朝食を食べるなら君とがいい 月に一回は身体付きのエクボが翌朝までいられる。そうできるように憑代にしている人と契約を交わしたのだそうだ。契約料は家事全般。部屋を全部綺麗にしてくれたらそれでいいよ、とのことだ。
「悪霊に憑かれてるのに嫌がるどころか利用するなんてその人も変わってるな」
「犯罪集団の守衛やってたくらいだしそんなもんだろ」
ピロートークにしては少々、いやかなり色気のない会話だがエクボと霊幻にとってはよくある事だった。
それらしい囁やきなんかなくたって、こうして二人してベッドで丸まっていられる事そのものに意味があるのだから。
家事なら俺も手伝いに行こうか? と霊幻は申し出た事があるが、知らない男の家になんて上がるな、と止められてしまった。
娘のいる父親みたいだと笑ったら、これは独占欲って言うんだよ!とエクボは噛みついてきて、譲れない部分らしい。
独占しなくたって俺なんかを選ぶのはエクボだけなのに、かわいい奴だといつもそう思う。
情交で滾った熱もほとんど治まって、触れ合う肌もさらりと乾いてきた。霊幻はエクボの首筋に頬を寄せると、眠気が誘われてウトウトし始めた。
「風呂いいのかぁ?」
低く撫でるようなエクボの声は、囁く程度の声量になるとそれは心地良くて、霊幻はことんと眠りに落ちる感覚がした。瞼はもう開く気配もなく、せめてエクボに返事だけは返す。
「……いい。朝……なったら、入る」
なんとか言いきると、スイッチが切れたように眠ってしまった。
霊幻は過去に数人と関係を持ったものの、こうして誰かの腕の中で眠ったことなどなかった。
意識のない自分なんて見られたくなくて、意識している自分しか見せたくなくて。
こうして身も何もかもを預けられるのはエクボが初めてだった。
*
翌朝、霊幻は香ばしい苦みのある匂いに鼻をくすぐられ目覚めた。エクボが先に起きて、キッチンで立ったままコーヒーを飲んでいたようだ。
1Kのアパートはベッドに寝そべっていても、わずかばかりに備え付けられたキッチンが見える。
霊幻は眠気をゆっくり払いながらコーヒーを口にするエクボを眺めていると、彼の左頭に寝癖を見つけてしまった。一房、ピンと上を向いて跳ねているのを見て、胸が甘くうずいた。自分の隣でぐっすり眠っていた証拠だ。自分もエクボが気を緩められる場所になっているのかと思うと堪らない気持ちになってエクボを呼んだ。
「エクボこっち」
と言って手招きをすれば、何をされるか分かっていないエクボはカップを手にしたまま霊幻の元に来てしまった。
落としてはいけない、と霊幻はエクボからそれを受け取るように奪うと、ベッド脇のデスクに置く。そしてエクボの空いた手を取り自分に引き寄せ、愛おしい気持ちを込めたキスをした。さっきまで彼が飲んでいたコーヒーの味がして美味しい。
キスをしたかっただけなのに、ついつい舌を入れてしまったせいでエクボに勘違いをさせたようだ。
エクボはベッドに乗り上げ、霊幻を押しつぶすように覆い被さってきたのだ。
「ははは!重いって」
エクボは霊幻の腹に顔をうずめ、鼻先でスウェットをたくし上げていく。まるで大きな犬だ。
霊幻はくすくす笑って柔らかく咎めた。
「くすぐってーよ。でも悪いな、コーヒーの味がしたからってだけ」
「なんだ、誘われたかと思ったじゃねえか」
腹から上目で見てくるエクボの頭を両手でわしわしと撫でると目を細めて、やっぱり犬みたいだと思った。
「朝飯、俺様が作ってやるよ。冷蔵庫なんか入ってるか?」
「ああ、朝飯な。実は連れて行ってやりたいとこがあってさ」
「食いにいくのか」
「いや持ち帰り」
そう、今日は連れていきたい店があって冷蔵庫には何も入れていない。
交代でシャワーを浴び、すっかり目を覚ました二人は服を着替えようとしたが、うっかりしていた。
エクボに今朝の事を内緒にしていたので、普段着がないのだ。部屋着はもう揃いの物を用意して今まさに着ているが、外出用がない。エクボには昨日着ていたスーツしかなかった。
「ジャケット着なければいいだろ」
「う〜ん、でもワイシャツじゃちょっと堅いんだよな。俺のパーカー着ろよ」
朝食を買いに行くのにワイシャツじゃ堅苦しいなんて一体どこに連れて行かれるのだろうか。しかしエクボは、こんな緩い朝に深く考える必要もないと思い、言われるままに霊幻に手渡された黒のプルオーバーパーカーに袖を通した。
「うん、お前デカいけど、それオーバーサイズだから問題ないな」
ズボンは霊幻の物はさすがに入らないので、残念ながらスウェットのままだ、上がパーカーなだけパジャマ感はなくなってマシだ。
しかし霊幻は自分で服を寄越したくせに、なぜか肩を震わせて笑っている。
「なに笑ってんだよ」
「ん、ふふ、いや、パーカー着てるお前見たの初めてだなって。かわいいじゃん」
それはそうだ。エクボのいつもの憑代の人は、中年に迫ろうとしているうえに霊幻よりも上背のある大柄な男で、フードのついたパーカーなど普段着にひとつもない。
「似合わねえもん着せて笑うなんて趣味悪いぞ」
「似合ってないなんて言ってないだろ。大型犬みたいでかわいいんだって。なあ、ちょっとワンって言ってみて」
もっと趣味の悪いことを言われてエクボはちょっと引いてしまったが、機嫌よく笑っている霊幻を見ると付き合ってやってもいい気にはなる。仏頂面で「ワン」と言ってやったのに、霊幻はかわいい!と喜んで抱きついてきた。
霊幻が気に入りのスウェットに付いているクマっぽいキャラはいわゆるブサかわである点も踏まえると、霊幻のかわいいの判定はだいぶ甘いのかもしれない。
「あのなぁ、かわいいかわいいって何をどう見たらかわいいんだよ。俺様はかっこいいって言われてえの!」
「自分の好きなもんはなんだってかわいいだろうが。そういう意味のかわいいだよ。お前だっていっつも俺のことそう言うだろ」
「いやいや、お前さんは実際かわいいんだろ」
「どこかだよ、おっさんだぞ」
「そんなおぼこい顔しておっさんを名乗るな!」
何だこの不毛な言い争いは、と二人は瞬時に気付いて、当初の目的だった朝食の買い出しに行くことにした。
玄関ドアを開けると朝だというのに生ぬるい空気がゆるりと立ち込めている。新緑の眩しいこの時期だが、すでに夏の様相をはらんでいた。
「昼には暑くなるかもなァ」
エクボが手を日除け代わりに額にあてがって空を見上げる。
「春、短かったな」
エクボのセリフを聞いた霊幻は、相談所の面々で花見をしたのを思い出した。あっという間に散ってしまう桜を逃すまいと慌ただしく準備したのだ。それがほんの数週間前。
とりとめのない会話を交わしながら霊幻が向かう先に着いていくと、五分ほどでとある家の前で立ち止まった。
そこにはすでに数人が何かを待っているようだった。よくよく見てみれば小さな看板が掲げられていて店のようだ。
「ここ三ヶ月前に見つけたんだ。自宅を改装したパン屋だって。アパートから近いから最近休みの日によく来ててさ。美味いからエクボにも食べさせたくて」
霊幻は列の後ろに並び、店内は狭いから前の人が出てきたら次の人が入るようになっているのだと続けて説明をした。
エクボたちの番になり店内に入ると、自宅を改装したというだけあって大人二人でいっぱいなほど狭い。なんか秘密基地みたいで楽しいよな、と霊幻は笑いながらどんどんパンを選んでいく。トレーはあっという間に埋まった。
「そんなに買うのか?」
「何日分かの朝飯のために買い置きな。ここの食パンうまいからその人にも買っといてやったらどうだ?」
その人、というのはエクボの身体のことだ。まあ、自分が借りる肉体だし美味い物を食べさせるのはいいとして、霊幻から他の男の話が出るのは少々気に食わなかった。
結局たっぷりと買って、エクボと霊幻とがそれぞれ紙袋を提げて店を出ると、自分たちが待っていた時以上に列ができていた。
それを持って帰りようやく朝食だ。ひと歩きして空腹が顕著になり、早く食べたくて二人で手分けして準備していく。
「俺はチーズのパンとアップルパイにするか。エクボはこの豆の?」
「おー、それそれ」
「なにコレ、グリーンピースか?」
「完熟したグリーンピースだな。甘く煮たらウグイス豆っていうんだ」
「さすが豆好きなだけあるな」
「知ってただけだ。おい、霊幻は何飲むんだ?つってもこの家コーヒーと水しかねえか?」
「ああ、そういえばいつか紅茶のパックもらったな。自分じゃ飲まないから仕舞いっぱなしがあったかも」
言いながら霊幻はシンク下の棚に頭を突っ込んでそれを探し当てて取り出した。
「うわ、賞味期限一週間後だった」
「セーフだな、飲もうぜ」
紅茶などほとんど飲まないものだから、エクボが淹れてくれた紅茶は華やかな芳しさが漂って気持ちが上がるようだった。
せっかくいい天気だし、と霊幻は窓を開けると風でカーテンが翻った。
テレビ前の小さなローテーブルに向かい合って座りパンを頬張る。
霊幻はウグイス豆が気になって、エクボからひとちぎりもらって、お礼にチーズパンの切れ端を返す。
お互いの気に入りを分け合って口にしていると霊幻は急に理由のわからない感情が込み上げて鼻の奥がツンと痛んだ。
あ、これ泣くやつだ。
と気付いて、霊幻は必死に堪えた。こんな大きな感情を受け止められないと思ったから。
誰かとこんな穏やかな朝を迎える日がくるなんて思ってもいなかった。
本当の自分を知られるのが怖くて口ばかり上手くなった。だけどそれ以外やり方が分からなくて今まで来てしまった。
平然としたフリをするのは得意なので上手くやり過ごしていたが、最後の一口のパンを飲み下すのと同時にテーブルに一粒のしずくが落ちた。
「おいおい、何泣いてんだ」
ぎょっとした顔のエクボにそう言われて、霊幻は落ちたしずくが涙なのだとようやく気付いた。
目頭も熱くないのに、涙の粒がぷくりと浮かんでは、二粒三粒と落ちていく。
頭の中は冷静だ。だけど涙が止まらなくて、止め方が分からなくて、そのままにして、頭の中にある言葉を口にした。
「変な言い方かもしれないけど……、エクボが霊でよかったと思ってるよ。俺は人間だとどうしてもまず表側から見せるから警戒するし。お前さ、なにかと霊だ生者だって分けようとするけど、だからこそ俺たちこうなれたんじゃないかって思うんだよ。まあだいぶ揉めたけど。俺……お前とずっとこんなふうに笑っていたいよ」
淀みなく一息に出てきたそれは、建前も含みも何もない紛れもなく本心だった。
エクボはテーブルの上の霊幻の手を取りそっと重ねる。霊幻の覚悟を見せつけられて応えたいと思うものの考えあぐねいて、指をからめたり握ったりが続く。
しばらくして霊幻の涙が治まると、エクボはようやく口を開いた。
「俺は……悪霊だから、お前に何があるか、それだけが……」
「そんなの聞き飽きた」
霊幻はそうは言うものの、エクボは悪霊に影響されて飲まれていった人間をいくつも目にしてきている。こういう関係になってからもまだ影響は見られないが、今後何があるか分からない。自分の、悪霊としての執着心が霊幻の魂を傷つけはしないかと不安になるのだ。
「また何か考えてるな。なあ、俺の内っ側こじ開けてきたのエクボだろ。責任取れよ。それにお前は今後俺を一人にしようと思ったり、まさか俺と他の誰かがこうなるのを望んだりしてんのか?」
「んなわけねえよ」
「だろ。それにさ、前にトメちゃんと話してただろ。霊の世界がどうなってるかなんて全部知るわけないって。だから俺たちでもどうにでもなるんじゃないかな。一緒に見つけていこうぜ」
それはそうだ、エクボだって何もかも知っているわけではない。
本当にそんな方法があるのだろうか。もしもあったなら、と淡い期待を抱いてしまう。
二人だったら大丈夫だよ。
そう言った霊幻の目は涙の名残で潤んでいて、窓から射し込む陽の光が反射した。その煌めきにエクボも覚悟を決めたのだった。