小督公 隋州の危機に際して、頼れるのは汪植しかいない。
時々ひねくれた物言いをするのが気に入らないが、我々の中では一番官位が上だし、財産もあるようだし、強大な権力を持っている。
一番年下なのに。
汪植はいつも仕事ばかりしている。
遼東でも、あんな深夜に起きて仕事をしていた。
信じられない。
必然として、丁容も起きているのだろう。
気の毒に。
冬儿から聞くところによると、話題の菓子を携えて、時々昼間に顔を出すらしい。
「最初はちょっと苦手だったけど、いつも美味しいもの持って来てくれるから、悪い人ではないと思う」
と、すっかり手懐けられている。
さすが、宮中生活が長いだけあって、女子供の扱いに長けている。
若くて、仕事が出来て、敵は多いけど陛下の絶大な信頼があって、まぁ、そこそこ整った顔をしている。
頭は切れるし、基本中の基本である四書五経のみならず、あれこれと読み漁っているようで、隋州とは出来ない詩の話が出来るのは楽しい。
そう言えばこの前は筍子の話で盛り上がったな。
いや、そんなことではなく!
何か弱点はないだろうか。
ここは角度を変えて、一番身近な丁容から攻めてみよう。
船倉で、厨司と今夜の食事の打ち合わせをしているらしい丁容を、密かに観察する。
「これは、督公のお好みではない」
「こちらは八角と一緒に煮込んだほうが督公のお好みだ。小さく切ってからお出しするように」
「今朝は、椀物を残されていた。督公には塩がきつ過ぎたようだから、次からは気をつけるように」
督公、督公、督公!
丁容、こんなことまで指示していたのか!
細か過ぎる!
八角、煮込む、となると、今夜は肉だな。
楽しみだ。
船倉から出て来た丁容を捕まえて、さりげなく事情聴取だ。
「丁容、今夜は肉が食べたいなぁ」
「肉料理ありますよ、唐大人」
またこいつは食べ物のことばかり考えているな、とでも言うように、丁容は少し眉をひそめて答えた。
明らかに警戒している。
「そうか、楽しみだな!ところで丁容は、汪督公に仕えてもう何年になる?あいつの下で働くのは大変だろう?こき使われているんじゃないのか?」
と、少し気遣う様子で聞いてみる。
「もう三年になります。大変な事などひとつもありません。督公の下で働けることを誇りに思います」
何という模範解答。さすが丁容。
「三年?十四歳の汪植か、どんな感じだったんだろう。最初からあんな風に、ひねくれた物言いで、酷薄で、生意気だったのか?」
わざと否定的な言葉で、丁容を煽ってみる。
「そんなことはありません!あの頃の督公はまだ少しお小さくて、素直でお優しく、西廠の皆から"小督公"と呼ばれていました。あどけないお顔でお笑いになると、大変可愛らしくて…」
余計なことまで言ってしまったと言う顔をした丁容は、
「申し訳ありません、急ぎますので。失礼します」
と言い、慌てて汪植の船室の方へ行ってしまった。
私はほくそ笑んだ。
小督公!
素直!優しい!あどけない!
あの丁容があんなに喋るとは思わなかった。
もう少し煽れば、何か出てきそうだが、次はもっと警戒されるだろう。
次は船室をこっそり覗いてみよう。
小窓が少し開いている。
ここからなら室内が見えそうだ。
お、汪植はうたた寝をしているな。
丁容が何か報告をしているようだが、よく聞こえない。
寝ながら聞いているのか?
器用な奴だ。
すると、船首の方で、大きな声がした。
どうやら一旦どこかの港に立ち寄るらしい。
そして、その時、私は見てしまった。
目を開けた汪植が身を起こすと、丁容がさっと跪き、靴を履かせているのを!
靴!
副官は、そこまでしないといけないのか?
私は思わず目を見開いた。
外套の紐まで結んでもらうのか!
しかも汪植、子供のように顎を上げてるじゃないか!
襟元の乱れまでもか…。
丁容の満足そうな笑みに、思わず身震いがした。
宮中ではこんな甘い光景が、日夜繰り広げられているのか?
宮中とは、なんと恐ろしい場所なのか!
船室から二人が出てくるようなので、慌ててその場を離れる。
どうやらこの港では、物資の補給以外に、誰かが汪植を待っているらしい。
桟橋では、供を引き連れた地方の高官らしき人物が、恭しく礼をしている。
辺りを睥睨し、西廠提督として重々しく振る舞うあの汪植が、実は副官に身の回りのことを何もかもしてもらっているなんて。
高官からは、信書をいくつか受け取っているらしく、食事の招待も受けているようだ。
きっと美味いものにありつける。
承諾するんだ、汪植!
しばらくすると、荷物を積み終わったところを見計らって、汪植が返礼をした。
高官は名残惜しそうにしているが、どうやら食事は無理そうだ。
船が岸を離れ、川の流れに乗る。
甲板になんとなく立っていると、汪植がこちらへやってきた。
そして、腹を空かせた犬を宥めるような声で、
「信書を確認するまで待て。どうしても待てないようなら、食事は先に用意させるが」
と言った。
「さっきの港で食事の招待を受けたんだろう?どうして受けなかった」
私の不満そうな声に驚いた様子で、
「隋州の危機だから、早く吉安に行きたいのでは?お前は本当に食べ物のこととなると、どうしようもなくなるのだな」
と嘲笑した。
「あ、そ、それはそうなんだが。でも少しくらいなら…」
つい本音が出てしまった。
この辺りの名物料理が食べられたかもしれないのに。
汪植は、たまに見せるあの薄笑いを浮かべながら、
「隋州も気の毒だな。どうせこの辺りの名物料理とか、些末なことを考えていたのだろう?ん?」
と言って、扇で頬をぱちぱちと叩いてきた。
正直、その通りなのでぐうの音も出ないが、私には切り札がある。
年上の威厳を持ってにやりと笑い、二人にだけ聞こえるように囁いた。
「靴くらい自分で履けよ?小 督 公」
「…!」
汪植が、見たことのない恐ろしい顔で丁容を見た。
すまない、丁容。
きっと怒られるんだろうな。