懐かない犬の話.
犬を拾った。焦茶の毛と、長い手足と、神経質そうな目をした、まだ若い犬だ。いや、拾ったというのは正しくない。
「きみ、デッドプール……ウェイド・ウィルソンだよね?あのさ、ちょっと頼みたいことがあるんだけど」
そう言って、突然胸ぐらを掴まれたんだ。しかも街中で。誰にだって?犬にだ。最近の犬は怖いな。
「実は今、追われてるんだ。しばらく匿ってくれないかな」
「はあ?アンタ誰?なーんで俺が?俺ちゃん久々の休みで、今からタコス食いに行くんですけ……どぉっ!?」
へっと鼻で笑った瞬間、足が地面から浮いた。なんて馬鹿力な犬だ。装備込み百キロ弱の俺の首をひょろ長い腕で絞め上げながら、犬はにっこり笑った。
「一昨日、この近くのアパートの屋根、踏み抜いたでしょ」
「あー、そーだっけ?あの日は敵が多くて何が何だか」
「あれ、僕んちだったんだよね」
「………」
僕のお願い聞いてくれるよね、と凄んでみせた犬の、ダサいシャツの肩には血が滲んでいた。落ちてきた屋根でも当たったんだろうか。
病院に行けよと小金を握らせて逃げようとしたが、犬は手当ては済んでいると言い張り、俺の胸ぐらから頑として手を離さなかった。胸ぐらじゃなくて股ぐらだったらよかったのに。いや潰れちまうな。
干された洗濯物みたいにブラブラしながらそんなことを考えていた俺は、多分疲れていたんだろう。その手を振り解くことさえ思い付かなかった。
「ちょっと、聞いてる?」
「聞いてる聞いてる。なあ、頼むから他をあたってくれよ。俺ちゃん、生き物の世話は向いてねえんだ。ほかに頼れるやつが誰もいないってことないだろ?」
俺を掴む犬の手は傷だらけで汚れてはいたが、手入れされることを知らない手じゃなかった。帰る場所がないやつ特有の、荒れた匂いもない──俺とは違う。そう思った。そのはずだった。
「……いないよ、頼れるひとなんて」
「何でだよ。アンタ、愛されて育ちましたって顔してんぜ」
「だからだよ。愛してもらっているから帰れない。今行けば迷惑が掛かる」
伏せた長い睫毛に、ふと濃い影が掛かる。愛して『もらっている』ね、と俺は口の中で繰り返した。犬の肩からは相変わらず血の匂いがする。
「自分ちをぶっ壊した犯人になら、迷惑掛けるにも遠慮はいらないってことか」
「そうだよ。それに、君って傭兵なんでしょう?強いって聞いたよ」
誰から?と聞くと、犬は俺の質問には答えず、ふんと鼻を一つ鳴らしてこう言った。
「屋根の修理代で君を雇う。さあ、君の家に連れて行ってくれ」
*
「やっぱり、あん時は疲れてたんだろうなあ」
じゃなきゃ、何でこの俺が。寝室のベッドにひっくり返って、特大の溜息を吐く。
あれから数日経った。無理矢理上がり込んだくせに、犬はほとんどこの家にはいない。顔を見ることさえ稀だ。そういう意味では、思ったよりは手の掛からない犬だった。いつの間にか出て行って、ふらふら帰ってきて、気絶したように眠る。でもすぐに起きてゴソゴソと本や謎の工作なんかと格闘し、そしてまたどこかへ去ってしまう。
犬は、今は帰ってきているようだ。さっき見に行ったら、リビングの隅っこに丸く膨れた毛布がいた。あいつの巣だ。あいつが散らかした、どこから持ってきたのか分かんねえ大量の本とか工具とかソファから落ちた毛布とかを部屋の端っこに押しやっていたら、いつの間にかそこで寝るようになっていた。
「いや、正直やめて欲しいんだけど……」
見ていると、まるで自分がシンデレラを虐める酷いママになった気がしてくる。せめてソファへ戻れと言ったのに、奴が寝床を変える気配はない。そんなに床が気に入ったんだろうか?犬の生態ってのはどうにも謎だ。
「今日なんて、雪降ってんのに。寒くねえのかな」
犬だし、雪も好きなのかもしれない。いや、犬がみんな雪好きなのかどうかもよく知らないが。
俺はやれやれと首を振りながらリビングへ向かう。風の音が強い。外は吹雪になっているはずだ。せめて暖房を強めてやった方がいいだろうな。風邪でも引かれちゃ困る。今の俺には一応、カントク責任とかいうものもあるんだろうし。
「──……あっ、」
ドアを開けた瞬間、引き攣ったような声と、ガタンと派手な物音がして振り返る。薄暗い部屋の奥から、犬が驚いた様子でこっちを見ていた。マジかよ、一応気配は消したつもりなんだけど。ずいぶんと耳のいい犬だな。
「悪いな、起こしたか?」
「いや……その、」
もごもごと、犬が何か呟く。歯切れが悪い。この家に来てからというもの、犬は最初の太々しさはどこへやら、こうして人見知りの子どもみたいな反応をする。笑顔で俺を吊し上げやがった犬と同じ犬だとは思えない。どうも、オンオフで差のある性格らしい。
けれどそれを差し引いても、今夜の犬の声にはどうも覇気がない気がする。首を傾げながら近付いた。怪我した肩でも痛むんだろうか。
「どーした?寒くて目え覚めたか?」
「なんでもない、ちょっと夢見が悪くて」
「そりゃ寝苦しいわな、こんな木の床の上じゃ」
「いや………」
「毛布増やす?ココア飲むか?それとも俺ちゃんとベッドで温めあって──…」
一瞬、息が止まった。覗き込んだ犬の顔は、つまんない軽口が喉の奥に引っ込むくらいに酷い色をしていた。
「……おい、平気か?」
「平気……」
「全然平気そうに見えないけど。幽霊でも見た?映画の打ち切り食らったヒーローみたいな酷い顔だ」
俺のジョークにも、犬はくすりとも笑わない。こっちを見さえしない。身体を抱え込む腕は微かに震えている。肌は血の気が引いて紙のように白い。この寒いのに、服には寝汗の跡が残っていた。
「……なあ、起きたのって、どんくらい前?」
「……ついさっき」
「嘘吐けよ。身体冷え切ってんじゃん」
「大丈夫……だから」
見ないで、と犬の長い指が顔を覆う。思わずその手を掴んだ。ひどく冷たい。
「なあ、アンタ──」
(──放っておけよ)
勢いで開いた口を塞ぐように、頭の中から声がする。まただ。お馴染みの雑念が、じっとこっちを伺っている。俺らしくないことをしようとすると、いつもこうなる。元々騒がしい脳内に、ダムが決壊したように沢山の声が雪崩れてくる。
(大丈夫だって本人が言ってんだろ。放っておいてやる方が相手のためだぜ)
(『アイツ』がいない場所で格好つける必要あるか?)
(助けると情が湧くぞ。死んだときに困る)
(そもそも、お前が助けるだって?傲慢だな)
(話くらい聞いてやってもいいんだろ)
(親が金持ちという可能性も)
(なあ、もう救世主願望は持たないことにしたはずだったろう!)
ああ、今日も元気だな、クソ。どれもこれも知った声だ。そりゃそうだ、全部自分の声だから。頭の中のゴチャゴチャを吹き消すように、ふーっと長く長く息を吐く。
暇な時なら付き合ってやるんだが、生憎今は忙しい。俺が付き合わなきゃいけないのは、目の前のこいつだ。だって、きっとアイツならそうするだろう。
「……なあ、今何が見える?」
「え?」
「アンタの目の前。できるだけ詳しく」
犬の手は、まだ冷たくかじかんでいる。長い睫毛が戸惑うように弱々しく揺れた。
「なにも……」
「ちゃんと見える。なあ、目え開けて。こっち見ろ」
「……君が見える」
「俺だけじゃないよな?言って、片っ端から全部」
「…………」
「この毛布とあっちのソファと、あと何が見える?」
本、ホーキングとフリードリヒ・シュライアマハーの、それと電工ペンチとネジとコーラの缶。犬がぽつぽつと名前を上げる。
「あとフローリングの床と、クッションと、カーテンと、僕の手……それで全部」
「そうだ、それで終わり。その中に嫌いなもんある?」
「別に……」
「んじゃ次。何が聞こえる?」
「吹雪の……風の音と、君の声」
「風の音は嫌いか?」
「嫌いじゃないけど、今日はなんか……嫌だ」
「了解。こっち来れるか?無理はしなくていいけど」
手招きすると、犬は案外素直に身体を寄せてきた。震える頬を引き寄せて、胸元に押しつける。白くなるほど強く握り込まれた拳をやんわり掌で包み込んだ。どっちも冷たい。
「ゆっくり息して。俺の声と心臓の音、聞こえる?」
「……ん、」
「なあ、今この部屋にあるのは、アンタがさっき言ったもので全部だ。アンタの敵はここにはいない」
「……うん」
「ここにないものは見なくていい。聞こえないものも聞くな。今だけでいい」
大丈夫、と耳元で囁く。浅かった呼吸が少しずつ深くなる。心音が徐々に重なっていく。
「もっと深く吸える?俺に合わせて。できる?」
「ん……」
「イイコだ。ここは大丈夫だから、安心しなよ。今は何が聞こえてる?まだ煩いか?」
握り込まれていた拳が、花が開くみたいにゆっくり綻んでいく。掌に散らばった赤い爪痕を親指でそっと撫でると、ふ、と微かに吐息が漏れた。
「ふしぎ、だ」
「何が?」
「あんなに煩かったのに……今はもう、君の声しか聞こえない」
外はまだ、あんなに酷い嵐なのに。
呟く声が耳に柔らかく響く。俺の頭の中にも、もう犬の声しか届かない。抱き寄せた肩から、少しずつ、氷が溶けるみたいに力が抜けて行った。
*
「アレ……おはよ」
「お、おはよう」
キッチンの床に座り込んだ犬が、本からそろそろと目を上げる。驚いた。いつの間にか腕の中から消えてたから、もう行ったんだと思っていた。それでなくても、いつも夜明けには出ていくのに。もう昼前だぞ?
「今日は眼鏡か。目え悪いのか?」
「度は入ってないけど……」
コーヒーメーカーのスイッチを入れながら、適当に話しかける。犬は本に顔を伏せたまま、それでもぽつぽつと言葉を返してきた。機嫌は悪くはないようだ。
「また違う本読んでんな。ホーキングは?」
「読み終わった。シュライアマハーは全然分からなかったけど」
「今何読んでんの?」
「マキャヴェリ」
「あいつは傭兵の敵だ」
なにそれ、と本から目を離すことなく言う犬の頬は、じわっと赤い。気まずいんだろう。実は俺も気まずい。まあ仕方ない、勢いでヤッちまった後みたいなもんだ。実際勢いでやっちゃったんだけど。
「あのさ、昨日のアレ……ありがとう」
「礼を言われることじゃないぜ。どっちかっていうと怒られることだ。嫌じゃなかったか?」
「嫌じゃなかったけど……。あれって何?」
「んー、簡単な、気を逸らす……誘導みたいなモンかな。長年愉快な人生と付き合ってると、ああいう小技も覚える」
とはいえ、素人がやって上手くいくようなもんでもない。下手すりゃ余計に悪くする。だから今回はまあ、ラッキーだった。
「なあ、あんたが何と戦ってるか知らないし、余計なお世話だろうけど。休む時はちゃんと休んだ方がいいぜ。効率も悪くなるし」
「………うん」
「昨日『ここは大丈夫だ』って言ったけど、あれ気休めじゃなくてマジだから、安心して休めよ。このアパート一棟まるまる俺ちゃんが借りてるし、防犯対策もバッチリ。でも変なとこ開けるなよ、爆発するから」
「逆に不安になった」
追われてるだなんて言い出すから、一応最大限に警戒した結果だ。まあ一般人、いや一般犬の敵なんて、せいぜいその辺のチンピラ程度だろうけれど。
ピッとコーヒーメーカーが鳴る。二人分のコーヒーを注いでいると、ねえ、とシャツの裾を犬が引いた。
「どうして僕に親切にするの?……ここに転がり込む段階で、十中八九断られると思ってたのに」
「ええ?カワイイ呼びかけ方で、カワイイこと聞くじゃん」
「ちょっと。真面目に聞いてるのに」
不満げな犬の鼻面を指でつんと突き、跳ねた髪をヨシヨシ撫でる。犬の眉間の皺がますます濃くなった。
「そうだな、知ってる犬どもに似てたからかな」
「僕は犬じゃない」
怖い顔で睨んでくる犬に、ハイハイとコーヒーを手渡す。簡単に懐かないとこも似てるんだよなあ。
「怒ることか?いいだろ犬の方が。そりゃ犬には犬の苦労があるだろうけど」
「そういう問題じゃなくない?」
「それにウチ、ルームシェア不可物件なんだ。ペットは可だけど」
だから、アンタが犬じゃないと困る。俺がそう言うと、犬は噛み付く寸前の顔で「はあ?」と唸った。