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    banuuco

    @banuuco

    某Vtuverに沼った人間の絵と文章置き場.
    乱交大好きNot固定cp
    ミ🦊本BOOTHにて通販中

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    banuuco

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    ▲完結▲  お待たせしました!ボリューミーです!(約二万字)
    👟🦊、👹🦊

    ヴォが💙💙言いすぎてミがちょっと精神的におかしくなる話の続き。病みミに希望を抱いてる。
    (⚠️流血表現あり)(1/34) 
    #FoxAkuma 
    #shusta

    #FoxAkuma
    #shusta

    ハア、ハアと息が上がる。どれくらい歩いているんだろう、口の中が乾いて乾いてしょうがなかった。
    人波に逆らいながら、縫うように小走りで歩き続ける。周りの目なんて気にならなかった。ミスタを腕に抱き、石畳の道を歩いた。この奇妙な組み合わせに、老若男女誰もがすれ違いざまそっと振り返る。
    側からみれば気味の悪い光景だろう。街灯の灯る夜道で酔っぱらいを介抱しているならいざ知らず、真昼間の月も眠る頃から大の大人が男一人抱きかかえているのだ。彼らの怪訝な目は、正直よく分かる。
    けれど人目も憚らず、こんこんと腕の中で眠り続けるミスタに何度か体勢を直しながら話しかけた。

    「ミスタ、お家に帰ったらたくさん美味しいものを食べようね。君が大切に育てていたパキラも首を長くして待ってるよ。ミスタ、君は一人じゃない。僕がいる、僕がいるよ」

    しとしと降りはじめた細雪が、地面を覆い隠していく。そういえば今日の予報は曇りのち雪だった。気象予報士が季節外れの大雪に備えろと、真剣な顔をして訴えていた気がする。

    ただ純粋にミスタの様子が気になっただけだった。彼が幸せに暮らしていたらそれでよかった。ほんのちょっと確認するだけだった、誓って嘘じゃない。けれどあの日ぼんやりと外を眺めるミスタの目には、きっと何も映っていなかった。寒明けと言ってもまだ雪の吹雪く中、薄着姿で微動だにしない彼は僕の知っているミスタじゃなくて。

    多分居ても立っても居られなかったんだ。こんなことならあの日無理矢理にでも止めればよかったと、あの日以来ずっと心の中で自分を責め続けている。

    「ミスタ、家に帰ろう」

    あの時僕は、君と一緒に帰るつもりだったんだよ。でもミスタの嬉しそうな表情が、僕の体を木偶の棒にしたんだ。
    …今度こそ僕たちの家に帰ろう。もう一度あの日からやり直そう。大丈夫、僕たちならやり直せるよ。

    「僕たちならきっと」

    ミスタのほっぺたに斑紋を描きながら、彼の体温で雪が溶けていくのをじっと見つめる。青白い顔ながらもミスタの吐息が白く漏れることに安堵し、雪の降り積もる音にそっと耳をすませた。


    ーーーー

    「ただいま〜…」

    ふらふらになりがながら、ミスタの体だけは落とすまいとどうにかアパートまで辿り着いた。意識のない人間は重い。それを今回嫌というほど思い知った。

    一度地面の濡れていない場所に彼を下ろし、玄関を開けようとポケットに入れたはずの鍵を探す。ジャケットのポケットにパーカーのポケット、さらには尻ポケットを。けれど何度探しても見つからなかった。
    どこかで鍵を落としてしまったかとサっと顔を青くしたものの、よく思い返してみても鍵を閉めた記憶がない。どうやらミスタのことが気がかりすぎて、鍵を閉めずに出てしまっていたらしい。まあ特に金目のものは置いてないからいいんだけど。

    普段はしない重労働に、自分の身体は子鹿のようになっていた。至る所に体をぶつけながら、レモン色の遮光カーテンのせいで薄暗い部屋のスイッチを押し光を灯す。玄関先に置いてきたミスタを最後の仕事だと自分に言い聞かせ、震える体でなんとかソファに寝かせた。きっと明日は全身筋肉痛でベッドから這い上がることはできないだろう。

    ふと辺りを見回す。満身創痍で帰ってきた我が家は彼が出て行って数ヶ月も経つのに、未だミスタととてもよく馴染んだ。心なしかパキラが元気なのは、見間違いじゃないかもしれない。

    「ミスタ、寒くない?こたつの方がいいかな…」

    寒さに悴む手を、両腕で擦り合わせて温めた。まだ夕方には早いけれど部屋の中は寒い。
    急いでヒーターをつけて、寒いだろうからと彼にブランケットをかける。その間にリビングのど真ん中を陣取るコタツの電源を入れた。ミスタがいなくなったあと、少し寂しくて大手通販サイトanazunで買ったのだ。
    最近はもっぱらこのコタツに入ってTVを見たり、何とはなしにパキラを眺めたりしている。

    そういえば普段滅多にしない外出を今日はしてしまった。ちらりと手のひらを見た。これからミスタと一緒に暮らすのに、自分が風邪をひいて彼に移しちゃいけないと急いで洗面所に向かう。
    石鹸で手を洗い念の為うがいをしたあと、なんとなく鏡を見る。

    「あれ、僕こんな顔だったかな」

    そこには目の下にクマをこさえた、頬のこけた男が立っていた。
    指先でそっと頬を触ると、乾燥でカサついている。恐る恐る唇も触れば、皮膚と同じくらい水分が減っていた。ー・・・気づかないうちに、自分もボロボロになっていたようだった。

    「これじゃヴォックスに言えた義理じゃないね」

    んへへといつものように笑う。けれども僅かに動揺した自分がいた。ミスタがいなくなったことで、こんなにも変化があったなんて思わなかったのだ。否、気づかないようにしていた。
    ミスタがいない生活が普通なのに彼がいる生活が存外楽しくて、それを自覚するのが怖かったのかもしれない。これではミスタが心配してしまうし、ヴォックスと共倒れしてしまう。彼の二の舞になってしまっては、ミスタを奪還した意味がない。
    まずは自分から健康にならなければと心に誓った。




    いつまでそうしていたのだろうか。不意に体を揺さぶられる感覚に、ハッと体を起こす。どうやらソファで寝てしまったらしい。暖まったコタツの中に頑張ってミスタを移動させて、そのあとはどうしただろうか。そうだ、ちょっと休憩しようとソファに横になったんだった。

    きっと寝落ちしてしまったのだろうと結論づけ、今何時だろうと掛け時計を見やった。短針は7を指している。まだ夕方だ。そろそろ夕飯を作らなければとソファから降りようとした瞬間、何かに脚がぶつかる。
    うわっと声をあげ足元を見ると、びっくりして目が猫のようにまん丸になったミスタと目が合い、体がびしりと固まってしまった。

    「み、ミスタっ?」

    はくはくと口を動かし『シュウ、シュウだよな…?』なんて不安そうに見つめる彼は、百面相のように表情豊かだった。

    「起きたんだね、驚かさないでよびっくりしちゃった」
    『それはこっちのセリフだ。俺はヴォックスの家にいたはずなんだけど』

    キュッと眉間に皺を寄せ、怪訝な顔で僕を見つめる。薄く形のいい唇を尖らせ全身で訴えかけてくるこの感じに、どこか懐かしさを感じた。

    「僕が勝手に君を引き取りに行ったんだ」

    ミスタの両手を握りしめ、ヴォックスと君が共倒れしそうだったから、と呟けばびくりと体を震わせた。

    「ミスタ、君が心配だったんだ。僕のエゴで君を奪いに行った」

    ぎゅっと力強く手を握りしめる。数ヶ月前よりもさらに傷の増えた手首に、気持ちが爆発してしまう。

    「会いたかった」

    口に出せば、声が震えた。
    彼の膝しか見えないのは、僕が直接彼の目を見て言ってしまえば泣いてしまうから。

    「君に、会いたくて仕方がなかった」

    涙の膜が瞳を覆う。彼と過ごした十数日が、こんなにも僕の中で大きくなっていたなんて。
    ヴォックスの家に様子を見に行ったあの日、ミスタに認識してもらえなかったことが殊の外、僕の心を柔らかく抉った。だから今、ミスタが僕を認識してくれていることに救われた。

    彼の目の中に僕が映っている。
    それだけ嬉しかった。
    ミスタがどんな顔をしているのか、自分には見えない。けれども彼の手が伸びてきて、袖でちょんちょんと涙を拭ってくれた。自分にはそれだけで十分だった。
    ミスタお腹空いてる?と聞けば、ペコペコだと帰ってくる。お腹が背中とひっついちゃうなんて可愛いことを言われ、気づいた時にはフライパン片手に大盛りオムライスが完成していた。もちろん彼も手伝ってくれたけれど、数ヶ月前に失った幸せをもう一度深く噛み締めた。

    『美味しい美味しい』と食べてくれる同居人は、とてもぎこちない笑顔を浮かべ、左手でスプーンを振り回している。
    他愛もない日常、何の特筆すべきこともない光景だ。けれども自分はこの生活を特段気に入っている。
    ヴォックスの、彼との食事はどんな風だったんだろうか。いつか聞けるといい、そう思いながらなおもスプーンを振り回すミスタを注意した。

    昨日彼をコタツに寝かせてから、ミスタはコタツに興味津々の様子だ。
    そりゃそうなんだろうけど、恐る恐る布団をめくっては中に顔を突っ込んで熱いっ熱いっと顔を出す。これを何回も繰り返していた。これで5回目だろうか。確かにコタツは魔性の魅力で僕達人間をダメにするけれど、こういう形でダメにするものでは決してないと思う。

    「ミスタ、僕寒いんだけど。そろそろやめてくれるかな」

    爪の間に繊維が挟まるのも厭わず、みかんの皮を剥きながら彼に問う。
    ミスタが布団を捲るたび、僕の足は冷気に充てられるのだ。そろそろ勘弁してほしい。
    彼に剥いたみかんの一粒を差し出し、これでも食べておけと存外に言う。にっぱりと笑うミスタの口の中にみかんを放り込み、コタツの温度を「強」に変えた。

    ミスタが来てから一度目の朝を迎えた。つまるところ彼との同居生活二日目がスタートしている。お互い今日は休みだ。僕も昨日の今日で配信なんて出来やしないし、ましてやミスタは数ヶ月間配信を休止している。することといえばコタツに入ってぼんやりすることくらいだった。

    「ミスタ、今日のお昼何食べたい?」
    『オムライス』
    「また?よく飽きないね」

    昨日も食べたのに今日のお昼もオムライスがいいなんて、ミスタはオムライスが大好きみたいだ。昨日は僕がオムライスを作る姿をずっと見つめていたのを覚えている。白のシャツを握り締めながら、漠然とキッチンの隅に突っ立っていた。
    見かねて僕が「ミスタ、卵かき混ぜるの手伝ってくれる?」と言えば泣きそうに笑うのだ。うまく力の入らない左手でゴムベラを持ち、不器用ながらに手伝ってくれる。ボウルから卵が時々散ってしまうのはご愛嬌だろう。

    ヴォックスの家でどんな生活を送っていたのか、なんとなく想像がついた。傷口が引き攣って痛いのだろう、時折眉を顰めていた。それでも健気に手伝ってくれるのだ。

    「今日は、バターライスのオムライスを作ろっか。手伝ってくれるかな、ミスタ」
    『うん』

    ミスタは何も語らない。ここに来た日から気丈に振る舞っている。きっと寂しいはずだ。悲しいはずだ。ミスタの中でヴォックスに捨てられたと思ってなければいい。だってヴォックスは最後まで縋るような目を向けていた。彼は捨ててなどいない、僕が彼らの仲を引き裂いた正真正銘の間男だ。

    本当に正しいことをしたのか、正直自信はなかった。今もまだ持てずにいる。けれどあのままミスタをヴォックスの家に置いておけば、いつか必ず最悪の事態が待っていたと思う。今ミスタを見守ってあげられるのは僕しかいない。だからミスタがふとしたときに、ぼんやりと空を眺めていたり、無意識に体を傷つけようとしていることも、僕が受け止めなきゃ。今のミスタには僕しかない。僕しか、だから。

    「僕が、受け止めるから」
    『…あー、ありがと?』

    僅かに首を傾げふわりと笑うミスタに、胸を撃ち抜かれたのは言うまでもない。



    この日から僕達は何度もオムライスの練習をした。
    たまには趣向を変えてミスタでも出来る乗せるだけ簡単ピザや、数日遅れのバレンタインチョコを作ったりもした。二日に一回はオムライスの日だったけれど。毎回何か失敗するミスタ作のオムライスは、卵の殻が入っていたり卵を焼きすぎてバサバサのオムライスになっていたりした。時にはお米に味をつけるのを忘れていて、ただの卵とお米と化すこともあった。

    それでも段々と日を重ねるにつれて、ミスタの腕前は上がっていった。目に見えて上手になったと思うところは、オムライスの布団の部分である。最初の頃は卵を焼きすぎていたけど、僕がふわふわとろとろの卵が好きと言ってからは、頑張って練習してくれたのだ。初期のスクランブルエッグライスから今では少し不器用なふわとろオムライスが完成する。
    これはとてつもない進歩ではないだろうか。お米を洗っていなかった頃に比べれば、物凄い進化をまざまざと実感する。

    『美味しい?今日は中にチーズを入れてみたんだ。とろけるんじゃない?』
    「すごく美味しいよミスタ。残念ながらチーズは中で固まってるみたいだけど」
    『マジで』

    急にしゅんと項垂れるもんだから、目の前に子犬が見えてしまう。週3回以上オムライスを食べている分、ミスタも最近は味変というものにトライしている。毎回同じ具材だと流石に飽きてしまうのだ。

    今回はチーズだったけど、この前はキムチオムライスだった。キムチを細かく刻んで、スパムとお米と混ぜ合わせるのだ。これが案外美味しい。スパムの塩っ辛さと焼いたことで風味が増したキムチとの相性抜群だ。
    どこで学んだんだと聞けば、ネットで検索したんだと胸を張っていた。そんな姿に兄心がとてもくすぐられた。きっと自分に兄弟がいれば、こんな感じだったのかもしれない。
    それに最近はミスタの料理の腕前向上以外にもいいことがあったのだ。

    「ミスタ、腕の調子はどう?もう痛くない?」
    『ん、いい感じだよ』

    彼の声は未だ出ないけれど、手首のリストカットはもう増えない。
    今のミスタは傷跡の修復に努めていた。

    「そっか、よかった」
    『俺的によくはないけどね、シュウが手首切ったとき俺心臓止まるかと思ったもん』
    「僕も同じ気持ちだったんだよ。ミスタに伝わってよかった」
    『ん…今ならわかるよ。シュウの気持ち』

    俯きがちに自身の手首をじっと見つめるミスタ。
    彼のリスカ癖はヴォックスと同居している頃から酷くなっていた。それはヴォックスから連絡をもらった時から知っていたし、どんどん増えているとも聞いていた。
    けれど実際数ヶ月ぶりに彼の状態を見て、唖然とした。彼のリスカは手首じゃ飽き足らず、太ももにまで及んでいたのだ。これじゃいけない。これじゃミスタの全身が傷に覆われてしまう。もし切る場所がなくなったら?今度こそ首を切ろうとするかもしれない。そんな焦燥感に、駆られた。

    「リスカって、結構怖いんだね。最初手が震えちゃった」

    何気なくぽつりと呟けば、ミスタは傷ついた表情をぶら下げ目に水の膜を張る。

    「ごめんミスタ、君を責めてるわけじゃないよ。君の痛みを一緒に分かち合いたかっただけなんだ。本当だよ」
    『ごめん、シュウの綺麗な体に傷がついちまった』

    耐えきれなくなったのか、食卓にポタポタと涙を落とすミスタに困ってしまう。
    ティッシュを手に取り、彼の瞼をそっと拭った。
    僕はミスタがリスカをするたびに、彼と同じ位置にリスカをしていった。最初は怖かったけれど、ミスタも同じ痛みを負っていると思えば、なんだってできた。

    最初のリスカはここに帰ってきて5日目だったと思う。
    よく持った方なんじゃないかな。彼のお風呂を手伝っている時に気がついた。ミスタはまだ手首を曲げたりするのを痛がっていたから、僕が一緒に入って背中とか頭とかを洗ってあげてたんだ。だけどその時太もものあたりに、真新しい傷があるのが見てとれた。
    ミスタは高を括ってたんだと思う。風呂なら水で血が流れるし、僕が気づくことはないだろうって。

    古い傷と新しい傷じゃ見た目が違うし、時折水が染みて痛いのか握り拳を作っていたから余計わかりやすい。

    それからの僕の行動は早かった。水に濡れないようにボクサーパンツを履いていたから、太ももはすでに出ていたし風呂場だったから剃刀だって置いてある。
    すぐに風呂場から出て洗面台に置いてあった剃刀を手に取り、ポカンと口を開けてこちらを見ているミスタの前で太ももを横一文字に切った。

    初めてだったから手が震えてしまい、うまく綺麗に切ることはできなかったけど。
    でもミスタにとっては衝撃だったようで、血がぷつりぷつりと滲む太ももを見て『いやだ、なんで、ごめん、ごめんなさい、シュウの足が』とこちらが狼狽するくらいパニックになっていた。

    僕は一枚刃の剃刀を普段から使っている。慣れないうちは気をつけて扱わないと、面白いくらいによく切れる良い剃刀だ。きっとミスタは見ていたのだろう。僕がその剃刀を使い、洗面台の引き出しに収めているところを。
    足はズキズキと痛いし、ミスタの取り乱す姿に胸も痛んだ。それでも僕が同じように傷を作れば、自ずとやめてくれると思ったから実行した。ミスタの良心を利用したと言われても仕方がない方法だったけど。

    『ミスタ、これから僕は君が君の体を傷つける度に、僕の体に同じ傷をつけるよ。一緒に背負うから、どうか一人で溜めないで欲しい』

    そうミスタに言えば、絶望という言葉がぴったりの表情を浮かべた。これはミスタが抱いている僕への気持ちの表れとも取れる。彼は僕に対して少なからず情があるということだ。
    僕はミスタのこの様子を見て、早ければ数ヶ月も要らずに彼のリスカ癖は治るんじゃないかと感じた。
    結局それは正しかったのだけれど。正直ミスタには心底申し訳ないことをしたと思ってる。




    ミスタと同居してから数えて7回。彼がここにきて二ヶ月。
    冬も終わり春の訪れを感じる4月に、彼の自傷癖はようやく終わりを告げた。ミスタは7回目のリスカで手首を思いの外深く切った。何がトリガーになったのかはわからないけど、寂しさや不安に襲われたのかもしれない。

    それは唐突に僕の目の前で行われた。
    最初にミスタの前で太ももを切った時と同じ、風呂場での出来事だった。
    ミスタが脱ぎかけのズボンを握りしめ、俯きがちにぽそぽそと喋るから『どうしたの』と声をかけた気がする。一緒にお風呂に入ることに抵抗が無くなってきた頃だったから、お互い遠慮なく衣服を脱いでいた。
    パッと顔をあげた彼は、何か考えているような面持ちでじっと僕の方を見た。ミスタがほんの僅かに縋るような瞳をしていたのを覚えている。

    『俺、シュウの負担にしかなってない気がする』

    勿論そんなことはないと言った。だって自分から進んで選んだ道だったから。
    けれどミスタは納得がいかないようで、子供の癇癪のように足を踏み鳴らす。ダン、ダンと分厚くもない床を踏みつけるもんだから、思わず『ミスタ』と非難めいて彼の名前を呼んだ。
    彼は思ったことを声に出せないことが、心底もどかしそうに僕を睨んだ。

    次の刹那僕の目の前でミスタは洗面台の引き出しを開け、手に取ったカミソリを手首に滑らせた。
    勢い良く利き手で引いたもんだから、彼の右手首からは目を逸らしたくなるほどの血液が流れ出る。
    はあ、はあとミスタが肩で息をする。ぶらりと腕を下げ心臓よりも地面に近いもんだから、彼の血は止まることを知らなかった。

    『ミスタ!早く止血しなきゃ…!』

    ボタボタと白い床に落ちる生血を早く止めなければ。自分の体に付着するのも厭わず、フェイスタオルで止血を試みた。じわじわと滲む赤い液体に、唇が戦慄く。
    ミスタがここにきて、こんなにも酷いリスカをしたことは一度も無かった。
    彼の両腕は商売道具だ。手首の筋を傷つけていたら、うまく動かなくなるかもしれない。ゲーム配信だって、今より上手にできなくなるかもしれない。それに、料理だって。

    『なんで』

    二人で積み上げてきたものを、いとも簡単に踏み躙ってきたミスタに失望した。僕がしてきたことは間違っていたのかもしれないと、思えば思うほど涙が止まらなかった。

    『ッシュウには出来ないだろ!』

    ミスタが止血していた僕の手を怒濤の如く払い退け、行き場の失った真っ赤なタオルが宙に舞う。

    『シュウはいつも俺がリスカしたら、同じ深さ幅でリスカしてたけど、今回は絶対できっこないだろ』

    衝撃で後ろに数歩よろけるくらいの強さで、ミスタが僕の胸の辺りに未だ血が滴る剃刀を押し付けてきた。
    徐にミスタの顔を見れば、彼もまたぼろぼろと涙をこぼしていた。

    『今日も同じようにやって見せてよ、シュウ』

    ぴくりと体を震わせる。彼の声は聞こえないのに、悲痛な気持ちが耳を伝い体を這っていった。
    痛いだろうに必死に我慢して、僕にミスタの気持ちをぶつけてくる。
    その瞬間、ふと気づいた。彼は一歩踏み出したいのだ。僕がミスタをどれくらい受け入れるか、値踏みしている。いわゆる試し行動というものじゃないか、そう頭の片隅にあった情報を引っ張り出す。

    僕がしてきたことは、間違ってなんかいなかった。ゆっくりだけど、ミスタにはちゃんと伝わっていた。僕が彼のことを受け入れ、彼もまた僕のことを受け入れようとしている。
    ここで僕が答えてあげなきゃ、彼は独りぼっちのまま。彼は飢えている。自分一人を慈しみ、愛してくれる存在に。

    『僕は、やるよ』

    ミスタが僕の胸に押しつけている剃刀に、そっと手を伸ばす。
    僕が今からすることを理解したのか、はっと息を呑んだ。焦燥と混乱が入り混じった表情で、急いで剃刀を取り返そうとするも僕の方が一足早かった。
    こちらに迫るミスタの制止を振り切り、歯を食いしばって刃先を滑らす。ブツリと何かが弾ける音がした。痛さに奥歯が鳴るも、それすら厭わず勢いのまま掻き切った。
    焼けるように熱い。

    次の瞬間じくじくと体の芯から震えるような痛みが襲った。思わず喉の奥から呻き声が漏れ出てしまう。

    絶句するミスタを他所に、悶絶する痛さに乱れた呼吸を、なんとか整えようと試みる。ハ、ハ、と犬より下手な息遣いがより滑稽さを煽った。
    焦点の合わない視界に、黄色に染まった髪が一房滑り落ちてくる。自分の部屋のカーテンみたいだなんて、場にそぐわないことを考えた。
    隙間越しに見えるミスタは、わなわなと震えていた。どうしてミスタが怒っているんだと思いつつ、彼の頬を伝う涙を拭わなきゃと体を動かす。

    けれどもミスタに力無く叩かれた手は、行き場を失ってしまい心許無く宙を彷徨った。

    『…お前、異常だよ。ただの他人にどうしてそこまでできるんだ?あのヴォックスですらここまでしなかった!あいつはやめさせようとして、俺の頬を叩いた!どうして、どうしてシュウは…俺のこと、こんなに柔らかくしちまうんだ』

    くしゃりと形のいい顔を歪ませて益々泣いた。声が出せないから、溢れる息だけで叫び泣く。ペタリと床に座り込み、腕から血を流しながら子供のように泣いた。
    泣いて泣いて泣き続けるミスタを前に、どうして良いか分からず茫と見下ろす。そのうちミスタが溶けてしまう気がして、溶けないように後ろからぎゅっと抱き締めた。リスカした腕が痛いし、ミスタのズボンが血塗れになっているけど。

    『…ミスタは、何か形のある関係じゃないと満足できない?今の不安定な僕たちの関係だから、辛くなるの?』

    彼の耳元に口を寄せた。気持ちが昂ったからか、ミスタの汗の香りがして妙な気分になる。

    『だったら、形のある関係になろう。目に見える形に。そしたら君は安心できるんでしょう。僕は、それでいいよ。君が望むなら』

    とくとくと規則的に鼓動が聞こえる。二人分の心臓の音は、生をまざまざと感じさせた。
    両者とも上半身は何も纏っていない。ぴとりと隙間なく肌を重ね、僕は静かに彼の返事を待った。

    『俺は、俺は…』

    ちらりとこちらを見遣ったあと、ミスタは躊躇いがちに僕の手を握った。

    『シュウ、ごめん』

    どうして謝るの、と僕は言った。
    泣きながら笑うなんて器用なことするなと感心したのを、場違いだけど頭の片隅で思った。



    そのまま風呂場で彼と体を重ねた。
    アドレナリンか何か物質が出ていたようで、腕の痛みなんて何も気にならなくなっていた。二人分の血液が互いの体を濡らしながら、排水溝に流れていく。
    ミスタは慣れたもので、割とすぐに快楽を拾っていたようで安心した。

    しかし如何せん僕にとって初めてのセックスだったもんだから、慣らし方もよく分からずミスタに言われるがまま指で解した。
    きっと酷くぎこちないものだったと思う。だけど彼が『早く挿れて』なんていうから、タガが外れてしまった。

    最中の間、ミスタはずっと『シュウ、シュウ、俺お前を好きになればよかった。そしたらこんなに胸が苦しくなかったのに』と僕の目を見ながら曰うのだ。
    その度に僕は『友愛だって立派な愛だよミスタ。僕は君のことが大切だ。大丈夫、僕たちならやっていける。大丈夫だから』と言った。
    シャワーで体を濡らしながら、何度も睦み合った。
    最初は正常位で、そのあとは彼の望むままに幾度か体勢を変えた。ヴォックスの方が僕よりも何倍も上手だったろうなと、同期につまらない嫉妬心を宿す。

    『シュウ、キスしよ』

    唇を薄く開き、僕を誘う。唇の隙間からちろりと覗く真っ赤な舌が、いやに蠱惑的で食虫植物に拐かされる蝿の気分だった。ここで死んでも良いと思ったから、彼のお願いを聞いた。もうすでに意識は朦朧としていて、自分が今どんな顔をしているのか何を感じているのか、なにも分からなかった。

    『うん、いいよ』

    けれどなけなしの力を振り絞り、触れるだけのキスをした。そのままミスタに覆いかぶさるようにして倒れる。
    霞む視界に僕の式神がひょこひょこと跳ねながら、どこかへ行くのが見えた。
    自分の式神なのに結構薄情ものなんだなと、薄れゆく意識の中場違いなことを考えた。



    その後僕たちは風呂場でアイクに叩き起こされることになる。泣きながら形のいい眉を吊り上げ、大層叱咤した。
    あの日僕の式神が彼の元へ知らせにいかなければ、僕たちはきっと死んでいたのだろう。アイクの有無を言わさぬ迫力には、そう思わせる何かがあった。
    二人の手首は思った以上にパックリ割れていたし、シャワーを流しっぱなしにしていたせいで、血が固まらなかったそうだ。それもありひたすら血液が流れる恐ろしい事態になっていたらしい。

    アイクには呆れられた。僕がしていたこともそうだし、セックスするにしても時と場合を選びなさいと、母親のようにこんこんと説教をくらった。
    『僕は君たちが選んだ道なら、どんな道であろうと応援する』
    飲み込まれてしまうほど、じっと梔子色の瞳で僕たちを見る。彼が手当てしてくれた腕を数秒見つめ、そのままアイクは帰って行った。
    嵐のように去っていった彼を二人で見やる。忙しいはずなのに僕の式神が彼の元に来たから、慌てて家を飛び出してきてくれたんだろう。その証拠に靴下の柄が左右で違っていた。

    思わず吹き出してしまい、それにつられてミスタも笑う。
    アイクがかけてくれたブランケットは、所々水が滲みている。意識のない人間を彼の腕では移動させられなかったのか、そのまま風呂場に寝かされていた。体が冷えてはいけないと彼がかけてくれたのだろう、数枚のブランケットが僕たちの体の上で存在を主張する。
    あとで洗わないとなと少し現実逃避していると、隣で横たわるミスタがゴロンと体をこちらに向けはにかんだ。それだけで心臓がぎゅっと締め付けられるくらいに嬉しくて、彼のためになんだってできる気がした。
    こうして僕たちの関係は、恋愛感情の伴わない恋人に変わった。



    閑話休題。
    今、僕の体にはミスタと同じ場所に同じだけ傷跡がある。右太ももに3箇所、左に一箇所、左手首2箇所、右手首に一箇所。
    彼の方がたくさんの傷を抱えているけど、この七箇所だけは僕たち二人の傷。一緒に背負った数だ。

    「僕は意外とこの傷気に入ってるよ、だってミスタとお揃いなんだもん」

    テッシュがぐしょぐしょになるくらい涙を零す彼に、少し意地悪な質問をする。

    「でもミスタは僕が腕を切ったことに対しては、何とも思ってないでしょう?君は僕の体に傷があるのは嫌だけど、僕が痛い思いをしたことに関しては割と嬉しいと思ってない?」
    『嬉しいっていうか俺は、シュウが同じ痛みを知ってくれたことが嬉しい』
    「知ってるよ、たまに僕の腕見ながらニヤニヤしてるから」

    そう告げると、目をまんまるにさせて溢れんばかりの瞳をこちらに向けた。自分で気づいていなかったのか。結構分かりやすかったんだけど。
    ミスタとはあの日以来何度か体を重ねている。

    基本的にミスタから誘ってきて、僕がそれに応じる形だ。彼は結構な頻度でピロートーク中に僕の腕をじっと見つめる。その表情は痛みを堪えるようなものじゃなくて、僅かに嬉しそうな顔を引っ提げて微笑むのだ。
    事後の彼は本当に猫のようにかわいい。ミスタと体を重ねて気づいたことだけど、事が終わった後の自分は語り合うなんてことはせず片付けを優先したいタイプだと気がついた。
    それでも自分の気持ちよりも、ミスタの甘えた行動を優先したくなる。彼は全裸の僕の体にギュッとしがみつくのだ。そのまま脚を絡め、心臓の辺りに顔を埋める。そしてそのまま寝てしまう。

    体を全ホールドされた僕に何ができようか?ただただミスタの汗と彼の匂いに翻弄されながら、眠気が来るのを待つことしかできない。
    人の体温は想像よりも違和感を感じた。けれど何度か経験すればおのずと慣れてくる。最近では彼の温もりが、意外と心地よく感じる自分がいた。

    「ミスタはセックスの後の方が甘えてくるよ」
    『は!?そんなの知らねえんだけど!?』

    早く言ってくれよと頬を丸くしながらプリプリ怒る彼は、ハムスターが大量に食料を口に含んでいる姿となんら変わりがない。
    ミスタのかわいい行動をもっと眺めていたいけど、これ以上いじったら本当に拗ねてしまうのでこの辺でやめておく。

    「そういえば、最近声の調子はどう?」
    『あー、悪くないかな』

    ミスタの声が戻りつつある。
    これは僕にとっても、ラクシエムの皆にとっても吉報であった。前は一言も発する事ができなかったけど、ミスタと僕が体を重ねるごとに彼の声は元の姿を取り戻していった。
    まだ文章は喋れないまでも、音を発することはできるようになった。まだ「あ」や「う」とかの短音しか発せないけれど、この調子だったら声が戻るのも時間の問題かもしれない。

    「早くミスタの声が聞きたいな」
    『待ってて、俺頑張るから』

    恥ずかしげに口角を上げるミスタにこちらも自然と微笑む。まあどうやって彼の声が元に戻りつつあるか知ったかというと、ミスタが思わずあげた啼き声だった。
    情交中の彼の声は僅かに掠れていて、それはそれは艶かしい。初めてミスタの声を聞いたとき、思わず下半身が疼いて彼を乱暴に扱ってしまった自覚がある。それ以来優しく丁寧に彼を抱くようにしている。

    「焦らなくていいんだよ、ゆっくり取り戻そう」

    冷めてきたチーズオムライスを口にかきこむ。未だ痛む事があるリスカ痕を案じて、近頃は左手を使って食べるようにしていた。
    真向かいに座り熱くもないオムライスに「ふー、ふー」と息を吹きかけているミスタの姿を見てちょっぴり笑ってしまう。
    彼もまた利き手の傷に配慮して、右手を使って食べていた。ぽろぽろとスプーンから溢れるお米、口周りについたケチャップ、もうこれ以上ソースを着けまいと大きく開けた口。
    無邪気な笑顔が似合う人だ。
    僕は彼の笑顔が好き。白く綺麗な歯を見せて笑う彼が好き。泣き顔は似合わない、泣いてなんか欲しくない。うっすら肋の見える体も、枝のように細い四肢も何もかも彼には似合わない。

    だから僕は僕のできることをする。きっと歪な愛だ。側から見たら可笑しな愛だ。けれどたとえこの関係が間違っていたとしても、僕らが望んで成った関係だから。

    『シュウ、なんで泣いてんの?』
    「あれ、なんでだろ。…分かんないや」

    きょとんと首を傾げ、困り眉でこちらを見つめる彼に「なんでもないよ」と告げた。それでも僕を伺い見ながら不安そうにする彼に、おでこを優しく撫でる。

    「君のことを考えていたんだ」










    ぶわりと風が通りざまに髪を乱していく。
    子供が種でも蒔いたのか、朝顔がフェンスを背もたれに爛漫の花束を広げていた。空気も澄んでいて心地いいはずなのにどこか煩わしいのは、蝉が新樹の下で大合唱をしているから。

    死んだふりをしていた蝉に驚いてしまい、尻餅をついた子供の頃をふと思い出した。
    最近新しくリニューアルしたらしい公園で、伸び伸びと駆け回るちびっ子達に目を向ける。すると数人の母親たちが怪訝な目を向けるので、そそくさと視線を外す。若い男が子供をジロジロ見るのはまずい。さすがの自分もそれくらいは理解している。
    今日公園に来たのは、ただ人と待ち合わせしていたからに過ぎなかった。

    「久しぶり、ヴォックス」

    背中の中心部まである長い艶やかな黒髪を赤い紐でゆったりと束ねた姿は、通行人が思わず振り返るほどの美貌を誇っていた。
    夏だからか彼の服装はベージュ色のチノパンにいつものサンダル、カジュアルめの黒いシャツを着こなしていた。

    「やあミスタ、髪が伸びたな。いつもの溌剌とした雰囲気もいいが、今の髪型もお前の良さが際立っていて似合ってる」

    そう言いつつ勝手に襟足を触る彼の手を払い退け、その辺にあった木製のベンチにどかりと腰を下ろす。ちらっと見下ろした自分の服装はパーカーにズボン、新しく買った黒いスニーカーだ。

    「君の声が戻ったと聞いて、居ても立ってもいられなくてな。昨日の夜はずっと気もそぞろだったよ。声を聞けなくなってちょうど一年くらいか」

    自分とは違い優雅に腰を下ろしたヴォックスに会うのは実に半年ぶりだった。程よく距離を空けて座った二人は、半年前まで体の関係があったし、なんなら一年前まで同僚だった。
    今日は自分からこの男を呼んだ。久しぶりに起動したSNSアプリには、途方もない数の通知が来ていて仰天したのは内緒である。
    時折ちらちらと視線を送る、コイツらしくない浮足たった様子に苦笑した。

    「まあそんくらいかな、正直違和感しかないよ」

    「たまに掠れちまう」と喉に手を当て、違和感を取り除くように喉仏を触った。まだ本調子でないものの、すでに一年前の状態にまで戻っていた。

    「俺明日から配信再開するんだ、ヴォックスにも伝えておこうと思って」
    「そうか!それは喜ばしいことだ。また君の声が聞けて嬉しいよマイスウィートハニー」
    「あー、あのさ。もうそういうのやめてほしい」

    どうも決まりの悪い感じがして、自然と目を逸らした。
    今日ここにヴォックスを呼んだのは、ほとんどこれを伝えるためだった。
    足元に生い茂る雑草をじっと見つめる。彼の目を見たら気持ちが揺らぎそうだった。

    「…そういうの、とは」
    「そういう、甘ったるい言葉言うのやめてほしくて。配信ではやってもらって構わないけど、配信外ではもう言わないでほしいんだ」
    「理由を聞いても?」
    「俺の心が揺らいでしまうから」

    息を呑む音がした。
    コイツが言い淀むなんて明日は槍でも降るんじゃね、なんて明後日の方向に思考を逸らす。声が震えないように丹田に力を込めた。そうしないと前みたいに縋りたくなるから。

    「シュウを、シュウを好きになったのか?それにしては君たちの纏う雰囲気は、兄弟のようなものだったけれど」
    「シュウのことは大好きだよ」
    「お前のその感情の中に、恋愛は含まれてないんじゃないのか。シュウはそれでいいのか?ミスタお前はシュウの心に甘えているだけなんじゃないのか?…お前は、私の事が好きだと思っていた」

    後ろ手に隠していたのだろう、一輪の花をくしゃりと握る。
    お前は人たらしな奴だから感動の再会にと、何かしら渡してくると思っていた。それが一輪の薔薇なんて臭え事しやがって。
    俺は成人男性だし普通に外見も男なんだけどと思いつつ、呆れ半分嬉しさ半分の自分がいた。未だ自分の心が彼にあると思い知らされる。
    それでも今日踏み出さなければ。そのために来たんだから、と自分を鼓舞した。

    「お前は兄弟とセックスをするのか。お前はそれでいいかもしれないが、シュウは本当にそれでいいのか」

    ざあざあと音の騒めきが聞こえる。子供の笑い声、木の葉の擦れる音、お互いの息遣いが。

    「…シュウは、俺を責めない。包み込んでくれる。ヴォックスの言う通り、俺たちはおかしい関係かもしれない。俺さ、シュウみたいな兄ちゃん欲しかったんだ。理想の兄貴だよ。兄貴みたいな人とセックスした。罪悪感なんてとっくに覚えてる。お前に言われなくても、とっくのとうに自覚してんだよ。でも、でもさ、幸せなんだ」

    大きく息を吸った。
    汗で湿る手のひらをズボンでゴシゴシと拭い、僅かに震える足を叱咤する。逃げ出したい、彼に縋りたい、泣き喚きたい、お前が好きだと、愛していると。
    けれど伝えなきゃいけない。そうしなきゃ、共倒れしてしまう。次はきっと戻ってこれない、二人とも沈んでしまうだろう。
    だからここでおさらばだ。お前の気持ちも、俺の気持ちも全部さよならしなきゃな。
    決別を告げる彼に、せめて涙は見せまいと目一杯微笑んだ。

    「俺は一番正しい選択をした。お前といるといつも苦しい。肺に水が入って息ができなくなるんだ。俺お前といても幸せになれない。大好きだけど、お前は選ばないよ」

    言葉が出ない。今目の前にいる男の様子を一言で表すとこれに尽きた。

    「ミスタ!お前は俺が必要だろう!」

    人目も憚らず俺の肩を掴み揺さぶった。周りにいた人間がすわ痴話喧嘩かとそそくさと散っていく。
    こんなに必死になった男を見た事がなくて、けれどもどこか不思議と懐かしさも感じた。
    普段は前髪で隠れていて見えない左目が、必死な形相で俺を捉えているのがなぜか面白かった。

    「それはヴォックスの自惚れだよ。俺はお前がいなくても生きていける。...俺はお前がいなくても生きていけるんだ」

    震える唇で彼に問う。ー‥‥ヴォックスは、俺がいないと生きていけないの?
    転瞬ぐしゃりと顔が歪む。泣きそうな顔を引っ提げているのを見て、ああコイツもそんな顔をするのかと他人事のように感じた。

    「俺たち、お互い気づくのが遅かったね」

    肩に置かれた手をそっと外す。少し冷たいその手が、離し難かった。つかの間だけ男の手を握り、形を確かめるように撫でる。
    これから俺が握っていく手は、この手じゃない。もっと細く華奢で、けれど間違いようもなく男の手。
    無性にシュウに会いたくなった。

    「あとこれは受け取れない。持って帰って」
    「お前は、ひどい男だな」

    地面に落ちても尚、気品を纏う一本の薔薇を指差す。
    男が俺の肩を掴んだ時にでも落ちたのだろう。

    「ごめん、でもこれは持って帰れない」

    そう言えば男は肩を竦め、我儘な子だと呟きながらそれを拾った。
    伸ばされた指先が僅かに揺らいでいたことに、言及もしないし触れもしない。それが男への優しさだと思ったから。

    彼の元に帰ろう。きっと夕飯を作って待っていてくれる彼の元へ。

    「俺もう帰るよ」
    「どこに。せめて家まで見送らせてくれ」

    腰をあげ背伸びをしながら、彼に背を向けて歩き出す。
    どれだけ時間が過ぎたのか、遊具で遊んでいた子供はすでにいなくなっていた。
    背後からサンダルの音がパタパタと聞こえる。大股で駆け寄ってくる男の、焦りを隠しきれていない様子にちょっぴり笑ってしまった。
    くるりと踵を返し、男を見る。数ヶ月世話になった男だ。俺も知らない場所にある黒子すら見知った仲だった。
    風に靡く濡羽色の髪が波うちながら、男の表情を覆い隠す。

    「今シュウと住んでるんだ。だから、ヴォックスのお見送りはいらない。一人で帰れるから」
    「ミスタ」
    「俺さ、オムライス作れるんだ。シュウが教えてくれたんだよ」

    それだけで男は理解したらしい。
    俯きがちに一言呟いた。それを拾った俺は衝動のまま彼の元へ駆け寄り、その大きな体をきつく抱きしめたかった。
    思わず伸ばしかけた腕を下ろし、小さく息を吸って彼に背中を向ける。決して振り返るまいと、出口に向かってひたすら歩いた。
    もう男の靴音は聞こえなかった。

    蝉が未だ新緑の下で鳴いている。
    一週間ほどでその命を散らす蝉は、骨身を惜しまず鳴いていた。時折泣き止むその声に、なぜか胸が締め付けられるように痛かった。





    ささくれ立つ気持ちを抑えるために、あえて電車は使わなかった。1時間かけて自分の足で歩いたのは、いい運動にもなったらしい。腹の虫が忙しなく動く。
    夕焼けを見ながら、少しだけ泣いた。時折電車が夕日を遮って道に影ができる。その様をぼんやり見つめながら、男との思い出に浸った。

    久しぶりに会ったヴォックスは、あいも変わらず色男で人誑しで、数ヶ月会っていない男に花を携えてくるような男だった。
    歩いて帰ってきたと言ったら、なんて言うだろうか。「大丈夫だった?」とか「もしかして財布忘れたの?」とかだろうか。思わず笑ってしまった。どれもこれも余裕で脳内再生ができたからだ。
    足の裏がじんじんと痛む。新しくおろした靴だから、まだ馴染んでないのだろう。慣れないことはするもんじゃないなと思いつつ、アパートの前で立ち止まる。
    シュウと住む家に、この感情は持ち込みたくない。聡い彼のことだから、きっと気に揉んでしまう。

    深呼吸を繰り返し心を整えていると、ふわりと鼻腔をくすぐるスパイスの香りが漂った。その美味しそうな香りに思わずドアを開けると、バナナがプリントされた可愛らしいエプロンを身に纏ったシュウがそこにいた。

    「ミスタおかえり。実は君が帰ってきたのを式神たちが教えてくれてね。でもずっと顰めっ面だし深呼吸してるしで、ミスタがドア開けるまでここで待ってたんだ」

    んへへと片方の口角をあげ、式神を手のひらに乗せてゆらゆらさせている。
    玄関を開けたらシュウがいるなんて思ってもみなくて、あんぐりと口を開けた。

    「びっくりした…驚かすなよ」

    全く反省してない様子で「ごめんね〜」と言いながら、オレンジ色のマグカップをずいっとこちらに寄越した。

    「外暑かったんじゃない?ちょっと汗かいてるし、これレモネードね」

    玄関先で棒立ちしながら、手渡されたレモネードをまじまじと見つめる。
    別にここで渡さなくてもいいんじゃないかとか、リビングで一緒に飲めばいいなじゃないのかとか、そんな色んなことが脳裏を過ぎった。まあ、ちょっと天然なところも彼の魅力だ。

    きっと彼的には作ったレモネードを早く飲んで欲しかったんだろう。あとは彼なりの気遣いだと解釈する。
    ちらりとシュウの方を見れば、きょとんとした顔で首を傾げていた。未だ彼の手のひらで揺れている白い式神も、同じく体を横に向けたもんだから、なんともおかしかった。
    立ったままシュウの作ってくれたレモネードを飲む。ごく、ごくと喉を鳴らしながら飲めば、レモンの爽やかな酸味とさりげなく蜂蜜の香りがふわりと口内に広がる。

    「うまいね。これどうしたの?」
    「衝動的に作りたくなっちゃってね。ミスタにお裾分け」

    よくぞ聞いてくれたとばかりに口元を緩ませるシュウに、思わず目尻を下げる。
    いつの間にかシュウも紫色のマグカップを手にしていた。なぜかストローを差してレモネードを飲んでいるのには、触れないし気にしない。
    独特な感性のシュウはいつものことなので、普段から深くは突っ込まないようにしている。
    ドアにもたれ掛かり、ちびちびと彼お手製レモネードを飲む。レモンとミントが浮いたレモネードも残り少なくなってしまった。
    どうやって話を切り出せばいいのか、わからなかった。だから何の捻りもない直球を彼に投げる。

    「何も聞かないの」

    シュウには何も告げず、ただ人と会ってくると出かける時に言ったきりだった。それが胸のつっかえでもあったし、なんて言って出掛ければいいのかもわからなかった。
    少し怖くて彼の目を見れないから、コップに浮かぶレモンを見て自分の気を逸らす。その様子に気付いたのか、彼は一つ咳払いをして俺の頬を片手で撫でた。

    「帰ってきてくれただけで十分だよ」

    シュウの手のひらは、お日様みたいにぽかぽかと暖かかった。
    彼は靴下のまま玄関の床を躊躇なく踏んで、俺のそばに来てくれたのだ。
    いつも口うるさく玄関では靴下で移動しないで、とプリプリ怒っているような男が。俺のために、それを曲げてくれた。それだけで心の内側がじんわりと熱くなる。

    「今日はキーマカレーを作ってみたんだ。美味しくできたと思うんだけど、お腹空いてる?」
    「実は昼から何も食べてないんだ。シュウの夕飯楽しみにしてたから」

    そう言えば目を細め嬉しそうに笑った。
    彼が渡してくれたマグカップはお揃いだった。シュウはパステルカラーのパープルで、俺がオレンジ色。ヴォックスとはできなかったことを、今シュウとしている。食器棚にふたつ並べて仕舞えることが嬉しかった。

    アイツともこうしてお揃いのマグカップを並べたかった。それは結局叶わぬ夢だったけど、何度も何度も空想した。洗いたての赤いマグと俺のマグを一緒の水切りカゴで乾かしたり、たまたま近くにあったからと相手のマグを使ってしまい喧嘩する、そんな日常を。
    今思えば、アイツは喜んでくれただろう。内緒で俺がお揃いで買っていたとしても、いじらしい子だなんて言って。リップサービスにキスでもくれたかもしれない。二人で互いに罵り合いながら、塩加減の狂った飯でも作れたかもしれない。取り巻く環境が今と違っていたら、俺たちは幸せになれたのかもなんて未練がましく考える。

    全部たらればの話だ。俺はアイツといても体調は良くならなかったし、むしろ悪化していたのが事実で。俺といることでヴォックスもまた追い詰められていた。

    だから俺から終わりにした。この部屋に入ったら全て忘れてしまおう。男に向けたように燃えるような激情はなくても、俺だけに向けられた愛情で心が満たされている。アイツからの愛に渇いて渇いて喉を掻きむしるような状態より、よっぽど幸せだった。
    共に傷を背負ってくれた時に、シュウと生きていこうと決めた。
    あの時満足したのだ。その気持ちを俺は忘れない。
    地平線を照らす夜明けの光を連想させる瞳じゃない、暮夜に輝く一等星が散りばめられた瞳がいい。

    こちらを見ながら、ちょびっとずつストローで飲んでいるシュウにつられて笑う。今すぐにでもその存外鍛えられた体を掻き抱きたかった。
    シュウの腰に腕を回し、グッと自分に引き寄せる。
    油断していたのかフリーズした彼を他所に、マグカップ片手にキスをした。頬に贈ったそれに時間差で気付いたのか、徐々に顔を赤らめるシュウがなんともかわいらしかった。

    「ッミスタ」

    上目使いでジト目になりながら睨んでくる姿に、思わず吹き出してしまった。そのまま彼の首筋に鼻を埋める。シュウに染みついた香木の香りがわずかにした。
    上品なその匂いをもっと嗅ぎたくて、体をさらに密着させた。ようやくこの言葉が言える。

    「ただいま、シュウ」





    随分長い冬を過ごしていたように思う。手は悴み体は冷え切り、心は凍てつくように痛かった。そしてようやく今日、春を迎えられる。そう感じた。

    END
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