【本文サンプル】『シュガーコート・パラディーゾ』 昼夜を問わず渋滞になりやすい空港のロータリーを慣れたように颯爽と走り去っていく一台の車——小さくなっていくそれを見送る。
(…………らしいなぁ)
ごくシンプルだった別れの言葉を思い出してると、後ろから声がかかった。
「良いのですか?」
「うん? 何が」
「いえ、随分とあっさりとした別れでしたので」
チェズレイは言う。俺は肩を竦めて笑った。
「酒も飲めたし言うことないよ。それに別にこれが最後ってわけじゃなし」
御膳立てありがとね、と付け足すと、チェズレイは少し微笑んだ。自動扉をくぐって正面にある時計を見上げると、もうチェックインを済まさなきゃならん頃合いになっている。
ナデシコちゃんとの別れも済ませた今、ここからは本格的にこいつと二人きりの行き道だ。あの事件を通してお互いにお互いの人生を縛りつける選択をしたものの、こっちとしてはこいつを離さないでいるために賭けに出ざるを得なかった部分もあったわけで、言ってみれば完全な見切り発車だ。これからの生活を想像し切れてるわけじゃなく、寧ろ何もかもが未知数——まぁそれでも、今までの生活に比べりゃ格段に前向きな話ではある。
(…………ってか)
まぁ我ながらすごい選択をしたもんだ。誰かと生きるなんて考えてもみなかったってのに、それがあのチェズレイになるとは。
「すまんね、待たせて。ゲート何番だっけ」
聞くと、チェズレイはこっちにチケットを手渡してきた。印字されてるのは51番ゲート——この辺りのナンバーが1桁なのを考えると、それなりに急いだ方が良さそうだが。
「そんなに焦らずとも結構ですよ。いざとなったら飛行機の方を待たせますので、ご心配なさらず」
まァ流石に税関は手間がかかりますが、とか言ってチェズレイは笑う。えっ、飛行機待たすって何——ほんとスケールのデカい……いや、これは。
俺は表示板を確かめて歩き出す。チェズレイは俺の横についてきながら白々しく聞いてきた。
「どうかされましたか」
「いんや、旅の始まりから危ない橋渡る必要ないでしょ。ただでさえこれからどんだけ渡る羽目になるか分からんのに」
チケットからするに、流石にプライベートジェットをご用意って感じじゃないだろう。つまり、飛行機待たす、ってのは『どう待たすのか』って話で。
「それこそご心配なく。やる時は足がつかないようにやりますよ」
「いや、急げば済む話だよね⁉︎」
言い合いながら、俺たちは搭乗ゲートに向かう。
物騒な話をしてるのに何となく笑いそうになっちまうのは——俺自身、こいつとのこれからを楽しみにしてるからに違いなかった。
一時間後、俺は顔を引き攣らせる羽目になっていた。
「……こりゃまた随分と豪華な席で」
「おや、ファーストクラスは初めてですか?」
……こちとらミカグラ島に渡る時もカネがなくてショーマンの仕事必死に探して潜り込んだんだい! 涼しい顔してリムジン乗ってるお前さんとは違うんだい!
俺は案内されたやたらと幅のある席におっかなびっくり座る。いや、ふかふかだねぇ、こりゃ。しこたま飲んだのもあって寝ちまいそうだ——あ。
「んで、どこ向かうんだっけ?」
寝入っちまって良いもんか分からないのもあって聞くと、チェズレイが呆れた顔でこっちを見返してきた。
「あなた、私の相棒だという自覚を持ってらっしゃいますか?」
「持っとるよ? だからお前さんに全部任せてるんでしょ」
『世界征服』なんて大それた——けどこいつとなら成し遂げられそうな気もする、夢を叶えに動き始めたわけだが、これまで一介のショーマンだった俺にそっち方面のノウハウなんぞあるはずがない。つまりは必然的に、(少なくとも今後しばらくは)チェズレイに計画を立ててもらう必要がある。
だが、隣の席に優雅に腰掛けて足を組んだチェズレイは、はぁ、とため息をついた。
「……全面的に任せることと、ご自分の行動に責任を持たないことは似て非なるものですよ、モクマさん。例えば、行き先を私に委ねること自体は問題ありませんが、だからと言ってご自分の行き先すら把握していないのは論外です」
「…………」
痛いところを突かれて俺は黙り込んだ——言われたことそのものと言うより、先のことを何も考えないクセがついてるのを暗に指摘された気がしてバツが悪い。その日暮らしが身に染みてて常に流れに任せてやってきたものの、これからはそういうわけにはいかないってことを改めて認識させられる。何せ傍らにいるのは生真面目さに定評のあるあのチェズレイだ。
ちらりと隣に目をやると、ちょうどチェズレイがこっちにタブレットを差し出してきたところだった。表示されてるのは観光ガイド——俺自身放浪中に数回訪れたような覚えもある、それなりに有名な街だ。スクロールして内容を読んでみたが、近年色々と新たに発展した面もあるらしく、より若者向けに様変わりしてるらしい。
「意外だね、お前さんこういうゴチャゴチャしたとこ嫌いそうなのに」
タブレットを返しながら言うと、チェズレイはため息をついた。
「好みで行く場所を選ぶこともありますが、必要に応じて選ぶことも充分にありますよ。だからこそあなたには行き先のチェックくらいはしていただきたいのですが」
あっ、藪蛇だった——これ以上この綺麗な顔で睨めつけられたら敵わん。
「分かった分かった、これからは気をつけるよ」
両手を上げながら素直に謝ると、チェズレイはびっくりした顔でこっちを見返してきた。何、と聞くと、チェズレイは答える。
「……あなた、ちゃんと『ごめんなさい』ができる人なんですねェ」
「お前さん、俺のこと何だと思ってたの」
寧ろおじさん、謝りまくりの人生だったよ?
そうこう言ってるうちに離陸の準備ができたらしく、複数の言語とランプでシートベルトを締めるように案内される。場違いな思いは抜けきらないものの、俺は指示に従った。チェズレイは慣れたものらしく、澄ました顔で前を向いて——と。
「モクマさん、」
「ん?」
アナウンス中に話しかけられて、俺は少し視線を隣に向ける。チェズレイは機内のディスプレイを見つめながら、ポツリと呟くように言った。
「あなた、私とはぐれたらどうするおつもりだったんです?」
俺は瞬きをした——いつも通りの平静さの、けど俺の方を見ないチェズレイの横顔に、あぁ、なるほど、と思う。
(……どう考えたのかは知らんが、)
随分とお前さんらしくもない、弱気な発言だ。
「それはないよ」
断定すると、反射的になんだろう、綺麗な顔が弾かれたようにこっちを向く。俺はわざとへらっと笑ってみせてから、静かに続けた。
「これから先、俺がお前さんを見失うことはない」
見開かれた目と——しばらくして緩やかに開かれる唇。
「…………それは、随分と大きく出ましたね」
チェズレイはそう言って少し笑う。
大きくなっていくエンジン音と離陸準備に入る飛行機の動きに、俺は視線を切って前を向いた。
「……降りたら最初の『予定』がありますので、まァ、楽しみにしていて下さい」
「おう」
軽口を叩いてるうちにふわりと飛行機が浮く時特有の感覚がする。
こんな風に何でもない調子で——俺とチェズレイの道行きは幕を開けたのだった。
シュガーコート・パラディーゾ
Ⅰ.
数時間後降り立った空港は、記憶より随分と小綺麗だった。この土地もだいぶ様変わりしたもんだと思う——尤も、俺が足を踏み入れたのは陸路からだったし、空港近くは前からこんな感じだったのかも知れないが。
「で、ここ中継地? こっから更にどっか行ったりするんだっけ?」
ゲートを抜けながら聞くと、チェズレイは一応は目的地ですよ、とか何とか返してくる。『一応』がつく意味が分からないが、チェズレイなりに何か考えがあるんだろうか。
「そんなに時差はないとは言え、窮屈で少々疲れましたね。次のフライトは夜です、しばらく時間がありますし、どこかで休んでから行動することにしましょうか」
「窮屈て……」
こいつ、エコノミークラスなんかに乗ったら10分保たないんじゃなかろうか。
チェズレイは案内板を確認することもなく、慣れた様子で右手に曲がる——どこか時間潰しに喫茶店にでも入るのかと思いきや、正面に喫茶店と言うには物々しい扉が見えた。落ち着いた雰囲気を出そうとしてるんだろうが、そもそも大きすぎる時点で圧倒されると言うか。ちょっと自分の格好を見下ろして確認しちまった俺に、チェズレイは事もなげに言う。
「ファーストクラス専用のラウンジですよ。普段は煩わしいのであまり利用しませんが」
はぁ〜、なるほど。飛行機の中じゃなくても、ファーストクラスに乗るような客相手ともなると色んなサービスがあるのね〜、……うーん分からん。おじさんにはとんと縁がない話だ。
チェズレイは慣れた様子で脇にあった装置にカードをかざした。音もなく両側に開いていく扉の間を颯爽と歩いていくチェズレイに、俺もおっかなびっくり続く。
(…………こいつはまた、)
大理石なんだろう、コツコツと音が響く通路自体はやや狭いが、天井から下がってる照明一つ見ても凝った意匠をしている。壁にかかったよく分からないアートもそれなりに高名な芸術家のものなんだろう。
(おわっ……)
奥まで進んだところで視界がぱっと開けて、スペースが十分に取られた広々としたラウンジに出た。なるほど、外からは廊下までしか見えない間取りにしてるってことか。
「…………」
それとなく警戒したもののラウンジはそもそも閑散としていて、警備員が飛んできて摘み出されそうな雰囲気はない。
「食事も飲み物も自由に利用できますよ。お好きなものを選んではいかがです?」
そう言うチェズレイ自身は特に何も手にする様子はなかった。本人がそんな感じだってのにおまけの俺だけが手を出すのは憚られて、結局俺もチェズレイに倣って、何も取らずに奥まった一角にある席に腰を下ろした。
「で、お前さんの計画は?」
「計画とは?」
「いや、その……」
この静まり返ったラウンジの中じゃ、『世界征服』なんて言葉は何となく言いにくい。言い淀んだ俺に、チェズレイはくすりと笑う。
「そんなにすぐに動き始めたりはしませんよ」
「え、そなの?」
「えぇ。何せあのDISCARDを……ファントムを排除したのですから。実際色々な組織に目をつけられているんですよ、私達は」
チェズレイは物騒な内容の割にどこか楽しそうにすら見える表情で説明してくる。俺は顎に手を当てて言った。
「いんや、それくらいは流石におじさんだって分かるよ。現に入院中時々監視ついたりしてたじゃない、今はないけど。……分からんのは、お前さんそういうの逆に利用してどんどん攻めるタイプなのに、今敢えてそうしないのは何でなのかな、ってこと」
「…………」
チェズレイは目を見開いて黙り込んだ。珍しい態度に俺は聞く。
「ん? 何」
「いえ。……意外とあなた、」
「馬鹿じゃないって?」
「あなたを馬鹿だと思ったことはありませんよ。私の考えを読もうとされるんだな、と思っただけです」
まぁそりゃお前さんの相棒になるって決めたんだから、やり方の一つや二つ頑張って汲むさ。
チェズレイは仕切り直しするように一つ頷いて、ふっと笑った。
「理由はいくつかありますが、一番の理由は動き出すには本調子ではないから、ですかねェ」
あなたもそうでしょう、とばかりにチェズレイは目配せしてくる。
「…………」
俺は頭を掻いた。確かにチェズレイの言う通りだった——ようやく退院はできたものの、しばらく寝たきりだったせいもあって体のキレはいつもの7割程度ってところだ。入院中に敵さんらしき存在を放っておいたのは、単なる監視だったってのもあるが、こっちが碌な動きができなかったって理由も多分にある。今だってやってやれないことはないだろうが——
「……お前さんは、」
「? 何です?」
「お前さんはどうなの。俺よか先に退院してるけど、まだどっかダメなとこある?」
聞くと、チェズレイは小さく首を振った。
「まァ、悪いところがないとは言いませんが……私の方はどちらかと言えば慣れの問題ですよ」
「慣れ?」
「しばらくは誰とも組んでいませんでしたので。言ってみれば、本調子になるまでに慣らし運転が必要なんです」
なるほど、こいつはファントムに手酷く裏切られて以来基本的に一人で行動してきたという——俺を信用してないわけじゃないだろうが、染みついている単独行動のクセを直し切るのが難しいのは、俺にも分かる話だ。
「あとはそうですね……裏社会はあれで義理を大切にする面も多分にありますから、再度活動するに当たって何かと『分からせ』なくてはならず……そちらにも多少時間がかかります。まァ私達が世界を征服した暁にはそういった柵は全て灰塵に帰することになりますが、最初から何もかもというわけにはいきません。しばらくは地盤を固めながら調子を整え、『お互いが居る生活に慣れる』のが良いかと」
「……リハビリか」
「えぇ」
チェズレイはそう言っていつの間にか手にしていたタブレットをこっちに向けてきた。開かれてるページはさっき機内で見せられたのとは少し毛色の違う、砕けた印象を受ける民間サイトだ。よくよく内容を確認してみれば、この空港自体一つの観光スポット化していて、遊歩道やらショッピングエリアやら色々充実してるらしい。
「なかなか面白そうじゃない」
意図は分からなかったもののとりあえず素直な感想を口にする。
「はい。ですので、」
『デート』をしましょう——我が意を得たりと言わんばかりに頷いたチェズレイは、そう言って笑った。
『デート』なんて言われて驚いたが、ラウンジを出て俺達が始めたのは何てこたない散歩だった。別に手を繋ぐわけでもなし、単に連れ立って——って言うより俺がチェズレイに連れられて空港内を歩き回ってるだけだ。
(こいつはまたアレな言い回しを……)
四十路前のおじさんに思わせぶりな物言いすんじゃないよ、と思いながら、俺はチラリと前を行くチェズレイを眺める。階下のショッピングフロアにはまるで興味がないらしく、さっきからチェズレイが選んでるのは専ら展望スペースの方だった。粗方地図が頭に入ってるのか、チェズレイは迷うことなく歩く。スカイウォーク、空中庭園、展示スペース——次々に進むその背中を追いかけながら、俺はだんだんとよく分からない気持ちになっていた。
「はー……」
しばらく歩き回った後、エレベーターで最上階まで上がると、眩しい光が目に灼きついた。流石空港だ、と空を見上げながら思う。ベンチやらオブジェやらが点在してる屋上デッキからは、滑走路が一望できるようになっている。意外と穴場なのか、それとも時間帯の問題なのか、殆ど人影は見られない。下手すりゃ貸切状態だ。
「こりゃなかなかいい眺めだねぇ」
俺は呟いた。空路は偶にめちゃくちゃ急ぎの時に使うぐらいだったから、こんなにゆっくり飛行機を眺めたことはない。大きめなターミナル空港なだけあって、引っ切りなしに飛行機が離着陸を繰り返していく様は壮観だ。
(…………つーても、)
どちらかと言や飛行機を見るのが好きなのは子供だろうし、傍らのチェズレイに興味があるとは思えない。寧ろ忙しないのも煩いのもダメなんじゃなかろうか。
「……お前さん、楽しいかい?」
「はい?」
らしくなく張られた声に、思った以上に飛行機やアナウンスの音が大きくて、チェズレイの声が届きにくいのに気づく。俺は遅れ気味になっていた歩を早めてチェズレイに追いつくと、もう一度同じことを聞いた。
「お前さん、楽しいかい?」
間髪入れずに、えぇ、と戻ってくる返事。お世辞なんかいう奴じゃなし、実際表情を見ててもチェズレイは楽しそうだ。
「あなたは楽しくないですか?」
「え、いや、おじさんは割と楽しいけどもさ。お前さん、こういうの好きだっけ?」
頭を掻きながら言うと、チェズレイは首を傾げた。
「私の好みである必要がありますか?」
俺は瞬きをしてチェズレイを見返す。いや、確かにらしくないなとは思ったけども、お前さんが先導してるんだし、そうなんじゃないの。
「好みかと聞かれれば評価はフラットですが、楽しいか楽しくないかで言われれば、楽しいですよ」
「そう……」
俺が腑に落ちない顔をしてるのが分かったんだろう、眩しいものを見るように空を見上げたチェズレイは歩みを止める。そんなもんか、と思いながら釣られて俺も立ち止まる。
「モクマさんは飛行機はお好きですか?」
「うーん、飛行機がっつうか……高いとこは嫌いじゃないよ。里にいた頃は木に登って上から景色眺めるのとかも娯楽みたいなもんだったからねぇ。懐かしいのと新鮮なのと両方かな」
そこまで話してから気がついた——そんな風に思いながらも、空港を、空路を、可能な限り自分が避けてたことを。
(あー…………)
ナデシコちゃんに送り出された日を嫌でも思い出してしまうからだ——そんなことに、あっさり飛行機に乗って降りた今更気づくとは。
「モクマさん、こちらからよく見えますよ」
少し遠くからする声に意識が引き戻される。いつの間にかチェズレイは先のベンチの辺りで手招きをしていた。俺は小走りになってチェズレイに追いつく。
「どうやら特等席みたいですねェ」
二人してベンチに座ると、頭上をまた一つ飛行機が飛んでいった。
「…………」
不意に何だか酷く不思議な気持ちになった。真っ青な空の下、あのチェズレイと何の因果か二人でベンチに座っている——どこまでも、平和な気持ちで。
(…………すごいな)
そう、改めて思う。こいつといると、過去の何もかもを置いていってしまいそうなくらいに、今が眩しくて。
「モクマさん」
呼ばれて傍らに視線をやると、いつの間にか間合いがかなり詰められていた。いや確かに隣り合って座ったけどこんな近かったかね——そんな風にぼんやり考えてるうちに、チェズレイとの距離がゼロになる。
(…………は?)
遠くに聞こえる飛行機の音と、遮るものなく降り注ぐ日差し。焦点の合わない視界に、柔らかな唇の感触。
一瞬で——聴覚も思考も真っ白になった。
「…………お前さん、何やってんの?」
唇が離れて、しばらくしてから聞くと、チェズレイは、お嫌でしたか、なんて返してくる。
「いや、嫌っつうか……お前さん、何で……」
キスなんかしたのか——そう言いかけてから、聞いちまったのが下策だったのに気づく。何でしたかなんて、そんなの——
「したかったからですが」
「したかったからって、」
「『デート』だと言ったでしょう。あなた、ここまで特に異論は唱えられなかったですよ?」
澄ました顔でチェズレイは言う。いやいや、この流れに深い意味があるなんて思わんでしょ。一時間以上ただ散歩するだけって、そんなの少なくとも初デートにはしないんじゃないの。いや、こっちは経験ないけどさ。
色々ゴチャゴチャ頭で考えてたものの、口にしなけりゃ伝わらない。だが一体何から切り出せば良いのか——そんな風に考えてるうちに、チェズレイはペースを崩さないまま、正面から視線を合わせてきた。
「あなた、ズルい方ですし、何でも曖昧に流してしまいがちですからねェ。少なくともこちらからは、きちんと意思表示をしておかなければと思いまして」
よりにもよってこの瞬間、離発着してる飛行機はなかった——何カ国語もしつこく繰り返すアナウンスも。つまり俺は、本当に無防備に何の構えもできないまま——
「あなたのことが、好きです」
そんなチェズレイの言葉がくっきりとクリアに伝えられるのを、ただ黙って聞くしかなかった。
Ⅱ.
「おはようございます」
「あー……おはようさん」
「もうすぐ朝食ができますから、顔を洗ってきて下さいね」
そうさらりと告げて、チェズレイは顔を引っ込める。俺は少しため息をついてから洗面所へ向かった。
チェズレイが用意していた潜伏先で暮らし始めて、早三日になる。
初日は結局移動三昧だった。1つ目の空港では『デート』をしたものの、以降は飛行機を複数乗り継ぎに乗り継いで、何が何だか分からなくなってきた頃、突然ヘリまで出てきた時は驚いた——お前さん、結局プライベートな空の移動手段持ってんじゃない! そこから更にバスで移動して、最後は背の低い雑居ビルが居並ぶ——これまた俺が昔しばらく暮らしたことのある街に辿り着いた。表向き治安が悪いわけじゃないが、その実、根無草でも問題なく生きていけるくらいに裏の顔があって、適度にドライな人間関係が形成されている——確かに潜伏するには持ってこいのところだ。
俺は蛇口を捻って冷たい水で顔を洗う。数回バシャバシャやってさっぱりしたところで窓の外に目をやると、朝早くから忙しなく移動する人の群れが見えた。いかにも労働者って体の奴からスーツ姿のサラリーマンまで、雑多な人々が行き交っている辺りがこの街らしい。
「…………いいご身分だねぇ」
誰にともなく呟く。昔この街に滞在してた頃は、金がなくて掘っ建て小屋みたいなプレハブに4人ぐらいで雑魚寝してたはずだ。それが今や、ふかふかのタオルで顔を拭ける身になっている。3階建ての、(チェズレイ曰くの)小ぢんまりとしたビルは最上階が居住スペースになってて、今のところそこに寝泊まりしてるが、残りの階も丸ごとチェズレイの所有物らしい。自由に使っていただいて構いません、とか言われたから、ひとまずトレーニングをするのに2階を借りてるが、さて今日はどうしたもんか。
リビングに戻ると、チェズレイが温かいトーストをサーブしてきた。おっ、今日は目玉焼きに……この付け合せなんだろう、ピクルスか何かか。朝からほんと何品もよく作るもんだし、しかもどれも美味いんだからすごい。
「今日は、」
「ん?」
サラダにドレッシングをかけたところでチェズレイが口を開いた。
「今日は何かご予定はおありですか?」
「いんや、暇だよ」
お前さん、そりゃ遠回しのアレか、嫌味か? 幾ら何でもそろそろ働けっちゅう。
考えが顔に出てたのか、チェズレイは肩を竦めた。
「詰るつもりはないのですよ。私はニンジャの……あぁ、今は『元』になるのでしょうけれど、ともかく体術を生業の基礎とする方々のトレーニングは門外漢ですので、あなたなりに今日は必ずこれをしなくてはならない、といったご予定があるのか分からず」
「あぁ、そういうのは特にないよ。何? 逆にお前さん、何かおじさんが付き合った方がいい用事とかある?」
聞くと、チェズレイは、実は、と話を切り出してきた。
(ほぇ~)
俺は両脇にそびえ立つ棚を見上げた。多分相当間抜けな顔になってるんだろうが、こんな大量の商品が置かれた棚なんか見たことがないんだからしょうがない。ってか、塩とかだけでもこんなあるの。何かやたら一粒がでかいやつとかどうやって使うの、舐めたりすんの? あ、調味料から塩って独立してるんだ、じゃあ調味料には何置いてんの——って。
「……チェズレイ」
「何でしょう?」
「醤油買って良い?」
棚を指差しながら聞くと、チェズレイは、ショウユとは、とか聞き返してきた。あー、そうか……こいつはあんまり馴染みがないか。
「しょっぱい味つけする時に使うやつなんだが……目玉焼きとかにも合うんだよ。ソイソースって言や分かる?」
言い直すと、あぁ、とチェズレイは頷いた。それを肯定と受け取って——あっ、つうか高いなこれ。醤油ってこんなしたっけか。オフィスナデシコにあったやつバンバン使いまくってたのまずかった?
俺が、やっぱ良いよ、と言い出す前に、チェズレイはカゴの中に醤油のビンを入れていた。特に値段は気にしないらしい。
俺はカートを押しながらチェズレイの横を並んで歩く。調味料やら日用品やら躊躇いなくカゴに入れていくチェズレイのやり方はいつも通りの迷いのなさだが、こんな『いかにも日常です』って感じの行動を取ってるのがそもそも可笑しい。
「……何か失礼なことを考えてらっしゃいませんか」
睨めつけてくるチェズレイに、俺は慌てて首を振った。いやまぁ俺が悪かったよ、お前さん、毎日飯作ってくれてんだから、そりゃこうやって——買い出しにだって行くよな。
チェズレイが付き合って欲しいと言い出したのは、近所にあるスーパーだった。この辺りにあるやつじゃ一番大きくて、大抵のもんは揃うらしい。曰く、まだ通販は使えないので、らしいが、ネットは初日から使ってるクセに通販が使えないのはアレか、身分とかに何か問題でもあるのか。リアルの方が足が付きやすいんじゃなかろうか、と思ったが、まぁその辺は知能犯罪の申し子、色々考えた上で敢えての店頭なんだろう。
(…………しかし、買い込んだねぇ)
ようやくレジにたどり着いた頃にはカートはすごいことになっていた。カゴに山と詰まれた商品のバーコードが次々に読まれてレジに表示される数字が見る見るうちに増えていくのも冷や汗ものだが、そもそもの話、シンプルに物理的な量がヤバい。日用品はともかく調味料の重さが半端なさそうだ——試しにカゴを持ち上げてみるとやっぱりめちゃくちゃ重かった。鍛えてなかったらどうなってたことか。
「1階で買うものはこれで全部ですよ」
サッカー台に運んだカゴの中身を几帳面に袋詰めしながらチェズレイが言う。えっ、いや、1階でって——
「まだ何か上の階でもお求めで……?」
「フロアだけなら5階までありますよ、モクマさん」
チェズレイはからかうような笑みを浮かべて天井を指差した。いやいや5階までってこの調子で買ってたら流石のおじさんも持ちきれんよ?
顔を顰めた俺に、チェズレイは続けた。
「まァ、上の方の階は家具やインテリアらしいですから、特に必要ありませんよ、今はね」
今は——そんな含みのある言い回しをした割に、チェズレイは、では次へ行きましょうか、なんてあっさりと続けてエレベーターへ向かう。俺は慌てて袋を引っ掴んでその後を追った。
(………………)
空港であんな風に先手を打たれたものの、チェズレイはそれ以上特にアプローチしては来なかった。強引に見えるし実際そういうところも多々ある奴だが、ことあの件に関して言えばあれ以外には何もなく、今は身内扱いの甲斐甲斐しさで世話を焼かれてるだけだ。四六時中べったり一緒ってわけでもなく昼は完全に別行動だし、現状は相棒と言うにしたってドライな関係に思える。
(…………とは言え、)
それはこいつが俺の性格を熟知してるからに違いない。『好きです』に対する答えを求めてこないのは、それ以上踏み込んだら俺が『人として好き』なんて用意された逃げ道を取るのが分かってのことなんだろう。
俺はちらっとチェズレイの方を盗み見る。さらりと靡く髪と、いっそ酷薄そうにも見える綺麗なよそ行きの横顔。
(…………けどこれで、)
実際は柔っこい奴だよな、とぼんやりと思う。甘いとすら言えるだろう——敵にはあれだけ苛烈なクセに。
「モクマさん?」
「……あ、悪い」
横からかけられた声に促されて、俺は慌ててエレベーターに乗り込む。ドアが閉まるか閉まらないかくらいのところでチェズレイがふっと口を開く。
「…………いつか、」
「うん?」
「気が向いたら、手ぐらい握ってくださいね」
チェズレイは言う。両手が埋まってる時に言うのがまたいじらしかった。俺の返事なんか求めないように、前を向いたままなのも。
けど、だからと言って俺は、その手に手を伸ばそうとはしなかった。
『へぇ、じゃあ二人ともしばらくそこで生活するんだ』
「えぇ、今日で最低限必要なものは揃えられましたし、後はおいおい買い足していきます。いずれこちらの名産品をお送りするようにいたしますので、楽しみにしていてくださいね、ボス」
「…………」
なるほど、最低限……最後はおじさんの腕千切れそうになってたけど最低限ね、うん。夜になった今もおじさん腕パンパンなんだけど——まぁ楽しそうに話してるから言うだけ野暮か。
俺はコーヒーのお代わりをしに席を立った。窓の外はもう随分と暗い——時間も時間だし、もう寝入ってる家もあるのかもしれない。
(あいつはお代わりどうかねぇ)
振り向いて遠目に確かめてみたが、チェズレイのカップにはまだコーヒーが残っていた。冷めてはいるんだろうが、楽しそうに話してるみたいだし、まぁあいつの分は後でも良いだろう。
ミカグラ島を立ったのはついこないだの話だが、それでもしばらくずっと一緒にいた仲間と離れ離れになるのが寂しくないと言や嘘になる。チェズレイもルーク相手なら尚更らしく、話は随分と弾んでいた。アーロンは今日は顔を出せないらしいが、また改めて誘うか。顔ぐらい顰めるかもしれんが、チェズレイも流石に反対はせんだろうし。
「ボスは今夜は何を召し上がられましたか?」
『う、えっと…………』
「いけませんねェ、ボス。朝食も大事ですが、夕食には一日の終わりに自身を労う意味合いもありますから、ドーナツで済ませてはいけません」
『ば、バレてる!』
——ちょっと離れて戻ってきたらオカンと一人暮らしの息子みたいな会話になっとる……。
椅子に座り直すと俺もカメラに映ったからか、ルークは助けを求めるようにこっちに視線を向けてきた。
『モクマさん達は何を食べたんですか?』
「えーと、あれは……結局カレーってことでいいの?」
俺はチェズレイに聞く。味としてはカレーだったが、昨日『このクレープ美味いねぇ』つーたら『ガレットです』なんて返されたところだし(いや、ガレットって何)、カレーと似て非なる、おじさんの守備範囲外の何か、って可能性も捨てきれない。
「えぇ、所謂カレーですよ。ルウは特に使いませんでしたが」
チェズレイは頷いた。良かった、あれはカレーで良かったんだな、うん。あとは——
「あとあの黄色い、」
「サフランライス」
「そう、それ! ……とにかく、何か本格的なカレー食べたよ」
俺が言うと、ルークは顎に手を当てた。
『なるほど、カレーは良いかもしれないですね。アーロンの食欲にも鍋いっぱいのカレーなら……いやどうかな、やっぱり無理かも……』
「カレーは水増しが効きますよ、ボス」
澄ました顔でチェズレイが横から口を出す。いやそんな薄いカレー食べさせたら流石に可哀想だろう、アーロンはそんな味にこだわりなさそうだけども。
「まぁ、カレーはあんまり失敗しないから良いんじゃない? 大体何入れても美味いし」
嵩増しって話に引っ掛けて言うと、ルークが何かを思い出すように目を細めて笑った。
『そう言えば、昔父さんと作ったカレー、野菜が硬過ぎて美味しくないことあったなぁ』
俺は瞬きをする。ルークの父親、つまりは——
「へェ、料理においても失敗などしなさそうでしたが。意外ですねェ」
チェズレイは事もなげにルークの話題に乗った。
『いや、多分僕が具材を大きく切り過ぎたんだよ。確かあの時は包丁を使うの初めてだったから、指を切らないように必死でさ。父さんも特にそれを直そうとはしなかったし』
「なるほど。彼も子供に合わせればそうもなりますか」
ふっとチェズレイは微笑む。確かに俺にも子供の頃のルークが『親父さん』と料理をする姿は容易に想像できた。何にでも一生懸命なルークが教えてもらいながらおっかなびっくりニンジンを切ったりして——それは、微笑ましい光景のはずだ。
「…………」
俺はさり気なくカメラから外れるように体をずらした。本能的な行動だったものの、多分正解だったと思う——何せ飲もうとしたコーヒーに映り込んだ俺の表情はお世辞にも穏やかとは言えない。
『カレーだけじゃなくしばらくそういう失敗が続いてから、ようやくそのことに気づいてさ。多分あれ父さんは割と早いうちに気づいてたんだろうけど、』
ルークが『親父さん』について楽しそうに話すのにチェズレイは相槌を打つ。それを聞き流しながら、俺はツマミを突いてやり過ごす。
「……ファントムは、今何を?」
一頻り思い出話をしたところでチェズレイはそう聞いた。ルークは少し目を伏せながら答える。
「相変わらず、獄中だよ。話はできてるらしいけど……いや、でも話してるって言えるのかな。DISCARDの他の構成員も口は硬いけど、それでも一応会話にはなってる。けど父さんについては調書を見た感じ、取り調べはさっぱり進んでないみたいなんだ。色々聞き出さないといけない話も多いのに、」
「一旦はその話、良いんじゃないの」
ルークの言葉を遮るように、つい声が口を突いて出た——思ったより強い口調になっちまったのに自分でも少し驚く。
「すみません、『仕事』の話になっちゃいましたね……」
ルークが頭を掻いた——あぁ、しまったと思う。別にルークに思うところがあったわけじゃないのに。
「……そう言えばボス、」
チェズレイが空気を読んでか話題を切り替えるのを横目に、俺はまた席を立った。
(…………らしくない)
心の中でそう思いながらため息をつく。たかが『少し話題に出された』だけでカリカリするなんて、本当に俺らしくもない——
「…………何か甘いのでも食うかねぇ」
そう独り言を言って、俺は戸棚からチョコレートを取り出して口に放り込んだ。行儀が悪いな、と思いながら戻ると、チェズレイが顔を上げる。
「モクマさん、」
指し出されたタブレットに映ってたのは懐かしのマイカ料理の数々だ。
「? どしたの?」
聞くと、チェズレイは、単なる雑談なのですが、と前置きした。その後を引き継いだルークが言う。
「モクマさんが僕に前作ってくれた料理があったじゃないですか、マイカ風の。あれがすごく美味しかったなぁって」
誰から習ったんですか、なんてルークは聞いてきた。誰からって言われても、これと言って決まった相手はいない。思い出すのは色んな人達だ、里にいた頃に振る舞われた料理はどれもこれも懐かしい顔と一緒に覚えていて——
「あー…………どうだったかな」
不意に頭に浮かびかけた、優しげな笑顔と親しげな声音を、少し頭を振って思考の外に追い出す。今、その人を思い出すのは——
「…………」
訝しげな視線が隣から投げかけられたが応えずにいると、チェズレイは唇を指でなぞりつつ、ふっと俺から目を逸らした。
「ところでボス、」
またあからさまに別の話題に繋げてくれたのを受けて、俺は静かにため息をつく。
(…………)
強張った表情を何とかするのには、もう少し時間がかかりそうだった。
Ⅲ.
タブレットに表示された写真を見て、俺は記憶を探る——50代くらい、顎に髭、額に特徴的な傷、ゴツいめの指輪——うーん、うーん……。
「…………えっと、何とかファミリーのボス?」
「その『何とか』の部分が大事なのですが」
「う、うん……そだねぇ」
笑ってみたものの、何を誤魔化せるわけもなく、返ってきたのは盛大なため息だった。
ミカグラ島を出て新たな潜伏先に腰を落ち着けてから、もう2週間になる。毎日のトレーニングでそれなりに体のキレも取り戻して順風満帆——と言いたいところだが、そもそも俺達はまだ『世界征服』に乗り出せてなかった。チェズレイが出してきた『課題』を俺がさっぱりクリアできてないからだ。今日もトレーニングを終えた後にディスプレイとにらめっこしてみたものの、どうにもなってない。
(…………でもな〜)
俺はタブレットを眺める。映ってるのは何度見ても厳つい男だ——多分5連続くらいでこんな感じの顔を見てる気がする。何つか、こういういかにもな感じじゃないとダメってルールでもあんのかね……いや、まぁ暗黙の了解みたいなもんは実際あるんだろうけども。えーっと、誰だっけか……うーん……。
「いや〜、こりゃダメだ。おじさんメゲちゃいそう」
俺はテーブルに突っ伏した。窓の外は大雨で、まるで俺の憂鬱な気持ちを代弁してるみたいだ。
(……ってか)
そもそも今までほぼ関わりなかった裏社会の知識を山と詰め込まれるのは、多分俺でなくてもキツい——
「老け込むには早い年でしょうに」
ひょいっと横からタブレットが取り上げられた。見上げた先、チェズレイは指先でをいくつか操作をしてからタブレットをこっちに向けてくる。表示された『答え』には覚えがあるようなないような……。
「武器やらクスリやら無機物はそれなりに覚えられるのに、人の顔と名前はさっぱりですねェ、あなた」
「いやー……面目ない」
放浪してる間はなるべく人と深く関わらないようにしてたし、何より元から興味のないことは覚えが良くない性質だ。武器とかクスリならまだ抑えるべき特徴にパターンがあるから何とかなるものの、人間となると難しい。声やら動きやら複合的な情報にしても、裏社会ともなるとそもそも不鮮明な動画ばっかりだし——
「お前さん、よく覚えられるねぇ」
「まァ、この世界もそれなりに長いですからねェ。ただ、いつあなたにも単独行動していただくか分かりませんので、最低限は覚えていただけると助かるのですが」
「いや〜、その最低限がおじさんにはちぃーと重いっちゅうか」
これは多分年齢の問題とかじゃないと思うんだよなぁ、俺がチェズレイの年齢だったとして、やっぱり覚わる気がせんもの。
チェズレイはまた一つため息をついて席を立った。呆れられたかな、と思ったものの、休憩しましょう、なんて告げられて持ってこられたのはビスケットだ。壁の時計は15時過ぎ——なるほど、おやつの時間ってわけか。
「手作り?」
「えぇ」
「お前さん何でもできるねぇ」
控えめな甘みが少し前に淹れた温めのコーヒーに合う。チェズレイ自身はコーヒーだけで良いらしく、お行儀良く並べられたビスケットは俺の側のが減っていくばかりだ。
「……まァ、あなたなら多少覚えが悪くても問題ないのかもしれませんがね」
「ん? 何が?」
「今はもう刺激されて動揺するようなトラウマはあなたには残っていませんし、余程のことがない限りその場その場で何とか切り抜けられそうですから」
「いや〜、ははは」
お前さんが散々抉ってくれたアレね……。
今だって過去の諸々を囁かれたら全く動揺しないってことはないはずだ。だがそれでも指一本動かなくなるような無様を晒すことは流石にないだろう——それなら、今の俺は本能的に『生きる』ことを優先できる。
顎に手を当てたチェズレイが何やら、ふむ、と一つ頷いた。
「モクマさん」
「ん?」
不意に呼ばれて、流れのまま差し出されたタブレットに目を落とす——と。
(…………あ、)
——完全に不意打ちだった。
そこに表示されてたのは、心の隅に住み着いた、けして色褪せない思い出の人だ。いつも浮かべていた柔らかな笑みとは打って変わった凛とした表情。見慣れない洋服を着たイズミさまの写真にドキリと心臓が鳴る。何かの隠し撮りなんだろう、横に並んだ男と一目見て夫婦と分かる姿だった。
「ちょっとした実験でしたが……前言撤回します。トラウマではなくとも、未だに過去に動揺する要素はあるのですね」
チェズレイは呟いて俺の手からタブレットを取り上げる。あ、と間抜けな声が口から溢れたのに、我ながら呆れそうになった。誤魔化すためにもう一枚ビスケットを摘んだものの、しばらくもぐもぐ咀嚼してる間もチェズレイは何も言ってこない。
「………………趣味が悪いねぇ、お前さん」
やっとのことでそう返すと、チェズレイはこっちを見返して、まァそうかもしれませんねェ、なんて何か含みのある表情で呟いた。いや、人の過去の『1番キレイな思い出』をこんな何かのダシみたいに使うのが、趣味が悪い以外の何だっての。
ってか、そもそも——
「お前さんはそれで良いわけ?」
「それで良いとは?」
聞いた言葉にチェズレイは首を傾げた。俺は瞬きをしてチェズレイを見返す。
(……それで良いとは、って……)
どれだけ待っても、チェズレイの顔に浮かんでるのはいっそ無神経とも言えるくらいの、不思議そうな表情だ。
(…………何だ、つまり)
こいつは——俺が別にイズミさまのことに触れようが。
ガタンっと大きな音がリビングに響き渡った。椅子から立ち上がった俺をチェズレイが見上げてくる。
「…………ちょっと醤油買ってくる」
俺が言うと、チェズレイは戸惑ったように視線を返してきた。
「あの、お醤油はまだありますし、そもそも外は大雨で、」
「知ってるよ。……買ってくる」
俺はチェズレイの言葉を遮って、真っ暗な中、傘もささずに外へ飛び出した。バシャバシャと水溜りを踏みながら、こみ上げてくる苛つきに舌打ちが出る。
言ってみれば、チェズレイにとってイズミさまは好きな相手の『過去の女』で、俺の中では整理はついてるとは言え、『1番キレイな思い出』なことに変わりはない。なのに、それを引き合いに出したり、そもそもごく普通に話の流れで触れても、あいつは構わないらしい。あの様子だと、別に俺がイズミさまとの思い出を語ったところで、痛くも痒くもないんだろう。
『単なる雑談なのですが、』
『モクマさんが僕に前作ってくれた料理があったじゃないですか、マイカ風の。あれがすごく美味しかったなぁって』
『あー…………どうだったかな』
あれは、勝手に俺が気を遣っただけだ。けどこっちがわざわざ話題を避けたのは——お前のためだったのに。
(…………)
未だに返事らしい返事をせずに、何も聞いてこないあいつに甘えてる俺が悪いって自覚はある。けど、俺が過去に『そういう意味で』大切にしてた人を勝手に引き合いに出してきた上に、こっちが動揺しても特に気にならないって、そりゃどうなんだ? 嫉妬の一つもしないのか。
(………………わけが分からん)
はぁっと深いため息が出てきた。もう閉店してるんだろう店の軒先に座り込んで空を見上げると、雨粒が遠慮なく目に入り込んでくる。別に雨に打たれるの自体は屁でもないが、濡れ鼠になったところで良いことなんかないのは経験上分かっている。それでもどうしようもない時にどうしてたかって言や——
「………………何か飲むか」
ふらりと立ち上がって、俺はポケットの中を確認した。最初に両替した時から特に金は下ろしてないから手元の残金は僅かばかりだが、それでも1杯ぐらい飲めなくはない。昔は行きずりのバーで安酒を頼んで酔えるだけ酔うようにしてたっけ。おかげで今も色んな土地の酒に馴染みがあって——
(………………あぁ、そういや)
そこで気づいた——俺はこの街の『今飲める』安酒を知らない。ここに来てから、酒を飲もうと思ったことがなかったからだ。
記憶に新しいのは、名前も知らなかったガレットやら、馴染みのない手の込んだカレーやら、やたらと美味いビスケット。
(…………あいつが、)
毎日手ずから何かしら用意してくれてて、夜も気づけばコーヒー片手に話したりして。
「…………」
見上げた先の案内板の文字は大雨で殆ど読めなかったものの、2週間も住めば流石に大体把握できている。右手にはこの街最大の歓楽街がある。バーだってピンキリあるだろうし、安酒なら何とでもなるだろう——そんな風に考えながらも、気づけば俺の体は逆方向に曲がっていた。だんだんと店の数が減って雑居ビルが増えていく。つい数十分前に歩いた道を引き返す形でしばらく歩き続けていると、根城になってるビルが見えてくる。
(…………あ、)
入り口に人影が見えた。ビルの裏口には屋根がついているが、ちょっと遠くを眺めようとすれば景気良く濡れてしまうくらいの申し訳程度の大きさだ。そのせいか、本人曰くの『国宝級のキューティクル』は雨の中重たげに濡れていた。向こうから俺が分かるだろう距離まで近づいても、特に反応はない。何をしてるんだって言や俺のことを待ってたんだろうに、チェズレイは一向に口を開かない。
「…………濡れとるよ?」
傍らに立ってそう言うと、チェズレイはこっちに視線を向けないまま呟いた。
「あなたの方こそ見事な濡れ鼠じゃないですか」
チェズレイは僅かに体の位置をずらす。男二人並んだだけで裏口の屋根下はいっぱいいっぱいで——だがそれでも何となくそのまま中に入るのは憚られた。すぐに何もなかったように振る舞うのは違う気がしたからだ。
そこから俺もチェズレイも少しの間、口を開かなかった。規則的に聞こえる雨音と、時折ビルの前の道路を通過する車のヘッドライト——やがて、チェズレイが小さく首を振る。
「帰ってこないかと思いました」
——消え入りそうな声だった。見上げた先のチェズレイの姿を普段より小さく感じたのは、いつもはピンと伸びている背が丸まっているからか、それとも濡れそぼってるからか。
「信用ないねぇ」
なるべく何でもないような声音で返すと、覚えがおありでは、なんて含みのある言葉が返ってくる——まぁ、そりゃそうなんだけどさ。
しばらくして、チェズレイが少し身を震わせた。
「……とにかく早く部屋に戻って温かいものでも、」
くしゅん、とチェズレイが小さくクシャミをする。
「コーヒーで良いならおじさんが淹れるよ」
言うと、チェズレイは瞬きをした後、僅かに頷いた。
Ⅳ.
コンコンとノックをする。返事はない。もう一回ドアを叩いて耳を澄ますと、どうぞ、と掠れた声が扉の向こうからかすかに聞こえてきた。
「大丈夫?」
聞いたものの、返ってきたのは痰が絡んでるらしいゴホゴホいう咳だけだ。ドアの隙間からそっと中を覗き込む。初めて目にしたチェズレイの部屋はシンプルに整頓されていて、真ん中に鎮座している大きな天蓋付きのベッドに部屋の主は横になっていた。
「もっ……」
俺を呼ぼうとしたのか、問題ありませんとでも答えようとしたかは分からなかったが、チェズレイの様子はいかにも心許ない。俺は中に入ってベッドサイドのテーブルに水差しを置くと、グラスをチェズレイに差し出した。
「ず、み……まぜ、」
謝ろうとするのを制して俺はチェズレイが起き上がるのを手伝う。
昨日雨に濡れたのが良くなかったのか、チェズレイは見事に風邪を引いた。ずぶ濡れだったこっちはピンピンしててそこまで濡れてないチェズレイが体調を崩すのはおかしい話にも思えるが、まぁ頑丈さに差があったんだろう。
「おかゆでも作ったら食べる?」
聞いたものの、潤んだ目元で首を振られた。あぁそうか、黄色かったとは言えコメ出してもらったから、同じコメでもどろどろしたのはダメかもしれないってのが完全に頭から抜けてた——あ、いやそもそもおかゆが何か分からんってのもありえるか。
「おかゆってのはマイカの料理の一つで、」
言うとまた首を振られた。あー……まぁサシミとか変わったのもあるから、マイカの料理っつーたら引かれもするか、うん。
「うーん、そうするとオートミールとかになるのかねぇ……おじさん、あんまり不調の時に食べるような胃にやさしい料理って作ったことないから、」
そこまで呟いたところで服の裾を引かれた。
「じっ……」
「? じ?」
「じっ、て……ま、」
じってま? ……あー……なるほど。
「知ってる? おかゆ」
チェズレイは頷いた。そっか……そうだよな、こいつ博識だからおかゆぐらい知ってるか。
「おかゆ苦手?」
言うと首を振られた。あれ、おかゆ苦手じゃないの。
「んじゃ何で?」
聞くと、チェズレイは、小さく呟いた。
「づ、」
「うん?」
「づぐらぜ、るのは……」
掠れた声でそんな風に言われて、俺は呆れてチェズレイの頭にぽんと手を置く。
「寝てな」
それだけ言って、俺はキッチンへ向かった。
しゃがんで棚の中やら何やら探ると、じきにコメは見つかった。乾物がまとめて置いてあるのか、昆布も横にある至れり尽くせりぶりだ。あとは卵と塩があれば最低限形にはなるだろうと思ったところで、調理器具が置いてある大きな引き出しの奥の方から土鍋が出てきた。凝り性っつうか何つうか——いずれマイカの料理も作るつもりだったんだろうか。
俺は土鍋に昆布を入れた。あいつのことだから、下手すりゃもう俺より出汁のことなんか既に調べて詳しくなってるのかもしれない。あぁ、コメって最初から入れて良いんだっけ。卵を入れるタイミングとかもまるで覚えてない——ツマミならともかく、病人食を作った覚えはあんまりないし、下手すりゃ初めてじゃないだろうか。人に食わせるもんだからある程度……いや、普段あいつが作ってくれてるもんを考えれば可能な限り美味いもんを食わせてやりたいが。
「…………こんなもんか」
記憶にあるおかゆよりぼんやりした味になっちまったが、多分今のチェズレイにはこれぐらいでちょうど良いかもしれない。
俺は盆に色々乗せてからチェズレイの部屋に引き返す。両手が塞がってる関係上、足でドアを開けちまったが、特に非難の声は飛んでこない。
「チェズレイ?」
ベッドまで近づくと、チェズレイは顔を上げた。手元のタブレットには俺には何語かすら分からないぺージが開かれている。どうやら仕事をしてたらしい。
「すいません、気づかず」
掠れてはいたものの、さっきより声は大分良くなっていた。顔色も幾分か明るい。
「気にしなさんな。ほら、おかゆ作ってきたよ」
仕事なんぞやめたやめた、と続けて、俺はチェズレイの手からタブレットをひょいっと取り上げた。不満が飛んでくる前にレンゲに一匙おかゆを掬ってさし出すと、チェズレイは大人しくそれを口に咥える。何となく流れでまた一匙、また一匙と続けて差し出すと、チェズレイはその度にレンゲに口を寄せる。はふはふと少し熱そうにしながらも俺の差し出したおかゆを食べ続けるチェズレイの姿はまるで——
(何か餌付けしてるみたいだねぇ……)
そんなことを思ってるうちに、チェズレイの胃の容量を考えて小さめの椀に注いできたおかゆは思ったより早く空になった。
「お代わり要る?」
「いえ」
チェズレイは首を振って、タブレットに手を伸ばそうとする。俺は呆れてチェズレイの手首を掴んだ。
「お前さんねぇ、そんな体調で仕事とか、」
「私だって風邪を引いてる中、好き好んで仕事などしません。必要な手続きだけしたら大人しく寝ますよ」
言いながら、チェズレイは俺を見上げてくる。だが手を離すのは憚られた。何せ、こいつが本当に大人しく寝るかは分からない。
訝しんでるのが分かったんだろう、チェズレイはもう片方の手でタブレットを掴んで俺の方に画面を向けてくる。いや、さっきと同じ画面だし、おじさんにはそもそも何が書いてるかさっぱりなんだが——
「ちょうど、身分証が手に入りそうでしたので」
チェズレイは言う。
「…………薬か」
ピンと来て言うと、チェズレイは頷いた。
薬となると市販薬をドラッグストアで買うか、処方箋を発行してもらって薬局で買うかの二択になる。法外ってほどの値段じゃなし、保険証がなくても薬ぐらい買えなくはない。だが、保険証なしに買えば、珍しいと印象に残ってしまう可能性がある。いずれ活動を始めりゃ裏の医者なんかを頼らざるを得ない事態も出てくるだろうが、それはそうとして表の顔は下手に周りに印象づけない方が良い。つまりは、この街に溶け込むにあたって、それらしい身分証はあるに越したことはないって話だ。
「受け取りは?」
「今日の正午、ロッカーに入れておくそうです。恐らくは3回程度、間を挟むかと」
チェズレイは言う。3つ中継のロッカーを挟むとなると、そこそこ歩かされるだろう。
「おじさんが行くよ」
「はい、最初からそのつもりでしたのでよろしくお願いしますね」
チェズレイは頷きながらこっちを見て——少し不思議そうに首を傾げた。
「? どうかした?」
「いえ、何故そんなに嬉しそうにしているのか分かりませんでしたので」
「あー……」
俺は頭を掻いた。自分では気づいてなかったが、嬉しそうだって言われたんなら、そりゃあ——
「小さな話だけど、多分これ初仕事だろ?」
言うと、チェズレイは瞬きをしてから、ふっと笑う。
「働いてないこと、気にしてらしたんですか」
「そりゃあねぇ」
こちとら日銭で暮らすような日々に慣れてた身だ。ナデシコちゃんが払ってくれた報酬は破格だったけど、それでも一年も生活してりゃ綺麗さっぱりなくなっちまうだろう。
「そう心配なさらずとも、私と居れば一生お金には困りませんよ」
「いや、流石におじさんヒモ状態はちょっと……」
「誰も養うとは言っていません。世界を股にかけて荒稼ぎしますので、仕事は山とある、という意味です」
笑みを浮かべながら言うチェズレイに、俺は肩を竦める。
(……あー、やっぱちゃんとやらなきゃなぁ)
空いた時間に改めて重要人物リストを見てみたものの、やっぱりどうにもならないものはどうにもならなかったのを思い出して、俺は頭を掻いた。
「すまんね、覚えが悪くて」
言うと、チェズレイは首を振る。
「いえ、人には得手不得手がありますから……まァ、一人例外はいましたが」
『例外』——また出された話題に俺は少し息を整えてから口を開く。
「……奴さん、そんな記憶力良かったの?」
「えぇ。まァ、ファントムは記憶力に限らず、不得手のない男でしたからねェ」
顎に手を当てて思い出すようにチェズレイは言う。
「……そ。すまんね、おじさん弱点ありまくりだ」
その言葉は、思ったより恨みがましく響いた。チェズレイは瞬きをして、俺の方を見やる。
「単に彼はそういう人だった、というだけの話ですよ。あなたには関係のないことなのですから、そんなに気にする必要はないと思いますが」
(————関係ない、)
あまりに無神経な物言いに俺は思わず顔を上げた。そりゃ確かにその通りだが、まるで『あなたの入る余地はありません』とでも言われたように感じてカチンと来る。大体引き合いに出してきたのはそっちの方だろう、と思う。と言うかそれ以前に、比べることがないんならそもそも話題に出すべきじゃないだろう——過去の男の話なんて。
「……あいつに看病されたことは?」
聞くと、チェズレイは眉を潜めて、けれどあっさりと、まぁそれなりに、なんて返してきた。あぁ、そうだよな——それなりの時間を一緒に過ごせば、それなりのことはあるよな、一通り。
俺はテーブルに置いてあった市販薬を一つ開けて、口の中に放り込む。
「? モクマさん?」
訝しげな声を無視して、続けて水を含んでから、チェズレイの顎に手を当てた。意図を読まれる前に顔を近づける——頭の端で考えたのは、俺も苛つきでこういう行動をとることがあるんだな、なんて冷静な分析だ。
「っ、」
小さくチェズレイの唇から息が漏れる。触れ合う面積が狭いとどうにもならないのもあって、俺はチェズレイの頭の後ろに手を回してより深く唇を合わせた。柔らかい割に弾力に乏しい唇は、クセになりそうな感触をしている。
「んっ、」
舌で薬を押し込むと、びくりとチェズレイの体が震えた。喉が鳴って、チェズレイが薬を嚥下したのが分かったが、俺は唇を離さなかった。もうこれ以上必要ないと分かってるのに更に深く口付けたのは、もしかしなくても、腹いせに近かったかもしれない。
は、と再びチェズレイの唇から息が漏れる——それは、さっきより幾分熱い。
(…………そういや2回目か)
そう思う。1回目はこいつから、2回目は俺から——どっちも合意のないキスだ。こういうのはもっとロマンチックにやるもんかと思ってたが、まぁ唇を合わせるだけの話だし、俺ももうそんなことでどうこう思うほど青臭くないってことなのかもしれない。
けほっと僅かにチェズレイが咳き込んだタイミングで唇を離すと、細い手がベッドサイドの水差しに伸びた。水が足りなかったのか、チェズレイにしては品がないくらいに並々とグラスに水を注いで一気にそれを飲み干す。その様子を見てたら何となく察せたが——
「お前さん、これはされたこと、」
「ありませんよ」
チェズレイは被せ気味に言ってきた後、一息入れてから再度口を開いた。
「…………あなた、こういうことをする方だったんですか」
呆れたような、咎めるような口調だった。流石に親愛の情じゃなく、苛立ち任せの行動だったのは伝わっちまったらしい。
——お互いしばらく口を開かなかった。つついたって多分何にもならない話だし、下手すりゃ『昨日の焼き直し』になりかねない。
「……少なくとも、嫉妬されるぐらいの気持ちを持たれているのは喜ぶべき話なんですかねェ」
ため息をついたチェズレイは、結局それ以上深くは踏み込んでは来なかった。頭を切り替えるようにタブレットに目を落としてしばらく操作した後、チェズレイはこっちに画面を向けてくる。
「もう正午まで時間がありませんし、そろそろロッカーに向かわれては?」
そこには、ロッカーの番号なんだろう4桁の数字が並んでいた。
「私は大人しく休んでいますので、よろしくお願いしますね」
宣言通りもう作業はやめるらしく、タブレットを脇に置いてチェズレイはこっちにひらりと手を振ってくる。その声に送り出されるまま、俺は部屋の外に出た。廊下を歩きながら、今更ながら後悔なのか自己嫌悪なのか分からない気持ちがじわじわと浮かんでくる。
(…………あいつは、)
俺が自分のことを棚に上げてると分かっていながら、下手に追い詰めて来ようとせず、いつも逃げ道を用意してくれている。結局俺はその甘やかしにただ乗ってるだけだ——この2週間ずっと。
Ⅴ.
別に俺の方が体が頑丈ってこともなさそうだと気づかされたのは数日後のことだった。
「38.7度……まァ、普通に高熱ですねェ」
体温計を確かめながらチェズレイが言う。いや、まぁそうだろうね、この体調。頭がガンガンするし、鼻水は出るし。寝る前は咳だけだったんだがなぁ。
「起きられますか?」
聞かれて俺は頷いた。昔は熱なんて滅多に出さなかったが、一度出ちまったが最後じっと座って耐えて何とかやり過ごすしかなかった。こうやってベッドに寝転がって布団ひっ被れるだけでもありがたいもんだ。
チェズレイは土鍋を乗せた盆をサイドテーブルに置いた。こいつは逆にこの数日で回復してて、中身を注ぐ手際も良い。
「どうぞ」
差し出されたお椀からはほこほこと湯気が上がっていた。どうやら雑炊らしい。鼻が効かないせいで匂いは分からないが、僅かに感覚が残ってる舌で味わうと、控えめでやさしい味付けをしてあった。幸い食欲はなくなってないらしく、瞬く間にお椀は空になる。
「お代わりは要りますか?」
聞かれて俺は答えた。
「今は大丈夫。でも一眠りしたらまた食わせてくれる?」
「一眠りで回復しそうですか? まだ動けるうちに病院に行かれた方が、」
チェズレイの言葉はそこで途切れた——俺が堪えきれずに吹き出したからだ。
「何がおかしいんです」
「いや、これから世界征服しようって悪党が大真面目に病院勧めてくるのがおかしくてさ」
言うと、チェズレイは顔を顰めた。
「ついこの間まで長期入院していたのをお忘れとは、随分と残念な記憶力をされてるんですねェ。……言っておきますが、身分証のテストも兼ねてですよ。先日は結局受け取るだけになってしまったでしょう? 金は積みましたし、それなりに信用できる筋に頼みはしましたが、それでも実際使ってみないことには分からないですからねェ」
幸い今のあなたの状態で仮病を疑われることはないでしょう、とチェズレイは付け加えた。あぁ、まぁ確かに疑われる要素はないかな、と思いながら、俺は鼻をかむ。思い切りやったからか、少し嫌そうに顔を顰めたチェズレイを横目に、俺はティッシュをゴミ箱に捨てた。
「キャンセルするような予定……は別にないか」
情けない話をすると、チェズレイはこっちにカレンダーを表示したタブレットを見せてきた。あ、めちゃくちゃ目立つ色しとるなぁ……今日の予定。
「このように、本日はボスと通話するという一大イベントが、」
「あ〜、それはお前さんにお任せするね」
胸を張って言うチェズレイにそう返すと、俺は準備をしに自室へ向かった。
テストの結果は上々だった。名前しか書かれてない保険証は問題なく通ったし、今回は使わなかったが運転免許証なんてショーのパンフレット用に撮られた写真に幾分加工を加えたらしく(元データなんて俺も持ってないのに!)、名前さえ違ってなければ正規のルートで取ったんじゃないかと錯覚しちまいそうなくらい『ちゃんとして』いる。特に疑われることもなく薬局で薬も無事貰えて、俺は殆ど待たされることなくスムーズに帰路についていた。とは言え——
(…………流石に疲れた)
思いながら、俺はビルの脇にある階段を、体を引きずるようにしてゆっくりと上がる。とにかく薬飲んで寝ちまうに限るぐらいの酷い体調だ、現にいつになく感覚だの何だの鈍って——
「…………?」
ノブに手をかけようとしたところで、ドアの向こうから何やら話し声が聞こえてきた気がして俺は顔を上げた。チェズレイが喋ってるんなら別に良い——だがドア越しに聞こえてくる声はあいつのものじゃない。
(…………っ、)
嫌な予感に、ぼうっとしてた頭が一瞬で冷静に切り替わる。昔取った杵柄——体調が悪かろうが、子供の頃から繰り返した習慣通りに体は動く。音を立てないように静かにドアを開けて、俺は足音を殺しながらリビングに近づいた。だんだん鮮明に聞こえるようになってくる話し声に、嫌な予感が確信に変わっていく。中の気配は一人——だが、それはチェズレイのものではなく、今ここにいるはずのない人物のものだった。
「……すまないね、人を謀るのが癖なんだ」
画面に向かって話してる後ろ姿は、不思議と違和感なく部屋に溶け込んでいた。ともすれば、どこにいたって自然に感じさせるように。撫でつけられた金髪に、堂々とした居住まい、落ち着いた手振り。
(あぁ、くそ……)
何で予想できなかった……そう大人しく捕まっているような奴じゃないのは、あいつやルークから散々話に聞いて知ってたってのに——
「おや、お客さんのようだ」
そう言って奴は——ファントムは振り返る。浮かべられた笑みがどこか冷たく見えるのは、俺がこいつの所業を知ってるからだろうか。
間合いは——まだ遠い。しかも、気づかれたからにはそう簡単にこっちからは踏み込めない。銃を持ってるかは判然としないが、手の動きを注視しながら場当たり的に対応するしかない——だが。
(っ、)
それでもどうしても最初に確かめなきゃならないことがあった。
俺は目だけを動かして、部屋の隅から隅まで素早く確認する。他の部屋からの物音も聞こえない——気配もない。間違いない、この家には今、俺とこいつしかいない。
「あいつを……チェズレイをどこにやった」
絞り出すように低くなった声は無視された。奴はタブレットの相手に向かって話を続ける。
「すまないね、どうやら今日はここまでのようだ。また今度ゆっくり話をしよう」
緩慢とも思える動作でボタンを押して通話を切ると、ファントムはもう一度こっちを振り返った。敵意はないとでも言うように広げられた手すら何かの手管かと疑っちまって、背中を流れる冷や汗が止まらない。
ふむ、とわざとらしく頷いた後、ファントムはゆっくりと口を開く。
「チェズレイがどこに行ったか……か。当ててみたらどうだ? あいつのことをよく分かってるんだろう?」
「うるさい」
この物言いが挑発だってことぐらい分かる。だが、的確に嫌なところを抉られて、舌打ちしそうになった。『あいつのことをよく分かってる』——どうだか。特に目の前のこの男がらみの話になると、こっちには分からないことだらけだ。
(…………なぜ、こいつがここにいる)
思考が飛びそうになったものの、今はそれを追求してる場合じゃない。考えるべきは、何でチェズレイがいないかだ。
(……何らかの理由で、こうやってファントムが目の前に現れたとして)
——あいつはどうするだろうか。
何らかの取引をした、ってことはないだろう。何せあいつはファントムに一度手酷く裏切られている。二度も信用するような愚は犯すまい。
(…………チェズレイは、)
もうファントムには未練はないと言っていた。俺のことを好きになった、こう見えて一途だ、とも——その言葉に嘘がないことは分かる。
なら——なぜ今チェズレイはここにいないのか。
懐柔できない人間を相手にしたとして、目の前の男ならどうするのか。
「…………」
ごくり、と喉が鳴った。合理的な結論がぶら下がってるのを俺は必死で無視する。
あいつは警戒してたはずだ——警戒を掻い潜ることぐらい、目の前のこの男には訳ない。
争った形跡はない——気配を感じさせないぐらい静かに背後から近寄るくらい、目の前のこの男にはお手の物だ。
人一人の存在を誤魔化すのは並大抵のことじゃない——目の前のこの男に、そのノウハウがないとでも?
その、出したくない答えが頭の中で言葉になろうとするのを、俺は必死で押さえつける。頭に浮かびかけた不穏な想像を、頭を振って追い払う。
(…………何か、他に……)
汗が頬を伝ってぽたりと床にシミを作った。
ファントムが、ここにいる理由は想像に難くない。獄中から何らかの方法で抜け出したとして、いずれ出るだろう指名手配を掻い潜るためには身を隠す場所の一つも必要だ——俺達が今使ってるこのセーフハウスや偽造した写真のない身分証なんかは、奴が掠めとるのにお誂え向きだろう。俺達がここにいることを知る人間は多くはないが、何せファントムはルークと面会している。話してるうちに何かしらのヒントに気づいたか、それとも逃げ出す途中でルークのタブレットを盗み見でもしたか——どちらにしろ、他の人間よりここを割り出すのは遥かに容易だったはずだ。
なら、この男がそうしてこの部屋にたどり着いたとして。
「…………あいつは、」
目の前にファントムが再び現れたら、チェズレイはどうするだろうか。例えば今俺がこうして目の前の男と対峙してるように、一人でファントムと向きあったとしたら。こういう時、不意を突かれた方は圧倒的に不利だ——その上ファントムはチェズレイの手管を知り尽くしている。ファントムはチェズレイに協力を要請したかもしれない——従えば命の保証はすると、持ちかけたかもしれない。だが、あいつは——
『あなたのことが、好きです』
そう告げてきたあいつが、こう見えて一途だと言ってたあいつが——そんな要請という名の脅しを受け入れるとは思えない。そして、協力を拒否したチェズレイを、この男がどうするかなんて——
「その様子だと、結論は出たようだ」
「ツ」
どくりと心臓が一つ鳴る。
ファントムがごく何でもないことのようにそう言ってこっちを向く。チェズレイに何かあったら怒り狂うだろう——そんな風に思ってたのに、実際は何も感じなかった。ただ頭の中でぐるぐるとした何かが延々と回り続けてるだけだ——ともすれば、何もかも捨てちまいそうになるくらいの、ギリギリの意識がずっと考えるのを拒否している。
やがて口をついて出てきたのは、枯れて掠れた生気のない呟きだった。
「……馬鹿だな」
最後に会話したのは何だったか、いってらっしゃい、くらいだったろうか——だって何も覚えてない。こんな風に何の前触れもなくあいつを失うなんて、俺は想像もしてなくて——
『モクマさん』
俺を呼ぶ声が、耳を離れない。
あいつが、もうどこにもいないなんて、そんな——
「…………生きててくれるなら、」
呟いた言葉は何にもならない。何なら今の俺は隙だらけだ。だがそれでも、言葉が溢れて零れ落ちる。
「生きててくれるなら、恋なんか捨ててくれて良かったのに」
俺への気持ちに操を立てるより——もっと大事なものがあっただろうに。
倒れ込みそうになるのを気力だけで押し留めて、俺はファントムに視線を向ける。ギシギシと鳴っているのは奥歯で、その歯ぎしりが辛うじて俺を押し留めている。
せめて、こいつに一矢だけでも報いなきゃ、チェズレイに顔向けできない。
(…………いや、違うな)
このやり場のない怒りを、目の前にいるこの男で発散しなけりゃ——どうにかなっちまいそうだ。
足を一歩踏み込む。それでも間合いまであと数歩といったところで、向こうさんが銃を持ってたらおしまいだ。けして広いとは言えないリビングでの立ち回りは、考えて動かなければすぐに詰む。
けどそんなことはどうだって良い。
撃たれたとしても、即死を回避するくらいはできる。数秒生き延びられれば、首か心臓か、致命傷ぐらい負わせられる。例え無理だったとして、俺が死んで事切れれば見届けられないんだし、正直な話、結果はどうでも——
「…………そうですか」
ふと、そんな静かな声が耳に届いて、俺は顔を上げた。瞬きをして、目の前のファントムを凝視する。
(…………あ、)
真っ直ぐにこっちを見返してくる瞳——その視線の熱さには覚えがある。
『このように、本日はボスと通話するという一大イベントが、』
そんな台詞を思い出して、俺はようやくもう一つの可能性(・・・・・・・・)に思い当たった。あぁ、バカだ——風邪が意識も思考もこんなに鈍らせちまうなんて——
「…………チェズレイ」
呼ぶと、目の前の男が顔に手をやってマスクをベリベリと剥ぎ取った。仮面の下から出てきたのはいつものチェズレイの顔だ。まばたきをしても消えない。気配だって感じる。
「…………ぁ、」
俺はその場にへなへなと座り込んだ。正直しばらく立ち上がれなさそうなくらいに気が抜けちまった。緊張の糸が途切れたのか、風邪の症状が何倍にも感じられるようになって思わず呻く。
思い返してみれば——色々と合点がいくところもあった。ルークは以前、DISCARDの他の構成員も口は硬いと言っていた。その口を割らせるにあたってボスである『ファントム』と話をさせるってのは良い手段だろう。だがもちろん本物と直接話させるわけにはいかないから、それらしく振る舞える技量を持つ偽者と、偽者であることがバレにくい環境を用意しなきゃならない。そんなの普通はそう都合よく揃うもんじゃない——だが、ルークには偶々『ファントム』の偽者をやるのに打ってつけのチェズレイと、その接点があった。
(あるいは、チェズレイの方から提案したのかもしれんな……)
正直ルークが自分からファントムのことに関してチェズレイを巻き込みそうなイメージはあまりない。何かとルークを気にかけてるチェズレイの方から、私を利用してみては、なんて持ちかけたのかもしれない。
いずれにせよ——俺は深々とため息なんだか深呼吸なんだか分からない息を吐き出して小さく呟いた。
「……こんな、」
目の前の存在が消えてしまわないように、チェズレイに手を伸ばす。
「……こんな、悪趣味な冗談はやめてくれ」
俺はやっとのことでそれだけを吐き出して、チェズレイの手首を掴んだ。そう何回も握ったことがあるわけじゃないが相変わらず細い。見上げた先のチェズレイは珍しく黙り込んだままこっちを見下ろしている。
「なぁ、何とか、」
「そんな風に思うんですねェ、あなたは」
言えよ、まで言わないうちに、チェズレイが俺の言葉を遮った。そこで俺はようやく気づいた——チェズレイの目に宿った、何とも言えない感情を。
「……私が、」
チェズレイはゆっくりと口を開く。
「私が仮にファントムに脅されたとして……命惜しさにあなたへの恋を捨てろと?」
酷く冷めた目だった。趣味の悪い冗談をおおよそ謝るような態度でも言葉でもない——見下ろしてくる視線と、吐き捨てるような口調。
「笑わせる」
俺は思わず視線を逸らしていた。俺は正しいことを言ってるつもりだった、こっちには詰る権利すらあると思っていた。だが、それは本当に——そうなんだろうか?
(………………)
こっちはお前さんが大切だ。だから一緒に行こうと指切りしたわけだし、現にこうやって共にいる。死んでほしくないと、だからもしものことがあれば、俺への気持ちより命を優先してほしいと、そう思うのは当たり前のことだろう。そう思うのに、言葉が出てこないのは——
(…………あぁ、クソ)
本当は気付いてたからだ。こいつが言う、好き、の意味を。それが命よりも俺への気持ちが大事だって、それくらいに重い気持ちだってことを。
だからこそ、俺はこいつの告白に返事が出来なかった。
だって、俺は——
「……あなたは、優しいですから」
チェズレイの言葉が思考を遮った。顔を上げた先、チェズレイはゆっくりと口を開く。
「そうですねェ……例えば、あなたは私に、あなたの過去の想い人の話をなさいませんね」
「…………それは、」
「わざとではない、とでもおっしゃいますか? こちらからお話しした時は怒ってらっしゃいましたが」
「…………」
俺は黙り込んだ。確かにチェズレイにイズミさまのことを引き合いに出されて腹を立てたことはある——だがそれは。
「……モクマさん、私がファントムのことをごく普通に話すのはねェ、もう過去の話だからですよ。他の大多数と同様の価値しかなくなったのですから、猫や犬の話をするようにファントムのことも口にします」
チェズレイは言う。
「ファントムへの未練はなくなりました。ですから、ボスとの世間話の流れで話題に上がったら、『私は』『わざと避けたり』せずに話しますよ」
殊更強調された部分が的確に俺の胸を刺す。チェズレイの言いたいことが分かるからだ。
そして、こいつがこういう考えなら、俺の態度はさぞかし——
「私には寧ろ、わざわざその人の話題を伏せる方が、特別扱いしてるように思えますがね」
チェズレイはそう続けて、何か申し開きは、とでも言うように手を広げた。
「…………それは、お前さんが、」
「傷つくとでも思いましたか、お優しいことだ。……ですがねェ、そうやって私に触れさせない場所を作ることこそ私を傷つけるとは思いませんでしたか?」
その目元がふっと歪んだ。何とも言えない複雑な表情で、チェズレイは俺の方を見やる。
「……あなたの中に触れてはいけないものがある。あなたは、そのわだかまりを私に一生持ち続けろと言うのですか?」
チェズレイの問いは真っ直ぐに俺に響く。目を逸らしたらダメだと、答えなければ——それ自体が答えになると分かってるのに、声が出なかった。
「…………そうですか」
そう言い残して、チェズレイは踵を返す。
パタン、とドアが閉まるまで——俺はただ見ていることしかできなかった。