アンダードッグ・キャットファイト「あたしのこと裏切ったのね!」
かん高い怨嗟の声に、暁人は震えあがりKKは小さく肩を竦めた。単純な『経験値』の差だったが、相棒の反応が慣れたように小さなもので、暁人はひっそりと唇を噛み締めるほかなかった。
こういう仕事をしていれば、男女の縺れなんて話は嫌というほど耳にはいる。
この力をはじめに手にした日だって、そのような依頼はいくつかあったのを今でも覚えている。初めこそ怖いとか、どうしようとか、なんとかできないかあれこれ考えてみたりもしたが、今は悪霊化するタイミングを探り即浄出来るくらいになっていた。
「ざまあみろ、このアバズレ! アンタなんか遊びだったのよ!」
「うるっさい! 長いこと浮気されてたくせに!」
そんな暁人が、久しぶりに驚くほどのものだった。それだけの感情が、強さを伴って周囲を穢している。チャリ、と石の擦れ合う音がして目で追うと、KKが後ろ手に印を組んでいた。感傷に浸っている暇はない。無関係の人が巻き込まれる前に対処しなければならないことを思い出す。
「も、もうやめようよ…」
「「お前は黙ってろ!」」
明らかに怯えきった男の声が制止を試みるも女二人の剣幕は凄まじく、何度目かの強制退場になった。依頼を寄こしたのはこの男で、メールが来た際凛子はその秀麗な顔を歪ませ、絵梨佳に至ってははっきりと『キモ』と吐き捨てていた。居合わせていた暁人も確認したが、『毎日その日の気分で彼女を変えていることが相手にバレて、考えも理解してもらえず口論に発展しています』などと言われても当たり前だろうとしか思えなかった。
「大体これが浮気じゃないとか言い張ってるお前もお前だよ」
「なにが『それは昨日の彼女で今日の彼女はキミ』だ! こっちは昨日も今日も付き合ってんだよ!」
「ほんとそれ! こっちはいつでも彼女だったっつーの」
「だから、その付き合ってる日数が一日かそうでないかってだけで……」
「意味わかんねーよ!」
「私たちが納得するわけないだろ、みんな傷ついてんだよ」
「アンタ……」
あれ。暁人は瞳を瞬かせた。
「この子は毎日お前に喜んでもらえるように手料理練習してたんだよ、お前が女とっかえひっかえしてる間も、ずっと」
「ぇ……」
「ア、アンタだって、あいつのためにかわいい服いっぱい買ってたんだろ?本当はそんなカッコ苦手なクセにさ」
「…うん……」
よくわからないが、彼女たちは仲良くなってないか? 心なしかよくない気配が薄まったような気もする。女たちは足並み揃えて、蹲る依頼主の前に仁王立ちになった。正直男側の心境を考えたくない。自分ではないし、ああなる予定は絶対に、ない。
「今更謝れとか、ツマンナイこと言わないからさ、あたしたちの気持ちは分かれよ」
「それでもう、二度とこんなことしないで 他の人も傷つけないで」
それきり、この空間はしんと静まり返った。ちなみにここは依頼人の1DKで、カーテンが引かれたままの薄暗い部屋に漏れ届く陽の光と、辛うじて付いている廊下の灯りが光源だった。暁人はなおも動かない男を注視して、そこで異変を感じた。
「……でだよ…」
「何?」
「んで…」
ぶつぶつと何事か聞こえたと同時、突如として膨れ上がる憎悪が男にまとわりつき始める。
「何でだよ!
一人も十人も、俺の気持ちに偽りも偏りもないのになんで!許サれない、認メラれなイ!」
「キャっ!」
「来るぞ」
急速に形を成しあっさりと生まれた異形は、その感情のまま周囲を壊そうと攻撃を繰り出した。恐らく、女たちの間で発生していた気の流れが予想外な原因で行き場を失い、男の方へ流れたのだろう。腐食した文字を寸でのところでエーテルで弾き飛ばし、女たちの前へ躍り出る。
「ここは危ないから、離れて!」
「暁人右だ!」
反射的に避けた場所へ、KKの放った風の弾がぴたりと撃ち込まれた。こんな時でさえ、連携は完璧なのだから困る。
「あアァあ俺はまチがってるノカそんナハズないみンな同じよゥに」
「なんなんだよ札が貼れない、KK!」
まだ不安定なのか、こちらをマレビトの多い別次元に引き込むことはしていない。だが周囲を取り巻く瘴気が凄まじく、浄化するための札が貼れないことは明らかにネックだった。吹き荒れる暴風を土の壁で防ぎながら、何とか近くのまま飛ばされないように踏ん張っているので精一杯だ。
「みんナミんナ…おンナだケじゃなイ、おトこも……アァそうダ、おマエ、」
「!」
悪霊の意識が突如向けられ暁人は困惑するが、直後防護壁の中心から何でもないように伸びた手に今度こそ驚愕した。
「(おかしい! ちゃんと霊力は強くなってるはずなのに!)」
「オまぇモキれいだな、オレのカのジョにならナイか?」
「やだちょっと、あのクソ野郎!」
「うわっ!」
そのまま暁人の首を掴んで宙に上げる。足が床から離され、自重と頸動脈にかかる圧力で、このままでは最悪なことになるのは誰の目にも明らかだった。
「暁人! 意識を保て!気絶するな!」
「…かっで、る……」
「さァサァ! 俺ハおまエをきズつけなィ、」
いつものように、もう一つ武器を持っておけば良かった。そうすれば矢じりで相手を撹乱して、なにか打開出来たかもしれない。だがそれを彼は許してくれなかった。取りに行く間に彼は暁人を置いていきそうだったので、視界に入れておく必要があったのだ。
「ぉこと、わり……だ」
「そゥか…」
苦しさのなか絞り出した声はかき消えそうなほど小さい。それでも気持ちの強さで負けるつもりはなかった。睨みつけた先、ひどく残念そうに肩をすくめる男の成れの果てが、文字通り大口を開けた。
「なラ、おまエをたベテひとつニなあぁァるゥゥ!」
「ッ!」
「キャーっ!」
バリバリと頭の先から開いてゆき、鋭利な歯が不揃いに生えた口の中が見えた。身動きを取ろうにも、得体の知れないものに肘のあたりまで覆われてどうにもならない。
飲み込まれる寸前、瞳を閉じた視界に浮かぶのは、他の誰でもない彼のことだった。
――KKとケンカしたままだったな、なんて。
「なぜ許されないか、だっけか?」
真っ暗に塗りつぶされた中、一条の光が差し込む映像を見る。
「そりゃ俺たちが一人だからな」
ぴんと弦をはった弓を弾くように、暁人を導くまっすぐな声だった。
背後から暖かな気配が暁人を包み込むように流れてくる。見えなくても暁人には判った、ずっと待っていたのだ、彼は。
「世の中には多重婚論者もいるが、それが成り立ってんのは互いが理解した上で受け入れ、分かち合ってるからだ
本来いくつも、何人もなんざ、人ひとりが背負うには重すぎるんだよ」
力を喰らうため無防備になる、その瞬間を。溜めたエーテルが逆巻いて、床を震わせている。
「生憎コイツを背負うヤツはとっくに先約がいるもんでな、悪いが退散してもらうぜ」
場所の狭さゆえに地道に作り上げた風の力を解き放つ。突然の攻撃に耐えきれず、開いてしまった獲物との隙間にKKが割り込んでいき、すかさず火の槍が打ちこまれる。
「暁人札ァ!」
「うん!」
投げつけた露核札の効力が切れる前に浄化札を重ね、印を結んでいく。断末魔を上げ元の形に収束していく男を眺めながらも、暁人の胸中はもやもやと晴れないままだった。
「ありがとうございました」
声を掛けられて振り返ると、彼女だった片割れが丁寧に頭を下げていた。その少し後ろでもうひとりが小さく会釈している。二人の距離が近いような気がしてふと下を向くと、手を繋いでいた。暁人の視線に気づいたようで、二人はしっかりと握り直し眼前まで持ち上げた。
「なんかアタシたち、気が合いそうだなって」
「これからお茶しようって話になりました」
そう言うと、二人は顔を見合わせてフッと笑う。少ない時間だったが、それでも最も可憐で美しい表情をしていると暁人には解った。
「そうですか、えっと……良かった、でいいのかな」
「もちろん」
「出会いこそサイアクだったけど、そんなの一瞬だし」
「大切なのは、そのあと、その先どうあるか、ですよ」
アイラインで縁取られた大きな双眸に見詰められ、息が止まる。
目を丸くして何も言えずにいる暁人の頭に、見知った手のひらがぽんと置かれた。
「……マ、そうだな
いいんじゃねえのか、精々上手くやんな」
くしゃくしゃとかき混ぜたかと思えば、そのまま颯爽と歩いていく。咄嗟に声をかけることも出来ず、立ちつくす暁人を尻目に『オッサーン! アンタも中々カッコよかったぞー!』と叫んでいるのが聞こえた。
「ではこれで」
「あ、はい」
そのまま去るかと思いきや、不意に暁人の方へ振り返る。
「良い方だと思いますよ」
「……はい?」
意図が見えず聞き返すと、女はやわらかく微笑みながらKKの去った方を見た。
「色んなことを考えた上で、本当に必要なことだけを示す人なんでしょうね――あなたと『分かち合う』ために」
◆◆◆◆◆
「なんだよ、そのままアイツらに混じってどっか行くのかと思ってたぜ」
ようやっと追いついて息を切らす暁人に、この辛辣さである。相棒で恋人であっても、KKはどこまでもKKでしかなかった。厳しくしすぎて――不器用さゆえに孤独を選ばざるを得なかった、優しい人。
きっと、仮に暁人が彼女らとどこかへ行ってしまったって、彼は何も言わないのだろう。黙って手を放して、むしろ背中さえ押すような勢いで。
けれど。
「僕は、誰かが傷つくのはもう、たくさんだよ」
いつだって、雨けぶる渋谷を思い出す。そこであったこと、たくさんの後悔、それらを本当の意味で知っているから。ふたりで分かち合ってきたから。
「先に言っておくけど、そこにアンタも入ってる」
「言うねえ…でも悪いが、オレはそんなヤワじゃねえよ」
「嘘つき」
なおも先を行こうとする恋人の袖を引っ張って向きあう。
「そうやって自分一人が我慢すればいいみたいなこと言って自滅する癖、やめろよ」
「はあ? オレはオマエがどうしようが別に、」
「そうやってなんでもかんでも放っておかれる僕の気持ち、考えたことある!?」
たじろぐ一瞬の隙を見逃さなかった。胸ぐらを掴んだのは勢いでしかなかったが、この際だから言えることは言っておこうと思いなおす。
「アンタがたくさん考えてる事くらい、僕にだってわかる
でも、そんなの、いらない 必要ない」
「暁人、」
「これからのことは僕も考える、一緒に
絶対、一人にさせてやらないから……ざまあみろ」
滲んでぐちゃぐちゃの視界でも、案外唇の位置は分かるものだと逃避気味に感心した。ぶつけるみたいなキスは少しだけ痛みを連れて、それが現実だと暁人に教えてくれる。
「僕は結構、しつこいんだ 諦めない…」
「……」
「アンタが心底嫌になっても、僕は、」
「それが、重荷にはならないのか」
これがKKにとっての核心だと暁人にはわかった。彼はマレビトではないけれど、埋め込まれた美しい心臓のようなコアが光彩を放っている。その見えづらい誠実さを、暁人は大事にしたかった。大事にして、一番近いところで抱き締めていたかった。
「そんなのこの先の僕が決める! あんたが勝手に決めつけるな!」
だから伝われ、伝われ、と。
もう、一つの身体ではないから、祈ることしか出来ないけれど。
「『そのあと、その先どうあるか』ね……」
静かに項垂れていたKKが暁人の方を向く。目が合い、何処かわからない奥の方で、カチリと何かが嵌まったような音がした。
「オレが覚悟決めてねえと思ったなら大間違いだぞ」
「KK、」
「この依頼に連れて行かせたくなかった理由、オマエ分かってねえだろ」
簡単なことだった。メールまで確認していたこの依頼が、ふたを開けてみれば彼一人で担うことに決まっていたからだ。先んじてメールを見ていた暁人はあの文章がずっと引っかかっていて、凛子に依頼をどうする予定か確認していなければ本当に与り知らないところで終わっていた可能性だってあった。今朝そっと家を出ようとしたところを押さえてひと悶着あった、というのが顛末である。
「僕が邪魔だったからじゃないの?」
「違う、そうじゃねえよ…」
「じゃあ何? はっきり言ってよ、分からないだろ」
途端に口ごもる相棒に業を煮やして詰め寄る。しばらく睨み合いが続いたが、根負けしたのはKKが先だった。
「だから、やっぱりそっちの方がいいってなるだろうなって思っちまったんだよ」
「そっちの方がいいって何!」
「普通に彼女作って幸せになることだよ!」
言ってからすぐ、KKは視線を逃がした。ほら、そういうところだ。
「…で、今何か言うことある?」
「……悪かったよ」
「違うだろ」
逸らした視線に映り込み、KKが逃げ、それを追いかける。しばらくして、KKが長い長いため息をついた。
「…心配した、」
「うん」
「嫌だった、危なかった」
「うん」
「大体なあ、オマエ今回はいい加減にしろよ…あんなヤツに何ガード突破されてんだよ」
「ごめん」
両肩に置かれた手が腕を取り、やがて背に回される。全身にKKの重みを感じる。
「行くなよ、どこにも――天国も地獄も、オマエにはまだ早すぎる」
「行かないよ、ずっと一緒だよ」
抱き合いながら思う、馬鹿だなあって。
暁人が思うよりずっと、たくさんのことを見据えては惧れ、知っている。そして、彼はそれを覚悟を決めている、愛しているからと嘯くのだ。そんなもの、ただ臆病なだけなのに。
だからそんな杞憂は、生まれたところから噛まれてもらおう。恐れが悲劇を起こし、怪物を生み争うのなら、二人で祓うのだ。
詰まるところ、暁人の愛はそうやって証明されていく。
彼の愛と時にたたかい、傷つけあいながら、その先どうあるか。
それでも彼と笑いあえるなら、それいいやなんて。ひとつきりなのだけど。