coumarin 今日までとは一転、週末は厳しい寒さとなるでしょう。暖かくしてお過ごしください。
昨夜の天気予報で聞いていた通り、朝からすっかり冷え込んだ東京は日中でも10℃に届かないばかりかチラホラ雪が降り始める始末だった。しばらく出番のなかったダウンジャケットを引っ張り出してはきたけれど、マフラーまでは巻いてこなかった。それを後悔するほど、顔には容赦なく木枯らしが吹き付ける。寒さ自体は苦手な方ではないけれど、乾いた凍てつくような空気は耳が痛くなるから嫌いだった。
花粉も飛び交っている頃のはずなのに、冬は一向に居座っている。心なしかモノクロのフィルターがかかっているようで、手に下げる紙袋に描かれた桜だけがたった1人、場違いに色付いて見えた。
インターフォンを押すとピンポンと古めかしい音が響いた。返事がないのも、それを待たずにドアノブを回すのもいつものことだ。陽の光も入らない薄暗い玄関はまだ冷えた空気が充満していたが、キッチンを兼ねた短い廊下の先にある扉の磨りガラスからは光が差している。廊下の床を照らすそれに、僕はようやく強張っていた肩の力を抜くことができた。
「おじゃまします」
「入れ入れ」
リビングを隔てる磨りガラスの扉の向こうからKKが言った。その言葉通り遠慮なく、とはいえ既にKKに対する遠慮なんてとっくの昔にすっかりなくなっているけど──靴を脱いで一歩玄関框へ上がった。
リビングに入るとエンディングに差し掛かったお昼のバラエティ番組が流れていた。KKは恐らく今まで散らかしっぱなしだったであろう、机の上に広がったコンビニ弁当のゴミをレジ袋に詰め込んでスペースをあけた。
「お土産。ちゃんと机拭いてよね」
「お、気が効くじゃねえか」
緑の女神と桜のあしらわれた紙袋で察したのか、僕が小言を言ってもKKはいつもみたく拗ねはしなかった。全く現金なおじさんだ。ご褒美を前にした子供というべきか。
苦笑を隠しながらKKの隣に敷かれた座布団に腰掛けて、ウェットティッシュで雑に拭かれた机の上に桜の描かれたカップを二つ乗せる。
ブレンドコーヒーと期間限定桜のソイラテ。コーヒーのカップには兎の耳が付いたニコちゃんマーク、ソイラテにはイラストの桜に留まる蝶々のイラストが描かれている。
兎のニコちゃんマークを向けてブレンドコーヒーをKKに差し出す。KKの視線はほんの一瞬そのニコニコ微笑む兎に向けられたがノーコメントのままカップの飲み口を倒した。ミルクも砂糖も入っていないそれをKKは美味しそうに煽る。
僕も飲み口を倒してカップを持ち上げると、ほんのりとした桜の香りが鼻をくすぐった。お店の中は香ばしいコーヒーの香りが充満していてほとんど分からなかったその香りはこんな真冬に逆戻りしたような日でも、一ヶ月、もしかしたらたったの数週間先の季節を彷彿とさせる。
口に含めばあのクセのある甘さが鼻に抜けて、冷えた身体をじんわりと労ってくれるようだった。
「あのさぁKK」
肺から吐いた息はソイラテと同じ温度だ。
「おう」
「僕たちの関係って何」
KKはコーヒーを飲む手を止めた。訝しげに眉を寄せ、ウンザリしたように口角を下げる。
「急に何かと思ったら、わざわざんな不倫女みてェなこと聞きにうちまできたのか?」
「え、不倫してる人ってそんなこと聞くの、もしかしてKK不倫したことあるの」
「何でそうなんだ。んな暇なかったよ」
なら暇があればしてたのか、と聞こうかとも思ったが万に一つでも肯定されてしまったらそれこそどう反応すればいいのか解らずそのまま流した。僕は手元のカップに視線を落としたまま話を続ける。
「昨日見られてたみたい、麻里に」
「何を」
「キスしたの。アジトで」
今度こそKKは固まった。それから口元を手で覆って眉間の皺を濃くすると、「あー」と小さく唸って視線だけをよこす。
「その……なんだ。悪かった」
「KKが謝る必要ないだろ。あれは僕がしたんだし」
もう一口ソイラテを煽る。桜の香りに慣れた舌は、砂糖の甘さばかり拾う気がした。
「麻里に聞かれたんだ。付き合ってるのかって。僕、答えられなくて」
それだけなんだけど、と付け加えてソイラテをもう一口。桜の香りの奥に隠れたストロベリーの味が顔を出して、不意に現れた馴染みある味が逆に舌を浮き足立たせる。
「まさかセフレって言うわけにもいかないし」
「は? セフレ?」
珍しくKKの声が上擦った。頭を抱えて項垂れ、これでもかと長いため息を吐き出す。
「だってセックスはしてるし」
「すりゃあ全部セフレかよ」
「恋人……、は違うし」
というとKKは何も言い返さなかった。
もう半分ほどになってしまったソイラテを飲む。温度の下がったそれはさらに甘さを増していて粘度の増した液体が喉に引っかかった。
「そんなに名前が欲しいかよ」
やっと顔を上げたKKは僕をジトリと睨みながらカップに口を付ける。一口目よりも大量に流し込んだようで、喉もその分上下した。
「名前が欲しいというか……。じゃあ逆に聞くけど、麻里に何て紹介すればいいんだよ」
ゲホゲホと盛大に咳き込む破裂音が部屋中に響いた。殆ど飲み下していたのか吐き出されることはなかったけれど、それでも飛沫はあちこちに飛び散っている。
「うわきたなっ! 何急に!? もう喉弱ってるの!?」
「オマエが変なこと言うからだろ!?」
咳の合間にKKはわざわざ反論した。ティッシュをガシガシ何枚も使って口周りをゴシゴシ拭いてギュウギュウ強めに丸めてレジ袋へ投げ込む頃にはすっかり治っていたから気管に入ったわけではないようだ。
「まさか麻里に改めて紹介する気かよ」
「しちゃダメなの」
信じられないといった表情で聞いてくるKKに、僕は思わずムッとして答える。
「『麻里、僕のセフレのKKだよ』」
「似てないって。だからセフレなんて言えるわけないだろ」
「『麻里、僕の恋人のKKだよ』」
「はいはい。まだそっちの方がマシかもね」
相変わらず似せる気の微塵も感じられない物真似に僕は呆れ果てた。残ったソイラテを真上に向けて煽り一気に飲み干す。溶け残った砂糖が口中に広がって、甘さに脳が悲鳴を上げるようだった。
「ったく分かったよ。だったら紹介されてやるよ」
KKは頭をガシガシ乱暴にかいてそう言うと、僕がカップを置いたのを見てから立てていた膝を正した。といってもあぐらをかいただけだけど。
僕の方に身体を向けると、これみよがしに背筋を伸ばした。
「伊月暁人くん」
「え? あ、はい」
改まったその姿勢に、つられて僕も姿勢を正す。KKはひとつ咳払いをしてから、僕の目を見て言った。
「なら付き合うか」
「……はい?」
「セフレより恋人の方がマシなんだろ」