DVを受ける司の話べちんっ、と頬を打たれたのが分かった。ジンジンと燃えるように熱いそこに手を当て、司は目の前で息を荒げる類を震えながら見上げた。
「ねぇ、司くん。どうして僕がこんなに怒っているのか、賢い君なら分かるよね?」
「ぁ、お、オレが、クラスメイトと、話したかっ!」
「まずはごめんなさい、でしょ?幼稚園で習わなかったかい?」
「ご、ごめ、なさい」
殴られた脇腹を庇うように体を曲げ、司はその場にしゃがみ込んだ。怖い。その一心で、ひたすら謝罪の言葉を述べていく。
数ヶ月前の類は、こんな人ではなかった。優しくて、いつも司を思い遣ってくれて。だから告白されても自然と受け入れられたし、むしろそうなることが必然だとも感じていた。筈なのに。
「僕の気持ち、考えたことある?司くんが仲良さそうに他の男と話しているなんて、見ているだけで反吐が出そうだったよ。分かるかい?君は、恋人を一瞬でも不愉快な気持ちにさせたんだ。覚悟はできているよね?」
「は、はい、っ、ごめん、なさい、……るいを、嫌なきもちにさせて、ごめんなさい、」
「ごめんなさいって繰り返すだけなら、ペットショップに売っているインコだってできるよ。動物以下にはなりたくないだろう?」
「っ、ひゅ、はい、」
「はぁ……本当に、司くんは何度教えても学習しないんだから、やっぱり言葉には限界があるよね」
「がッ、!……っ、げほっ、おぇ、」
「悪いことをしたら痛いことをされる、ってそろそろ体が覚えてくるものじゃないのかい?パブロフの犬の話は、司くんには通用しないのかい?」
間を開けずに責め立ててくる類に逆らえず、司はさらなる攻撃に備えて体を丸めた。案の定類は司を殴り、蹴り、言葉で心を折ってくる。
耐えれば終わる。耐えれば終わる。そればかり考えて、もはや痛みの感覚すらも麻痺してきた頃。類は満足したように振り上げていた拳を下ろした。
「じゃあ司くん。今ので自分がどれだけ悪いことをしたのか分かっただろう?」
「…………は、ぃ」
「それじゃあ、もうしませんっていう約束の印を入れようね」
司が一番、嫌っている時間。でも、悪いことをしたのはオレなのだから、類の機嫌を損ねたのはオレなのだから、黙って受け入れるしかない。
類は引き出しからカッターを取り出すと、カチカチと刃を数センチ出した。にっこりと笑う類が、怖くて仕方ない。
「はい、腕出して」
司はおずおずと左腕を差し出す。服の袖を捲ったそこには、無数の切り傷と治りかけの瘡蓋、そして何本もの短い直線の痕が残っていた。
「今回司くんは、何回他の男と話したのかな?」
「さ、さんかい」
「嘘。5回は話してたよ。嘘ついたこともプラスして、今日は10本切っていこうね」
ひっ、と喉から引き攣れた声が出た。絶対に逃さないという強い圧を感じながら、司はぎゅっと目を閉じた。我慢しろ、我慢しろ。そうすれば、いつか終わるのだから。
「はい、いーち」
スッと腕に刃が走り、遅れて痛みが襲ってくる。涙がポロリと溢れた。耐えなきゃいけない。今回だって、委員会での業務連絡を伝えなくちゃいけなかったんだから仕方ないのに。なんでオレが我慢しないといけないんだ。
「にーい」
ぐちゅり、と過去に付けられた傷が開かれる感覚がした。痛みに思わず吐きそうになる。はっ、はっ、と荒い呼吸を繰り返しながら、司は必死に耐えた。
「さーん」
ぐさり、と腕の奥深くまで刃が入ってくる。痛い。気が狂ってしまいそうだ。助けて。誰か。
「よん!」
さっきと同じ場所を、もう一度刺される。耐え難い痛みに、司はガクガクと足を震わせながらその場に崩れ落ちた。息なんてしていられない。そんな余裕はない。
「大丈夫?まだあと6回残っているけれど、今日は座って続けようか」
心から心配しているような声とは裏腹に、内容は至って残酷で、司の心を折るには十分だった。きっと類も、不安なんだ。ここまでしないとオレがどこかへ行ってしまうと、心配しているんだ。それなら、どこへも行かないと、オレには類しかいないと証明してやらなければ。
「る、るい、っ」
「ん?どうしたんだい?」
「お、オレは、ずっとお前のことが、好き、だからな、」
「……!嬉しいよ!僕も大好きだよ、司くん!」
怪我なんてお構いなしに、ぎゅうと類に抱きしめられる。自分の血の匂いと混ざって、ふわりと類の優しい香りがした。
「じゃあ続きを始めようか」
一段と優しく笑う類に頷き、司はそっと腕を差し出した。もうこの恋人は、オレじゃないとだめなんだろう。オレ以外が類とうまく付き合っていける気がしない。
少しの優越感に浸りながら、司は脳を揺さぶるほどの痛みに身を任せて意識を飛ばした。きっと目を覚ます頃には、いつも通り丁寧に包帯が巻かれていることだろう。
***
「うわわ!司くん、その包帯どうしたの!?」
「ん?あぁ、これか。少し体育の授業で転んでしまってな」
「少しってレベルじゃないでしょ。…………あのさ、司、ほんとに大丈夫?」
「あぁ!オレはいつだって、完全完璧なスターだからな!」
寧々とえむの前でビシッとポーズを決めれば、ならいいけど、と大人しく去っていった。真っ白な舞台衣装の下に隠れた赤や紫や青を、彼女たちは知る由もないだろう。
寧々たちの詮索から逃れてほっと安心したように息をつく司を眺めながら、類はにこにこと笑っていた。恋人の秘密を知っているのは、僕だけでいい。そんな薄暗い独占欲を抱えながら、類は練習を始めるために脚本を手に取った。裏表紙に付着している赤黒い染みを愛おしそうに撫でた後、類はいつもの笑顔を浮かべてステージへと上がった。