鰭さえ焦がす炎で死を恋う『今回の依頼は何があっても私が行く!』と息巻いていた凛子さんが、まさかまさかの辞退。しかも名前を言ってはいけない例の感染症ゆえに絵梨佳ちゃんも動けず、急遽白羽の矢が立ったのは必然的だった。とりあえず必ずいるだろうものを準備していると、背後に音もなくKKが立つ。
「オレも行く」
簡潔かつ明確な一言で、僕は二重に驚いてひっくり返りそうになる。それなりに馴染んでいたはずの空気や存在が急にわからなくなるのはこんな時だ。逆光になった彼の瞳には光がない。だから、それがどんな感情を伴って告げられているのか、咄嗟に判断できなかった。
「いいな、連れてけ」
「えっと……うん ハイ」
そんな感じで決まった急遽二人の出張行脚。僕は緊急事態だと言われたので詳細をあまり聞かずに頷いていた。少なくとも、KKはそれを分かっているようだった。結局僕らはどこに行くんだっけ。出来るだけ穏便に訊ねたつもりだったのに、これ見よがしに大きなため息を吐いたKKは、目線を逸らして小さく拗ねた。
「海」
◆◆◆◆◆
曰く、水難事故が多発しているらしい。マリンスポーツの機材の不備から水生生物に足を刺されたとか。管理している業者は海開きの期間を決めたり点検や確認を徹底していたんだけど、ついに死者が出たらしい―――大まかな話としてはこうだ。KKはもともとの職業もあってか、膨大な情報から必要なことを精査するのが早い。道中の十分で手早く説明した後、煙草をふかしながら窓から見える水平線を眺めていた。手がかりや気になることでいちいち立ち止まる僕からすれば、彼はこれ以上ない相棒だと感じる。だけど、これは…
「これは……ないよ、ほんとに」
茫然と立ち尽くす僕の視線の先には、びっくりするほどたくさんの女性に囲まれている、相棒。遠目にもよく目立つので、いくら視界から外してみても無駄だと諦めてしまった。前開きの混麻シャツを羽織っただけの姿は、程よく締まった上半身を惜しげもなく彼女たちに晒してる。本人はもういい年したオッサンだぞって言うけど、イケオジっていう概念知ってる?って反語を出してやりたい。しかも、ぎょっとしたのは妙に手馴れてることだ。『一人?』から始まり、今日はどうしてきたのかとか、連れがいるかとか、普段から来てるかとか、全部ぜんぶさりげなく会話が進んでいる。それこそ刑事やってた頃のテクニックとか、あるんだろうし…でも、だけど!
「なんで、置いていくんだよ…バカ」
ほんの少しだって視界に収めていられなくて、僕は色めいた集団から後ずさって距離を取り誰もいない岩場の方へ歩いた。
そうだよね、海って、こういう所だった。自分の境遇ゆえにこういう所と疎遠になっていたからついていけてないのはわかっている。仮にも成人済みだし、何も知らない子供じゃないんだから適度に遊んだほうがいいってことも。っていうかそもそも、何にも言ってないし言われてない―――決定的なことを、どちらもが避けている。だから、僕が一人でこんなにもやもやする必要なんて、ないんだよね。
「分かってるけど、わかってるけどさ……」
「なにがだよ」
声のしたほうを向くと、そこには置いてきたはずの相棒が腕を組んで立っていた。
探しに来るのが早すぎる。顔ごと背けた目線を、いつの間にか接近していた彼に顎を掴まれて引き戻される。
「なにがだよ って」
「うるさい…放っておいてよ 僕疲れちゃったから、ここで休んでるの」
「オマエをほっとけるかよ」
「……」
鼻先を触れ合わせながら、陰険な応酬を繰り返す。顔が近いだけで、素直に高鳴る胸が痛い。さっきそうだったじゃん、ぽそぽそと呟けば、拗ねんなよ、と手懐けられる。頬を両側から押されたまま鳥がついばむ前の顔で、可愛さのかけらもない言葉を選んでいる。なのにこの、何でも分かってるみたいな余裕が、頼もしいはずなのに、同じだけ腹が立つ。
「安心しろよ、オレはオマエしか見えてないさ」
「むむ」
「はっきり言ってやるよ、“ ”」
その五文字は、暗い水底から響くような冷たさだった。
「―――ぇ、」
「分かったら、行こうぜ?」
固まって動けない僕をよそに、立ちあがり見下ろしてくるあの人は、手を差し伸べて待っている。その逆光で見えない表情が、こわい、そう感じて、
「誰の許可とってソイツに手ェ出してんだよ!」
「っ!」
「KK?!」
縛る糸の束を目で追うと、息を切らした同じ姿の相棒がいる。
「え、え? ドッペルゲンガー?!」
「違う! ソイツが依頼の内容だ!」
「チッ」
内容が飲み込めない僕をよそに、KKは同じ姿かたちをしたその人に向かって風の弾を撃ち込む。舌打ちしながら息巻いていた相手だったが、両手を拘束されては何もできないようで、次第に抵抗が弱まりコアが引きずり出された。
「ぐ、ぅ…」
「暁人、急げ!」
「う、うん」
「…ぃ、い……のか?」
もはや保てなくなったのかすっかり本来の姿に戻ったようで、魚の半身をびたびたと叩きながら僕を睨み上げる。
「ソイツは、何も言わないんだぞ?
オマエはそれで」
「暁人!」
KKの声がする。声だけはたいして力を使わなくてもそのままで、きっとこの人魚は元が彼に近いものだったのかもしれない。だからこそ、その言葉は僕に突き刺さった。うん、そうだね、わかってるよ。あなたの言う通り、だけど。
「―――それは僕も、一緒だから」
「ッ!!」
コアを引きながら、耳障りな音を立てる尾びれを火のエーテルで焼きつける。あついよね、僕もあつい。ぐったりと動かなくなった体が呪詛の粒子に乗って消えていく様を眺めながら、流れる汗を肩でぬぐった。
「人魚っつーから、女を警戒してたが、予想を裏切ってきやがった」
「………今じゃ女装も男装も当たり前になってるもんね」
そのあたりの現代事情にも、妖怪やマレビトは詳しいのかもしれない。時代に即して生きる(?)彼らにまた一つ教えられた。うんうんと頷いていると、不意に隣を歩く影が止まった。
「さて、暁人くん」
「な、なに…」
「あんなに甲斐甲斐しく? オマエを守ってるさなかに拗ねて飛び出して?
とんでもないやつに魅入られて、危ない目に遭いかけて間一髪で助けた、オレに
何か言うこと」
逸らすことを許さない黒い双眸が僕を見据えた。心臓が変な音を立てる。
「だ、って、……それは…」
どぎまぎしながら狼狽える僕に、KKはさっき人魚がして見せたようにおとがいに手をかけた。目を泳がせる自分が彼の瞳に映り込んで、恥ずかしさに消えたくなる。もう片方の手が動いたところで耐えきれず、ぎゅっとまぶたを閉じた。
「って、言いたいところだけどな
マ…この話の根本的なところは、お互い様だしな
悪かった」
「え、……なんで謝るの?」
頭にまわった手のひらに柔らかく撫でられる。どこか寂しそうな声音が引っ掛かって、言葉尻がすこし責めるように聞こえたかもしれない。KKはそれさえも薄く笑って受けとめて、ぐっとこちらに顔を近づけた。息が止まる、波の打ち寄せる音がやけに大きく聞こえる。
「まだ言えねえけど…わかってるから、ちゃんと」
「け、けー」
絞りだした名前に、脱力したように僕の肩に額を乗せてKKは荒く息をついた。
「オレもまだまだだよなァ 依頼聞いて、絶対オマエに誰も近づけさせねえようにあれこれやってたってのに」
「……僕も、ごめん」
「ん」
腰にぎゅっと抱き着いてようやく僕が謝ると、KKは小さく頷いて頭をさらに引き寄せられた。そのまま唇が重なる。優しく触れたところから入り込んだ舌が口内に潜り込んで、暁人のそれと絡んだ。あの冷たさとは違う、生きてることがわかる体温に包まれる。海の声はもう、気にならなくなっていた。