可哀想な司の話 4大きなトランクをガラガラと引き摺りながら、類は空港の中を歩いていた。仕事で何度か来たことがあるとはいえ、やはりその広さに圧倒される。ふわりと大きな欠伸を一つして、類はあらかじめ呼んでおいたタクシーに乗るために、空港の出口へ向かった。
司の命が懸かっていると言ったら大袈裟かもしれないが、現に彰人から自殺未遂の報告があったので、用心するに越したことはない。少しでも早く帰宅するために、多少お金は掛かるが空港発のバスよりもタクシーを選んだ。司が無事でいてくれればいい。生きていてくれればいい。その一心で歩を進める。既に到着していたタクシーに乗り込み住所を告げて、目的地である自宅へ向かってもらう。普段タクシーを使う時は、仕事の関係上住所がバレるのが嫌なので自宅近くのコンビニや適当なスーパーマーケットなどで降ろしてもらっているが、今回ばかりはそうもいかない。高速道路も必要なら使ってくださいと伝えて、窓の外を流れていく景色をぼんやりと眺めていた。
どれくらい時間が経ったのだろうか。着きましたよ、という優しい声でゆるゆると意識が浮上する。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。慌てて飛び起きお金を払って、感謝の言葉を述べながら荷物を下ろす。数ヶ月ぶりに見た家は、どこか寂しげでなんとなく怖かった。この中に、司がいる。ドクンドクンと煩いほどに心臓が脈打つ。
緊張で強張る体を無理やり動かし、鞄から取り出した家の鍵を鍵穴に差し込む。深呼吸をして、鍵を回した。何も、起こらない。鍵が開く音も感触も、何も無い。類は半ば混乱しながら鍵を引き抜き、ドアノブに手を掛けた。嫌な予感が胸を支配していく。あの司が、玄関の鍵を閉め忘れるなんてこと、あるのだろうか。不用心すぎるにも程がある。それとも、誰か友人を招く約束をしていてすぐに家にあがれるように鍵を開けておいたが、たまたま類がその人よりも早く到着してしまったのだろうか。ドアノブを握る手が、微かに震える。大丈夫。落ち着け。取り乱すな。
ガチャン、と音を立てて開いた玄関の扉。瞬間、部屋の中から溢れ出す冷気。下手したら外よりも寒い。そして、玄関で体を覆うように丸くなり瞳を閉じている司がいた。
「司くんッ!」
決して広くはない玄関に、類の叫び声が響き渡る。急いで玄関のドアを閉めて、ぐったりと横たわる司の体をそっと抱き上げた。予想以上に冷え切っている。顔は青ざめ、目の下の隈がくっきりと残っている。
「司くん。司くん!起きて……お願いだから……」
氷のように冷たい手を握りしめ、必死に声を掛ける。先に救急車を呼ぶべきだろうか。そうだ、それがいい。医療知識のほとんどない自分じゃ、今の司を助けるには力不足だ。類はポケットからスマホを取り出し、119番通報をしようとホーム画面を開いた時だった。
「…………ん、」
腕の中の司が、微かに声を発した。類は慌ててスマホを床に置き、両腕で司を抱きしめた。
「司くん!聞こえるかい?大丈夫、もう大丈夫だからね!」
できる限りの大きな声で、司に呼びかける。聞こえているのかいないのか分からないが、司は数秒辺りを見回した後、もぞもぞと類の腕から抜け出した。四つん這いの姿勢のまま司が手に取ったものは、類が適当に放り投げた家の鍵だった。
「司くん……?一体何を、」
しようとしているんだい、という言葉は口から出る前に掻き消えてしまった。
司が、鍵の先端を口に含んだのだ。ぎゅっと目を閉じて、何か恐ろしいものを受け入れるように必死に鍵を舐めている。類は慌てて司から鍵を奪い取った。
「司くんッ!何をしているんだい!」
「っ、ぁ、あ、ごめ、なさい、」
「司く、」
「オレ、火消すの下手れ、ごめんなさい、」
「え……?」
ぼろぼろと涙を零しながらごめんなさいごめんなさいと必死に謝る司を前に、思考が追いつかなくなる。鍵を奪い返そうと手を伸ばしてくる司をやんわりと押さえ込みつつ、今の言葉の意味を考える。鍵を口に含み、舐め、火を消すのが下手だと謝る。ふと、彰人からの電話で聞いた内容を思い出した。確か『舌を怪我しているかもしれない』というような事を話していた気がする。まさか。
「司くん、聞こえるかい?口を開けて、舌を見せてくれるかな?」
できる限りの穏やかな声を意識して司に語りかける。司はえぐえぐと泣きながら、べ、と大きく舌を突き出した。舌を見た瞬間、ぞわりと背筋が粟立つのが分かった。真っ赤に腫れた舌はボロボロに皮が剥け、いくつか水脹れもできている。こんな状態で、よく喋れたものだ。
「司くん。すぐ病院に行くよ」
「……ぇ、あれ、?」
「ん?どうしたんだい?」
さっきまで泣いていた司が、突然パチクリと瞬きをした。キョロキョロと辺りを見回し、類の目をじっと見つめること数秒。類は唖然とした。あれだけ弱った姿を見せていた司が、突如としてにっこりと笑った。そして、
「おぉ、類!もう帰ってきらのか!随分早かっらな!」
などと話し始めたのだ。驚きを通り越して、最早どう反応すれば良いのか分からない。司の声も口調も、電話でやりとりしていた頃と全く変わらないのだ。ただ一つ、舌を庇うような話し方を除いては。
「えっと、司くん……?」
「悪いが、今日はこのあろ稽古があるんら!類は家れゆっくり過ごすろいい!」
ふらふらと立ち上がった司の膝が、ガクンと折れる。慌てて司の体を抱き止めるが、かなり痩せてしまった彼の体はブルブルと震えていた。
思えば、何かがおかしい。外よりも寒い家の中。オフにも関わらず稽古があるからと出かけようとする司。そして司が履いている靴は、何故か夏用の類のサンダルだった。
絶対に、何かがある。
「司くん、今日の君の予定は、何もないはずだよ。スケジュールアプリにも、今日はなんの予定も書いていなかったし、舞台本番まであと一ヶ月もあるのに、ここまで連日稽古があるとは信じ難い。舞台監督さんが休みを設けてくれているはずだ」
「………………そういえば、そうらな。オレとしらことが、うっかりしれいら!」
一瞬の恐怖に満ちた顔を、類は見逃さなかった。何をそんなに恐れているのだろうか。隠していることが自分にバレることだろうか。それとも、どこかで暴行を受けたことを知られることだろうか。
「せっかくの休みで僕も早く帰国したんだしさ、少し話さないかい?」
「む?もちろん良いぞ!」
「良かった。それじゃあまずは病院に行こうか」
「ぁ、いや、それは」
「大丈夫。舌が痛むんだろう?見たところ何の処置もしていないようだし、何より腕に火傷を負っていると聞いたんだけれど」
みるみるうちに、司の顔から血の気が引いていく。そっと背中側に隠された右腕を、類は見逃さなかった。
「ね、司くん。何もなければそれで良いんだよ。でももし君に何かあったら、僕が悲しいんだ……分かってくれるかい?」
相手の情に訴えかけるような悲痛な声色。向こうで見た悲劇にあったシーンを、ほとんどそのまま再現したのだ。司はしばらく迷ったように視線を彷徨わせていたが、こくんと小さく頷いた。
「…………分かっら」
「うん、ありがとう。それじゃあとりあえず、司くんはコートでも着ようか。今日は一段と冷え込んでいるし、その薄着で外に出たら風邪をひいてしまうからね」
どこでどう判断を間違えたのか、薄手のパーカーに半ズボンといった司の服装は、明らかに気温の感覚が狂っていた。挙げ句夏用のサンダルなんて、おかしいとしか言いようがない。怪我の件もあるし、ひとまず病院に連れて行くことは確定だ。
「立てるかい?」
そっと手を差し出したが、司は壁に手をつき一人でよろよろと立ち上がった。頼られなかったことが、純粋に悔しい。
「そのズボンも履き替えよう。きっと寒くて凍えてしまうからね」
司を先導するように、類は数ヶ月ぶりに我が家の廊下を歩く。ゆっくりとだが司が着いてきていることに安堵しながら、司の部屋の扉を開けた。ツンとした臭いが、鼻を掠める。司にしてはらしくもなく、脱いだ洋服がぐちゃぐちゃに丸めて置かれていた。その中には、以前から司が気に入って着ていたコートもあった。あれだけ大切にしていたのに、床に投げ捨ててあるなんて。やっぱり何かあったんだ。類はそっと息を吸って、静かに司に聞いた。
「……ハンガーにかけるのを、忘れてしまったのかい?」
できるだけ、言葉を選んだつもりだった。雰囲気も、柔らかくしたつもりだった。類の“つもり”は、司には一ミリも通用しなかった。
「ぁ、……は、ひゅ、ごめ、……なさ、」
「えっと、司くん?大丈夫かい?」
「ちが、ひゅっ、よごれて、せんらく、……ひっ、れきなくれ、」
その場にしゃがみ込み、両腕で体を覆いながら不規則な呼吸とともに謝罪の言葉を述べる司。類は慌てて司の背中をさすりながら、なんとか落ち着かせようと必死に声を掛け続けた。
「大丈夫、僕は怒っていないよ。汚してしまったんだね。大丈夫。大丈夫だからね。司くんは、何も悪くないからね」
ぜ、ぜ、と喘鳴が聞こえ始めた辺りで、類は救急車を呼んでいた。妙にクリアな思考が、司の状態や住所などを滞りなく伝えるための指示を出し、それに従ってスマホの向こうにいる人間に説明をしていく。通報が終わる頃には、司はぐったりと横になり虚な目でごめんなさいとか細く呟いていた。
類は汗の滲んだ司の額をそっと撫でた。熱い。まさか発熱もしているのか。追い討ちをかけるような体調不良の露呈に、そういえばとあることを思い出す。部屋が寒すぎるのだ。家に帰ってきて、室内に入ったにも関わらず、類は厚手のコートを脱げないままでいた。慌ててエアコンのリモコンを探す。何故か食器棚の中に入っていたそれは、除湿 15℃と表示されていた。目眩がするようだった。
体調管理に人一倍気を使う司が、冬場にクーラーをつける訳がない。一体何が起こっているんだ。自分の知らないところで、司は何に苦しんでいるんだ。
無力な自分に腹が立つ。何もしてあげられない自分に、心底嫌気が差す。類はエアコンを暖房に変えると、司がいる部屋まで戻り、必死に司を温め続けた。毛布でくるんで、その上から抱きしめる。ぶつぶつと謝罪の言葉を紡ぐ司を、類は涙を堪えながら精一杯抱きしめ続けた。
***
司が入院して三週間。相変わらず面会謝絶の状態が続いていて、顔を見ることすら許されない。結局類は、今だに司に起こった出来事を知らないままでいた。本人の口から聞ける訳でもないし、誰かから情報を仕入れるのも困難だった。
司が出演予定だった舞台は、出演者の体調不良により公演延期となった。チケットの払い戻し案内もあったが、インターネットの書き込み等を見てみると、ほとんどの人は絶対に舞台を観たいから、と払い戻しをしなかったと思われる書き込みをしていた。
それだけ今回の舞台が注目を浴びていた分、噂が立つのも早かった。「天馬司が体調不良で出られないから延期になったんじゃないか」という匿名の書き込みが、ある日突然現れたのだ。そこからの展開はあっという間で、司を批難するスレッドがいくつも立てられ、口に出すのも憚られるような暴言が次々と書き込まれていった。若手が舞台を潰した、と一部のネット界隈では大盛り上がりになり、類でさえもだんだんとスレッドを追うのをやめてしまった。何か情報を得られるんじゃないかと少し期待していたが、やはり司を叩くことを目的に集まった人たちから得られることなんて、何一つとして無かった。
司を心配する傍、類は仕事にも少しずつ復帰し、演出をつけたり役者として端役での出演機会をもらえたりと、今まで通りの生活に戻りつつあった。一本の短い動画に出会ったのは、とあるミュージカルの稽古現場だった。急遽役者が足りなくなってしまったからと、馴染みの舞台監督に誘われて参加した現場で、何度か演出をつけたことのある役者に突然声を掛けられたのだ。
「……神代さん、少しいいですか……?」
「はい。どうしました?」
「あの、これなんですけど、天馬さんに似てませんか……?」
恐る恐る差し出されたスマホを覗き込む。ちらりと類の視線を確認した後、彼は動画の再生マークをタップした。
『このままだと約束の時間に間に合わないじゃないか!』
『す、すみません!』
司くんだ。声も、体の使い方も、全てが彼と一致していた。本能が、司だと物語っていた。稽古中の映像だろうか。ぺこぺこと謝っている役者が司で間違いないだろう。スマホを持ってくれている彼の顔を見ると、目を伏せたまま険しい表情で小さく頷いた。どうやら動画はまだ続くようだ。
『全く……せめて代金くらいは、返してくれるんだろうね?』
『は、はい、!…………ぇ、と、……ぁ、お金、!……を……』
シンとした静寂が数秒続いた後、微かに司が何か喋った。声が小さくて聞き取れなかったが、大方台詞を飛ばしてしまったことへの謝罪だろう。このくらいなら誰だってするミスだし、周りもフォローできる。一体これがどうしたんだ。しかし次の瞬間、類の疑問は全て吹き飛んでしまった。そして、彼が動画を見せてきた理由も、分かってしまった。
『おい天馬ァ!お前ここ飛ばすの何回目だよ!』
音割れした怒鳴り声が、スマホから流れ出す。同時に司の肩がビクンと跳ねた。司と掛け合いの練習をしていた役者が、司を後ろから羽交締めにする。ごめんなさいごめんなさいと壊れたように謝り続ける司に別の役者がズンズンと近づいていき、司の腹を思い切り殴った。司の体がくの字に曲がり、そのまま床に崩れ落ちる。周りで見ているであろう何十人もの声が、司を囃し立てたり、煽ったり、笑ったりしていた。苦しそうに腹を抱えて床に伏せる司の腕を、また別の役者が踏みつける。ドッと笑う大勢の声。動画はそこで終わっていた。
「……これ、今朝ネットにあがってたんです」
苦しそうに呟く彼に返す言葉が見当たらず、とりあえずありがとうと言おうとしたが、声が掠れて出なかった。唇がわなわなと震える。酷い。許せない。司くんを、弄びやがって。それでどれだけ本人が苦しんでいたかなんて、きっとコイツらは一生かかっても理解できないのだろう。この動画が、司が受けてきた仕打ちのたった一部分だと考えると、はらわたが煮えくりかえりそうになる。
「神代さん、これ、警察に持っていくべきですかね……?」
「…………いや、少し待ってほしい。彼らには、それ相応の報いを受けてもらわないと気が済まない」
ひっ、と横から声が聞こえた気がした。この際手段なんて選んでいられない。なんとしても、天馬司を傷つけた奴ら全員を炙り出して、二度と司に近づけないようにしなくては。烈火の如く燃え上がる復讐心を胸に抱き、類は午後の練習に何事もなかったかのように参加した。
***
あっという間に二ヶ月が過ぎた。司は怪我が完治し退院して、今は役者活動を一時休止して家でゆっくりと生活している。帰ってきた当時は「オレに会えなくて寂しかっただろう!さぁ、このスターの胸に飛び込んでくるといい!」なんて言っていたが、それもすぐに仮面が剥がれ、今では随分と大人しくなってしまった。結局入院中はずっと面会謝絶だったが、それでも久しぶりに見た司の顔色は以前と比べるとかなりマシになっていて、類はほっと安心したのを覚えている。
少しずつ喋る練習をしている司が再び舞台に立ちたいと思っているのかは、正直分からない。あれだけ好きだったショーや舞台関係の話を、一切しなくなってしまったのだ。もちろん類が話を振った時は答えるが、それ以外で二人の会話にその手の話題が出てくることは皆無だった。
ソファーに座り温かいココアをふーふーと冷ましている司の隣に、そっと腰掛ける。少しふっくらしたような頬を指でそっと撫でてやれば、司はくすぐったそうに目を細めた。
「ねぇ、司くん」
「どうした?」
くぴ、とココアに口をつけながら答える司の瞳は、相変わらず疑心暗鬼の色が見え隠れしていて、類は悲しくなった。一度壊れてしまった心を治すのはとても難しい、なんてよく聞くものだが、正にその通りだと痛感させられる。
「答えたくなかったらもちろん答えなくて大丈夫だから、少し質問してもいいかい?」
「む、もちろん構わないぞ」
病院での丁寧な治療とリハビリのおかげで、司はだんだんと以前の滑舌を取り戻していた。本人曰く、たまに失敗してしまうこともあるらしい。類としては、それすらも愛おしい恋人の一部だから全く気にしていない。最も、傷つけた人物たちは置いておいて、の話である。
「……司くんは、あの劇団でいじめに遭っていたんだよね?」
「いじめかどうかは分からないが、確かに嫌なことはされていたぞ」
司は無表情で淡々と答え、またココアを一口飲む。本人が嫌だと感じたら、それはいじめなんだよ、司くん。類は一度目を閉じて、再び質問をするために口を開いた。
「例えば、どんなことをされていたんだい?」
「例えば……」
それ以降、司は黙ってしまった。考える素振りを見せてはいるが、本当は思い出したくないのかもしれない。類も、司の担当医師から体だけでなく精神的にも深い傷を負っていると説明を受けた。そして極め付けのあの動画。間違いなく、司は何かされていたのだ。後はそれを本人の口から説明してもらえれば確実なのだが。
数分黙った後、司は徐に口を開いた。視線は申し訳なさそうにゆらゆらと揺れている。
「そうだな……例えば、えっと、……遅刻をした日に、腕に、…………あー……お湯をかけられたんだ」
かなりオブラートに包んでいる、というか、濁されている。熱湯という言葉が出ない辺りで、類は半ばショックを受けていた。もっと話してほしい。司の身に起こったことは、きっと司一人で抱え込むには大きすぎるのだ。
「それで、腕を火傷したのかい?」
「……なんだ、知っていたのか。まぁこの件は遅刻をしたオレが悪いし、向こうも間違ったことはしていない。罪には罰を与える。物事の基本だろう?」
「その罰は、少々いきすぎていると僕は思うのだけれど」
再び司は黙ってしまった。司を責めるような口調だったことに、類は今さら気が付いた。
「……ごめん」
「何がだ?」
「いや、君につらいことを思い出させてしまったから」
「別に良い。すぐに忘れられるものでもな、」
ガチャン、と音を立てて、司の手から滑り落ちたマグカップが床に落ちて割れた。一瞬、理解が遅れた。たまたまつけていたバラエティ番組の、効果音の笑い声。司はそれに反応したのだ。どうやらコンビの芸人が出ていたようで、片方のボケたコメントに突っ込むように相方が相手の頭を叩いた。再び、五月蠅い笑いが起きる。
「る、るい、」
袖をくいと引かれそちらを見ると、顔を真っ青にした司が涙目でこちらを見上げていた。呼吸は浅く、時折ひゅう、と喘鳴のようなものも混じっている。類は慌ててテレビを消し、司を抱きしめた。震える体に腕を回し、そっと頭を撫でる。
「大丈夫。司くんは笑われていないよ」
「こ、わい」
「テレビは消したから、司くんが落ち着くまでこうしていようか」
類の肩に顔を埋めた司は、ずびずびと鼻を鳴らしながら必死に何かを堪えるように小さく唸っていた。十分ほど経って、司はそっと顔をあげた。まだ恐怖が顔に張り付いている。やはり司が受けた仕打ちは、一朝一夕に忘れられるようなものではないらしい。
「笑い声が、怖いのかい?」
「……少し」
「分かったよ。それじゃあ今後は、こういった番組は控えようか」
「…………すまん」
「気にしないでおくれ。マグカップを片づけるから、司くんは怪我をしないようにソファーの上から動かないでくれるかい?」
「あ、いや、オレが、」
「僕にやらせて。君が怪我をしたら、誰が一番悲しむと思う?」
「……るい」
「そうだよ。……ね、だから大人しく待っていられるかい?」
司は素直にこくんと頷いた。時計の秒針の音が響く静かなリビングの中で、カチャカチャと陶器の破片がぶつかる音だけが耳につく。司は類の手元をじっと見ていた。自分は無力だと感じているのか、はたまた手伝えないことにやるせなさを感じているのかは分からないが、薄暗い眼差しを向けたままぼんやりと座っていた。
「類」
「ん?どうしたんだい?」
「……その、迷惑だったら無視してくれて構わない、んだが……」
類は破片を拾う手を止めた。ゆらゆらと揺れる司の瞳をじっと見て、その続きを促す。司は決心したように口を開いた。
「コーヒー……と言うのを、やめて、くれないか……?」
「えーっと……それは、どういう……」
「……あー、……あまり、良い思い出が、なくてだな……」
伏し目がちに喋る司を見て、類は内心来た!と思った。うまくいけば、司がされたことを聞き出せるかもしれない。焦らず、慎重にと自分に言い聞かせる。
「僕が飲むのは、いいのかい?」
「あ、あぁ!それは、全然構わないぞ!ただ、名称を言わないでほしいんだ……自分勝手ですまん……」
「……もしかして、僕のせいかい……?」
「いや!断じてそれは違う!」
「じゃあ、他に理由があるのかな……?」
司はぐっと喉を詰まらせたような声を出した後、数分間黙ってしまった。これは無理かなぁ、と半ば諦めかけていた時、ぽつりと司が呟いた。
「……コーヒーを淹れるという嘘をつかれて、団員に呼び出されたんだ」
きっと司をいじめていた劇団にいた頃の話だろう。続きを話すか迷う素振りを見せた司だったが、決心したように話し始めた。類はそっと司の手を握った。司も、安心したのかぎゅっと握り返してくれた。
「どうやら、オレが連絡なしに遅刻したのが気に食わなかったようでな、……コーヒーを淹れるから着いてこいと言われて、着いていったんだ」
類の手を握る司の手が、微かに震えている。それでも、司本人が話すと決めたのだから、聞いてやるのが自分のすべきことだと、類は短く息を吐いた。
「……呼び出してきた先輩は、小さい鍋で、……っ、……お、お湯を、沸かしていたんだ。…………それが沸騰するまで、ずっと、遅刻したオレが悪いと、責められて、…………ふぅー…………謝るなら誠意を見せろと、煮えた湯を、腕にかけられた」
「…………酷いね」
「だ、だからあまり、コーヒーという単語は聞きたくなくて、だな…………すまない……」
「司くんが謝る必要はないんだよ。つらかったよね。話してくれてありがとう」
緊張と恐怖からかすっかり冷えてしまった司の手をさすりながら、震える背中をゆっくりと撫でる。あの腕の火傷の経緯を知ることができた。後は、舌の火傷の話さえ聞ければ、手札が揃う。必ず、司をここまで追い込んだ奴らに目に物見せてくれる。類は静かに静かに、復讐の炎を燻らせていった。
***
スタジオの重たい扉を開けた瞬間、こちらを見た何人かの役者が息を呑むのが分かった。司に起こった事の真相を知るためには、やはり現場に行くのが最善手だろう。もともと舞台監督と今回の演出家は類が駆け出し時代に世話になった人たちだったので、天馬司の代役として舞台に参加したいと連絡したところ、二つ返事で了承を得ることができた。
司が持っていた脚本は端がライターか何かで炙られたように焦げ、あちこちがビリビリに破かれていたので持ってくることはできなかった。新しい脚本を舞台監督から受けとり、パラパラとページをめくって大まかな流れを確認していく。司が演じる予定だった役は類が想定していたよりも台詞が少なかったが、それを補うように舞台上にいる時間が多かった。シリアスに進む前半と、途中から打って変わってコミカルにテンポ良く進んでいく後半。司の台詞がある出番のほとんどは前半で、後半への転換部に大きく関係する重要なシーンだった。
これなら、類の作戦はうまくいくだろう。類はそっと微笑むと、まずは情報収集のため、役者たちに手当たり次第声を掛け続けた。最近面白かったこと、最近ハマっていること、話題はなんでもいい。とにかく信頼関係を築けば、こちらのものだ。
売れっ子演出家が飛び入り参戦したことで、役者たちは目の色を変えて類と会話するようになった。うまくいけば、自分にも演出をつけてもらえるかもしれない、なんて下心が丸見えの役者たちに司が潰されたと考えると反吐が出る。それでも類は、そんなドス黒い気持ちを丁寧に押し殺して、日々の会話を楽しんでいる自分を作り上げた。
時々、「この場面、司くんはどう演じていたんだい?」なんて聞けば、彼らは半笑いで「あいつの演技なんて神代さんの足下にも及びませんよ」「台詞も噛みまくりで、みんなで笑ってたんですよ。あ、その時の動画見ます?」なんてすぐにボロを出してくれる。動画をスマホに転送してもらい怪しまれないように証拠を集めながら、類はとある作戦を進めていた。舞台監督と演出家からも、類の作戦は許可が降りた。彼らも役者たちのいじめが目に余っていたらしい。しかし、それを止めるとなると今後の自分の仕事に支障が出そうで躊躇っていたようだった。正直、その気持ちも分からなくもない。が、彼らができなかったことは、自分が実行するだけだ。
稽古も順調に進み、舞台の告知もちらほらと見かけるようになった。司が出演しない事を残念がる声も多少あったが、それ以上に類が代役として参入することに驚く声の方が多かった。世間の反応を見た類はいつも、くしゃりと顔を歪める。違う。司くんは、僕よりも価値のある役者だ。司くんの出演する舞台が観られないなんて、なんて可哀想な人たちなのだろう。そして、司くんを壊した役者たちは、きっと人を見る目のない、「快楽」の感情だけで動いている愚かな人間なのだろう。自ら輝き続けるスター天馬司がそんなに羨ましいなら、自分達もそれ相応の努力をすればいいものを。どろどろと醜い感情が溢れては、自分でそっと蓋をする日々を送っていた。
しかしそれに対して家に帰れば、司も自分から話しかけてくれることが増えてきて、嬉しい限りだ。今度新しい服を買いに行こう、とこちらの顔色を伺うことなく誘ってきてくれた時は、感動で思わず泣いてしまった。もちろん司には心配されたが、それ以上に司が自分から何かをしたいと発信してくれることが嬉しかった。もちろん買い物デートもしたし、オシャレなカフェで一緒にケーキを食べたりなんかもした。司が外出できるようになってきている。まるで示し合わせたように、舞台の公演日も迫っていた。
***
「司くん。この手紙を、受け取ってはくれないかい?」
「む?なんだこれは」
「あぁ、中はまだ見ないでほしいんだ。とある舞台のチケットが入っているんだけれど」
「おぉ!舞台か!久しぶりに類と観にいくのも、悪くないかもしれんな」
淡い紫色の封筒を愛おしそうに見つめる司に、きゅんと胸が高鳴る。でも、今回は一緒には観に行けない。なぜなら、封筒の中に入っているチケットは、司がいじめをうけたあの劇団の、例の舞台のチケットだからなのだ。
「ごめんね、司くん。実はこの公演日、僕は急遽仕事の打ち合わせが入ってしまってね。残念ながら、一緒に観劇することはできないんだ」
「…………そうか」
「嫌なら無理にとは言わないよ。ただ、ずっと家にいるから、少し気分転換にでもどうかなと思っただけさ」
「……それなら、まぁ、行かないこともない、が」
歯切れの悪い回答に、類は少し不安を覚えた。これで断られたら、せっかく考えた演出が水の泡だ。司の気持ちをなんとか晴らしたくて、必死に演出を考えて、舞台監督や演出家にもOKをもらった演出案を、捨てたくない。
そんな類の気持ちが届いたのか、司は困ったように笑いながら、ひらりと封筒をかざした。
「その、なんだ。せっかく類がくれたチケットなんだ。無駄にするのも悪いしな、観に行こうと思う」
「ほ、本当かい!?」
「あぁ。その、……あれ以来、舞台やショーからも距離を置いてしまっていたのも事実だ。そろそろリハビリを始めないと、スターに戻れんからな!」
にぱっと元気よく笑う司がなんだかどこかへ消えてしまいそうで、類は訳もなく悲しくなった。本当は、怖いだろうに。自分を傷つけたショーの世界に復帰しようとする司の背中を押してやりたい。でも、もし再び傷ついてしまったら。その時は、また一緒になんでもない日々を過ごして、少しずつ傷を癒せば良いか。
類は封筒を持つ司の手をそっと握り、「この日に、この時間で、この入り口から入ってきてね」と封筒の隅に丁寧な字で書かれた説明をゆっくりとなぞった。それは紛れもない関係者用の入場時間だったが、司は気付いていないだろう。にっこりと笑い、「楽しみにしているぞ!」なんて言っていたのだから。
***
受付で女性職員に類からもらった封筒を手渡すと、問答無用でとある席に案内された。少し前まで舞台に立っていたのだから、司でもここがどんな席か分かる。所謂、関係者席だった。確かに類と一緒に住んでいると考えれば関係者に含まれるだろうが、司的には普通の席で良かったので、なんだか申し訳ない気持ちになる。この席のチケットを渡したい人が、他にいたかもしれないのに。しかし不思議と司の周りには誰も座っておらず、なんとなく心地よさは感じていた。これなら気楽に楽しめそうだ。
受付の人から手渡されたパンフレットには類からのメモのようなものが挟まっていて、『辛くなったら途中で帰って構わないからね』とだけ書き記されていた。随分心配されているんだなと苦笑しながら、パラパラとページを捲っていく。キャスト紹介のページで、司はギョッと目を見開いた。自分が演じるはずだった役のキャストが、類なのだ。他の役者たちは顔写真までしっかりと載っているが、類は名前だけだ。元々小さな役だったし、恐らく既に出来上がっていたパンフレットの司の名前の上から、シールか何かで類の名前に変えたのだろう。かなりの部数あった気がするが、一体誰が作業したのだろうか。
まぁ、気にしたところで正解に辿り着ける訳じゃない。案外外からバイトを雇ったのかもしれないし、団員たちがちまちまと作業を進めていたのかもしれない。
司はふぅ、と小さく息を吐いた。半年ほど前までは、自分が立つと確信していた舞台が、こんなにも遠く感じる。まさかこんなことになるなんて、あの時は夢にも思っていなかった。今でも、あの日々を思い出すだけで手が震える。恐怖が植え付けられていたことを、いやでも痛感してしまう。あの舞台裏には、顔も見たくないような役者たちが衣装に着替えて開演のブザーが鳴るのを今か今かと待っているに違いない。その中には類もいて、もしかすると劇団員たちに唆されて、さらに司を傷つけるような演技をするかもしれない。怖い。いつもの優しい類が、隣にいてほしい。
バクバクと心臓が脈打つ中で、一度目のブザーが鳴った。ザワザワとしていた観客席が、一瞬にして静まり返る。注意事項を読み上げるナレーションが始まった。司は慌ててスマホの電源を切り、鞄に仕舞う。せっかく類がチケットをくれたのだ。何か意味があるに違いない。少し冷えたように感じる腕を摩りながら、二度目のブザーの音を聞いていた。劇場の照明が、ゆっくりと落ちていく。目がだんだんと暗闇に慣れていくような奇妙な時間を楽しんで、上がっていく緞帳の隙間から漏れ出る明かりに、司は抑えきれないほどの興奮を抱いていた。
元来、天馬司という青年はショーに目がない。それが喜劇だろうが悲劇だろうが、誰かの人生を垣間見ることができるショーが、誰かの心を揺さぶるショーが、大好きなのだ。
「あぁ、どうして俺はいつもいつも、失敗ばかりしてしまうんだ……」
舞台中央でガックリと項垂れる主役の男。今回の舞台は、彼の大きな失敗とそこからの回復をミュージカル風に描いたものだった。前半は悲劇、後半は喜劇。最後は笑って終われるような、それこそ稽古中でさえも思わず笑いが溢れてしまうような、そんな物語だった。司の頭の中にある脚本では、確かそうなっている。台詞を忘れないように、と脚本がボロボロになるまで必死で読み込んだのだ。なんなら、一人芝居もできてしまいそうなくらい、ほとんどの台詞を暗記していた。
「お願いだ!俺と結婚してくれ!」
「嫌よ!アンタみたいな薄汚い男となんて、誰が結婚するもんですか!」
頬をビンタされる主人公。あまりにも痛ましい表情をするものだから、こちらもつい同情してしまう。金がないというだけで、プロの絵描きになるという夢を追っているだけで、どうしてこうも不遇な目に遭ってしまうのか。司はいつの間にか自分が受けた仕打ちも忘れて、舞台に没頭していた。
「はぁ……なんだ、あのベッドは。身体中が痛くて仕方ない。これなら外の芝生の上で寝ていた方がマシだよ!」
「す、すみません!」
知った声が、響いた。類だ。必死にぺこぺこと頭を下げる姿は、どう見ても立場の弱い若者にしか見えない。
類の、もとい司の役は、主人公がアルバイトとして雇われている宿屋のバイト仲間だった。病気の母親の薬代を稼ぐために働いているが、気弱で他人に強く出られない性格上、宿泊代を強引に値切られてしまうこともしばしば、といった設定だった。絵描きを目指す主人公と意気投合し、舞台の後半ではほとんどの行動を主人公と共に行うことになる。彼の性格の変化も、見どころの一つだと司は考えていた。
「こんな宿、二度と泊まりになんてくるものか!」
「ごめんなさい!」
お札をポイとカウンターに放って、怒り狂った客はそのまま出て行ってしまった。ぽつんと取り残された類の元へ、主人公がやってくる。
「いや〜、今回のは、マシな方だったな」
「確かに、お金は払ってもらえましたし」
肩をポンと叩かれながら、青年は困ったように笑ってお札を拾い集めた。なんだかんだ助け合いながら厄介な客を追い払ったり、少ない賃金で一緒に食事をしたり、二人の仲の良さをアピールするようなシーンが続く。自分も、あの舞台に立てていたのだろうか。ふと浮かんでしまった考えを追い払うように深呼吸をして、司は椅子に座り直した。
その後は再び主人公の生活のパートに移る。何日もかけて描いた絵が売れず、挙句の果てにはカンバスごと風に煽られ川に落ちてしまうのだ。絵の具が滲み、ぐちゃぐちゃに混ざり合う。きっと類の演出だ。司が稽古に参加していた時には、このシーンは確か絵が破れてしまっていたはずだった。思いついたことをきちんと形にできる類が、誇らしい。
彼女にも振られてしまった青年は、ついにバイト先にも顔を出さなくなり、家に閉じこもったまま絵ばかり描くようになる。もう生きていても楽しくなんてない。どうせ死ぬなら絵の中で永遠に眠りたい。その一心で、主人公の青年は筆を動かしていく。紙がなくなれば布へ。布がなくなれば家具へ。家具がなくなれば壁へ。いつしか青年の家は、至る所にびっしりと絵が刻み込まれていた。電球の明滅を表すように点いたり消えたりを繰り返す地明かりは、青年の作品を舞台上に運び込むために付けられた演出だった。気付けば舞台一面が、まるで一枚の絵画のようにも見えてくるのだ。司はほぅ、と感嘆のため息をついた。
暗転し、ガヤガヤと街の喧騒のような効果音が流れた後、明転するとそこは再び宿屋のカウンターになっていた。主人公がバイトを休むことにより、類が演じている青年が受付や宿泊客の対応をほとんど一人で切り盛りしていた。今日も疲れた、と言いたげにぐっと腕を伸ばし、肩をトントンと叩く。心なしかげんなりしているようにも見えてしまうのだから、やはり類はすごい。
カウンターに座りガチャガチャとレジを打っていた類の元へ、一人の客が来た。パッと顔を上げた類は、ひくりと口の端を引き攣らせる。どう見ても上機嫌には見えない宿泊客の対応について考えたのだろう。
「な、何か問題がございましたでしょうか」
震える声で類が話す。司が稽古中に散々言えなかった台詞ナンバーワンだ。司はなんとなく舞台を見ていられなくて、鞄の中を確認したり爪を見るふりをして、目を逸らしていた。それでも舞台は進んでいく。
「問題どころの話じゃないぞ!まず、客室の壁に穴が開いていた。隣の部屋の客に覗かれたら、気分が悪いどころの話じゃないぞ!」
「すみません!」
「それから、タオルにカビが生えていた。いくらボロい宿屋だとしても、せめて客に提供する物くらいはしっかりした物を使って欲しいね!」
「誠に申し訳ありませんでした!」
「全く……せめて代金くらいは、返してくれるんだろうね?」
高圧的な客の態度に耐えられず、ここで青年はお金を渡してしまう。脚本では、そうなるはずだった。
「…………はぁ」
「なんだそのため息は!さっさと金を返さんか!」
「……さっきから聞いていれば、文句ばかり並べて、高圧的な態度でこちらを押さえ込もうとする。あなたみたいな客はもううんざりですよ」
なんだその台詞は。知らんぞ。司は咄嗟に顔を上げた。瞬間、類がニヤリと笑う。
「我慢の限界って言えば、伝わりますか?」
ドオオオオン!と爆発音が響いた。火柱が舞台上で高く上がり、観客席からも類の目の前に立っていた役者からも悲鳴が上がる。広い劇場の中でただ一人、司だけが目を輝かせていた。類の演出だ、と自然と口から言葉が溢れる。じわじわと広角が上がっていくのが分かった。
「いつもいつも、うちには酷い客ばかり来る。その中でもあなたは別格だ!」
次々と爆炎が立ち上る。逃げ惑う役者を誘導するように昇華するドライアイスの煙。観客の悲鳴はいつしか歓声に変わり、その場にはいなかった予定の役者たちまでこぞって逃げ回る。目の前まで熱風が押し寄せてくるようだった。爆音に紛れて、類の高笑いが聞こえてくる。
「さぁ、ショーの時間ですよ!」
嬉々とした類の叫び声。止まない轟音。観客席の通路にまで追いやられる役者たち。舞台には、モクモクと漂うドライアイスの煙と、一人中央に佇む類がいた。誰も、類に文句を言う人などいなかった。全員が、類を見ていた。
「僕の夢は、大切な人にもう一度笑ってもらうことです。でも、笑顔はお金じゃ買えない。僕のところには、毎日毎日怒ったような顔の人が来る。……僕は必死に笑顔にしようとしました。頼まれれば宿代だって安くしたし、チップを渡されれば喜んで手伝いもした。なのに、僕の元を去っていく人たちは、みんな怖い顔をしていました」
切なげに目を伏せる類。遠くからでも、その容姿の淡麗さが、儚く消えてしまいそうな脆さが、伝わってくるようだった。
「どうすれば笑顔になってくれるのか、僕なりに必死に考えた。そこで思いついたんです!この宿屋ごと爆破させれば、自ずと人が集まってくると!」
誰も類の意見に口出しする役者はいなかった。いなかったというより、できなかったのだろう。きっとこの演出も台詞も、一部の人しか知らないアドリブだろうから。
「ほら、今だって、こんなにたくさんのお客様が見にきている!僕のアイデアは、作戦は、大成功だったんだ!」
心底嬉しそうに、類が朗々と語る。くすりと、客席から笑い声が聞こえた。それはだんだん伝播していって、いつの間にか劇場全体を包む大きな笑い声へと変わっていた。もちろんそれは司も例外ではなく、くすぐったいような温かいような、なんだか不思議な感覚に包まれながら笑っていた。類は穏やかに微笑み、台詞を続ける。
「確かに、僕が働いていた場所はこのザマだ。早いところ次のアルバイト先を見つけないといけません。でも、この大きな音と光を心配したのか、僕の大切な人も見にきてくれたみたいです」
ぱちりと、類と目が合った、気がした。司が呆気に取られている間に舞台は進み、気付けば類は宿屋の主人に笑いながら叱られ、主人公からも呆れられていた。客席に避難していた役者たちもゾロゾロと舞台に戻り始めたが、全員が笑っていた。
なんだかそれだけで、司の中にあった毒素のようなモヤモヤが、スッと消えていく感じがした。あれだけ酷い仕打ちを受けていたにも関わらず、それすらも忘れさせてくれるような舞台を作り上げる類が、誇らしかった。司は荷物を持つと、そっと席を立って劇場を出た。冬のキンと冷えた空気が肌を刺したが、そんなことは気にならないくらい、充実感に溢れていた。
***
公演を終えた類は、最低限の片付けと挨拶を済ませると、急いで劇場を出た。舞台の途中から、客席に司の姿が見えなくなっていたのだ。もしかしたら、体調を崩したのかもしれない。やっぱり自分を傷つけた人たちの舞台なんて、見たくなかったのかもしれない。思考はどんどんネガティブな方へと引っ張られ、家に着く頃には半泣き状態にまでなっていた。いい歳した大人が情けない、と自分を叱咤しても、司のことを考えると勝手に涙が滲んでくる。類は震える手で玄関の鍵を開けた。カチャン、と小気味良い音が響く。ドアノブに手を掛け、溢れてくる涙を抑えることもなく玄関の扉を開けた。
類を出迎えたのは、最近は滅多に聞くことのなかった同居人の、元気と自信に満ちた優しい声だった。
「お帰り、類!って、どうしたんだ!?具合でも悪いのか!?」
ころころと変わる表情。玄関に入った瞬間安心でしゃがみ込んだ自分の背中をさすってくれる、類より一回り小さい暖かい手。他者への尊敬に満ちた、愛おしい声。
「っ、ぐすっ、ごめ、……っ、ごめんよぉ……」
「な、何がだ!?まさかお前、ついに人でも殺したのか!?確かに今日の演出はやりすぎだと思っ」
司の言葉が、途切れる。ぎゅう、と音が鳴りそうなほど強く強く、その存在を確かめるように、今にも消えてしまいそうな司を逃さないように、類は司を抱きしめた。自分がいない間に、どれだけ無理をしたのだろう。どれだけつらい目に遭ってきたのだろう。どれだけの理不尽に耐え、どれだけの悪意に押し潰されてしまったのだろう。
「る、るいっ、苦しいんだが、」
「ごめん。もう少しだけ」
そっと頭を撫でてやれば、多少ビクつきはするものの黙って受け入れてくれる。気持ちが溢れて、止まらない。
「好き。好きだよ、司くん。君のことが、大好き。誰かのために頑張れるところも、誰かを思いやれるところも、優しさも、美しさも、儚さも、脆さも、全部、全部大好きなんだ」
類の腕の中で、司はすっぽりと抱かれたまま身動きを取れずにいた。恐らく耳まで真っ赤であろう今の自分の顔を、類に見せる訳にはいかない。そんな気持ちを知ってか知らずか、類はさらに涙声で続けた。
「司くんが人一倍頑張り屋さんなのは、僕もよく知っているよ。誰かに迷惑を掛けるくらいなら一人で解決した方が良いと思っているのも、分かってる。……でもね、世の中には、誰かに頼られたい人もいるんだよ。それが好きな人のためになるなら尚更、力になりたいと思うんだ。……今回、君が相談してくれなかったこと、僕はとても怒っているよ。僕の知らないところで一人で抱え込んで、まだ大丈夫だって我慢して、我慢し続けた結果、司くんは壊れちゃったじゃないか」
類の腕の力が、少し緩んだ気がした。不思議と責められているような気はしなくて、まるで幼子を注意する母親のようだな、と司はこっそり笑った。
「連絡も取れないし、海外に行っていた僕はすぐに君のところに向かえる訳じゃない。司くんに何かあったらと考えるだけで、気がおかしくなりそうだったよ」
「……すまなかった」
「君が助けを求めた時に、君の手を迷わず取ってくれる人が必ずいる。それはいつ、どこにいても変わらない。助けを求める程度だって、些細なことで構わないんだよ。誰かに何かをしてもらうのは、何も悪いことじゃない。……今までのことに耐えられる強さを持つ司くんなら、きっと誰かに頼る強さも持っているよ」
じんわりと、類の言葉が心の中に広がって、抱きしめられていただけだった腕をそっと類の背中に回した。類ならきっと、醜い自分を受け止めてくれると、漠然とした安心感があった。
「ねぇ、司く、」
「オレも、類が好きだ」
「え……?」
「なんだ?オレを受け止めてくれるんじゃなかったのか?」
類の顔を見上げれば、舞台上にいた自信満々な顔はどこかへ消えてしまって、顔を真っ赤にした天才演出家、否、ただの神代類がいた。司はにっこりと笑い、オレは面倒くさいぞー、なんて言いながらするりと類の腕から抜け出す。数秒遅れて、まるで逃げた子猫を追いかけるように類もリビングへと向かった。
***
お互いソファーに座り、隣同士でなんとなく肩を寄せ合う。一緒に暮らし始めて数年、こんなに会話がないのは初めてだ。司はなんとか話の種を見つけると、類に素朴な疑問を投げかけた。
「そういえば、よくあの演出の許可が降りたな」
「あの演出?」
「ほら、火とドライアイスの」
「あぁ、あれだね。今回の舞台、僕は飛び入りで参加しただろう?あれ実は、舞台監督さんと演出さんと面識があったからなんだ」
「そうだったのか!確かに、まだ仕事上ではオレと類の繋がりは薄いしな……オレ繋がりで類が起用されたと考えるのも、変な話だと思ったんだ」
「いつの舞台だったかな?何度か顔を合わせたこともあるし連絡先も交換していたからね、司くんの代わりに出られないか相談したんだ」
「そしたらOKが出た、ということか」
「そう。二人とも司くんがいじめられていることに対して反対派でね、僕が提案した例の演出を、二つ返事で受け入れてくれたんだ。もちろん、役者たちには知らせずにね」
いたずらっぽく微笑む類に、司はため息をつく。
「……下手したら死人が出ていたぞ、あの演出は」
「元からそのつもりさ」
「はぁ!?」
「あぁ、死人は言い過ぎたね。……正直、僕は彼らが司くんをいじめたことを、誰よりも許せなかったんだ。だから、その報いを受けてもらおうと思ってね。なかなかに迫力があっただろう?あの火柱」
「お前……改めて、とんでもないな……」
「お褒めに預かり光栄だよ」
「褒めていないが」
呆れたように返す司に、類はケラケラと笑う。炎を背負って立っていた男と同一人物とは、とてもじゃないが思えない。
「……まぁでも、なんだ。確かに、多少楽にはなったな」
「ほ、本当かい!?」
「オレも存外性格が良くないんだが、逃げ惑う団員たちを見て、少々スカッとしてしまった」
隣で類が目を見開く。少し居心地が悪い気がして、司は手に持っていた新しいマグカップを握り直した。
「……びっくりした」
「何がだ」
「いや、司くんってこう、もっと聖母みたいなものだと思っていたよ」
「はぁ?どう言う意味だ、それは」
「なんていうか、加害者に少しでもバチが当たることに対して、スッキリしたんだろう?司くんなら、あんな至近距離で火柱を立てて怪我人が出たらどうする!って怒ると思っていたから……」
「それはまぁ……確かに怪我の心配もあったが、何より類の演出だし、……オレもあいつらに嫌なことをされたから、少しくらいいいかな、なんて、……」
自信なさげに俯く司の頭を類はくしゃりと撫でた。初めて人間らしい部分を見せてくれた気がして、嬉しくてたまらなかった。
「はぁー……本当に、頑張ってよかったよ」
「…………オレのために、わざわざありがとな」
「へ、?」
「何でもない!もう寝る!」
慌てて立ち上がった司は、まだ半分ほど中身の残っているマグカップを台所のシンクに置き、そそくさと自室に戻ってしまった。
司のために考えた演出。火傷。炎。怪我の心配。劇場の許可。当日司が来なかったら。全ての賭けに出た類の作戦は、大成功を収めた。その日の舞台の評判も素晴らしく、一度しか公演がないのが勿体無い、と大勢の人が言っていたらしい。だがあれは類の司への気持ちがあるから成功するのであって、お互いに気持ちの整理がついてしまった今、もう一度再演するのは至難の業だろう。
類は大きく伸びをすると、ゆるゆるとソファーから立ち上がり、司と色違いのマグカップをシンクに並べて、自室に戻った。海外で世話になった劇団のみんなに、今日の出来事や今までの司の様子を知らせなければ。彰人にも、最近話題になっているケーキ屋のケーキをありったけプレゼントしなければ。ベッドに寝転がりながらやることを考えているうちに、自然と瞼が降りてくる。細かいことは、明日決めればいいか。プレゼントだって、司も選びたいかもしれないし。
類の意識は、深い眠りの世界へと落ちていった。きっと明日からはまた楽しく過ごせそうだ、なんて漠然とした夢を抱えながら。