記憶喪失になる司例えばそれは、無視をされた時だったり。
例えばそれは、いきなり飛びつかれて転んだ時だったり。
例えばそれは、無茶な演出に付き合って怪我を負った時だったり。
ふとした瞬間にじわりじわりと信用は失われていって、気がつくと恐怖が心に居座っていた。
***
「それじゃあ司くん、今から火をつけるよ。5秒経ったら消すけど、危ないから絶対に息は吸わないでね。もし何かあったら、すぐに地面に転がって消火を始めてほしい。分かったかい?」
「あぁ、任せろ!未来のスターにできないことなど無い!」
「ふふ、頼もしいね。それじゃあいくよ」
司が頷くのを確認して、類は司に火をつけた。
類が提案した演出の一つとして、司が火だるまになってステージに登場するというものがあった。もちろん司は最初反対していたが、えむの「もし司くんが燃えたら、メラメラ〜ってなって、ステージがと〜ってもドキドキになるね!」という期待の眼差しと、寧々の「何?未来のスターが怖気づいてるの?」という煽りを受けて、一度試すだけだからなと承諾してしまった。
いざ始めようとすると、類が消火器をいくつも用意したり、何度も流れを確認したり、絶対に息を吸うなと強く釘を刺されたりした。珍しく類が緊張した顔をしていて、大変なことになったなと司は改めて実感した。
火が体を包む。耐火性のある服を着せられているのでほんのり暖かいだけで特に熱いとは感じないが、やはりいつ怪我に繋がってもおかしくはないという緊張感がある。
目は瞑っていて、息も止めている。たった5秒なのに、この時間が果てしなく続くように感じられた。
目を瞑っていたのが悪かったのか、今までの積み重ねが顔を出すタイミングを間違えたのか、はたまたその両方だったのか、ふと瞼の裏に奈落に落ちる瞬間が過ぎった。一つ思い出すとそれが連鎖していくつも記憶が引きずり出される。走馬灯のように頭の中を思い出したくない思い出が駆け巡り、一瞬にして思考が恐怖に支配される。類が近くにいるのだから大丈夫、類が提案したことなのだから安全だと必死に言い聞かせても、自分を奈落に引きずり込んだゾンビロボは類が作った物じゃないかと記憶に反論される。
あぁ、そういえばそうだった。納得した途端、限界を迎えた恐怖心はまともな思考回路を破壊し、ひゅ、と喉が音を立てていた。
熱い空気が喉を焼き、あまりの痛みにパニックを起こし、本能にまかせて大きく息を吸ってしまう。炎によって熱された空気が肺に流れ込み、体内を容赦なく焼いていく。目からは生理的な涙がボロボロと流れ、咳をする度に体の内側が痛みを増していく。怖い、怖い、怖い。
立っていられず司がその場にしゃがみこんだ瞬間、三人が消火器を使い火を消す。どうやら漸く5秒経ったらしい。メラメラと燃えていた火はあっという間に勢いを弱め、数秒後には完全に消えていた。
司は背を丸めたままゆっくりと横に倒れ、シャツの胸の部分を両手でギュッと握りしめながら、咳を繰り返している。咳と咳の間に短い呼吸が挟まるが、ヒュウだかゼェだか喘鳴のような音が混じる。加えて苦しげに眉間にシワを寄せている。
「司くん、大丈夫かい?……気管支に粉が入ったかな」
「類くん、司くんのお背中擦ったほうがいい……?」
「うーん、何か入ったのなら擦るよりも叩く方が良いかもしれない。肩甲骨の間だよ」
「分かった!司くん、いくよ!」
えむの手が司の背中を叩いた瞬間司の体に激痛が走り、予期せぬ痛みに司はびくんとさらに背を丸め、額に脂汗を浮かべながら嘔吐した。寧々が息を呑み、えむが悲鳴を上げる。胃液が喉を焼き、痛みに拍車をかけた。この痛みからとにかく逃れたい。
司はヒュッと音を鳴らしながら息を吸った。手足が細かく震え始め、呼吸がだんだんと浅くなる。酸欠でぼんやりする頭は何も考えてくれなくて、司は遠のく意識の中、類が必死に自分の名前を呼ぶのを聞いていた。
***
司が目を開けるとまず白い天井が見えて、口にチューブを挿れられているのが分かった。
じくじくと喉が痛む。枕元にスマホが置いてあるのに気づいたので、司は点滴の針が刺さっている腕を持ち上げてスマホを取り、電源を入れた。明るく光る画面には月曜日の文字と11:42の二つが映し出される。
学校を休んでしまった。家族にはきっと、たくさん心配を掛けただろう。病院にいる理由を思い出そうとしたが、ワンダーステージでショーの練習をしていたことしか思い出せない。また怪我をしてしまったのだろうか。それにしては処置が大袈裟だ。類たちにも心配させてしまったかもしれない。
……本当に?どうしてオレは当たり前のように、類たちに心配してもらえると思ったんだ?だって、普段からオレを雑に扱うのだから、病院にいたところで気にもされないんじゃないか?
そう考えると不思議と納得できて、むしろ会うのが嫌になってしまった。司は、今の姿を見られてなんと言われるのか想像するだけで恐ろしかった。バイトだから、辞めるかクビにならない限りはあのメンツでショーをする日々が続くだろう。それ自体は何の問題もない。メンバーから軽蔑されるのが怖かった。大した怪我でもない癖に学校を休むわ、大袈裟な処置で心配を煽るわ。下手したら類たちからの信頼も失いかねない。
司はまず点滴の針を躊躇なく腕から引き抜いた。針が刺さっていたところから血が溢れ出すが、特に気に留めない。大体、病院にいる理由すら分かっていないのにこの重装備は、明らかにやりすぎだ。のそのそと起き上がり、司は口に入っているチューブに手を掛けた。喉がヒリヒリと痛む。こんなものがあるから、余計に病人のように見えるんだ。
ぐっと手に力を込めた瞬間、ガラッと病室の扉が開いた。入ってきた人物と目が合い時が止まること数秒。ぽかんとこちらを見つめていた人物はさっと顔を青ざめさせて駆け寄ってきた。
「司くん、何をしているんだい!?」
無視しろと脳が司令を出す。そのままチューブを引き抜こうとした司の手を、病室に入ってきた男が思い切り掴んだ。振り払おうにも、力が強くてできない。
「司くん、っ、動かないで!」
両手を万歳のような形で拘束されたまま、司は呻き声をあげていた。知らない相手に体を触られるなんて怖くて仕方ない。手首を掴んでいた相手は司の腕を流れ落ちる血液に気がついたのか、くそっ……と悔しそうに呟くと、司の腕を掴んだままナースコールを押した。
しばらくして看護師が駆けつけ、点滴の処理や止血をしながら司を軽く叱って出ていった。男と二人きりになってしまった。怖い。何となく見覚えがある気がするから、知り合いか、はたまた芸能人かなにかだろうか。とにかく相手の素性が分からない今は、無視するに限る。そのうち興味をなくして出て行く筈だ。
「ねぇ、司くん」
驚いた。名前を呼ばれた。しかも下の名前を。さらに驚いたことに、普通なら怖がるべきこの瞬間、司は少しの安心感を覚えていた。理由は分からない。それでも、男の声は初めて聞くとは思えないほどすっと心に染み込んで、何となく心地良かった。
「ごめんね。君が苦しんでることに気付けなかった。あの時、もっと早く助けていたら」
男が語り始める。あの時?そんなものは知らない。なぜ入院しているのか、こいつが原因を知っているのだろうか。もしかして、轢き逃げか?でもそれならもっと腕やらなんやらに分かりやすく処置がしてある筈だ。
びっくりするほど、何も分からない。
「司くん、起きているんだろう?少し話したいんだけど」
男の声がだんだんと苛立ちを孕み始める。無視を決め込む司に痺れを切らし始めたようだ。司はゆっくりと寝返りを打ち、男の方を見た。紫色の髪に、水色のメッシュ。司が通っている高校のものと同じ制服を着ていた。金色の瞳が印象的だった。
司と目が合うと、男は嬉しそうに微笑み、いそいそと鞄から紙とペンを取り出し司に手渡した。
「これなら君も話せるだろう?」
どうやら筆談しろと言いたいらしい。素直に借りてもいいのか分からずちらちらと男の顔を見ていると、使っていいよ、と優しく諭された。それならまずは疑問を一つ。司が書く文字を一文字一文字目で追っていた男は、一瞬で顔を真っ青にした。
「つかさく、それ、嘘だよね……?」
首を傾げる。なぜ疑うのだろうか。だってお互い初対面じゃないか。
『お前の名前を教えてもらえないか?』
手から砂がサラサラと溢れていく感覚に似ていた。さっきまで見ていた夢をうまく説明できないような、一秒前までははっきり覚えていたことが次の瞬間にはもう分からなくなる。司は何も覚えていなかった。練習中の苦しかった思い出が最初に消えて、芋づる式にその場にいた類の思い出も全て消えていった。練習した成果を発表するショーのことも何もかも忘れ、もちろんえむや寧々の記憶も閉め出してしまった。ワンダーランズ×ショウタイムの思い出は全て、頭の中の引き出しの奥の奥へ仕舞われて、厳重に鍵が掛けられた。自力で引き出しをこじ開けるのは、司にはもう不可能だった。
『大丈夫か?』と書く司の手を、男はそっと握った。司よりも大きい、指の長い手だった。嫌いじゃない。
「僕は、神代類っていうんだ。君のとなりのクラスだよ。……よろしくね、司くん」
今にも泣きそうな顔で無理やり笑う類がなんだか可哀想になって、司は項垂れる類の頭をそっと撫でた。類の肩が小刻みに震えて、病室の床にポタポタと水滴が落ちるのを、司は静かに見つめていた。
***
病室に司と二人きりになってしまい、類はやや気まずくなる。どうしてあんなことを。聞きたくても、類に背を向けたまま一向にこちらを向かない司に話しかけるのは抵抗がある。寝てしまったのかもと思いそっと顔を覗き込んだが、目はぱっちりと開いていて、わざと類の方を向いていないことが分かり普通に傷付いただけだった。
「ねぇ、司くん」
返事は無い。怒っているのだろうか。確かに実験中の司の異常な行動に気付かなかったのも悪かったが、司は怒っていることを無視で表現するタイプじゃない。