守っていた祖神の感嘆が辺りを震わせた。刹那、広大な闇の中を幾筋も光が過ぎる。いまだ地上で流星を見たことのない王子は(熱した蛍石を幾つも暗闇にばら撒いたみたいな)美しい光景に胸が一杯になり、ただ言葉もなくルビーとエメラルドの双眼を輝かせた。
「―眼福、」
白磁の肌を淡く珊瑚に染めたザグレウスの高揚に、思わず呟いた原初の神の心情を反映しているのか薄闇の中揺蕩うような空間にはいつになく慈しみの気配が満ちている。
いつか、《ハデスの息子》ではなく《自分の名》を呼んで欲しいという王子の金剛石より硬い切なる願いは、けれど胸の奥できらきらと輝くばかりで今はまだ口に出せそうもない。
◇
意気揚々と帰還したザグレウスを私室の裏庭で一人待っていたのはすっかり不貞腐れた顔の骸骨男、スケリーであった。
「坊ちゃん、お帰りなさいまし。まぁなんと晴々と充実したお顔で!一人待たされているあっしのことなんざ、ええ、ええ!《手入れ》ごとすっっっかりお忘れなんでごぜぇましょうねぇ!」
「あー…、悪かったよスケリー、そう拗ねるなって!ほら、今度こそちゃんとおまえの《手入れ》もするからさ?」
「前回も同じようなこと言ってやしたっけね」
「そんなこと!……あったな。―悪かったって!」
この後、スケリーが満足するまで彼の《手入れ》に根気よく付き合ったザグ王子であった。
〈了〉