安定剤「あ”あ”ぁ”ぁ”ぁ”あ”ぁ”ぁ”ーーー」
『安定剤』
ソファにだらりと座り、テレビを見ていると、背後から暁人の悲痛な叫び声が聞こえてくる。潰れた蛙のようなだみ声に内心驚きが隠せず、びくりと肩が跳ねた。ちらりっと背後を振り返ると、書類の山が片付いたテーブルの上で険しい顔をした暁人がノートパソコンを睨みつけていた。
「(苦戦してるな…)」
一週間前に出された課題のレポートは以外にも暁人の苦手分野のようで、一向に進まず手を焼いている。ちなみに今日で三徹目だ。目元に黒い膜が見え、髪もぼさぼさで、少し髭が生えている。体毛が薄い暁人の珍しい姿に心が浮き立つ。
「あ”ーもう、何これ!!」
ぼさぼさの頭を両手でかき回し、歯を食いしばり、肘をテーブルにつく。触らぬ暁人に祟りなし。即座にテレビに視線を戻した。
「はぁー」
全くレポートが進まない。友人の手伝いに、アジトの皆も協力してくれているが、手につかず嘆く。最初の頃は自宅で取り組んでいたが、進まない作業というのは周囲の誘惑に弱い。気づくと、別の事に逃げていたのだ。故に最初は、日中は大学の図書室で、夜はカラオケショップで作業していた。それを知ったアジトの面々がアジトを使えばいいと、書類で埋まっていたテーブルの上を片付け、場所を提供してくれた。現在、アジトに着替えを持ち込み、泊まり込み状態でレポートと取っ組み合っている。
「……つらい」
ぼそっと、呟いた本音は酷く心情を表している。やつれた顔で癒しが欲しいと切実に思う。何か、精神安定剤はないかと、周囲を見渡す。アジト内はパソコンや書類ばかりで、殺風景だが、一つだけ安定剤があったことを思い出す。ゆっくりと音も立てず、立ち上がると、テレビをみているKKの背後に迫った。
「うおっ!」
頭上に重りが乗り、僅かに沈むように首を曲げる。肩に手が回り、背後から抱きしめられた。
「暁人?」
手の主の名前を呼ぶと、すぅーという音が聞こえ、ぎょっとなる。暁人がKKの頭に顔を埋め、吸い始めたのだ。
「おい!やめろ!おっさんの臭いを嗅ぐな!」
すぅー、はぁー、鼻息に背筋に悪寒が走る。暁人の倍離れた歳のおっさんの臭いがいいはずもなく、しかも、今日はまだ風呂に入っていない。日中は走り回り、汗をかいているのだ。臭くないわけがないと、慌て抱きしめている腕を掴むも、びくともしない。
「暁人、頼むから、やめてくれ!」
口角をひくひくさせながら、哀願するも何も答える気がないのか、ひたすらに吸っている。
「暁人‼」
「…ぅ、うるさい、俺の安定剤になってろ‼」
初めて会った頃のようなきつい物言いと、安定剤という意味不明な言葉に思わず放心する。更に抱きしめる腕に力が入るのを感じ、諦める。
「(はぁ、後で倍返ししてやる…)」
そう心に決め、思考を巡らすことを諦めた。
「(はぁ、KKの臭い落ち着く…)」