冥界王子は銀羊毛の夢をみるか ふわりと意識が浮上して薄ぼんやり陰っていた視界が鮮明になる。同時に周囲のざわめきがひたひた満ちる潮のように四方から迫り、銀細工めいて繊細な睫毛を瞬かせたヒュプノスは伏せていた顔を上げた。寝惚けた頭を巡らし《入館口》に目をやるも、赤い水を湛えたステュクス川支流に繋がる泉の表面は穏やかに凪いだままだ。
(……気のせいかな?)
一瞬ザグレウス王子が戻ったような気がしたのだが……。
(な~んだ、つまらないの)
眠神は辺りにはばかることもせず大あくびするとまだ眠気の抜けない目を擦った。
当初からすれば冥界王子の《家出》期間は近頃ではだいぶ長くなったように思う。加えて呆れるほど豊かな死因がザグ王子の家出記録を賑やかしていた。
眠りの神は産まれてからおよそ《死》というものを経験したことがない。おそらくはこれから先もきっと経験することはないだろう。
眠神が所属しているハデスの館は死を迎えた《元》人間達の魂で溢れている場所だ。そこでヒュプノスは、館を訪れ冥王の裁きを受ける死者の列を整理し、来館者の情報を逐一名簿に記入する仕事を任されていた。生前の氏名や享年、人としての行いはもちろんのこと、その死因に至るまで事細かに……。
人間から見れば、さぞ重苦しい職務に思えるかもしれない。けれどヒュプノス自身は(人の子にはずいぶんと多種多様な死に様があるんだなぁ)くらいの感想しか抱いたことはなく、それも一瞬後にはもう忘れてしまう程度のものだった。
数多の死に囲まれていてもどこか遠くの夢物語めいて《死》という概念を身近に感じたこともない。―いや、逆に《死に近過ぎるせい》で実感が湧かないだけなのかもしれなかった。《眠り》と《死》はそれほど近しい双子の兄弟のようなものなのだ。
ヒュプノスにとって兄である死の化身タナトスを恐れた記憶などない。それもあり、眠りの化身は館を訪れ死後生を迎えた死者たちにでさえ死神が怖がられ、敬遠されている理由が今一つわからなかった。
(タナトスお兄ちゃんが来たから死ぬんじゃなくて、その人間の死が確定したから死神が迎えに来るってだけなのにさ……。なんで皆お兄ちゃんのことを怖がるんだろ?人間て、あまり頭よくないのかな…………?)
相変わらずの眠そうな顔で小首を傾げる。不躾とも取れる眠りの化身の歯に衣着せぬ物言いや思考の癖は、彼の無垢さに起因していた。直に外界と行き来することのない箱入り神の情緒には、まだ未発達な部分も多いのだ。兄弟神と比べてもそれはひどく際立つので時に彼の欠点とも取られるが、それだけ《魂》が純粋であるともいえる。
そんなヒュプノスだったが、ザグレウスが何度も館に戻された間際、一瞬見せる表情に徐々に《死》というものの感触を覚え始めた。そしてそのたび彼をそんな顔にした原因に何とはなしに興味が湧いて、いつの間にやら王子の死因を観察するようになっていたのだ。
『じゃあさ、今度は捕まらないようにもっと早く走ればいいんじゃない?』
『……そうだな。そうするよ、いつもありがとう、ヒュプノス』
一瞬引き攣った口元も、小さく溜息を吐くとすぐ笑みの形になる。だからヒュプノスも冥界王子に積極的にアドバイスするようになっていた。
(だってさ、やっぱり笑っていて欲しいじゃない?)
眠りの化身は、ザグ王子の口端を持ち上げるちょっと不敵な笑い方が好きだった。
(前にこっそり真似してみた時は、お兄ちゃんに「笑って誤魔化すな」って注意されたけど……)
手元の用紙の端っこに落書きしながらとりとめもないことをぼんやり考えているうち、視界の隅で赤い水面がうねり誰かが上がって来るのが映った。そのシルエットに無邪気な笑みを浮かべたヒュプノスは場違いに明るい声をあげる。頭を一つ振ると眠りの化身の側に歩み寄ってきた影が今回は幾分満足げに笑った。
◇
一通りの《反省会》の後、もう少し話していたくなった眠神は冥界王子に問いかける。
「あの、さ……、少しは役に立ってるかな?まえにボクがあげた…………、」
自信なさげに言い淀んだヒュプノスに察しのいいザグレウスは一瞬斜め上に視線をやってから返答した。
「え?―ああ、あの赤い小銭入れか?もちろん、役に立ってるよ!特にカロンに対して」
「そっか、……よかった。ボクにはタナトスお兄ちゃんやメガイラみたいな力はないから、強化とかキミの能力を伸ばすようなことは何もできないし……」
いつでもマイペースな眠りの化身の口からそんな負い目めいた言葉が発されるとは思いもしなかった王子は、驚いてつい大きな声を出してしまう。
「そんなことないぞ?おまえはいつも的確なアドバイスをくれるだろ!ああいうのは、他の誰もできないことだからな?」
周囲をさ迷う亡霊達の視線が一瞬集まったが、すぐ興味をなくした風に散り散りになっていく。突然の王子の剣幕に黄金の瞳を丸くした眠神はおずおずと聞き返す。
「そうなの……?」
「そうだよ!おまえにしかできないことだし、助かってる。なんたって親友からのアドバイスだからな!」
「親友からの………?」
青白いヴェールを被ったようなヒュプノスの顔色がにわかに輝き出す。常に眠そうな半眼が心持ち開き兄神と同じ黄金色の瞳が金貨の形に近付いた。
「そう、《親友》だろ?俺たち!」
「あは、そうだね!」
眠りの化身の柔らかな微笑みにホッと胸を撫で下ろしたザグ王子は、ヒュプノスが座る赤い寝椅子の隣に並んで腰かけた。眠神が羽織るふっくらした外套を指でつついて笑う。
「おまえのこのモコモコ、すごく肌触りいいよな……、」
語尾が消え入るのと共に肩にこてんと頭を預けた王子はそのまま微かに寝息を立て始める。
(すごい……、ボクに匹敵する寝付きの良さ!)
胸中で感心したヒュプノスはチラと主のいない玉座に視線を向けた。冥王が帰館するまで束の間ザグレウスに休息をあげようと眠りの神も王子を倣い目を閉じる。
少し体重のかかる肩から規則的な寝息と温かな鼓動が伝わり、初めてのように意識した息づく命の儚さに感銘した身体が震えた。胸の奥に苦しいような嬉しいような、形の定まらないもどかしい感情が湧き、身動ぎして王子の眠りを妨げないようヒュプノスは静かに息を潜める。
(《生きる》ことの伴侶が《死ぬ》ことだとしても、せめてボクは、《眠り》はそんなキミにほんの少しでも安らぎをあげられたらいい)
眠神の閉じた瞼の裏で勝手に落書き達が動き出す。メガイラはいつでも冷静だし、可愛いくて美しい。兄弟であるタナトスは有能で冥王からの信頼も厚い。そのどちらともザグレウス王子は仲が良かった。そして当のザグ王子は眠りの化身にも気さくに接してくる。適度に付かず離れず誰に対しても分け隔てなく、少し浮いた距離感に定評のあるヒュプノスだったが、どうも最近その感覚に狂いが生じている気がして落ち着かなかった。
仕事を認められて誇らしいような、親しくなれて嬉しいような、誰かに取られて寂しいような……。
(……誰が?誰を?誰に?)
頭の中を三神の顔がぐるぐると巡り、考えれば考えるほど訳がわからなくなってしまう。これ以上難しいことで悩みたくないとばかりに思考を手放した眠りの化身は、傍らで眠る存在に意識を向ける。今はただもう少し、この温い毛布に包まったような夢見心地のまま微睡んでいたかった。肩に寄りかかって眠る王子の黒髪にこつんと頭を寄せたヒュプノスは声に出さず呟く。
(おやすみ、ザグくん。せめても夢の中ではキミの心が自由に飛び回れますように)
一方、輝かしい宝石を隠すように伏せられた瞼の裏で、ザグ王子はめくるめく冒険の旅へと繰り出していた。
赤い外套の海に船を出し、モコモコした白波を越え遥か遠い異国の地に辿り着いた王子は、遂に探し求めた《銀》羊毛を手中に収め、長い航海の末、美しい伴侶を連れて無事祖国に帰還したとか、しないとか…………。
「……楽しい夢を見た後って、寂しくないか?」
突然耳元に届いた声にヒュプノスは閉じていた目を開け、金の瞳だけ向ける。
「え、そう……?楽しい夢だったな~って、楽しくならない?」
能天気な眠りの化身からの返答に苦笑したザグレウスが寝覚めの少し掠れた声で囁く。
「いや、楽しいは楽しいんだけど、《なんだ、夢だったのか》って、さ?」
微かに頬をくすぐる吐息がこそばゆくてヒュプノスは軽く肩を竦めた。
「夢だったのがわかって、寂しい感じ?」
「うん。逆に怖い夢だった方が目覚めてから安心するかもな。現実の方がマシだったら、だけど」
「キミって……、」
「ん?なんだよ」
「案外繊細だよね」
「繊細?う~ん、それはちょっと違うんじゃないか……?」
笑いながら身を引いて両腕を上に伸ばした王子は寝椅子から立ち上がる。座り心地の良い椅子の隣が空くと急に寒々しく感じられてヒュプノスは自身の外套の裾をそっと掴んだ。楽しい夢の後が少し寂しいという王子の気持ちが、今は何となくわかる気がする。
「……でも、」
背を向け準備運動のように身体を動かしていたザグ王子がヒュプノスを振り返った。
「目が覚めた時にひとりじゃないのって、……ちょっと、嬉しいよな」
照れ臭そうに笑う王子の顔が子供時代の彼の表情と重なる。朗らかで挑戦的で強がりで、寂しがりや。知らず手を伸ばしていたヒュプノスはザグ王子の身体に触れる寸前で我に返り、行き場を失った指先を慌てて横に振って見せた。
「―あ、それじゃ気をつけて、いってらっしゃい!」
色違いの瞳を不思議そうに瞬かせたザグレウスはすぐいつもの笑みを浮かべると元気よく答える。
「うん、ありがとう。行ってくるよ、ヒュプノス!」
「―うん、気をつけて。態度に出すことってほとんどないけど、お兄ちゃん、いつもザグくんのこと心配してるよ!」
「え?タナトスが……?」
「そんなに危なっかしいか?」という王子の独り言を聞きながら、眠神は思う。
(ボクも、心配してるから……、)
同じように夜母神から産まれ、同じように育った兄弟神である死神タナトスは眠りの化身から見ても惚れ惚れするほど完璧な冥府の一柱だ。圧倒的な風格に心が痺れ、話しかけられるだけで天にも昇るほど胸が躍った。彼に抱く感情は何より憧れが勝っている。そんな死の化身のことを兄と称し、いつからかヒュプノスは腰を下ろしうっとりと見上げるようになっていた。
冥府において魂の運び手である渡し守や死神、いわゆる兄神達の隣に並びたいと、眠りの化身が考えたことはない。あるいは叶わぬ想いを胸に秘めるのが恐ろしく、必死に気付かない振りをしていただけなのかもしれなかった。
(……せめてボクは、キミの《一番の親友》になれたらいいのに)
儚げに微笑んだヒュプノスの表情が今までに見たことのない類のものだったので、ザグレウスは驚いて首を傾げる。
「大丈夫か、ヒュプ……?」
「なにが?ボクは通常営業だよ~!」
「なら、いいけど……、」
気を取り直した風に大きく手を振り《出口》へと向かった冥界王子の背中を眠りの化身は無言で見送った。
(叶わないことに焦がれるのは切ないけど、夢を見るのは止められないよね。―それこそ、《なんぴとたりとも》…………)
◇
賜物を収めている飾り棚の前でザグレウスは少しの間逡巡していた。迷った末に伸ばされた白い指先は柔らかな感触を伝える。掌に若干の重みと、金属の擦れる微かな音が聞こえた。
「―よし、行くか!」
赤い小銭入れを胸元に忍ばせた王子は身体を反転させると勢いよく駆け出す。胸の奥でチャリチャリ弾む振動を感じながら、ザグ王子は頭の隅に残る黄金色の残像を振り払うことができずにいた。ついさっき垣間見たヒュプノスの目が、寂し気な金の瞳がどうしてか胸に引っかかる。それは壺から垂れた蜂蜜の跡のようにさり気なく、けれどいつまでも消えず、ふと伸ばした指先にざらりとほの甘い悔恨が残るような……。
(……俺はただ、《親友》の助言を信じよう)
行く手を阻む長い旅路を睨むように見据えた冥界王子は桂冠を真っ赤に燃え立たせるとテラスから飛び降りた。
〈了〉